2014年02月03日

島津に『待った』をかけた男「大友宗麟」(7)-肥後国を完全支配-

「二階崩れの変」によって大友氏の家督を相続した大友義鎮は、弟晴英周防、長門(現在の山口県)の戦国大名大内氏の当主に送り込むことに成功し、本国である豊後、筑後だけでなく、周防、長門両国と貿易都市博多の権益を確保しました。

一方で、地元豊後では「二階崩れの変」の余波は依然として続いており、その筆頭が筑後、肥後の戦国大名、菊池氏当主である菊池義武の存在でした。


◆菊池氏とは
菊池氏は、平安時代の荘園開発ラッシュ(平たく言えば「土地バブル」)の際、荘園を守る武士として肥後国の歴史に名前が見える一族です。勤王精神が高く、西暦1221年(承久三年)の後鳥羽上皇のクーデター事件(承久の変)や西暦1333年(元弘三年)の後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕事件(元弘の変)でも朝廷に味方しており、南北朝時代を通じて南朝に従っていました。

しかしながら、戦国時代のこの時代においては、菊池氏の家運は著しく衰退しており、戦国大名としての自主性は殆どなく、大友氏19代当主大内義長(義鎮の祖父)の介入によって、自分の次男である大友重治を菊池氏に養子入れすることで、なんとか勢力を持たせていました(とはいえ肥後国守護職の家ではあるのですが)。

この大友重治が、養子に入った後に名を「菊池義武」と改めたのです。
従いまして、この人は大友家現当主である義鎮の叔父にあたるわけですね。


◆菊池義武の造反
義長は実子を菊池氏に入れることで傀儡化することを考え、筑後、肥後国に影響力を持つのが目的でした。ところが、この義武という人は、大友家の家督を継いだ実の兄である義鑑(義鎮の父)に対し、極めて非協力的でした。本家に連絡なく、周防長門の大内氏や肥後南部の相良氏と同盟を結んで、大友氏から離反し独立してしまったのです。

まぁ、あっちは三国守護職を拝する一国一城の大名。一方、菊池氏は肥後国守護職を拝するものの筑後・肥後国内で一定の勢力を持つ戦国大名。しかも落ち目であれば、気持ちは分からなくもありません。

ですが、それをみすみす許す義鑑でもなく、さらに義武は菊池家臣団の人望もなかったため、西暦1534年(天文三年)、結論として義武は義鑑に負け、居城である隈本城(現:熊本城)を失い、肥後南部の相良氏当主相良晴広を頼って落ち延びていました。


◆二階崩れの変によるリベンジ
西暦1550年(天文十九年) 「二階崩れの変」が起き、兄義鑑が死んだと聞いた義武は
「チャーンス♪」
と小躍りして、失った菊池の旧領回復を狙って再び行動を開始します。
さすがに転んでもタダでは起きませんねぇ。

義武は相良晴広の助力もあって、隈本城の奪還に成功し、「二階崩れの変」の影響で混乱していた肥後国内をまとめあげ、あっと言う間に力技で肥後一国を実効支配するところまで行ってしまいました。
(この行動力は本当にすごい)

しかし、自体は義武の想像以上のスピードで進行していました。
「二階崩れの変」の後、名実共に大友家の家督を相続した義鎮は、見事に大友家臣団をまとめあげ、速やかに守役の入田親誠を誅殺すると、次は義武によって独立国家と化した肥後国に矛先が向けられました。

義鎮は、およそ2万の軍勢を率いて肥後に攻め入りました。
この時点で義武の独立国家の終わりが始まりました。

義武に従っていた肥後の国人領主は、大友氏当主が直々に攻め入ることを聞いた途端に、義武から次々と離反していきました。肥後の国人領主は元々大友氏に従属していた者たちであり、あくまでも「二階崩れの変」の混乱時において、暫定的に義武に従っていたにすぎませんでした。
また、義武は旧来の菊池家臣団も頼みとしていましたが、元々彼らは義武に臣従しておらず、助力のアテにするにはハードルが高すぎたというのもあります。

大友軍総勢2万は肥後に侵入し、戦らしい戦もせず、義武の本拠地である隈本城を包囲しました。自分の与力だった国人領主を奪われた義武は抵抗らしい抵抗も出来ず、100騎ばかりを率いて金峰山(熊本市西区にある山。熊本県のテレビ送信所のある山)に逃れ、そこから舟で島原へ逃亡してしまいました。


◆肥後国を完全支配
義鎮は、菊池義武の乱を平定すると、旧来の菊池氏三家老の1つである城親冬を城主として置きました。
義武は島原に逃亡した後、再び肥後南部に戻り、相良晴広を頼りました。晴広は薩摩の島津忠良などを介して義鎮との関係改善に努力をしますが、やがて義鎮の知るところとなり、義武を放逐することになりました。

義武は日向国に旅立ち、その途中、義鎮から豊後へ戻るように書状を受け取ります。
義武は書状に従って豊後国に戻ると、そこに待ち構えていたのは義鎮の兵でした。

西暦1554年(天文二十三年)11月20日 肥後菊池氏当主、菊池義武 自害。

義武の死は、名実共に戦国大名としての菊池氏の滅亡でした。
そして義武の死を以て、義鎮は亡き父義鑑が果たせなかった肥後国を完全に支配下に置き、守護職を拝している豊後、筑後、肥後の三か国を完全に領土とすることに成功したのです。

(つづく)
posted by さんたま at 04:09| Comment(0) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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