2014年01月19日

黄金楽土・平泉〜第21回 義家の苦悩

安倍氏最大最強の砦であり、安倍氏当主、安倍貞任が柵主である「厨川柵」は、東砦、南砦、西砦、中央砦の4つの郭に分かれており、それぞれが深い空堀で仕切られていました。朝廷軍は強風を活用した火攻めを敢行し、その結果、東砦が陥落しました。

安倍氏は、やがてやってくる冬に朝廷軍は耐えきれないと判断。今より二ヶ月篭城すれば雪の季節になり、朝廷軍は士気が落ちる。それまで柵に籠って篭城戦で戦い抜く作戦でした。

しかし、思いもしない東砦の陥落に、厨川柵の北東に位置する嫗戸柵を守っていた安倍重任が動揺し、東砦を攻める朝廷軍を撃滅せんと、貞任の指示を破って柵外に討って出てしまったのです。

これを見た貞任の妹婿である藤原経清は、作戦を立て直すため、貞任には何も告げず、自身の軍勢300騎のみを率いて重任を嫗戸柵に引き戻す事を考えます。しかし柵の回りはすでに朝廷軍に囲まれ、簡単に柵外には出れない状況になっていました。


一方、柵の外の二上川の対岸に陣を敷いている朝廷軍は、東砦の陥落に沸き立っていました。東砦を落とした紅蓮の炎は少しずつ南砦に移りつつありました。

「風よもっと吹け!悪しき俘囚の柵を焼き尽くしてしまえ!」

朝廷軍の総大将である陸奥守、源頼義が東砦を焼き尽くす炎を勢いづかせるかのように叫びあげました。
それを頼義の嫡男、八幡太郎義家は複雑な思いで見ておりました。

義家はこの戦の中において「大義はどこにあるのだろうか」という疑問がふつふつと沸いてきていました。

この戦いの大元は、六年前の西暦1056年(天喜二年)2月、阿久利川付近で頼義配下の者が安倍貞任によって攻撃を受けたという疑いから始まっていました。事の真偽を糾すため、頼義が貞任の身柄引き渡しを亡き安倍頼時に迫り、頼時がそれを拒絶して戦になったのです。

当時からこの阿久利川事件は、頼義の陸奥守任期終了間近におきたこともあって、頼義の謀略だという噂がありました。義家はそこに疑念を持つことはありませんでしたが、父がなぜここまで執拗に俘囚の戦いを望むのかは少なからず疑問に思っていました。

黄海の戦いで経清、貞任の戦いに完全に敗北し、たった6騎で国府に逃げ帰って以来、義家は安倍氏に並々成らぬ憎しみを燃やし、清原氏を口説き落として参戦に導き、結果的に衣川柵、鳥海柵を陥落せしめ、今、最後の厨川柵まで攻め上りました。その厨川柵に初手を攻撃を加え、それに狂喜する父を見て、

「この戦はなんのための戦いなのか」

という疑問が初めて義家の中に生まれたのです。

「この戦いで俘囚を滅ぼすことが、本当に朝廷(帝)のための戦いなのか」

義家は朝廷、俘囚の違いはあれど、我ら朝廷軍を完膚無きまで叩き潰した「黄海の戦い」で指揮をとった安倍貞任、藤原経清の二人には、同じ武士として「自らが越えるべき壁」だと思っていました。それは、ある意味「尊敬」に近い感情だったのかもしれません。それゆえ、ここで俘囚を滅ぼすことのある種の喪失感もまた同じように感じていたのです。

(この戦の大義がどこにあるのか、今は分からん。だが....)
(たとえ安倍が負けたとしても、あの御二方とは是非、生きて対面したいものだ)

そんなことを考えているうちに、東砦周辺の戦いが激しくなってきました。
嫗戸柵を討ってでた安倍重任の軍勢に対するは、清原武則の嫡男、清原武貞と武則甥の橘貞頼の連合軍2000人。重任の率いる兵は500そこそこ。にもかかわらず4倍の兵力を持つ朝廷軍が押されているのはおかしな話です。しかし、それだけ安倍の兵が精強という事実でもありました。

「荒川太郎(武貞)殿の軍勢、嫗戸柵から攻め寄せた軍勢に押されております!」
本陣にもたらされた伝令は、少なからず頼義を慌てさせました。

「ふがいない奴め!」
本陣に控えていた武則が歯を食いしばりながら言いました。
頼義は「ふふん」と鼻で笑うと

「太郎、近う」

頼義が義家を呼び寄せました。
義家は頼義の側に近づき、かしずきました。

「これより先の戦の指揮はおぬしに任す。思う存分を戦ってみよ」

頼義はそう言いながら、采配を義家に渡しました。

「は」

さすがに義家もこれには面食らいました。

「都で「八幡太郎」と呼ばれしおぬしの軍略。ワシと清原に見せつけてくれ」

頼義は囁き声でそう言うと、義家は意を固めて采配を受け取りました。

「誰かある!」

義家は早速声を荒げて兵を呼ぶと

「南砦を攻めている第四陣の橘殿に伝令!軍勢を東砦に回せと伝えよ!但し、第三陣の吉彦殿はそのまま南砦を攻めよとな。」
「承知!」

命令を受けた兵は直ちに陣を発しました。
それを見た武則は

「太郎殿。ご助勢、忝く存じまする。」

と頭を下げました。

「いやいや、気になされるな。すべては戦に勝つ為にござる」

と返した義家は采配を持って、陣の外に出ました。

(おぬしのバカ息子のためにやっているわけではないわ)

あの場にいたら、武則にそう言ってしまいそうな気持ちでした。
義家は戦の状況を自分の目で見、そして自らこの戦を勝ちに導くため、自ら陣の外に立つ決心をしました。
それは自らが戦の采配を振るう事で、いたずらに戦死者を出し、安倍を滅ぼすこと防げるのではないかと考えたからでした。

それは父、陸奥守に対し、義家の初めての反抗でした。

(つづく)
posted by さんたま at 16:44| Comment(0) | 黄金楽土・平泉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。