2014年01月12日

師の教え〜国家にとって最も大事なものは何か?

今から410年程前の西暦1603年(慶長八年)、関ヶ原の合戦で毛利輝元、石田三成らが率いた西軍と戦って勝利した当時の内大臣徳川家康は、朝廷から「征夷大将軍」という官位を与えられ、徳川幕府を江戸に開きました。

これにより、家康は日本中のすべての武士のトップに立ち、家康(というか徳川家)に逆らう者は「逆賊」とされ、家康は朝廷に代わってこれを退治するという絶対的権限を持つことになります。

また家康は、将軍就任2年後に将軍職を嫡男である秀忠に譲り、将軍職が未来永劫、徳川家が世襲することを世の中に知らしめ、150年以上続いた戦国時代を完全に終わらせただけでなく、その後260年余に渡る平和な時代を築いたのでした。

徳川家康が幕府を開き、為政者の地位に昇りつめたのは、持って生まれた強運によることもさることながら、己の信条として『信』の一字を貫いたことにあるのではないかと思います。


徳川家康という人は、三河国(現在の愛知県東部)の一部を領していた国人領主、松平氏の本家である松平広忠の子として生まれました。幼い頃の名前は竹千代といいました。

当時の松平氏は、西に尾張織田氏、東に駿河今川氏という強豪大名に挟まれ、どちらかに頼らなくては生きていけませんでした。よって竹千代は初め織田氏、次いで今川氏の人質人生を送ることになります。

今川氏の人質時代、当時の今川氏の当主、今川義元は竹千代の養育を、当時駿河にいた竹千代の祖母である華陽院に預け、学問の師として、義元自身の政務軍事顧問である太原崇孚(雪斎)を付けました。

この雪斎との出会いを、大河ドラマ「徳川家康」では以下のように描いていました。

駿河国内にある臨済寺(現在の静岡市葵区大岩町七番一号)は、今川氏の菩提寺で、雪斎が住職を務めていました。そこに、義元の命で華陽院が竹千代を連れて現れました。雪斎は竹千代を居間に連れ、華陽院を別間に控えさせて、二人きりになると、ある問答を始めました。

「孔子という古い聖(ひじり)を知っておられるか?」
雪斎は竹千代に尋ねました。

「はい。論語の孔子さま」
竹千代は動じることなく答えました。

「そうじゃ。その方の弟子がの、ある時孔子に対して『政治とはなんでしょうか』と尋ねられた。その時、孔子様はこう答えられた」
雪斎は一瞬間を置き、竹千代の知的好奇心をくすぐると言葉を続けました。

「よいか。およそ国家には『食』と『兵』と『信』がなければならんとな。」

雪斎は竹千代が自分にちゃんとついてきているか、確認しているかのように、食、兵、信の3つをゆっくりと説きました。竹千代は黙って後の言葉を待っていました。

「すると、弟子がまた聞いた。『国家がその三つを備えられない場合には、どれを捨てたらいいでしょうか』とな」

竹千代はまっすぐに雪斎を見つめていました。雪斎は諭すように言いました。

「よいか。『食』は食べ物。『兵』は軍備。『信』は人と人との信じ合いじゃ。さあて、御許であったら、なんと答える?」

雪斎の眼が一瞬ギラッと光りました。しかし竹千代は臆することなく平然とし、

「『食』と……『兵』と……『信』……」

竹千代は眼を空中に漂わせてしばらく考えた後

『兵!』

と元気よく答えました。
雪斎はこれを受け、一瞬首を傾げて、重ねて竹千代に問いました

「ほう。なぜ、『兵』を捨てるのかの?」

「はい。人は『食』を捨てては生きられませぬが、槍(『兵』=軍備)は捨てても生きられまする

この答えに雪斎は深く感じ入りました。

「ほほう……孔子は竹千代と同じに答えられた。『兵』を捨てよとな。ところが、弟子がまた聞いた。『残った2つのうち、どうしても1つを捨てねばならぬとき、どちらを捨てたらいいでしょうか』とな」

雪斎はまたも真剣な眼光を竹千代に向けて問います。

「竹千代なら、『食』『信』ではどちらを捨てる?」

すると竹千代は、今度は考える間もなく即答した。

「『信』を捨てまする。『食』がなければ生きられませぬ

雪斎は「はっはっは」と笑いました。

「竹千代はいやに『食』に拘るのう。さては、尾張では腹を空かせたことがあると見える」

と雪斎が言うと、竹千代は

「はい。三之助(後に岡崎三奉行、初代江戸町奉行となる天野康景)と徳千代(後に武蔵国鳩ヶ谷藩主となる阿部正勝)と、みんな腹が空くと機嫌が悪くなり、浅ましゅうなりました」


と答えました。雪斎は質問を続けました。

「して、食べ物が手に入ったとき、御許はそれをどうした?」

「まず三之助に食べさせました」

「その次は?」

「竹千代が食べました。徳千代は、竹千代が食べなければ食べませぬゆえ。」

「ほほう。徳千代は竹千代が食べぬうちは食べなかったのか」

「はい。でも、それからは三之助も徳千代のマネをして食べませぬ。それゆえ、その次からは、初めから3つに分けて、まず竹千代が取りました

「そうか、それは良いことをしたのう」

また雪斎は感心しました。

「が、孔子はそうは答えなかったぞ」

と竹千代に凄みました。

「すると…『食』を捨てよと仰られましたか?」

竹千代は眼をまんまるにして聞きました。

「そうじゃ。『食』と『信』では、まず『食』を捨てよと仰せられた。その真意は、御許の話の中ですでにあったな」

竹千代は「はて?」という感じに首を傾げました。

「御許はさっき、『徳千代は竹千代が食べぬうちには、食べなかった』と、そう申したの。」

「はい」

「では徳千代は、なぜ、そうしたのじゃろうか?」

「さあ……」

さすがの竹千代もそこまでは分かりませんでした。
雪斎は満足げに笑顔を浮かべると、竹千代にこう説明しました。

「それはのう。まだ三之助は幼かった故、竹千代が食べてしまうと、全部食べられてしまうかもしれん、とそう思ったのじゃ」

雪斎はニコニコと笑いながら竹千代に答えを言いました。

「ところがの、徳千代は竹千代がそういうことをする人ではないことを知っていた。そういう御許を知っていたが故、竹千代が食べぬうちは食べなかった。そしてその次からは、三之助も竹千代を信じた黙っていても一人で食う人ではないと悟ったのだ。」

竹千代は黙って雪斎の話を食い入るように聞いていました
雪斎はにこやかな顔で答えを披露していましたが、やがて真剣な顔になり、言葉を続けました。

誰かが一人で全部食べたら残る二人が飢えてゆく。人と人との間に『信』がなかったら、三人の命をつなぎ止めるためのその『食』が争いの種となり、かえって、三人を血みどろの戦いに誘い込まぬものでもない

雪斎はさらに言葉を続けます。

「信じ合う心。というより、信じ合えるが故に人間なのじゃ。『信』がなかったら獣の世界。獣の世界では『食』があっても争いが絶えぬ故、生きられん

この問答で雪斎は竹千代を非常に気に入り、月に3日、竹千代に会って教えを授ける事を決めたと言われます。

雪斎は西暦1555年(弘治元年)、駿河長慶寺で死去するまでの間、家康に様々なことを教えました。雪斎の死から5年後、今川義元は尾張へ攻め入って織田信長に討たれ、今川家は一気に衰退への道に入り、逆に竹千代(当時は元服して松平元康)は、岡崎城で独立を果たすことになります。

私は、家康が最も尊んだのが、雪斎から学んだ『信』ではないかと思います。

織田信長と同盟後、家康は何があっても信長を裏切ることはしませんでしたし、秀吉と和した後、秀吉と事を構えることをしませんでした。

また、関ヶ原の合戦で自分に味方をしてくれた豊臣大名には大幅加増で厚く報い、長年仕えてくれた自分の譜代の家臣には微増にしか報いませんでした。しかしそれでも譜代の不満が出なかったのは、「今、天下を安定させるには豊臣大名に不満を持たないように遇するしかない」という家康の真意を、譜代の家臣が分かっていたからだと思われます。これは主君と家臣の間に絶対的な信頼がなければ成り立ちません。

家康は、徳川家一族の大名を「親藩」、関ヶ原の戦い以前に徳川家に従っていた大名を「譜代」、関ヶ原の戦い以後に徳川家に従った大名を「外様」として区分けしました。

外様は所領の石高は高いものの、中央からは遠く遠ざけられました。一方で、一族である親藩は幕府の役職には一切付けませんでした。譜代は石高こそ低く押さえられていたものの、老中や若年寄といった幕府の要職に付く事ができました。これは「譜代の臣こそ徳川家の柱石」という絶対的な『信』の現れだと考えます。

徳川幕府は、全国各地の諸大名の領地を「征夷大将軍」という官位の権威でもって「安堵」しました。諸大名の側も徳川家に忠節を尽くせば、領地は安堵されるのだという認識があり、これが将軍と諸大名の間の『信』の関係として、徳川幕府を260年間を支えたのです。

およそ国家に必要なものは『食』『兵』『信』なり。最も最初に捨てるべきが『兵』であり、次に捨てる物が『食』であり、最後に守らねばならないものが『信』である。

これは、現在の国家経営や企業経営にも通じることだと思います。
posted by さんたま at 23:21| Comment(0) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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