2013年10月09日

反乱軍が官軍に勝ってしまった戦い「壬申の乱」(終)

西暦672年7月23日、近江朝廷の総大将、大友皇子の自害を以て「壬申の乱」は終結しました。これは古代日本史上最大の内乱で、反乱軍が官軍に勝って皇位を簒奪した事件ですが、これがこの後の日本という国体において、どういう影響を与えたのかに触れて、この章を終わりにしたいと思います。

1.中央集権国家の建設
西暦673年2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮にて即位し、天武天皇となります。皇后に鸕野讃良皇女を立てた以外は一切の大臣を置きませんでした。政治は天皇と皇后、そして高市皇子を筆頭とした一部の皇族によって運営されました。これを皇親政治と言います。これは豪族の台頭を制限すると共に、皇族に権威を持たせ、その最上にある天皇が権力の中枢にあることを世の中に示したことになります。つまり天皇が目指したのは天皇を政権の中枢においた中央集権国家の建設だったのです。

天武天皇即位から三ヶ月後の同年5月、天皇は畿内豪族の朝廷への出仕法を定めました。これは天皇の権威を高め、壬申の乱によって乱れた官僚の制度を再整備するのが目的でした。それはやがて畿外の豪族にも適用されていきました。

さらに西暦675年2月、天皇は豪族が有する私有民(家臣)や土地、山林、池など私有財産を悉く国家に返せという命令を出します。さすがにこれは豪族から凄まじい反発が出ました。豪族に取っての私有財産は「権威同然のもの」だったからです。しかし天皇はこの反発を権力を以てねじ伏せました。簡単に言うと、文句を言う人間を次々と謀反人扱いにして処罰し、朝廷から追放、流罪にしたのです。

この頃の天武天皇はまさに独裁者でした。ですが、それは彼の中の強烈な信念である「中央集権国家を建設する」ために必要な措置であり、それを実現する為には「あえて鬼になる」つもりでした。

西暦675年10月、諸王以下の一部の有位者に限って武器の私有を認める→御所の治安と軍事力の向上。
西暦676年1月、国司任命に必要な位を定める→中央による地方支配の確立。
西暦678年10月、官人の勤務成績を評価する「進階の制」を制定する。

こうして国家における中央支配と地方支配の再整備を一段落させた天皇は、西暦681年2月、兄の天智天皇を見習い、新たな法律の制定に取りかかります。これは「飛鳥浄御原令」(あすかきよみはられい)と言われ、後の大宝律令の原型になったものです。しかし、これは天皇の存命中には完成せず、後の持統天皇によって公布されました。


2.八色の姓の制定
かつての聖徳太子の「冠位十二階」の導入によって、それまでの氏姓制度による「姓(かばね)」の概念は崩れ、一代限りの能力主義に移行したものの、長年続いた「姓」自体は、蘇我氏の大臣を筆頭に根強く生きていました。さらに大化の改新によって新たな支配体制が築かれ、壬申の乱による近江朝の滅亡や没落した貴族もあったことから、このわずか三十〜四十年間で貴族間のポジションが、わけの分からない混沌(カオス)状態になっていました。

中央集権国家を目指す天武天皇にとって、政治を行うのは皇族であっても、それを実際に世の中に執行するのは豪族達であるので、氏族統制は国家の要とも言うべき問題でした。西暦681年、天皇は各氏族に氏上(うじのかみ/一族の責任者)を定める命令を出しましたが、その氏がどのポジションに位置するのかが不透明で、これをどう官僚化させるかが天武天皇の大きな問題でした。

西暦684年10月1日、天皇は「八色の姓」を発布しました。
これは、従来の姓を廃止し、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)という八種類の姓を新たに制定し、これを準皇族、遠皇族、非皇族、下級官僚に大別して、下記の通りに賜姓しました。

真人(まひと):継体天皇以後の皇裔氏族<準皇族>→十三氏
朝臣(あそん):旧来の臣姓の有力氏族<遠皇族>→五十二氏
宿禰(すくね):旧来の連姓の有力氏族<非皇族>→五十氏
忌寸(いみき):旧来の国造、渡来人系<その他>→十一氏
※道師(みちのし)、稲置(いなぎ)は賜姓なし
※臣(おみ)、連(むらじ)は旧来から続く姓だが、実質的に大幅格下げ。

これにより、従来より存在していた氏姓制度は完全に廃止されました。しかしこれでは旧来の氏姓制度を単に改訂しただけに過ぎません。天皇はこの「八色の姓」を制定後、さらにもう1つの爆弾を落とします。それが「親王諸王十二階・諸臣四十八階」でした。


3.親王諸王十二階・諸臣四十八階の制定
西暦685年正月、天武天皇は新たに「親王諸王十二階・諸臣四十八階」を制定しました。これは「明、浄、正、直、勤、務、追、進」の名称からなる六十の爵位を定め、明と浄のみの十二階を皇族用の爵位とし、残りの四十八階を豪族達の爵位としたものです。

この制度の大きな特徴は、これまで冠位制度の「枠外」とされていた皇族も爵位授与の対象としたことです。日本書紀によれば、天武天皇の第二皇子草壁皇子が浄広壱(第六位)、大津皇子が浄大弐(第七位)、高市皇子が同じく浄広弐(第七位)、川島皇子と忍壁皇子には浄大参(第九位)が与えられたとされてます。

これにより、爵位を持たないのは天皇と皇后だけになり、天皇の皇子も「天皇の臣下の一人に位置づけられる」ということを世の中に知らしめたことになります。これは当時としてはかなりの衝撃的なことだったと思います。

そして先の「八色の姓」とセットになっている所以は、真人、朝臣、宿禰、忌寸の四姓の中から、天武天皇が考える中央集権国家を担うに相応しい能力のあるものを高位の爵位、高官に抜擢して政府指導層に引き上げたことです。これは従来の氏姓制度では実行する事は難しく、また、天武天皇直参ともいえる官僚を編成したとも言えます。

つまり天武天皇は旧態依然とした従来の氏姓制度を完全に破壊する代わりに新しい氏姓制度として「八色の姓」を作り、皇族や豪族の序列を作っておきながら、それを自分の皇子も含めて「臣下」という位置づけにし、能力のあるものは爵位を以て抜擢するという新しい官僚制度を作り上げたことになります。これが以前にも増して天皇の権威と権力を高める結果になったことは言うまでもありません。


4.吉野の盟約
壬申の乱によって誕生した天武天皇は、これまでの古代日本にはなかった天皇を中心とした中央集権国家の建設と、氏族統制における豪族の官僚化を成し遂げたと言えると思います。「独裁者」でありつつも、時には「八色の姓」制定時におけるように、皇族と豪族の間の「調和」を考える天皇だったと考えます。その天武天皇にとって頭の痛い問題が後継者問題でした。

なにしろ自分自身が自分の甥を殺して皇位を簒奪してますから、自分の死後兄弟間の争いが行われる事を最も危惧していたでしょう。

そこで西暦679年(天武天皇八年)5月5日、天武天皇と鸕野讚良皇后は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、施基皇子を連れて吉野に行幸しました。吉野は天武天皇が大海人皇子と名乗って出家して隠棲した場所でした。

天武天皇はこの場所で草壁皇子を皇太子とすることを宣言し、他の皇子たちの了承を取って、お互い助け合って相争わないことを誓わせました。草壁皇子が皇太子と決まったのは、彼が天武天皇と皇后の実子だからに他なりません。もちろんこの当時は長子相続が当たり前ではなかったのですが、おそらく皇后の意向が強く働いたのだと推測されます。

天皇の資質という面で言えば、実績面では高市皇子、人望という面では大津皇子だったでしょうが、高市皇子は母親の身分が低く、皇位を望むべくもないことは理解していました。大津皇子は皇后の姉(大田皇女)の子だったので皇位継承はあり得たでしょうが、いかんせん母が早逝した為、有力な後見人がいませんでした。川島皇子と施基皇子は天智天皇の子なので最初から対象外なのですが、叛乱でも起こされてはたまらないと思ったのか、この誓いに同行させたようです。

西暦681年(天武天皇十年)2月、草壁皇子が立太子。

しかし、この決定を一番迷っていたのは当の天智天皇でした。天皇は草壁皇子を皇太子と決めたにも関わらず、西暦683年(天武天皇十二年)2月、天武天皇は大津皇子を朝政に参加させています。これがどういう意味合いかはわかりません。草壁皇子の補佐としてなのか、それとも皇太子を廃嫡させるつもりだったのか。しかし、政治に関しては独裁者と言われるほど厳格な天皇が、自身の後継のこととなると優柔不断と言われても仕方ないですね(汗)。まぁ、人間らしくていいですが。


5.天武天皇の死後

西暦686年(朱鳥元年)9月11日 天武天皇 崩御。

壬申の乱は古代日本最大の内乱でしたが、その結果生まれた天武天皇によって、これまでの合議制的な朝廷は破壊され、天皇にすべての権力が集まり、豪族が官僚化され、日本の律令政治の基礎が築き上がったのだと私は思います。

天武天皇の死後から一ヶ月も経たない同年10月2日、川島皇子の讒言により、大津皇子が謀反の疑いがかけられ、皇子は自邸にて自害しました。本当に大津皇子が謀反を企んでいたのか、またその内容はどういうものだったのか、何の記録もないのでハッキリとはわかっておりません。

天武天皇の死後は、皇后が称制して政務を執りました。天武天皇の死後すぐ草壁皇子を即位させなかったのは、大津皇子死後の動揺が朝廷内に広がっていたからだと言われています。しかし、そんな草壁皇子も西暦689年4月13日死去してしまい、結局皇位に就くことはありませんでした。

西暦690年1月、皇后は即位し持統天皇となりました。そして天武天皇の政治路線を堅調に維持し、やがて時代は奈良時代へ移って行くのです。

(このシリーズおわり)
posted by さんたま at 12:27| Comment(0) | 大和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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