2013年10月07日

反乱軍が官軍に勝ってしまった戦い「壬申の乱」(下)

西暦671年7月2日、東国の兵の集めた大海人皇子は、美濃国野上(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町野上)を本陣とし、全軍およそ4万の軍勢に出陣の命令を与えました。

第一方面軍の司令長官は大海人皇子の第一皇子である高市皇子(たけちのみこ)です。長男でありながら母親の身分が低かったので他の皇子(大津皇子、草壁皇子他)から低く見られていましたが、大海人皇子の中で最も年長(当時20歳ぐらい)でしたので、一軍の将として前面に立ち、兵の士気を高めました。

第一方面軍は不破から近江路を通り、琵琶湖の東岸から大津に攻め上がるのをミッションとしていました。

一方、第二方面軍の司令長官は紀阿閉麻呂(きのあへまろ)が就任し、数万を率いて倭京でゲリラ的な展開をしている大伴吹負を助けるべく、大和路を目指して進みました。

第二方面軍の大和および奈良盆地の戦いは、前のエントリーでアップした通りですが、ここでは本隊である第一方面軍の戦いを描いていきます。

ですが、その前に。。。この事態を大海人皇子の敵である「近江朝廷」がどう把握していたのかを説明致します。

1.近江朝廷軍の動き〜おいおい、内輪もめ?〜
近江朝廷だってバカじゃありません。そして大海人皇子の吉野行きが単なる隠棲とも思っておりません。大海人皇子が吉野に隠棲している時から、密かに密偵を放って、所々行動の把握はしておりました。ですが、大海人皇子が吉野を出奔した際に密偵の目をくらましており、そこから対応が完璧に後手後手になってました。

しかし、大海人皇子が兵を集めている事実を知ったからには朝廷を手をこまねいてみているわけではありません。東国に向けて大海人皇子に味方しないように勅令を放ちますが、美濃国不破で見事に大海人皇子の手の者に捕まってしまいます。

事の次第を重く見た近江朝廷は、山部王(やまべのおおきみ)、蘇我果安(そがのはたやす)、巨瀬比等(こせのひと)の三人の将軍を不破に向けて出陣させました。不破に向かった三武将は犬上川(滋賀県東部を流れる川)付近で陣を張りましたが、西暦671年7月2日、この三人の間で内輪揉めが起き、なんと果安と比等が山部王を殺してしまう事件が起きてしまいます(まったく、いったい何をやってるのか......(汗))。喧嘩の原因は今でも分かっていません。

翌7月3日あたりに、大海人皇子第一方面軍はこの果安と比等の二将率いる朝廷軍と玉倉部(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町玉)で戦闘になっていますが、第一方面軍の勝利に終わっています。

前日に三人のうち一人が殺され、しかも殺した二将に従わなくてはならない山部王の軍勢は士気が上がるわけもなく、おそらく、この朝廷軍は軍としての統制が取れていなかったのではないかと思われます。現に果安は近江に帰国後、責任を感じて自殺しています。巨勢は壬申の乱終結までの動きが分かっておらず、最終的には流罪に処されました。


2.倉歴の戦い
蘇我果安、巨勢比等の連合軍を打ち破った第一方面軍は、莉萩野(たらの / これが現在のどこを指すのかわかりません)の地と伊賀と近江を繋ぐ鹿深道(滋賀県土山町)に3000の兵を駐屯させて、近江と伊賀の連絡を遮断させる方策を取ります。

7月5日、第一方面軍は西へ進軍を進め、倉歴(現在の滋賀県甲賀市)で朝廷軍(田辺小隅軍)とぶつかり、夜戦となりました。

田辺軍は合言葉を使うことで暗闇で敵味方を区別し、同士討ちを防ぎ、軍としての統制が取れた戦術を展開していました。しかし、第一方面軍は視界がきかず統制がとれすで戦術、戦略的になす術がなく、多数の兵を失って敗走せざる得ませんでした。

敗走した第一方面軍への追撃を行う田辺軍でしたが、第一方面軍が莉萩野まで撤退すると、莉萩野に駐屯していた多品始率いる無傷の3000兵がこれを迎撃。田辺軍を散々に敗って、逆転勝利に導きました。敗れた朝廷軍の大将の田辺小隅はこの戦で行方不明になっています。


3.村国男依の活躍
7月7日、第一方面軍は進軍を続け、ついに近江に入り、息長横河(滋賀県米原市を流れる梓川あたりか?)まで軍を進め、ここでも朝廷軍と戦闘状態になります。高市皇子の補佐役である村国男依(むらくにのおより)が全軍を指揮し、朝廷軍を敗走せしめます。

村国男依はこの後、7月9日の鳥籠山(場所不明、恐らく滋賀県近江八幡市あたり?)の戦い、7月17日の栗太郡(近江国府 / 現在の滋賀県大津市、栗東市付近)の戦い、7月22日の三尾城(現在の滋賀県高島市付近?)の戦い、も引き続き指揮を執り、連戦連勝で快進撃を続けました。

おそらく第一方面軍の戦闘指揮は最初は高市皇子が取っていましたが、倉歴の戦いの序盤で敗戦し、その後逆転させたのは村国男依の指揮によるものではないかと思われます。実質的な大将はたぶん彼だったのでしょうね(そもそも若干20歳の高市皇子に数万の軍勢を指揮できるわけがない)。


4.決戦!瀬田の戦い
7月22日、三尾城の戦いに勝った第一方面軍は瀬田川(現在の大津市瀬田にある「瀬田の唐橋」)に軍勢を進めました。瀬田川の東岸に第一方面軍が陣を張り、川を挟んで西岸に大友皇子率いる朝廷軍が陣を張っていました。しかし、兵力では朝廷軍の方が勝っていたようです。

川を挟んでの戦いは弓が主力兵器になるため、双方弓を射かける戦いで始まりました。瀬田川の東西を結ぶ瀬田の橋を渡って、歩兵で攻め込めば戦を有利に進められると考えた高市皇子でしたが、それは敵も同じなのに敵は橋を渡ってきません。

「なにかある」

そう思った男依は部下に命じて橋を調べさせると、なんと、橋の中程の床板が可動式になっていました。第一方面軍の軍勢が橋を渡り、床板に乗ると朝廷軍が綱を引き、橋の床板が外されて、床板の上の兵は川に落ちるような仕掛けになっていたのです。

「橋を大軍で渡るのは自殺行為です」
男依が高市皇子に進言すると
「しかし、これでは埒があかんではないか」
高市皇子も反論します。

矢戦では弓兵の数が物を言います。元々兵力は朝廷軍の方が上ですので、第一方面軍は少しずつですが、兵を損ねつつありました。高市皇子の言う通り、このままの持久戦は命取りです。また橋が朝廷軍の手中にある以上、地の利も不利でした。

さすがの男依も打つ手なく一時三尾城へ撤退も考えていた頃、大海人皇子の皇子の第三皇子である大津皇子付きの将だった大分稚臣(おおいたのわかおみ)が、突然「うおおおお!」と喚声を上げながら橋の上に乗り、刀を抜いて突進していきました。

朝廷軍も稚臣に気づき、数名の弓兵が即座に稚臣に矢を射かけ、稚臣の体に次々と矢が刺さりますが、稚臣は鎧を重ね着しており、矢は体に達していなかったため、動きが止まるなく全速力で朝廷軍に向かって突っ込んでいきます。

そして仕掛けられた橋の床板を踏んで大きく跳躍し、床板を外す仕掛けになっていた綱の近くに着地すると、その綱を刀で切断しました。その間、体中に十数本の矢を受けた稚臣は切断した綱を大きく掲げて、「よっしゃあ!」と勝ち時を上げると形勢逆転。

「稚臣に続け!」

男依が全軍に命令し、次々と対岸へ攻め入ります。朝廷軍は橋を奪われたことで戦意を喪失し、三々五々散り散りに敗走していきました。第一方面軍は深追いをせず、残った兵で軍としての体勢を整えると、朝廷の本拠地である大津京に向けてゆっくり進軍して行きました。


5.大友皇子の死と乱の終結
一方、大友皇子膳所(現在の滋賀県大津市膳所)に本陣を構えていましたが、瀬田川の戦いが形成不利で敗走の報を聞くと、本陣を引き払い、近臣だけ連れて長等山(現在の滋賀県大津市園城寺町246、園城寺境内)に移ります。また、同日22日、倭京(旧飛鳥京)に駐屯していた第二方面軍は、難波へ進軍を開始し、別働隊の朝廷の残存兵力を叩いて難波を支配下に置きました。

そして翌7月23日、大友皇子はその地で自害しました。。わずか24歳の若さでした。それ以外の近臣は皆、大海人皇子の軍勢に捕らえられました。

7月26日、大海人皇子は、本陣である野上(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町野上)にて、大友皇子の首実検(実際に首を検分すること)を行いました。その後、大海人皇子は不破に留まって戦後処理を行い、8月25日に近江朝廷の主だった者の処分と論功行賞を行いました。

左大臣だった蘇我赤兄は子孫と共に流罪
右大臣だった中臣金は斬罪。子孫は流罪
御史大夫だった蘇我果安は前述の通り自殺巨勢比等は流罪紀大人はなぜかお咎なし

およそ一ヶ月に渡って続いた古代日本においての最大の内乱「壬申の乱」はここに終了しました。
皇位を争う戦いとしては古代史上最大であり、なおかつ、謀反を起こした反乱軍が勝って、正当に皇位を継承した朝廷軍が負けるという前代未聞の結果でした。

ある意味、力で皇位を簒奪したとも言えますが、天智天皇が己の政治のツケを残して死に、その後を継いだ大友皇子の政治では、そのツケが払われないと思った豪族達の不満が爆発し、その受け皿と成った大海人皇子が戦いに勝利したのは、道理と言えば道理かもしれません。

大海人皇子はその後も美濃に留まり、飛鳥岡本宮に拠点を移した後、西暦673年(天武天皇二年)2月27日 大海人皇子は即位して帝(天武天皇)の地位に就きました。

そして兄の天智天皇が行った政治を刷新(ハッキリ言うと否定)し、古代日本における律令政治の基礎を作りあげることになるのです。
次回はその政治体制について語って本章を終わりにしたいと思います。

(つづく)
posted by さんたま at 20:23| Comment(2) | 大和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
山部、白壁の乱の記録を、天武 大海人に置き換えて、775年の簒奪を記録として残したものではないでしょうか。○武は 天武 ○武 とつながるので。
Posted by いしやま at 2014年01月16日 03:51
>いしやまさま

当ブログ管理人のさんたまです。
過去の歴史が正確なところはわかりませんが、様々な考えがあって良いと思ってます(あまりにも突飛なものはどうかとは思いますが)。
なのでご指摘の可能性も多分にあるかと。
Posted by さんたま at 2015年08月22日 12:51
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。