2013年09月28日

反乱軍が官軍に勝ってしまった戦い「壬申の乱」(中)

西暦671年7月2日、ついに大海人皇子は、東国の兵力を結集して美濃国不破(現在の岐阜県不破郡)で挙兵し、敢然と朝廷に対し反旗を掲げました。その兵力はおよそ4万。
大海人皇子は隊を2つに分けて二方向から、近江大津京を目指します。

第一方面軍:司令長官は高市皇子(たけちのみこ)。近江路を通り大津京へ
第二方面軍:司令長官は紀阿閉麻呂(きのあへまろ)。飛鳥京の大伴吹負への援軍として飛鳥へ

ここでは、大和路の戦いを追って行きたいと思います。

1.衛我河の敗戦
7月3日、飛鳥京に駐屯していた大伴吹負の軍(これを飛鳥軍と言います)は隊を2つに分けました。第一飛鳥軍は自分が率いて、第二飛鳥軍は坂本財という武将を司令官にしました。

第二飛鳥軍は進軍の途中、行きがけの駄賃代わりに、朝廷軍が籠る高安城(奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市に跨がっている生駒山地の南端にあった山城)を攻撃すると、高安城に籠っていた朝廷軍は米蔵に火をかけて大阪方面に撤退してしまいました。

7月4日、第二飛鳥軍は勝ちに乗じて、撤退する朝廷軍の追撃を続けました。その前に立ち塞がったのが難波(現代の大阪市中央区、浪速区)から攻め上がって来た壱支史韓国(いきのふひとからくに)率いる朝廷軍でした。
両者は衛我河(大阪府を流れる石川付近)で戦いとなり、第二飛鳥軍は大敗を喫して飛鳥京に撤退してしまいます。


2.飛鳥軍の一時壊滅
同日、一方の第一飛鳥軍も乃楽山(現代の奈良市北部)大野果安(おおのはたやす)が率いる朝廷軍と戦い、こちらも兵が散り散りになるほどの大敗を喫してしまいます。
果安はさらに飛鳥軍の駐屯基地である飛鳥京まで攻め寄せますが、高台から見下ろした京内に無数の盾が立てかけられていたのを「罠」と勘違いして攻め込まずにそこから引き返して行きました。
これが原因だったのかどうかは分かりませんが、果安はこれ以後、戦いの記録から名前が見えませんので、少なくとも大将のポジションからは降ろされたのではないかと推定されます。

一方で、敗れた飛鳥軍の大将の大伴吹負は飛鳥京に戻る事ができず、一時、宇陀(現在の奈良県宇陀市)に敗走せざる得ませんでした。

第一、第二飛鳥軍が共に壊滅寸前の時、美濃国不破からの援軍として第二方面軍司令長官である紀阿閉麻呂の与力の一人である置始兎(おきそめのうさぎ)の軍がこの窮地を救い、第一飛鳥軍はなんとか体勢を立て直します。

これは、紀阿閉麻呂が飛鳥軍の勢力で朝廷軍と当たるのは危険と判断し、置始兎に命じて1000騎の先行を命じた結果でした。おそらくここで置始兎の援軍がなければ、飛鳥軍は確実に壊滅していたと思われます。


3.飛鳥軍の復活と奈良盆地の制圧
7月5日、置始兎を軍勢を取り込んで体勢を立て直した飛鳥軍は、進軍を再開し、衛我河で第一飛鳥軍を敗った壱支史韓国率いる朝廷軍と、当麻(たぎま:現在の奈良県葛城市當麻)の地で激突。飛鳥軍はここで朝廷軍を完敗せしめます。敗れた壱支史韓国はこの地を退却し、その後の行方が分かっていません。

7月6日、勝ちに乗じた飛鳥軍は、紀阿閉麻呂率いる第二方面軍と合流して、さらに進軍を進め、箸墓(現在の奈良県桜井市箸中)に現れた朝廷軍(おそらく犬養五十君盧井鯨の軍と推定)と戦いとなり、これを敗りました。以後、大友吹負は進軍することなく飛鳥京に留まり、守りを固めることになります。

しかしこれ以後、奈良盆地での朝廷軍の戦闘記録なく、この時点で、大海人皇子は、奈良盆地を中心とした大和、飛鳥圏の制圧に成功したことになりました。大友吹負の奈良盆地での戦闘活動は朝廷側の兵力を割く結果となり、第一方面軍の援護射撃の役割を果たしたことになります。

これからしばらく飛鳥軍ならびに第二方面軍の動きはありませんが、7月22日、両軍は飛鳥を出発して難波へ移動し、難波を制圧していた朝廷軍と戦闘になってこれを敗っています。この日は第一方面軍が近江の瀬田で大友皇子と決戦となっていた日であり、これと連動した動きなのかどうかは分かっていません。

次回は近江大津京を攻めた本隊である第一方面軍の活躍をアップします。

(つづく)
posted by さんたま at 09:47| Comment(0) | 大和時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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