2013年09月01日

黄金楽土・平泉〜第2回 前九年の役の勃発

1.謎の阿久利川事件
西暦1056年(天喜4年)2月、非常に奇妙で謎な事件が、陸奥守である源頼義の陣営で起きました。頼義の配下にいた官人で陸奥権守(陸奥守代理。現在の副知事のようなもの)を務める藤原説貞(ふじわらのときさだ)という者がいたのですが、彼らが野営をしていたところ、突然何者かの襲撃を受け、自分の陣の兵馬に多大な損害を受けたというのです。

その頃、源頼義は、鎮守府の胆沢城(現在の岩手県奥州市水沢区)で所用を済ませると、国府の多賀城(現在の宮城県多賀城市市)に戻る途中で、阿久利川(現在の宮城県栗原市及び登米市付近を流れる「迫川」と言われる)の河畔で休息を取っていました。その時、藤原説貞の使いの者が頼義の元を訪れ、前述の事件のことを報告しました。頼義は事情を調べるため、説貞を呼び出すと、息子の藤原光貞がやってきました。

頼義は「誰がやったのか心当たりはあるのか?」と尋ねたところ、光貞は

「全く心当たりがありません。ですが、ちょっと前に安倍貞任(あべさだとう / 奥州奥六郡の支配者・安倍頼時の嫡子)が、父上のところに、自分の妹と結婚したいと申し出てきたことがありました。父上は自分の娘を俘囚のような蛮族にはやれないと断りました。もしかすると、それを恨みに思っての所業じゃないでしょうか。奴の仕業に相違ありません」

と返答した為、安倍貞任が容疑者に仕立てられてしまいました。

これを聞いた頼義は、直ちに陸奥守の名において安倍頼時宛に「貞任出頭」を命じます。しかし頼時からの返事は「貞任は愚かな息子です。ですが愚か者でも子は子。親子の情は簡単には捨てられぬ故、そちらに差し出す訳には参りません」とのことだったので、頼義の怒りは頂点に達しました。

「陸奥守の命に従わないということは、帝(朝廷)の命をも軽んじる所業に等しい。許すわけにはいかぬ!」

ここに源頼義と安倍頼時の蜜月は崩れ、ついに武力衝突に発展することになります。

ですが、歴史家の間ではこの事件のそのものが非常に不可解と言われています。なぜなら、源頼義は陸奥守の任期満了が迫っているわけですから、放っておけば京に帰還します。安倍氏の観点から見た場合、そこでなぜわざわざ寝た子を起こすようなマネをしなければならないのかがよくわからないのです。ぶっちゃけデメリットこそあれ、メリットなんぞ何もありません。むしろリスクそのものです。なので、この事件は源頼義が任期満了前に手柄を立てる為、わざと安倍氏をけしかけた事件ではないかと言われています。


2.平永衡と藤原経清
源頼義は多賀城、胆沢城の兵を集め、安倍氏への対抗措置をとりはじめます。その中に、平永衡(たいらのながひら)と藤原経清(ふじわらのつねきよ)という二人の武将がいました。平永衡は陸奥国伊具郡の豪族。藤原経清は「平将門の乱」を鎮圧した藤原秀郷を祖先に持つ藤原氏の一族で「亘理権大夫」と呼ばれていました。そしてこの二人は、共に安倍頼時の娘を妻にしていました。

前回書いた安倍氏と藤原登任との間での起きた「鬼切部の戦い」にもこの二人は参加してましたが、実は登任を裏切って安倍氏側につき、登任を敗北に導いた原因だったりします。そして源頼義が陸奥守着任し、大赦がだされて安倍氏が許されるとこの二人も再び朝廷に帰順していました。しかし、再び安倍氏と戦うことになり、この二人の動きは頼義によって厳重に監視されていました。

永衡と経清は妻の実家が敵になったことで困惑しましたが、頼義に従って安倍氏と戦うことを決めます。それは戦いながら戦の落としどころを探るという面従腹背的な作戦でした。しかし逆に頼義に不審の疑いをもたれることになり、頼義陣営では「永衡スパイ説」が噂され始め、ついに永衡は頼義に謀殺されてしまいました。

「次に殺されるのは自分に違いない」

そう思った経清は、自分の配下を使ってわざと「多賀城奇襲」の噂をまき散らし、頼義軍に動揺を走らせました。その上で経清は頼義に「急ぎ多賀城へ引き上げるべきです。その間、私が安倍の軍勢を防いでみせます」と自ら殿軍を務めることを進言します。

頼義はその心意気を感じ、経清に兵800を与え、残りの兵を率いて多賀城に引き返しました。

しかし、当たり前ですが頼義が多賀城に着いても何も起きておらず、殿軍を務めていた経清と兵800は、そのまま無傷で安倍氏側に味方してしまいました。頼義はまんまと経清の策にはまり、その上、兵800をも奪われてしまった為、頼義の怒りといえばそれはもう、まさに「怒髪天を衝く」といった感じで。。。

「おのれ......この怒り、どこにぶつけてくれよう......」

こうして頼義は安倍氏への先制攻撃の機会を逃してしまっただけでなく、安倍氏に反撃体制を作る時間を与えてしまったため、この戦は長期化の様相を表し始めていました。

これが後に歴史用語で「前九年の役」と呼ばれる戦いの始まりでした。
そして、源頼義を裏切って安倍氏側に味方した藤原経清こそが、奥州藤原氏初代である藤原清衡の父であります。

(つづく)
posted by さんたま at 00:32| Comment(0) | 黄金楽土・平泉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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