2013年08月29日

黄金楽土・平泉〜第1回 朝廷と安倍氏

岩手県の西磐井郡にある平泉町には、現在、世界遺産に指定されている中尊寺金色堂があります。今から900年以上前、奥州藤原氏一族の手によってこの地は開発され、当時の日本の首都である平安京(現在の京都市)に次ぐ日本第2位の都市を作り上げました。奥州藤原氏は代々の当主が必ず1つの寺院を再興しているのが特長で、世界遺産に指定されている中尊寺金色堂は、初代当主藤原清衡が建立したものです(ちなみに二代基衡は毛越寺、三代秀衡は無量光院を建立しています)。

奥州藤原氏は、初代藤原清衡が、出羽国仙北三郡(現在の秋田県南東部にある横手盆地一帯)と陸奥国奥六郡(現在の岩手県盛岡市以南、奥州市以北までの間)を支配し、中央政府(朝廷)と連携を取りつつ、奥州(東北)で抜きん出た独自の政権を確立した後、四代泰衡の時代に鎌倉幕府によって滅ぼされたことは有名ですが、その奥州藤原氏とは「いったい何者」「どこから来たのか」は殆ど知られていません。



今回は、それを解き明かしていこうと思います。
「レキドラ!」初のシリーズ連載になります。


1.奥州の当時の状況
時は平安後期まで遡ります。この時代の朝廷は形式上は「日本全国を支配している」というタテマエになっていますが、東国(関東および東北)までその威が完全に伸びていたとは言えませんでした。

現に、西暦939年(天慶2年)には、坂東平氏(東国に根付いた平氏の一族)の一人である平将門が「新皇」と名乗って朝廷に反乱を起こし関東武士独立政権を立てようとした平将門の乱が、西暦1028年(長元元年)には上総、下総、安房(現在の千葉県全域)で平忠常が起こした大規模な反乱平忠常の乱はそれぞれ東国で起きており、西国(中国、四国、九州)でも西暦939年(天慶2年)に伊予国(現在の愛媛国)の役人だった藤原純友が地元海賊と一緒になって朝廷に反旗を翻すという藤原純友の乱を起こして、朝廷の支配を揺るがしていました。

その東国の中でも奥州(東北)の実体は在地豪族「蝦夷」(えみし)の末裔と朝廷の二元支配に近いものでした。「蝦夷」は西暦801年(延暦20年)に征夷大将軍の坂上田村麻呂によって討伐されて朝廷に降伏し、それ以後は朝廷の地方機関として出羽国には出羽柵(砦)秋田城(長官職は秋田城介)、陸奥国には国府(県庁みたいなもの)として多賀城(長官職は陸奥守)、そして万が一の時は国府を守る鎮守府として胆沢城(長官職は鎮守府将軍)が設置されました。しかしながら実体は出羽国仙北三郡は清原氏が、陸奥国奥六郡は安倍氏が支配していました。清原氏と安倍氏は共に「蝦夷」の末裔とされ朝廷からは「俯囚(ふしゅう)」と呼ばれていました。


2.安倍氏の反乱
西暦1051年(永承6年)陸奥守(陸奥国司で多賀城主。国司とは現在で言うと県知事の役割。なので陸奥守とは岩手、宮城、福島の県知事のようなもの)として赴任していた藤原登任(ふじわらのなりとう)の時代。安倍氏の支配地である奥六郡の南境である衣川柵(岩手県内を流れる衣川付近にある砦)を超えて勢力拡大しようと企んだ、もしくは安倍氏が朝廷への貢物を怠った、のいずれかと言われておりますが、とにかく安倍氏に反乱の兆しがあった為、登任は出羽国の秋田城介である平重衡と協力して、安倍氏討伐を決定して挙兵しました。ところが、逆に陸奥国玉造郡鬼切部(現在の宮城県大崎市鳴子付近)で安倍氏に返り討ちにあってしまいます。

この結果、登任は朝廷の威信を貶めたとして陸奥守を解任、更迭されて都に帰還しました。そして朝廷はこの問題の収拾に文官ではなく、武官をあてることを決めました。そこで当時朝廷内の武官として名高く、かつ前述の平忠常の乱を鎮圧する功績のあった河内源氏二代目の源頼義を陸奥守に任じ、多賀城に派遣したのです。

しかし頼義が陸奥守に任命され、国府の多賀城に着任した翌年の西暦1052年(永承7年)、時の帝である御冷泉天皇の祖母の病気平癒祈願のため恩赦が出されました。この時、安倍氏も朝廷に逆らった罪を許されることになり、安倍氏に対抗、討伐するために頼義が赴任された意味が消えてしまいました。

安倍氏当主である安倍頼良(あべよりよし)「これは朝廷と和する絶好の機会」と思い、新任の陸奥守である頼義に「もう朝廷に逆らいません」という心底臣従の意を表しました。頼良はその証として、自身の諱が頼義と同音であることを「陸奥守殿と同じ読みとは畏れ多い」として、諱を「頼時(よりとき)」と改名しました。恩赦が出されて許された者を討つ理由がなくなった頼義は、何をすることもなく安倍氏の臣従を受け入れるしかなかったのです。

そして朝廷は、安倍氏を臣従させた功として、翌年西暦1053年(天喜元年)、頼義を鎮守府将軍に任じ、陸奥守と兼任させました。鎮守俯将軍とは、陸奥国の最高軍事責任者のポジションであり、国府である多賀城防衛の拠点である胆沢城主を兼ねたものです。つまり頼義は陸奥国での行政、軍事両方の最高権力を保持したことになりました。現代で言えば、岩手、宮城、福島の3県の県知事職と各県警本部長を兼ねたような感じです。が、本人としては「殆ど何もしてない」ので、あんまり嬉しくなかったようです。


3.嵐の前触れ
その後、源頼義と安倍頼時の間は昵懇の間柄となり、特にトラブルもなく平和な時間が3年が経ちました。それは頼義の陸奥守任期終了の時期が迫っていることを意味していました。頼時が頼義とトラブルを起こさなかったのは、頼義が朝廷きっての名高い武官であることが大きかったのではないかと考えます。武官は戦のプロであり、トラブルが起これば戦になるのは必定で、安倍氏側に大きな損害が出る可能性があります。それよりは任期まで平和に過ごさせて、次の陸奥守を文官に仕向けることが、自分たちが生き易い道ではないかと考えたのだと思います。

一方の頼義は、安倍氏討伐の内命を受けて陸奥守になったものの恩赦を出されて敵がいなくなり、刀を振るう相手もいない状態では「俺をこんな僻地に飛ばしやがって放置かよ!」という朝廷のお偉方への不満が爆発寸前になっていたのは想像に難くありません。

そして頼義の陸奥守任期終了間近となった西暦1056年(天喜4年)2月、何とも奇怪な事件が起きることになるのです。

(つづく)
posted by さんたま at 02:19| Comment(0) | 黄金楽土・平泉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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