2013年08月20日

天皇が激昂した宮中大乱行スキャンダル:猪熊教利事件

庶民だ、公家だ、武士だと身分の差を言ったところで、みんな同じ人間には違いありません。その差はなんで起きるかと言えば、生まれ?家柄?学問?色々なファクターがあるでしょう。でも、どの階層の人間でも共通して大差ないものがあります。それは人間の究極の1つ「性欲」です。

今回取り上げる「猪熊事件」は、日本史上、宮中における最大の大乱行スキャンダル事件だったのです。


【ザ・事件の背景】
江戸時代初期に猪熊教利と呼ばれる公家がいました。官位は従五位下左近衛少将(およそ大名クラスと思ってください)。時の帝である後陽成天皇の側近の一人で、琴や尺八などの雅楽や和歌などの芸事にも長じており、何よりも「宮中絶世の美男子」と評判でした。彼の姿を知っている宮中女官は

「まるで『伊勢物語』に出てくる在原業平殿か、『源氏物語』の主人公の光る源氏の君のようだわ〜」

だとウワサしてました。現代で言えば木村拓哉や福山雅治というところでしょうか。
しかしこの猪熊教利、類い稀な美貌の持ち主とは裏腹に「無類の女好き」でした。しかも独身だろうが人妻だろうが片っ端から手込めにしていくという凄まじいプレイボーイだったわけです。

そんな状況ですから、おのずと帝にも知れることとなり、西暦1607年(慶長12年)2月、宮中女官との密通がバレて勅勘(天皇から下された勘当の命令)を賜り、京から追放されてしまいます。しかし、そんなことぐらいで凹む教利ではありません。ほとぼりの冷めた頃にちゃっかり京に戻って、再び貴族の子女相手の「ご乱行」に精を出していましたのです(汗)。


【事件の発生】
後陽成天皇の側近の1人で、花山院忠長という公家がいました。官位は従四位上左近衛権少将。藤原北家師実流花山院家の第20代当主という、公家世界ではサラブレッド級な人物でした。

この忠長が、こともあろうに天皇の寵愛深い典侍(内侍司次官)である広橋局に想いを寄せていました。しかし広橋局は内侍司という女官のみで構成される「後宮十二司」(江戸城の大奥みたいなもの)に務めているため、二人の間には接点を作る事さえできませんでした。

忠長は後宮十二司と外界と接点を持っている数少ない人間の中から、歯科医の兼安備後と知り合いになることに成功し、彼をメッセンジャーボーイに仕立てて、広橋局に文を届けさせ、こっそり天皇の目を盗んで逢い引きをしていました。

この話を漏れ聞いた猪熊教利は「これはいい手だ!」と思いました。これまで幾多の女官と逢瀬を楽しんだ教利ですが、外界と完全に隔離された天皇直属である内侍局の女官との経験はありませんでした。しかし、兼安備後を介すれば、広渡局以外の複数の内侍局の女官に渡りをつけることができるわけですから、俄然、教利の未知の好奇心が掻き立てられたのです。

教利は、早速、花山院忠長に会い、自らの野望を告げたところ当たり前ですが「とんでもない!」と否定されます。しかし教利はその反応も予測済みで

「協力しないなら、おぬしがやっていることを京都所司代(現代の京都府警のようなもの)に密告するぞ、それでも良いのか?」

と忠長を脅しました。藤原北家花山院家の当主であり、天皇側近である忠長にとって、天皇の寵愛深い広橋局との逢瀬が知れ渡れば免職は必至です。悩んだ末に、忠長は教利の企みに協力することを決心します。

教利は自分の交友関係を人脈を使い、この悪巧みに乗る人間を募りました。結果として、

烏丸家当主・烏丸光広(従三位左大弁)
大炊御門家当主・大炊御門頼国(正三位左近衛権中将)
徳大寺家当主・徳大寺実久(正四位上右近衛少将)
花山院家当主・花山院忠長(正四位上左近衛少将)
飛鳥井家嫡男・飛鳥井雅賢(従四位上左近衛少将)
難波家当主・難波宗勝(従四位下左近衛少将 / 飛鳥井雅賢の弟)
松木家三男・中御門宗信(正五位上右近衛少将)
猪熊家当主・猪熊教利(従五位下左近衛少将)


以上8名がこの悪巧みに乗ってきました。
上は従三位、下は従五位、全員が大名の殿様クラスという高位の方々ばかりですよね(汗)

まず、上記公卿に文を書かせ、それを兼安備後に渡し、備後はそれを宮中に伺候した際に広渡局に渡し、広渡局から各女官に渡すルートで届けられ、備後はその場で返事を受け取り、これを教利に渡します。
教利はそれぞれの文を公卿に手渡しし、あとはそれぞれ思い思いの場所で存分に逢い引きを楽しんでもらうというものでした。


【事件の発覚】
西暦1609年(慶長14年)7月、後陽成天皇はお忍びで、お気に入りの広渡局の部屋にお渡りすると局が部屋いなかったことから、事件が発覚。後陽成天皇は自分のお気に入りの広渡局がどこの馬の骨とも分からん男の慰み者になっていることに強いショックを受けた後、烈火の如くお怒りになり、武家伝奏・広渡兼勝勧修寺光豊を呼び出して、京都所司代に本件の捜査を命じます。京都所司代とは京都の治安を預かる幕府機関で、現代で言えば、京都府知事と京都府警本部長を兼任してるようなものでした。その際、天皇は

「よいか。伊賀守によくよく伝えよ。この件に関わりし者、公卿、女官を問わず、全員死罪にせよとな!」

を強く、兼勝、光豊に求めたと言われます。
兼勝と光豊は急ぎ所司代へ向かい、当時の所司代を務めていた板倉勝重(伊賀守)に事の次第と天皇の意向を伝えると「あいわかった」と答え、事態が天皇家に及んでいるため、江戸(徳川幕府二代将軍徳川秀忠)駿府(大御所徳川家康)に早馬を飛ばして指示を仰ぎました。家康は事態を重く見て、自分の側近の一人であり、なおかつ勝重の次男であった板倉重昌(内膳正)を京都に派遣します。

勝重は、重昌と共に関係者を次々と逮捕して真相を解明しようとしますが、黒幕であった猪熊教利だけはすでに逮捕を予測して京を脱出し、西国に逃れていたため、幕府権力をもって西国大名に指名手配されました。


【事件の変化】
齢60歳を超えた勝重に逮捕や取り調べは激務のため、そちらの指揮は重昌が行っておりました。重昌はまず広渡局に事情を聞くと、花山院忠長の名前が出、花山院から猪熊教利、そして教利の悪友達の名前が次々と明るみに出てきます。そして出てきた人数の多さに重昌は冷や汗がでました。

困った重昌は父、勝重に相談すると

「じゅ……14人だと?」

さすがの勝重もあまりの人数の多さに絶句しました。人数もさることながら、そこに書かれていた公卿の役職を見てさらに言葉に詰まりました。公卿は皆、従五位以上の左近衛、右近衛の中将、少将ばかりであり、女官は皆、内侍以上(従五位相当)という高位の御方々ばかりだったのです。

なおかつ、太政官の高位の役職を持つ方々と天皇直属の内侍局の高位の方々が、それぞれ示し合って逢瀬を楽しみ、不義密通のご乱行を行っていたという事実が明らかになったから、さあ大変(汗)。

「帝の思し召し通りに全員死罪に処せば、近衛府、内侍局はおろか堂上家(公卿になれる公家の家)全体が混乱に陥ります」


重昌は溜息まじりに吐き捨てるように言いました。当事者14人のうち、堂上家当主は6人の名前がありました。これらの当主がすべて死罪となれば、一時的とは言え、家が絶えてしまう可能性も否定できませんでした。

「内膳正、そなたまさか、帝の裁きを改めよと申すのか?」

勝重は勝昌の機先を制しました。

「仰せの通りにござる」

「しかしこれは勅命であるぞ」

「それゆえ、困っておりまする」

「うーむ......」

困り果てた板倉勝重、重昌の父子は、これまでの調査報告と後陽成天皇の思し召しによる影響を書状にまとめて、駿府の大御所(家康)の元に伺い、お指図を仰ぐことになりました。京都には重昌が残り、勝重が駿府に伺うと、ちょうど家康の元には、後陽成天皇の母親の新上東門院から寛大な処置を願う嘆願書が届けられていました。

家康も後陽成天皇の思し召し、新上東門院からの処分軽減願いに困惑した結果、勝重に

「確かにこのままではちとマズい。京都の重昌に早馬を出して、武家伝奏・勧修寺権大納言(光豊)と相談の上、適宜処分案を考えるしかあるまい」

という指示を出します。2名いる武家伝奏職のうち、光豊を指名したのは、もう一人の広橋兼勝の娘である広橋局が事件の当事者の一人であり、冷静な判断ができるとは思えなかったからでした。

勝重は京都の重昌にその意を伝え、重昌は勧修寺光豊と何度も本事件の処分の議論を行いました。その結果は逐一駿府の父勝重と大御所家康に伝えられ、連絡を緊密にしつつ慎重に対案が練られていきました。

その真っ最中の同年9月初旬、京都所司代に「猪熊左少将 捕縛」の第一報が届きます。幕府が猪熊教利を西国大名に指名手配した結果、日向国県(現在の延岡)藩五万石の当主・高橋元種の手によって逮捕されたのでした。


【事件の結末】
西暦1609年(慶長14年)9月23日、板倉勝重は駿府から京都へ戻って来ると、武家伝奏勧修寺光豊、広橋兼勝両名を所司代に呼び出し、幕府の名前で以下の通り、本事件の処分を申し渡しました。

<死罪>
左近衛少将 猪熊 教利
歯科医 兼安 備後

<流罪>
・公卿
左近衛中将 大炊御門 頼国 硫黄島へ流罪
左近衛少将 花山院 忠長 蝦夷松前へ流罪
左近衛少将 飛鳥井 雅賢 隠岐島へ流罪
左近衛少将 難波 宗勝 伊豆へ流罪
右近衛少将 中御門 宗信 硫黄島へ流罪

・女官
典侍 広橋局
典侍 中院局
内侍 水無頼
内侍 唐橋局
命婦 讃岐(兼安備後の妹)
以上5名全員 伊豆新島へ流罪

<出仕停止(蟄居)> 
参議 左大弁 烏丸 光広
右近衛少将 徳大寺 実久


【天皇怒る】
これを聞いて、またしても激怒したのが後陽成天皇でした。
武家伝奏勧修寺光豊、広渡兼勝から報告を受けるなり

「それでは話が違うではないか!」

と激怒。天皇は両名に対し

「このような裁き、到底納得できぬ。そう伊賀守に申せ!」


と処分差し戻しを命じます。困ったのは武家伝奏の両名

「そうは申されましても、これは伊賀守どうこうではございませぬ。御公儀(幕府)の裁可でございます。今更この変更はあり得ませぬ」


と諌めますが

「では、朕の意向はどうでもよいのか?そちたち武家伝奏は、朕の考えを公儀に伝え、その通りに事を運ぶのが役割であろうが!」

と天皇に言い返されてしまいます。

「お上の仰せはごもっとも。なれど」

「良いか。朕は認めんぞ!」

天皇が内裏から退出しようとすると「お上、お待ちなされませ」と声が上がり天皇生母・新上東門院が現れました。

「お上の思し召しは妾にもよう分かりまする。されど、この度の一件、当事者の首を刎ねたところで、お上の心は安んぜられるのでしょうか?、広橋(広橋局)の心はお上に戻ってこられるのでしょうか?」

「それは......」

後陽成天皇は言葉に詰まりました。

「形あるものは壊れ、壊れたものは元には戻りませぬ。これはこの世の道理。お上の大御心を踏みにじった広橋の罪は許されるものではありませぬが、ここは、お上の大御心の広さが試されているとも言えるのではないでしょうか」

実の母にこうまで言われては、さすがの天皇も返す言葉がありませんでした。
また、この処分内容が新上東門院が大御所に働きかけた結果であることを知っては、天皇も我を通すことはできず、ついにこの処分が確定しました。

西暦1609年(慶長14年)10月17日、猪熊教利、兼安備後、処刑。
その他公卿、女官10名は流罪。2名が出仕停止。


こうして日本史上最悪の宮中大乱行スキャンダル事件は一応の集結を見ました。

【事件の後日談】
この処分について後陽成天皇は納得はしたものの、幕府の強権的な対応にすっかり嫌気がさしてしまって、度々、譲位(天皇の位を下りる事)の意向を露にします。

もともと後陽成天皇は、自分の第一皇子である良仁親王、次に自分の弟である八条宮智仁親王に皇位を譲りたかったのですが、いずれも徳川家康によって反対されていました。皇位継承も自分の思い通りにならず、また自分の想い人を寝取られた主犯の処分も自分の思い通りにならなかったことが重なって、「もう、どうでもいいや......」と厭世を感じるようになったのだと思われます。

事件から2年後、西暦1611年(慶長16年)3月27日、後陽成天皇は自身の第三皇子である政仁親王に譲位。政仁親王は4月12日に即位して後水尾天皇となります。後水尾天皇は翌1612年(慶長17年)、伊豆に流罪となっていた難波宗勝を勅免(罪を許す命令)して都に呼び戻し、宗勝の生家・飛鳥井家の継承を命じました。

また、1623年(元和9年)に徳川家光が徳川幕府三代将軍に就任すると、新たに勅免が出され、広橋局、中院局、水無頼、唐橋局、讃岐の5名の女官は伊豆新島から都に呼び戻されました。さらに1636年(寛永13年)には蝦夷地に流されていた花山院忠長が都に帰還しました。残りの大炊御門頼国、飛鳥井雅賢、中御門宗信の3人は流刑地で死没しました。

またこの一件は幕府に公家統制の重要性を認識させることになってしまい、幕府は西暦1613年(慶長18年)に「公家衆法度」を発布。さらに西暦1615年(慶長20年)には公家のみならず史上初めて天皇の権限に制限を加えた「禁中並公家諸法度」を制定することになります。

こうして宮中の大スキャンダル事件は幕を閉じましたが、宮中・公家にとっては、幕府の介入を許さざるえない状況を作ってしまった手痛い事件になったことは確かですね。
posted by さんたま at 11:02| Comment(5) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
記述を読んで感心致しました。この記述のもととなった資料は、『時慶卿記』だけでしょうか? 小説にしたいと思いますので、是非ご意見を戴きたく存じます。、
Posted by 扇子 忠 at 2014年02月16日 14:16
>扇子 忠 さま
すみません。コメントを見逃しておりました。
ご承知の通り史料としてはご指摘のものですが、猪熊事件の考察は他の学術論文も平行して参考にしております。
Posted by さんたま at 2015年08月22日 12:53
・後陽成天皇(正)→御(×・誤)陽成天皇
Posted by 飛鳥井公磨 at 2018年02月22日 09:29
> 飛鳥井公磨さん
>・後陽成天皇(正)→御(×・誤)陽成天皇

後陽成天皇の記述に間違いはありませんが、「後水尾天皇」を「御水尾天皇」と記載していたところは確認できました。

ご指摘ありがとうございます。修正しました。
Posted by さんたま at 2018年02月22日 10:15
・本論は結構と思う。マテリアル(根本史料)を示してもらうと
有難い。・後陽成天皇(朝廷)〜幕府(家康〜秀忠〜家光期)時
代の伝奏(天皇の秘書官・朝廷内交:連絡調整)は中院通村(な
かのいんみちむら)だと記憶している。この人の日記(京都大学
図書館か文学部図書館蔵)は京大HPに出ているかも知れないが、
投稿者は素人なのでよく判らない。参考まで。一部、猪熊事件雑
書に「中院通村」に言及していたように記憶。
Posted by 飛鳥井公麿 at 2018年02月23日 07:00
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