2019年09月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(109)-先陣争い-

西暦1185年(元暦二年)2月19日、四国・讃岐国屋島(香川県高松市)にて、その地に拠点を築いていた平家本陣は、源氏の源義経軍の奇襲を受けました。

この時、平家本陣は4,000騎程度の兵力を有していましたが、平家の武将・田内教能が、伊予(愛媛)の河野通直を討つため、3,000騎を率いて伊予に出陣していたため、屋島の本陣は手薄になっていました。

さらに残った1000騎を屋島の周辺の防備に当たらせていたため、屋島の本陣に残っていたのは200から300騎程度だと思われますが、奇襲をかけた義経軍の騎兵200騎ほどの地元軍勢の猛攻に耐えきれず、やむ得ず屋島の里内裏を放棄して海上に逃れました。

翌21日、平家は屋島の東方およそ10kmにある志度(香川県さぬき市志度)にある志度寺に立て篭もりましたが、ここも夜明けと共に義経軍の奇襲を受け、平家一同は平知盛が固めている彦島(山口県下関市)へ海路をとりました。
また、この頃、伊予の河野通信(戦国大名・河野氏の祖)が義経に合流したため、讃岐、阿波、伊予は源氏の勢力圏に入りました。

22日、摂津国から渡辺党を中心とした梶原景時の水軍200叟が義経軍と合流。義経軍は騎兵だけでなく十分な水軍も擁する体制になっていました。

一方、鎌倉より陸路山陽道を進軍していた源範頼軍は、去る2月1日、葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町付近)の戦いで、平家方の武将・原田種直を撃退。周防国東部・豊後国、筑前国東部(山口県東部、大分県南部、福岡県東部)を源氏の勢力下に置いていました。

しかし、3月9日に鎌倉の頼朝に届いた範頼の書状によると、豊後国に渡ったものの、農民たちが逃亡し、兵糧の調達までままならない状況で、それに嫌気がさした和田義盛、工藤祐経ら歴戦の勇士が鎌倉に帰ろうと海を渡りそうになったとの報告が届いています。

この書状にはさらに熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の第21代別当である湛増が九州へ進軍する噂をきき、湛増が来るなら自分の立場がなくなるじゃないかと恨み言に近いことを訴えています。

これを受けて頼朝は同月11日、湛増が九州に進軍する噂は事実ではないとし、また千葉常胤をはじめとし、北条義時、小山朝政、小山宗政、中原親能、葛西清重、加藤景廉、工藤祐経、宇佐美祐茂、天野遠景、仁田忠常、比企朝宗、比企能員ら十二人の御家人にこれまでの軍功を讃える書状を遣わしています。

ちなみに頼朝が否定した湛増出陣の話ですが、湛増が240叟2000人の水軍を率いて義経に加わったのは事実です。


範頼と義経は相通じ、3月24日の卯の刻(午前6時)に、豊前国門司、赤間関(山口県下関市)にて矢合わせ(攻撃開始)と決めました。

3月22日、義経は周防国から壇ノ浦に向けて出発しようと準備を整え、船の数や乗員の算段を組み立てていました。
この日、義経の陣にちょっとした揉め事が起きました。
梶原景時が義経に先陣を願い出たのです。

景時の願いに対し、義経は

「この義経がいなければ平三(景時)殿に先陣をお願いしましょう」

と却下されました。
これに驚いた景時は

「なんと申される。九郎(義経)殿は大将軍でござりまするぞ」

と反論すると

「もってのほかでござる。鎌倉殿こそ大将軍。我は鎌倉殿の命にただ従うのみ。平三殿と立場は同じ、一御家人にござるぞ」

と義経がさらに畳み掛けたので、景時は

「心得違いをなされては困りまするな。山陽道では蒲(範頼)殿、四国では九郎殿、鎌倉殿が何故、ご舎弟殿を派遣されたとお思いか。お二人は鎌倉殿の名代でござるぞ。鎌倉殿が大将軍であるならば、名代である九郎殿も大将軍。九郎殿はご自身の立場をなんとお考えか」

と大声をあげてしまいました。
これに義経軍の他の兵、武将らも「何事か」と集まってきました。

「我は鎌倉殿の命で平家を討伐し、三種の神器を朝廷に返還しようとしているだけじゃ。我が鎌倉殿の御家人であることは間違いないが、名代などとは恐れがましい。」

と義経が首を振りながら、景時に背を向けると

「では、どうあってもご自身が先陣を?」

という景時の問いに

「是非もなし」

と答える義経。

景時はため息をつくと

「戦は総大将が討たれたらそこで終わりでござる。先陣で切り込んで命落とされたらいかがなされる。戦の大将は最後まで生きてもらわねば負けなのじゃ。それがお分かり頂けぬなら、九郎殿は大将の器にあらず!」

と罵りました。

「平三殿こそものの道理が理解できぬ。愚か者じゃ!」

と義経も負けじと罵り返したので、両者の間に緊迫が漂い、刀の柄に手をかけようとします。

只事ならぬ雰囲気に景時の嫡男・源太景季、次男・平次景高、三男・三郎景季が景時の周りを守ろうとします。

一方で、義経の周りには佐藤忠信、伊勢義盛、源広綱(源三位頼政の子・仲綱の養子)、江田広基、武蔵坊弁慶らが景時一族を取り囲み、妙な動きがあれば、今にも討ち取らんとしていました。

緊迫した空気と静寂がしばらく続きましたが、それを打ち破ったのは

「あいや、しばらく!しばらく!」

という三浦義澄の声でした。

義澄は義経の前に立ちはだかり、景時を斬ろうしている義経を両手をあげて止めました。
一方、景時の方は土肥実平が押しとどめていました。

「これから戦じゃと言うのに、お二方とも何をなされておられるか!」

と義澄が声を荒げると、実平が景時に向かって

「平三殿。そなたは戦目付であろう。後見役のそなたが九郎殿と諍いとは......恥を知られい!」

と怒鳴ったので、景時は刀の柄から手を離し、義経を睨みながらその場を離れていきました。

また、義澄も

「九郎殿も九郎殿じゃ。こんなところで同士討ちなんぞしては、それこそ鎌倉殿のきついお叱りを受けましょうぞ」

と諭すと、義経も刀の柄から手を離しました。

「やれやれ、ようやく九郎殿の陣に来れたと言うのに、とんでもない場面に出くわしたものじゃ」

義澄がそう言うと、義経が

「三浦介殿、仲裁、忝い。何か我に用でござるか?」

と尋ねたため

「豊後に渡られた蒲殿より、九郎殿と合流せよと言う命令を頂戴しまして、馳せ参じた次第」

「ちょうどよかった。そなたは門司の海をご存知のはず。我らを壇ノ浦まで先導してはくださらぬか」

「承知つかまつった」

こうして、三浦義澄は義経軍の先導として壇ノ浦を目指すことになります。
これに対し、平家の方も彦島より出陣して、赤間関を通過し、田ノ浦(北九州市門司区田ノ浦埠頭付近)に陣取りました。

先ほどの義経と景時との先陣争いは、「平家物語」に詳しく書かれています。
平家物語は、この先陣争いがのちに梶原景時が義経を讒言することに繋がると書かれていますが、本当のところはわかりません。

さて、いよいよ壇ノ浦の戦いに突入です。
posted by さんたま at 03:07| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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