2019年04月30日

平成の政治史を振り返る(第1回:55年体制の崩壊)

今日、2019年4月30日は平成最後の日です。

いろんなところで「平成最後の〜」と言われており、この言葉を使うのも正直うんざりではありますが(苦笑)、レキドラはレキドラらしい「平成の振り返り」を行いたいと思います。


題して「平成時代における日本の政治史を振り返る」です。

昭和天皇が崩御され、平成時代となった西暦1989年1月7日当時の内閣総理大臣は竹下登(竹下改造内閣)でした。

その後、平成最初の組閣・総理大臣となったのは宇野宗佑です。
以後、平成31年現在の安倍晋三に到るまで、16人の総理大臣が日本の国政の舵取りを行ってきました。

その中には昭和で確立された政治体制の崩壊、復活、混沌など様々な事象がありました。

その流れをまとめて見ていきたいと思います。
第1回は昭和の自民党支配(55年体制)の崩壊と、非自民政権の誕生についてです。

なお、文中の人物については特別な場合を除き、敬称略とします。


1:昭和から平成に渡った竹下内閣
平成元年の改元当時の内閣は竹下内閣(内閣総理大臣・竹下登)でした。
言うまでもないDAIGOのお爺さんですね。

天皇崩御・改元・大喪の礼など、日本国憲法下初の事態に、内閣官房長官・小渕恵三と共に適切に対処されました。

この方の時代に消費税法が成立し、平成元年4月1日(すなわち平成元年度)から施行されています。

しかし、この時、戦後最大の企業贈収賄事件と言われる「リクルート事件」が政界を揺るがしており、ついに竹下本人にも疑惑が及びます。消費税導入よる世論の批判と合間って、内閣支持率は急落し、1989年(平成元年)6月3日、竹下内閣は総辞職となります。


2:戦後4番目の短命内閣だった宇野内閣
竹下内閣総辞職後、自民党有力者は後継総裁をどうするかが問題となりました。当時の自民党において、後継総裁に当てはまる人材は、ほぼリクルート事件に関わっており、新しい内閣はこの事件に関わっていない人間であることが必須だったためです。

当時の自民党総務会長でお金に極めてクリーンな伊東正義の名前が上がりましたが、伊東はこれを拒否。そのほか数人が打診されるものの、サミット開催が控えるこの難局の舵取りに難色を示すものもあり、最終的には竹下内閣改造内閣の外務大臣で、リクルート事件と関係も薄い宇野宗佑が、急遽自民党総裁に抜擢されることとなります。

1989年(平成元年)6月3日、宇野内閣成立。

しかし、6月6日、週刊誌『サンデー毎日』が神楽坂の芸妓の告発(「自分の愛人になるならこれだけ(指3本=30万)だす」と言われた)が掲載れ、女性スキャンダルが勃発。

ただでさえ消費税、リクルート事件で逆風の自民党に新たな火種が加わってしまい、これが同年7月23日に行われた第15回参議院議員通常選挙を直撃。開票後は野党・日本社会党が46議席を獲得し、自民党の獲得議席は36。結党以来初めて参議院の単独過半数を失いました。

選挙開票翌日、宇野は内閣総辞職を表明。在任期間はたったの69日でした。
辞任会見の「明鏡止水(邪念が無い、静かに落ち着いて澄みきった心)の心境であります」は流行語にもなりました。

宇野宗佑は「女性スキャンダルで辞任した総理」と言われますが、外相時代の彼は極めて有能で、外務省の官僚から「あれだけ手のかからない外務大臣はいない」とまで評されており、国会答弁などはほぼ完璧にこなしていたそうです。時期が時期とはいえ、総理に祭り上げられてしまったのが彼の不運だったのかもしれません。


3:政治改革を断念せざる得なかった海部内閣
消費税導入、リクルート事件、女性スキャンダルなどのトラブルにまみれた自民党の後継総裁選びは、竹下内閣総辞職の時以上に難局を極めていました。宇野内閣は建前上、中曽根派の宇野宗佑が総理でしたが、実質は竹下派の院政に等しく、宇野の辞任の後の総裁候補は竹下派からは出せない状況でした。

しかし、前述の通り、リクルート事件により後継世代が総裁候補に出てこれない事情は、竹下内閣総辞職時と変わっていなかったため、竹下派は中小派閥の河本派に所属しながらも竹下派の議員たちとパイプが強かった、海部俊樹を支持することになります。

この時、自民党総裁選が開催され、林義郎(宮澤派)と石原慎太郎(安倍派)が立候補しましたが、海部俊樹が279票を獲得し、第14代自民党総裁に就任。西暦1989年(平成元年)8月10日、海部内閣が成立します。

少々脇道に逸れますが、この時の政務次官には

文部政務次官:町村信孝、
農林水産政務次官:中山昭一
通商産業政務次官:甘利明
防衛政務次官:鈴木宗男


と言う、後の日本の政治に大きく関わっている人たちが就任しています。

海部俊樹の所属する河本派は中小派閥であり、竹下派の支持がなければ到底総理になることはできませんでした。

よって、海部内閣も宇野内閣時代と同じで、竹下派の傀儡に近いものでした。内実は竹下派のトップ(すなわち経世会会長)である金丸信、竹下登、そして自民党幹事長で竹下派七奉行の一人である小沢一郎をはじめとした党三役が取り仕切っていました。

そんな中、政治改革関連法案の成立だけは海部本人の政治生命をかけて成立させようとしました。同法案は閣議決定されたものの、野党はもちろん、自民党内の宮澤派・三塚派・渡辺派およびYKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)グループなどの身内からも猛反発を受けました。

これは海部が「中継ぎ登板」であるのに大それたことをやろうとしていることと、リクルート事件に関わり、入閣できなかった議員からの格好の攻撃材料にされてしまったことが遠因と思われます。

委員会の意見はまとまらず、衆議院政治改革特別委員長だった小此木彦三郎は、西暦1991年(平成三年)9月30日、「審議日数の不足」を理由に廃案にすることを提案し、与野党理事が合意。「政治改革法案廃案」は内閣総理大臣の知らないところで勝手に廃案となりました。

これを受けて海部は「重大な決意(決心)で臨む」という発言をし、これが「衆議院の解散」と受け取られ、反対グループをさらに刺激します。海部は衆議院解散に踏み切ろうとしましたが、竹下派の支持を取り付けることができず、結果的に解散を断念。内閣総辞職となりました。


4:55年体制の崩壊を作ってしまった宮澤内閣
海部の辞意を受けて自民党総裁選が行われることとなり、派閥の長である宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄らが総裁選出馬を表明します。

前回宇野内閣総辞職の際に派閥候補を出せなかった竹下派は、金丸信が小沢一郎を擁立しようとしましたが、小沢はこれを拒否。またしても竹下派は自派閥からの候補を擁立できない状態に陥りました。

とはいえ、自民党内最大派閥である竹下派の支持が総裁選に勝利することに繋がるため、三候補は「竹下派参り」を行うことになります。竹下派トップの金丸信、竹下登、小沢一郎の協議の結果、派閥としては宮澤喜一を推すことを決定しました。

西暦1991年(平成三年)11月5日、宮澤内閣が成立。
参議院議員出身者として初の内閣総理大臣でありました。

宮澤内閣は国際平和協力法(PKO協力法)を成立させ、国連によるPKO活動のほか、国連その他の国際機関等が行う人道的な国際救援活動に参加するための自衛隊海外派遣を合法化させました。

ただ、世の中はバブル景気が後退し始め、地価や株価等の資産価格の大幅な下落が発生しており、宮澤はこれを「単なる景気後退ではない」と判断。当時の日銀総裁・三重野康と共に東証閉鎖・日銀特融による「金融機関への公的資金投入」を計画します。

ところが、この計画は大蔵省(当時/現:財務省)の猛反対を受け、やがてマスコミ、世論も反発し、宮澤はこの計画の取り下げざるを得なくなりました。

この時、反発する勢力はほぼ国内情勢しか見ておりませんでした。しかし海外の投資家は日本の地価や株価が非常識のレベルまでに達しており、その査定の甘さが不良債権化するのに時間がかからないこともわかっていました。

宮澤は何らかのルートでこれを知り、金融機関が保有している資産が不良債権化する前に処分するため、公的資金を使用するつもりだったと思われますが、世論に理解がなかったと見るしかないでしょう。

そして、宮澤内閣の在任中、また大きな政界疑獄事件が勃発します。「東京佐川急便事件」です。

西暦1992年(平成四年)2月14日、東京地検特捜部は、東京佐川急便の渡辺広康社長、早乙女潤常務ら4人を、会社に952億円の損害を与えたとし、特別背任容疑で逮捕しました。この時、自民党竹下派会長・金丸信は東京佐川急便から5億円の政治献金を受けており、政治資金規正法違反で略式起訴されました。

金丸は罪を認め、罰金刑を受けましたが、参議院議員の青島幸男(のちの東京都知事)が抗議のハンガーストライキを国会議事堂前で行ったことで世論がこれに追随。金丸は議員辞職に追い込まれます。

ところが、日本社会党の吉田和子(新潟県出身)と同じく社会党で新潟県選出の筒井信隆にも東京佐川急便から献金疑惑が浮上。新潟県知事の金子清も1億円献金疑惑が生じ、事件は与党自民党だけでなく最大野党・社会党などにも飛び火していきました。

この事件は国会での証人喚問にまで発展しましたが、最終的に真相の究明には至りませんでした。
しかし、リクルート事件に続く、この「東京佐川急便事件」は世論に「既存政党不信」を強く印象付けました。

加えて、自民党竹下派は金丸の後継会長を巡って竹下派七奉行同士の内部紛争が起き、竹下支持派の小渕恵三が派閥会長(小渕派)となり、金丸支持派だったの小沢一郎・羽田牧らが竹下派を離脱、「小沢・羽田グループ」を立ち上げる動きに発展しています。

これを踏まえて、宮澤内閣は内閣改造を実施。小渕派(旧・竹下派)の支持無くして内閣を維持できない宮澤は、小沢・羽田グループを冷遇するあからさまな閣僚人事を行ったため、小沢・羽田グループは宮澤内閣に対して反抗勢力となってしまいます。

小沢・羽田グループは政治改革推進派でしたが、リクルート事件、東京佐川急便事件という政界疑獄事件が勃発しているにも関わらず、宮澤は政治改革の推進に消極的でした。しかし、宮澤はテレビ番組で「やります。やるんです」と言い切ったにも関わらず、与党内部での意見の取りまとめを行いきれず、結果として次期国会に先送りするという「悪手」を打ってしまいます。

これに対し、西暦1993年(平成五年)6月、野党(日本社会党・公明党・民社党)は通常国会最終日に内閣不信任案を提出。これに小沢・羽田グループが同調し、内閣不信任案が可決され、衆議院は解散・総選挙へと移行します。

選挙に到るまでの間、自民党若手議員の武村正義、田中秀征、園田博之、鳩山由紀夫らが自民党を離党し「新党さきがけ」を結成。これを見た小沢一郎・羽田牧らも自民党の離党を決意、「新生党」を結成しました。

これら大量離党者の続出により、選挙前の時点で自民党は過半数を割り込んでいました。

さらに突然の離党者に対する戦略も代替候補も立てることができず、加えて東京佐川急便事件などの影響による世論の「既存政党不信」が合間って、西暦1993年(平成五年)7月18日の投開票された第40回衆議院議員総選挙は、自民党の単独過半数を維持することが不可能な事態に陥ります。

また、東京佐川急便事件により日本社会党も影響を受け、選挙前136あった議席は70に止まり、66議席を失う大打撃を受けました。

それ代わって、大きく勢力を伸ばしたのが日本新党(代表:細川護熙)の35議席(開戦前:0)。次に新生党(党首:羽田牧)の55議席(改選前:36)。次いで公明党(委員長:石田幸四郎)の51議席(改選前:6)の3党でした。

日本の国会は1955年(昭和三十年)以来、与党第一党:自民党、野党第一党:社会党で維持され、「55年体制」と言われていました。
それがこの第40回総選挙でついに崩壊し、自民党の長期支配38年が終わったのです。

野党であった社会党、新生党、公明党、民社党、社会民主連合の5党は選挙前から連立協議を行っていましたが、選挙の結果、5党合計で195議席で過半数に達することが出来ませんでした。一方の自民党も223議席で過半数に届かないという事態でした。

また、日本新党と新党さきがけは統一会派を組んでいたため、両党が政権のキャスティング・ボートを握ることになりました。

協議の結果、「細川首相」を提示した非自民側が取り込みに成功。両党は非自民勢力・民主改革連合を加えた8党派による連立政権樹立で合意し、日本新党代表の細川護煕を首班とする細川内閣が成立しました。

非自民連立政権の誕生です。

(つづく)
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2019年04月15日

新しい五千円札の顔:自立した日本女性のための教育者・津田梅子

2024年度に刷新される新しい紙幣の肖像に選ばれたのは

・一万円札:渋沢 栄一
・五千円札:津田 梅子
・千円札:北里 柴三郎


の3名です。

先日は、一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一を語りましたが、今日は津田梅子を語ってみたいと思います。

津田梅子と言えば、一般的には「津田塾大学の創設者」として知られていると思いますが、それ以外のことを知っている人は少ないかもしれません。

レキドラの視点で言えば、津田梅子は

・本人の意思に関係なく米国留学を強制
・上流階級が苦手で生涯独身に。
・自立した日本女性のための教育を提唱


という壮絶な人生を送っています。
この辺りの踏まえて、津田梅子の人生を語っていきます。


1、全ての発端は岩倉使節団

津田梅子は、東京府・士族である津田仙の次女として、江戸に生まれました。

父・仙は佐倉藩士(千葉県佐倉市)で、藩命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学んだ後、藩に出仕し、さらに江戸で遊学した結果、24歳で徳川幕府の外国奉行の通訳として採用されています。

徳川幕府が無くなった後は築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がけており、極めて開明的な思想の持ち主であったことがわかります。

西暦1871年(明治四年)、明治政府が設立した開拓使の嘱託となり、その開拓使の次官だった黒田清隆(元薩摩藩士/のちの第2代内閣総理大臣)が、「数人の男女の若者をアメリカに留学生として送って、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせる」ことを企画すると、そこに娘の梅子を応募しました。

おそらく仙にとって、これはまたとない機会だと思ったのでしょう。

仙は西暦1867年(慶応三年)、幕命で幕府発注の軍艦を引取りに行った小野友五郎(徳川幕府勘定吟味役)と共に、通訳としてアメリカに渡っており、その文化的レベルの高さを体験しています。幼少期からその高い文化的教育を受けさせれば、必ず後々役に立つと考えたとしても不思議はありません。

しかも費用は全部政府持ちです。

要するに梅子は自分の意思ではなく、親の教育指導の一環によって留学を強いられたことになります。
(当時の風習では子が親に逆らうとかあり得ないですけど)

留学生は条約改正予備交渉として出発する岩倉使節団の随員に組み込まれ、西暦1871年(明治四年)11月に横浜を出発しました。


2、アメリカでの生活

梅子がアメリカで預けられた先はジョージタウン(現:ワシントンDC)で日本弁務館書記を務めていたチャールズ・ランマン夫妻の家でした。
一時期、ワシントン市内に移されますが、すぐに戻され、結果としてこの家で十数年を過ごします。

梅子がこの家からコレジエト・インスティチュートに通い、西暦1878年(明治十一年)にコレジエト校を卒業。私立女学校のアーチャー・インスティチュートへ進学し、西暦1882年(明治十五年)7月に卒業しました。

この間、梅子は英語、ラテン語、フランス語などの語学、英文学、自然科学、心理学、芸術学など多くの学問を得ました。
また、この時、同じ留学生だった、山川捨松、永井繁子とは生涯を通じての親友となります。


3、伊藤博文との再会

西暦1882年(明治十五年)11月、梅子は山川捨松と共に日本に帰国しました(永井繁子は先に帰国)。
しかしながら、日本では

「女性が社会に進出するなど以っての外」

と言われ、女子留学生が活躍できる職業など、今以上にほとんどありませんでした。

特に捨松は日本語の文法が怪しくなっており、読み書きがほとんどできず、思想もアメリカ風だったため、「アメリカ娘」と蔑まれたようです。

梅子の日本語能力は捨松以下で「日常会話に通訳がいる」レベルであり、6歳から18歳までをアメリカで過ごした梅子は日本的風習が全く備わっておらず、相当のカルチャーギャップを受けています。

そんな梅子に転機が訪れます。

西暦1883年(明治十六年)、梅子は外務卿・井上馨(元長州藩士)の邸で開かれた夜会にて、伊藤博文と再会しました。
伊藤博文は岩倉使節団の副使の一人で、梅子と共にアメリカに渡った人間でした。
梅子の話を聞いた伊藤は、梅子に下田歌子を紹介します。

下田歌子は、宮中女官の出身で、礼儀作法、学識、和歌の才能などを秀でており、この時は、華族子女を対象にした教育を行う私塾「桃夭女塾」を開設していました。

伊藤は、梅子が今後日本で生きていくに必要な作法、知識を歌子から学ばせ、同時に梅子を英語教師として塾で教えさせれば一石二鳥だと考えました。梅子は伊藤の申し出を喜びましたが、1つだけ条件を出しました。それは「私を伊藤家に置いてくれること」でした。

梅子は伊藤の英語の個人教師ならびに通訳として伊藤家に住み、歌子から日本語および作法を学んで「桃夭女塾」に英語教師として通いました。

西暦1885年(明治十八年)、皇族・華族子女のための官立の教育機関として「華族女学校」(現:学習院女子中・高等科)が創立されると、歌子が教授となり、梅子が英語教師として迎えられています。この女学校の設立には留学時代の親友・大山捨松(旧制:山川。この時すでに大山巌と結婚していたので、姓が変わっている)も関わっていました。

この華族女学校の英語教師時代に、梅子に縁談がなんども持ち込まれているようです。
この時代の華族と呼ばれる上級階級の結婚には、一定の学識・教養が必要であり、当時21歳の梅子は絶好の的でした。

しかし、梅子自身は上流階級の華族の気風には馴染めなかったようで、「縁談はうんざり」と全ての縁談を拒否しています。


3、再留学

西暦1888年(明治二十一年)、大山捨松が華族女学校の英語教師として留学時代の友人であるアリス・ベーコンを招聘しましたが、華族女学校は日本古来の儒教的道徳観に即した教育が行われており、アリスは窮屈な時を過ごします。

梅子はアリスとは旧知であり、アリスに再度の留学を薦められて留学を決意し、女学校を説得して2年間の猶予を与えられています。
前回の留学は父親の希望でしたが、今回の留学は「梅子自身の意思」によるものでした。

西暦1889年(明治二十二年)、梅子は再び渡米します。

渡米後の梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、名門女子大学群セブンシスターズの名門ブリンマー・カレッジ で生物学を専攻しました。

通常3年間の課程を切り上げて終了させた上、留学2年目の西暦1890年(明治二十三年)6月にトーマス・ハント・モーガン教授(のちに染色体の存在を実証し、ノーベル生理学・医学賞を受賞)との共同研究で、蛙の卵の発生に関する論文を執筆しており、西暦1894年(明治二十七年)イギリスの学術雑誌に発表されています。

また、この頃、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行っています。


4、女子英学塾創設へ

西暦1892年(明治二十五年)8月、大学から引き止められるものの帰国。再び華族女学校に勤めます。

梅子は西暦1894年(明治二十七年)明治女学院の講師を、西暦1898年(明治三十一年)には女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学の前身)教授も兼任して活動の幅をどんどん広げています。

それに呼応するかのように、政府は西暦1899年(明治三十二年)、都道府県に高等女学校の設置義務を課した「高等女学校令」を公布して女子教育機関の設立を促進し、私立学校を日本近代教育の1つに位置付けた「私立学校令」を公布して、官立以外の教育機関の整備を充実させていました。

これらの法律と環境の整備が、梅子に一念発起させます。

西暦1900年(明治三十三年)、梅子は全ての官職を辞め、同年7月「女子英学塾」を設立願を東京都に提出。
認可を受けると東京都麹町区一番町(現在の東京都千代田区一番町27番地)に開校しました。この塾が「津田塾大学」の前身になります。
最初の入学者は10名ほどであったと言われます。

この時、梅子に多大な援助を惜しまなかったのが、大山捨松瓜生繁子(旧姓:永井)でした。
特に捨松は留学時代の友人である前述のアリス・ベーコンに再来日を要請し、塾の理事を務めるなど塾の運営に深く関わっています。

「女子英学塾」はそれまで風習や礼儀作法に重きを置きがちだった当時の日本の女子教育とは根本的に異なった方針を打ち出していました。

それは自立した女性を目的とした真の日本女性を世に送り出す「進歩的で自由なレベルの高い授業」を目指していました。

この梅子はこの独自の教育方針を貫くため「第三者の介入を許さない」というスタンスを堅持し、そのために周囲からの資金援助をほとんど受けなかったと言われています。

また塾だけでなく、西暦1901年(明治三十四年)には英文新誌社を設立し、英語教科書や英文学書の出版にも尽力しています。

西暦1903年(明治三十六年)3月には専門学校令が公布され、女子英学塾は社団法人化。同区五番町16に移転しました。

苦しいながらも塾の経営は徐々に安定を見せはじめますが、西暦1917年(大正6年)、創設者であり塾長でもある梅子自身が、長年の激務のため、病に倒れてしまいます。

塾の創設者でありシンボルであった梅子の発病は、それまでなんとか切り盛りしていた塾の運営を一気に窮地に落とし込みます。
それを支えたのは、留学時代の親友・大山捨松でした。

捨松は梅子に変わって塾の運営を一時的に取り仕切り、当時米国コロンビア大学に短期留学していた女子英学塾講師の星野あいを呼び戻して塾教頭に据えて、運営を安定させました。

捨松はこの直後、スペイン風邪(インフルエンザ)にかかってそのまま58歳で亡くなっています。
捨松がどれだけ必死で塾の運営を行なっていたかがわかります。

西暦1919年(大正8年)、梅子は女子英学塾の塾長を辞任
鎌倉に隠棲して、闘病生活の後、10年後の1929年(昭和4年)、脳溢血で64歳で亡くなりました。生涯独身でした。

2代目塾長には塾教頭だった星野あいが就任し、西暦1933年(昭和八年)に塾名を「津田英学塾」に改称。
西暦1943年(昭和十八年)に理学科を新設して「津田塾専門学校」となり、太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に現在の「津田塾大学」の設立が認可。星野あいが初代学長を務めました。


5、津田塾の建学精神へ

津田塾大学のWebサイトによると、梅子は「女子英学塾」の開校式で次のように語ったそうです。

「受け継がれる建学の精神 真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。それは、一口に申せば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。」

「人々の心や気質は、その顔の違うように違っています。したがって、その教授や訓練は、一人々々の特質に、しっくりあてはまるように仕向けなくてはなりません。」

「英語を専門に研究して、英語の専門家になろうと骨折るにつけても、完き婦人となるに必要な他の事柄を忽せ(ゆるがせ)にしてはなりません。
完き婦人即ちall-round women となるよう心掛けねばなりません。」


(上記出展:https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html


この言葉は津田塾の教育精神として現在までも受け継がれています。


礼儀作法一辺倒だった偏った女子教育ではなく、「自立した日本女性」を目指した「本当の女子教育」に一生を費やした津田梅子の思いと生き様が、次の五千円札に宿ることを、我々日本人はよくよく理解する必要があると思います。
posted by さんたま at 11:31| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月09日

新しい一万円札の顔:日本で最初の近代ベンチャー創始者・渋沢栄一

すでに報道の通り、日本政府と日本銀行は、2024年度前半に千円、五千円、一万円の各紙幣(日本銀行券)を一新させることを発表しました。

紙幣刷新は2004年以来実に20年ぶりのことです。

今回、紙幣の肖像に選ばれたのは

・一万円札:渋沢 栄一
・五千円札:津田 梅子
・千円札:北里 柴三郎


の3名です。

2004年度の刷新に続いて、五千円札に女性を起用していますね。

しかしながら、この名前を聞いて、津田梅子や北里柴三郎はなんとなく

「ああ、あの人ね.....」

とイメージできても、渋沢栄一のイメージは、なかなかしにくいのではないでしょうか。

渋沢栄一とは一言で言うならば
「日本の近代ベンチャー企業の礎を作った人」
と言えると私は思います。


1、クーデター計画から幕臣への転身

渋沢栄一は西暦1840年(天保十一年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の豪農・渋沢家の長男として生まれました。

21歳の時に江戸に出て、学問を学ぶ傍ら、勤王志士と交わったことがキッカケで尊王攘夷にかぶれてしまい、従兄の渋沢成一郎と共に高崎城を乗っ取って、横浜を焼き討ちにし、長州と連携して幕府を倒すという荒唐無稽な計画をたてています(もちろんこれは実行には移されませんでした)。

この計画が一族に累が及ぶことを恐れた渋沢家は、栄一を勘当し京都に放逐します。しかし、ここで旧知の水戸藩士・平岡円四郎の推挙を受け、一橋徳川家当主・一橋慶喜に仕えることになります。そして慶喜が徳川幕府十五代将軍になると、自動的に幕臣の一人となるのです。

栄一が幕臣として表舞台に立つのは、西暦1867年(慶応三年)に行われたパリ万国博覧会で、将軍名代として出席した徳川昭武(清水徳川家当主/慶喜の異母弟)の随員として選ばれた時でした。

栄一は、昭武に従ってヨーロッパ各国を歴訪し、西欧各地で先進的な産業や軍備を見たことで、日本が大きく立ち遅れていることを痛感します。

一方、その頃の日本は、西暦1867年(慶応四年)1月に慶喜が大政を朝廷に奉還したため、徳川幕府はその社会的地位を失い、急ごしらえの明治新政府が設立され、同年3月、それに反抗する旧幕府勢力との間に戦争が勃発していました(戊辰戦争)。



2、幕臣から官僚。そして実業家へ

徳川昭武らは明治新政府より帰国を命じられたものの、慶喜から「聞く必要はない」と言われたため、帰国要請を無視して外遊を続行。

しかし、5月に正式に帰国命令が下され、昭武の兄で水戸藩主の徳川慶篤の死去の報も届き、同年11月、日本に帰国します。

栄一は慶喜の元に戻るものの、慶喜より「自分の道を進め」と言われ、西暦1869年(明治二年)10月、明治新政府の大蔵省に入省。官僚としての道を歩み始めます。

官僚時代の栄一は、国立銀行条例の立案に関わっており、これが彼の後の人生に大きく影響しています。
しかし、急造の明治新政府では、各省における政府内部の予算の取り合いが生じ、それを逆恨みした人事の追い落としなどが生じ、栄一はこれに巻き込まれて、西暦1873年(明治六年)に大蔵省を辞職します。以後、彼は二度と国政の要職につくことはしませんでした。

野に下った栄一は、辞職前年西暦1872年(明治五年)に、当時両替商として大きな力を持っていた三井組小野組が設立した「三井小野組合銀行」を、日本最初の株式会社「国立第一銀行」(現:みずほ銀行)として改組することに成功。また同年、輸入に頼っていた洋紙の国産化を目的とした抄紙会社(現:王子製紙)を設立しています。

国立第一銀行は、三井、小野両名が頭取を務め、栄一は総監役でしたが、西暦1874年(明治七年)11月に小野組が破綻し、三井が独自に銀行設立を企んでいたことから、西暦1875年(明治八年)8月、栄一が頭取に就任しました。

また同年には、森有礼が設立した商法講習所(現:一橋大学)に資金援助を行った後、商工業者による横のつながりの形成を目的とした東京商法会議所(現:東京商工会議所)を西暦1878年(明治十一年)3月に設立。

その後、栄一は実業家、投資家としての腕を存分に振るうようになります。
彼が設立に関わった会社の一部を抜き出すと下記の通りです。

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1882年(明治十五年):藤田伝三郎・松本重太郎と共に大阪紡績株式会社(現:東洋紡績)を設立。

1888年(明治二十一年):大倉喜八郎と共に、外国人の接遇所を兼ねた国を代表する大型ホテルの運営会社として有限責任東京ホテル会社(現:帝国ホテル)を設立。

1878年(明治十一年):有力者95名と共に東京株式取引所(現:東京証券取引所)を設立。

1879年(明治十二年):岩崎弥太郎以下三菱関係者と共に、日本初の保険会社東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)を設立。

1885年(明治十八年):浅野総一郎らと共に東京瓦斯会社(現:東京ガス)を設立。

1887年(明治二十年):大倉喜八郎、浅野総一郎らと共に札幌麦酒株式会社(現:サッポロビールホールディングス)を設立。

1896年(明治二十九年):砂糖の製造加工を目的とした日本精糖株式会社(現:大日本明治製糖)を設立。代表取締役に就任。

1906年(明治三十九年):実業家グループと共に大阪と京都を結ぶ電気鉄道を建設する目的で京阪電気鉄道株式会社を設立。

1906年(明治三十九年):小川䤡吉、相馬半治と共に、台湾での粗糖製造を目的とした明治製糖株式会社(現:大日本明治製糖)を設立。
    
1918年(大正七年):東京府荏原郡(目黒区、品川区、大田区)の開発を目的とした田園都市株式会社(現:東急電鉄、東急不動産)を設立。

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彼が設立に関わった会社の多くは形を変えながらも現在も脈々と続いていると共に、今の社会になくてはならない存在になっているところがポイントかと思います。

これすなわち、日本の近代ベンチャーの走りとも言える存在だと言えるのではないでしょうか。


3、栄一の社会貢献活動

栄一は実業で得た資金を社会全体のために惜しみなく投じており、東京慈恵会、日本赤十字社、ハンセン病予防協会の設立などに携わっただけでなく、大倉商業学校(現:東京経済大学)学校法人国士舘、女子教育奨励会を設立にも関わっています。

これらは、栄一が幼少期に学んだ『論語』の影響が強く出ているようです。

栄一の信条は

「倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説く」

にあります。

これすなわち、稲盛和夫氏の

「物事はすべからく原理原則に従う」
「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」


に通じるものがあると思いました。



4、財閥解体
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)が占領政策として財閥解体を実施し、昭和21年(1946年)12月に持株会社指定委員会から指定を受けた十五大財閥の1つに、渋沢栄一により設立された渋沢同族株式会社も「財閥」と見なされました。

栄一は日本の近代化のため、社会に必要な産業を担う新たな企業を起こし、それを軌道に乗せることを主命としており、自身の規模と営利の追求をしておりませんでした。しかし、保有する株式により資産が増加することを憂いた栄一は、晩年、渋沢同族株式会社を設立し、一族が保有している関係会社の株式を同社に集め、一族には同社の株式を渡していました。

また渋沢同族株式会社が保有する関係各社の保有株式率は全て30%を割っており他の財閥が過半数の株式を保有するのとは全く異なる構図を持っていました。

これがGHQの再調査で明らかになり、渋沢同族株式会社は、グループ関係各社に対する支配力が存在しないことから、財閥の持株会社に相当せず、GHQは同社に指定解除を願い出る様に通知しました。

ところが、当時の渋沢家当主で渋沢同族株式会社社長の渋沢敬三(のちのKDDI初代社長)は、戦中戦後にかけて、自身が日本銀行総裁、戦後直後には大蔵大臣として日本の金融財政等の経済政策運営に係わってきた当事者である事実は動かし難く、その点から見てもGHQからの財閥指定解除の願いについて、「それでは世間が承知しない」と言い、財閥には当たらない持株会社ながら、粛々と財閥指定を受けることになりました。

渋沢一族および渋沢同族株式会社が、近代日本のために行ってきた総決算がここにあるのではないかとつくづく思います。


この度、新たな一万円札の肖像画として選ばれた渋沢栄一。
今回の肖像の起用で、彼の成したことの一部でも人々の中に伝われば良いと思っております。
posted by さんたま at 17:52| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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