驚いた平家は御座船に移って逃走を図りますが、源氏がわずか100騎程度であることを知った平家一門の棟梁・平宗盛は、平教経(能登守)を遣わして、源氏の軍勢と戦うことを命じます。
教経は宗盛の期待に応え、見事、義経の郎党・佐藤三郎兵衛(継信)を矢で射抜きました。
また、平家が屋島に築いた里内裏に火をかけてこれを焼失させ、平家の士気を大きく下げました。
佐藤継信は源氏の本陣に抱え込まれたものの、手当のしようがなく、そのまま絶命してしまいます。
継信が絶命していた頃、四国各地の源氏に味方する武士たちが義経の上陸を知り、我も我もと合力し始め、屋島に集まった源氏の勢力はすでに300騎を超えるものになっていました。
しかし、義経は継信を失ったことでやや気鬱になり、継信が絶命したあとは、再び出陣することができなくなっていました。
奥州を出立して以降、ずっと付き従っていた郎党の初の欠落に、戦う気力を欠きかけていました。
戦う気力を失いつつあったのは平家側も同じでした。
頼みの綱であった平教経は下男・菊王丸を失ったショックで戦意を喪失し、苦労した屋島の里内裏は焼失。宗盛は彦島砦にいる知盛に合わす顔がありませんでした。
「平家の命運、ここに尽きたか.....」
二位尼(平時子)が御座船の中でそう呟くと
「いえ。我らが平家の主力部隊は彦島にいる知盛の部隊です。ここにいるのは主力のおよそ六分の一。また河野征伐に出かけた田口の軍勢も間もなく駆けつけてくるでしょう。まだ終わりませぬ」
宗盛はそう言いますが、女房たちの顔には生気がありませんでした。
「宗盛。お前の言い分や理屈はよくわかる。じゃが、もはや私には神仏のご加護が平家にあるとは思えぬ」
「何を仰せられます!我らは主上を、ミカドを擁し奉っておるのですぞ?この世の主は我が平家の手中。これに過ぎたる武器がございましょうか」
「では、平家に神仏の加護があることを、我らに示してたもれ」
「は?」
「まだ我らに神仏の加護があることを信じさせてくれるものを見せてくれ」
「それは......」
宗盛は言葉に詰まりました。
「すまぬ。無理な相談じゃな......」
二位尼はポツリ独り言のよう言いましたが
「いや......我らにご加護があるかどうかはわかりませぬが、試すことはできまする」
宗盛は自信たっぷりに二位尼に断言しました。
やがて日が暮れ始め、これ以上の戦いは難しくなると、義経は郎党たちを通じて「陣に戻れ」と帰陣を命じました。
ところが、帰陣の命令を出しているにもかかわらず、郎党や御家人が戻ってくる気配はありませんでした。
それどころか、海岸あたりが騒がしくなり、さすがの義経も何が起きているのか気になり始めました。
(何をしてるのだろう......)
義経は陣の外に出て、海岸に出向きました。
すると、平家の女官らしい者が乗った一層の小舟が海に浮かんでいました。
女官は船に1つの扇を掲げ、陸地の源氏に手招きしていたのです。
「あ、御大将」
最初に義経に気づいたのは弁慶でした。
「あれは、なんだ?」
「さあ.....?」
弁慶も首をかしげて見当もつかないという仕草で応えます。
「言うならば、平家から源氏への挑戦というところでしょうか」
弁慶の隣にいた後藤実基が答えました。
「挑戦?」
「さよう。あの扇を射抜いてみよ?と言う問いかけではないかと」
「なんのために、そのようなことを」
「それはわかり申さぬ。しかし、これは平家からの挑戦とも受け取れまする。受けざれば源氏の名折れは必定と存じまする」
実基の進言に、腕組みをする義経でしたが
「しかし、あれを射抜けるものが我が手勢におるのか?」
と実基に尋ねると
「たしか......下野国那須郡の住人・那須十郎が弓の名手と聞いておりまするが」
「では三郎(実基)殿、其の者を我が陣に連れてまいられよ」
実基は那須十郎を軍勢の中から探し出し、義経の前に連れてきました。
十郎は二十代後半の凛々しく精悍な出立の若武者でしたが、右の腕に大きな刀傷を負っており、郎党の介添が必要なほどでした。
「その腕はいかがした?」
義経は十郎の姿を見るなり、その腕の傷を気遣いました。
「今日の戦いで不覚を取りまして.....」
「三郎殿、この腕では弓はとれまい。誰か他の者はおらぬか?」
「恐れながら、言上仕ります」
十郎が控えながら申し上げると
「なんじゃ?」
「ここに控えておりまする与一は我が弟にて、我とは比べものにならぬ弓の腕前を持っておりまする」
「何?そなたは十郎の弟か?」
てっきり郎党かと思っていた義経は介添え役の者をまじまじと見ました。
与一と呼ばれた介添えの者は顔を見られまいと頭を低くしました。
「これ、御大将にご挨拶せぬか」
十郎が与一と言う者を叱りつけると。
「お初にお目にかかります。那須十郎が弟、与一宗高と申しまする」
「そちはいくつじゃ?」
「二十になったばかりでございまする」
「十郎に劣らぬ弓の腕前というのは誠か?」
「滅相もない。兄の腕前に遠く及びませぬ」
与一は一度も頭を上げることなく、義経の問いに答えました。
義経は十郎にむきなおり
「十郎に尋ねる。与一の腕前はいかほどじゃ」
「私と飛ぶ鳥を射落とす競争で、三羽のうち、二羽は必ず仕留めまする」
「おお......」
実基をはじめ、義経の郎等から感嘆の声が上がりました。
義経は大いに感心し
「そなた、兄の名代として、あの小舟の扇を見事射抜いてみよ」
と平家の小舟を指差しました。
さすがの与一も頭をあげ、義経の指の先にある小舟と扇を見ると
「恐れながら申し上げまする。私の腕前では射抜けるかもしれませぬが、確実ではございませぬ。ここは源平の名誉の場、確実に射抜ける者にお命じあるべきかと存じまする」
「馬鹿者!御大将のご命令であるぞ。控えよ!」
十郎が与一を叱責すると
「十郎の申す通りじゃ。我はこの軍の大将である。我の命令に従わぬ者は、鎌倉殿の命に従わぬことと同じことぞ。それでも拒むか?」
義経の言葉には荒々しさはありませんでしたが、有無を言わさない、拒否を許さない怒気を与一は感じました。
「ご命令とあれば、是非もなく」
与一は観念して、義経の命令に従いました。
一方、平家の御座船では、宗盛が二位尼にあの小舟を見ながら語りかけていました。
「よろしいですかな。母上。あの小舟の竿に乗っている扇、今、源氏に向かって、これを射落してみよと煽っておりまする」
「なんのためにじゃ」
「母上が申したのではありませぬか。平家に神仏の加護があるかどうかを見せてくれと」
宗盛の言い分に二位尼は首を傾げました。
「もはや日没は近く、あたりはどんどん暗くなります。我らの挑戦を源氏が躊躇すればするほど、状況は不利になるばかり。しかしながら、こちらの挑戦を受けなければ源氏は武士の物笑いでございましょう」
二位尼は宗盛の説明でようやく理解ができたようでした。
「仮に源氏が我らの挑戦を受けたとして、この暗さであんな小さい扇の的を弓矢で射落としたならば、それこそ神のご加護がなければ成し得ないものと私は思います」
「確かに」
「しかし我が平家に神仏の加護があれば、扇の的はそのままのはずです。」
「なるほど......」
二位尼は完全に飲み込めたものの、事の顛末がどのようになるのか、不安で仕方がありませんでした。
与一は十郎を連れて陣所に戻ると、自分の弓を従えて馬を引き、義経の陣所前で一礼すると、愛馬に跨って岸で弓を構えようとしました。
岸から平家の小舟までおよそ90メートル前後。与一は確実に射抜くため、距離を縮めることを考え、馬を海に乗り入れました。
西暦1185年2月(元暦二年)2月18日の午後6時頃、北風がやや激しく、平家の小舟は上下に揺れ、それに伴って扇も揺れていました。
(こんな条件の中で、あんな小さい扇を射ぬけとか、御大将も無茶を言いなさる.....)
与一の心境はさざ波のように荒れてました。
的の大きさ、距離などを考慮しても、与一の腕前ならば射抜けないものではありません。
しかし、的は小舟の竿の上、波に揺られて上下に動きます。鳥ならその飛行の先を読んで矢を放てますが波はなかなか読めません。おまけに日没が近く、周辺が暗くなるのも時間の問題でした。
(もたもたしてるわけにはいかぬ)
そう思った与一は、目を閉じ
「南無八幡大菩薩。並びに我が下野国の守護神・日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神よ。願わくば、我にあの扇の真ん中を射させ給え。もしこれを射損じるものならば、弓を切り折り、自害して相果てまする。もう一度、我を国へ帰したいとお思いならば、この矢を決して外させることのないように......」
と祈念して目を開けると、一瞬だけ北風が止み、無風状態になりました。
その瞬間を逃さない与一ではありませんでした。
すかさず鏑矢を矢に番えて、ひきしぼったかと思えば、溜めもなく速射。
放たれた鏑矢は岸まで聞こえる大音を放ちながら、扇めがけて直進し、見事扇の根元を貫きました。
貫かれた扇は上下に回転しながら竿の上空を舞い、しばらくして、そのまま海に落ちました。
「おおおおお!」
これを見た平家の武士たちは船端を叩いて感嘆し、岸の源氏側は鎧や武具を叩いて、与一の腕を褒め称えました。
そして平家方では、扇が掲げてあった竿の小舟に乗り移った一人の老兵が、竿の近くで舞い始めました。
与一は役目を果たしたと一息つくと、馬を岸に返そうとしました。
しかし、自分に近付いてくる馬があることを確認すると、その場に止まりました。馬に乗っているのは義経の郎党・伊勢義盛でした。
「ご命令じゃ。あの老兵も討ち取れ」
義盛が与一にそう言いました。
与一は気乗りしない様子でしたが、命令では是非もなし。
背から一本の矢をつがいで、老兵の首を狙って見事射落としました。
「何をするか!!!」
これに怒った平家の武士達数人が船を岸につけ、源氏の陣を攻撃しようとしたため、源氏側も五騎ほどを繰り出して再び小競り合いが生じました。そのうち、我も我もと上陸して、およそ二百人前後の合戦へと発展しますが、完全に日没となったため、双方、陣に戻りました。
御座船から「扇の的」の一部の始終を見ていた宗盛は
「まさか、あの的を射落すとは......」
と驚きしかありませんでした。しかし二位尼は
「これにてスッキリしました。」
と言って、宗盛に笑みを浮かべると
「我が平家の頼みとするのは我が力のみ」
とだけ言って、安徳帝の元に戻って行かれました。
二位尼は、平家に神仏の加護があれば、どんな苦境でもそれを頼りに生きていけると考えていました。
しかし、扇の的によって、神仏の加護は源氏に付いていることがわかると、もはや神仏の加護をあてにするのではなく、我らのみの力で事態を切り開くしかないと改めて悟ったのでした。
ただし、二位尼は全ての希望を捨てた訳ではありません。
平家が再び神仏の加護を受けることもあるかもしれない。それには我が力を以ってどこまでやれるのかを神仏に見せるしかないと考えていたのです。
その日の夜、義経軍はほぼ全員が死んだように眠りました。
義経軍は阿波勝浦に上陸し、平家方の桜庭良遠の居城・本庄城を攻めた後、徹夜で行軍し、屋島の合戦に突入したため、ほぼ休む暇がなかったのです。
一方で、平家の御座船では平教経を大将として、手勢五百騎で夜討をかけようと計画していましたが、平盛嗣と海老盛方が先陣争いをしてまとまらず、結局夜討は中止となりました。
この時、夜討をかけていれば、義経軍は総崩れになったことは間違いなかったでしょう。
(つづく)