それは、去る2月1日、源範頼率いる平家追討軍の本軍が九州豊後国(大分)に上陸し、平家方の太宰大弐・原田種直を打ち破って、筑前、豊前、豊後を源氏の勢力下とすることに成功したことと無関係ではなかったでしょう。
義経軍が急ぎ四国へ向かう主たる目的は、四国屋島に駐屯する平家の本陣を牽制し、範頼軍の九州渡海を成功させることでした。
それがすでに叶った今、義経の目的は、平家の勢力が九州に向けられている隙をついて、平家の本拠・屋島を急襲する作戦に変わっていきました。
そんな中、京都より大蔵卿・高階泰経が摂津渡邊津にやってきました。
範頼軍が九州上陸を果たしたことが院庁に届き、後白河法皇の知るところとなったため、義経に京都帰還の命令が出されたためです。
「一度出された院宣を反故にされると仰せられるのか」
と泰経に凄む義経でしたが、泰経は
「そうではない。御上(法皇)としては、三河殿(範頼)の九州上陸が成った今、判官殿(義経)がわざわざ出向くこともあるまいと仰せである。そなたは京都守護が職務。平家攻めは名代を立てたらいかがじゃ?」
と薦めたため、義経は
「お言葉ながら、私はこの出陣に自分の命を賭けております。御上のため、また主上(天皇)のため、一刻も早く三種の神器を取り戻し、朝廷をを安らかしめることは我が兄・鎌倉殿の悲願でもあります。それをここにきてまた京都に戻れとは承服できませぬ!」
と憤り、泰経を丁重に京都に戻してしまいました。
(こうなっては、もう時がない、一刻も早く四国へ渡らねば)
この時の義経の水軍調略状況は、摂津の渡邊党と伊予の河野水軍の味方には成功しつつも、紀伊の熊野水軍との調略がまだ整っておりませんでした。しかし、これ以上ここに止まれば、再びまた法皇の使いがやってくることは明らかでした。
そんな中、範頼軍に参陣していた梶原景時(侍所所司)が義経軍に合流してきました。
早速、景時が義経に目通りすると
「三河殿のご命令により、判官殿の戦目付として遣わされました」
と挨拶すると
「お役目大義に存ずる」
と義経はその労をねぎらいました。
「して、状況はどのように」
景時は早速義経に出撃準備状況を尋ねました。
「目下、水軍の調略と渡海準備を進めておりますが、紀伊水軍の約定が取り付けておりませぬ。しかし、摂津渡邊党の協力もあり、明日には四国へ渡海しようと考えております」
「それは祝着」
「阿波では伊予の河野道信殿にご助力頂けることになっております」
河野道信は、伊予国河野郷(愛媛県北条市あたり)の国衙(朝廷の役所)の役人でしたが、頼朝の挙兵に呼応して平維盛の代官を追放して伊予国を手中に収め、反平家勢力の筆頭勢力となっていました。
その後、平家都落ちによる平家の反撃を受けて、父・通清が死亡。勢力も瓦解するものの豊後、伊予両国て局地的な戦いを続け、この頃には伊予国喜多郡(大洲市)に水軍を主とした勢力を築いていました。
「これでは指南役のやることがありませんな」
景時は笑いながらそう言うと
「戦目付の本領は戦が始まってからでござろう。それまではゆるりとお休みなされませ」
と義経も笑って、景時をもてなしました。
ところが翌16日になると、強風の荒天となり、船を出すには難しい天候になってしまいました。
その上、軍議では、義経は強行渡海しようとしますが、景時がそれを制止するという対立構図になってしまいます。
「強風の荒天だからこそ、敵の意表をつくことができるのです。今、渡海することこそ好機!」
「何をお考えか!こんな荒波に船を出したところで、何艘が無事に対岸までたどり着けるかもわかりませぬ!」
「何艘でも構わぬ!無事にたどり着いた船だけで戦えば良い。後は河野殿が助けてくれる」
「総大将の身に何かあったら、軍勢は統率を欠きます。統率を欠いた軍は敵の的になるだけでござる!」
「私の身に何かあったなら、平三殿(景時)が指揮を執れば良いではないか!」
「これはまたご無体な.......」
このような調子で議論は全く進みませんでした。
景時の説得を諦めた義経は、景時を無視して船を出そうとしましたが、今度は船を操る船乗りからも猛反対を受けます。
考えに考えた末、義経は武蔵坊弁慶、伊勢義盛、佐藤継信・忠信兄弟を自分の陣に呼び寄せました。
「よいか。今から我らのみで海を渡る」
こう切り出した義経は
「弁慶と三郎(義盛)、お前たちは食い物と酒を船の中に入れ、船頭たち4−5人集めてその苦労を労え」
「継信と忠信は、その隙に馬と兵を船に乗せろ」
と郎党に命令すると、それぞれ任務につくため、陣から退出しました。
16日夜、弁慶、義盛、継信、忠信の4人は義経の命令通りに実行し、五艘の船に食料と兵と馬を乗り込ませることに成功します。
弁慶と三郎に酒と食物でもてなされている船乗りたちは、船の中で何が起きてるのかさっぱりわかりませんでしたが、準備が一通り済んだところで義経が登場すると、全員平伏してこれを迎えました。
「その方ども、役目大義。これより船を出してもらいたい」
義経がそう言うと、船乗りの一人が
「御大将に申し上げまする。昼間にも申し上げましたが、この風の強さでは船を出すことはできませぬ」
と申し上げました。すると義経は
「風向きは追い風じゃ、できぬはずがあるまい」
と反論しますが
「確かに順風じゃが、この強さでは満足に操れませぬ。船が遭難します。」
と船乗りが申しました。義経はその船乗りの前まで歩み、膝をつくと
「良いか。山野で死ぬも、波に飲まれて死ぬも、これ全て前世の報いじゃ。今吹いている風が向かい風なら、世の常に逆ろうているだろうが、今吹いいているのは追い風じゃ。であれば難破遭難の危険は低い。仮にそれで死んだとしてもそれは前世の報いと思えば諦めもつくまい」
と諭すように言いましたが
「そんな殺生な......」
と船乗りが震えながら言上すると
「それとも......ここで我らの手によって殺されたいのか?」
と殺気の籠った低い声でささやかれると、船乗りの声が一気に
「ヒェッッッ!!!!」と感高い声に変わって、足をするようにして早足で後ずさりすると、他の船乗りたちも驚いて、義経に目を向けました。
義経は付いていた膝をあげ、立ち上がると
「伊勢三郎、佐藤継信」
と名を呼び、両人が「ハッ」と声をあげて、膝をつくと
「是非もなし、こやつらを射殺せ」
と命じました。
「何卒、何卒、お助けを。御慈悲を.....」
五人の船乗りは再び平伏して許しを乞いましたが、義経は目も合わせませんでした。
義盛と継信は一瞬、固張り、互いに横目で見合わせましたが、「ハッ」と畏ると、船乗りたちに向き直ると、持っていた弓に矢をつがえました。
「その方たちに申す。頼むから船を出してくれ。そうでなければ、お主たちをここで殺さねばならぬ」
継信は腹の底から懇願するような声で言いました。
「今ここで我らに射抜かれて死ぬのと、船を出して万が一助かる可能性にかけるのと、どっちが良いか、考えてみよ......」
義盛もそう言うと
「あいや、しばらく!しばらく!」
と先ほどの船乗りが両手をあげて、義盛と継信を制止しました。
それを見た両人は矢を弓から外しました。
「わかり申した。船は出しまする」
「おいおい」
別の船乗りが異議をあげると
「ここで弓矢で殺されるのも、船が難破して溺れ死ぬのも同じだ。だったら、あの方の仰るように、少しでも可能性のあるものに賭けた方がマシだろうよ」
先ほどの船乗りの言葉に他の船乗りも従わざる得ませんでした。
明けて2月17日丑の刻(午前1時頃)、渡辺津から5艘の船がゆっくりと出港しました。
義経は各自の船の先頭と末尾に篝火を焚かせて、他の船への目印にするように申しつたえ、一路、四国へ向けて移動したのです。
戦目付・梶原景時がこれを知ったのは、17日の明け方のことでした。
ここから義経と景時のすれ違いが生じていくことになります。
「吾妻鏡」によると義経たち一向は、17日卯の刻(午前6時頃)に阿波国椿浦(徳島県阿南市椿町?)に到着したとあります。
これを額面取り受け取れば、わずか5時間程度で到着したことになりますが、果たして真偽のほどは定かならず。
椿浦にはすでに赤い旗(平家旗)がはためいていたため、義経は陸に船を横付けすることはしませんでした。
馬の足がつく深さまで岸に近づき、そこから馬を下ろして北に向けて駆けさせ、無事陸地に上陸することができたのです。
その数50騎100兵。
椿浦を守っていた平家駐屯軍100騎が義経たちに追いついた頃には、義経軍はすでに反撃の体制を整えて勢ぞろいしていました。
義経軍の中から1人の騎馬武者が平家駐屯軍に向けて駆けてくるのを見た駐屯軍の大将は
「攻撃してはならぬ」
と配下の騎兵にそう伝えると、道を開けるような手振りをし、自ら馬を騎馬武者に近づけました。
騎馬武者は駐屯軍大将と一定の距離を取ると、
「それがし、源判官義経が郎党・伊勢三郎(義盛)と申す」
と名乗ったので、駐屯軍大将も
「それがしは阿波国板野郡の住人・近藤親家と申す」
と名乗り返しました。
義盛は、続けて
「我が御大将が、近藤殿にお聞きしたいことあり、我らにご同道あるべし」
と言うと、親家は「はっはっは」と笑いをあげて
「我は平家の武士でござる。源氏の御曹司が望んだからとて、はいそうですか、とノコノコ参上する義理はござらん」
と答えると
「ならば、致し方なし」
と三郎が太刀を抜くと、
「おうよ」
と親家も太刀を抜き、互いに太刀を重ね合わせました。
一合、二合、三合、義盛の攻撃は親家に防がれ、親家の攻撃は義盛に防がれるという感じで、ともに隙がなく、互角の戦いが続きました。
しかし、親家の太刀筋が少しずつ鈍り始め、義盛の斬撃に対して防ぐことが厳しくなり、ついに親家は義盛に太刀を飛ばされてしまいます。
親家が太刀を拾おうとした時、義盛の太刀が親家の首筋に近づけられていました。
「御同道いただけますかな」
義盛の物言いに観念した親家は、太刀を拾おうとした手を引き、義盛にしたがって義経の元に同道しました。
義盛に連れられた親家に対し、
「よう参ったの。九郎義経じゃ」
と義経はいきなり名乗りました。
親家は着座して、平伏すると
「阿波国板野郡の住人・近藤親家と申します」
と名乗りました。
「その方に聞きたいことがある」
「はっ。それがしにお答えられることであれば」
「ここはなんという場所じゃ」
「阿波国の勝浦と申しまする」
「ほう。これは縁起がいい。四国の平家を退治しに来た義経が上陸したところが勝浦とは」
と言って、義経は笑いました。
「近藤殿。我らはこれから屋島を目指す。しかし、目の前の敵と戦っている最中に後ろから平家の矢を受けたくはない。この辺りで平家に通じている有力な武士は誰であろうか?」
「さすれば......田口成良の弟・桜庭良遠がそれになるかと」
「ほう。その者は何者じゃ」
「田口成良は、讃岐国(香川県)の有力な平家武士にござる。その弟である桜庭良遠は阿波国勝浦郷、すなわちこの地に勢力を張る存在にござりまする」
「ふむ.....そうか。じゃが1つ腑に落ちぬことがある。そこ許も平家武士であろう。なぜ同胞を売るような真似をする?」
義経の問いに親家はニヤリと笑うと
「お答え申し上げる。それがしの家と田口家とは因縁朝からぬ間柄がござる。我が近藤家は藤原師光、すなわち後白河院にお仕えした西光殿の一族で、院の力でこの阿波国の役人を務めております。田口家は亡き相国入道(平清盛)の信任厚く、平家の都落ち後、讃岐を平定してその経済力を維持させ申した。そして今では弟・桜庭良遠を通じて、この阿波国までその力を広げておりまする。
西光の一族であるがゆえに、平家に対して憎むことこれあり、されどこの土地でうまくやっていくには、桜庭と同調せねばなりませぬ」
西光とは、西暦1156年(保元元年)の保元の乱の後、院の実権を握った信西(藤原通憲)の乳母の子で、もともとは阿波国の在庁官人(役人)でした。
西暦1160年(平治元年)の平治の乱で信西の死後、院の実権を握り、後白河法皇の信任厚かったものの、藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀(鹿ケ谷の陰謀)に加わったため、五条西朱雀で斬首となった人物です。
「なるほど......では、そなたはもともと院にゆかりのある者か」
「ご賢察」
と言いながら親家は頭を下げました。
「あいわかった。近藤殿、我らは後白河院の院宣を以って、平家の本拠・屋島を攻める。そなたにはその道案内を務めて頂きたい。院にゆかりのあるそなたであれば、この議、異論ござらぬな?」
「院のご命令とあらば致し方なし、どうぞ御存分に」
「うむ。後のことは三郎(義盛)に任せる」
「ははっ」
こうして近藤親家が率いていた平家駐屯軍100騎は義経によって選別され、30騎が義経軍に編入されました。
親家の道案内により、義経は阿波国勝浦郡託羅郷(徳島市本庄町)にある桜庭良遠の居城・本庄城を急襲し、良遠本人は逃したものの、これを落城せしめました。
この城攻めはあくまでも後顧の憂いをなくすためのものでしたが、ここで義経は有益な情報を手に入れることになります。
それは、讃岐国を支配下においている田口成良(桜庭良遠の兄)が3,000騎を率いて、源氏に味方している伊予の河野通信討伐に出陣しており、屋島の平家軍は1,000騎余しかいないこと。またその1,000騎も屋島近郊の港などの警備に割かれていて、本陣は手薄になっているということでした。
(これは天の配剤か!!)
義経がそう思ったのも間違いではないでしょう。
この後、義経は、一気に屋島に向けて強行進軍を開始したのでした。
次回、屋島の合戦・本戦。