2018年12月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(105)-源氏、西国に橋頭堡を築く-

源範頼率いる平家追討軍は、西暦1184年(元暦元年)12月7日、備前国藤戸(岡山県倉敷市藤戸)で平家の先発隊を破って勝利をおさめ、周防国(山口県西部)に入国しました。

依然として瀬戸内海の制海権は平家にあり、水軍はもとより船の手配、食糧補給もままならない範頼軍は、京都や鎌倉に追加の補給を願い出ていました。そんな中、義兄・頼朝からの返書が、年が明けた西暦1185年(元暦二年)1月6日付で範頼の元に送られました。

そこには

「とにかく西国の武士と揉め事を起こすことなく、平家を追討することだけ考えよ」

というアドバイスにもなんにもならない内容が書かれていたものの「2月10日前後には船を手配して西国に送る」という内容も書かれており、追討軍に多少の明るさが戻ったことは間違いでしょう。

また、頼朝は範頼が九州の源氏勢力を統合し、平家に対抗する力となることを期待しつつ、同時に京都の治安維持に当たっている義経を四国へ派遣することも書状に書かれてありました。

時同じくして、同年1月8日、義経は後白河法皇に西国への出陣許可を求めていました。
これが頼朝の指図によるものかどうかはわかりません。

吉田経房(正三位権中納言)が記した「吉記」によると、法皇は義経の出陣願いに対し

「それは判官自身が出陣するのか?それともお主の郎党が出陣するのか?」

と尋ねられ、義経自身の出陣については即答で許可することができませんでした。それは先の平家残党による伊勢・近江反乱の首謀者である残りの一人・伊藤忠清が未だに京都に潜伏しており、捕縛されていなかったからです。

法皇としては、ここで義経に京都を離れられては安心できぬという心境でしょう。

しかし、義経は

「これより2、3ヶ月経過し、兄・範頼軍の食糧が尽き、京都に引き上げてきたならば、今、源氏に味方する在地豪族の連中は再び平家に味方することになります。それこそ一大事ではありませぬか?」

と院に迫っています。

ここで経房は

「御上(法皇様)、判官(義経)殿の申し状も一理あります。ここで判官殿ご自身が出陣せず、その郎党を遣わしたところで、追討の意味がありませぬ。ならば、今春のうちに判官殿に後出陣いただき、源氏・平氏の戦いに終止符を打っていただくのがもっとも良策であると考えまする」

と義経の出陣に賛意を示しています。
法皇は、この経房の意見に法皇はこれ以上の反論は無駄だと悟り、翌々日の1月10日、義経に西国への出陣を許可しました。


1月12日、九州への行軍を続けていた範頼の平家追討軍は、ついに九州との境である赤間関(山口県下関市)に到着しました。

追討軍はここで九州へ渡ろうとしますが、西国は平家の勢力下であり、ここには平家最強の武将・平知盛(清盛四男・平家最強の武将)彦島(山口県下関市の南端にある島)に砦を築いて、軍勢を駐屯させていました。

水軍も船も持たない追討軍は海を渡る方法もなく、かといって戦いを仕掛けてくる彦島の平家軍を駆除することもできず、進むことも退くこともできなくなっていました。有効な打開策もなく、兵士の食糧も尽き、完全に八方塞がりとなり、追討軍の士気はどんどん落ちていったのです。

彦島の平知盛は、惟を狙っていたので、範頼は完全に知盛の術中にはまったと言えましょう。

追討軍は8月に鎌倉を経ってすでに5ヶ月の長旅に飽き始めていました。
範頼に従っていた御家人の中にはこっそり鎌倉に帰ろうとする者もいましたが、その中には和田義盛(侍所別当)の姿もありました。

本来、御家人を監督する立場の侍所の長官である義盛ですら鎌倉に戻りたいと言い出す程の厭戦状況は、よっぽどであったと思われます。

そんな追討軍ではありましたが、周防国の豪族・宇佐那木上七遠隆が食糧の援助を申し出たり、豊後国(大分県)の豪族・緒方惟栄(豊後国大野郡緒方荘領主)とその弟である臼杵惟隆が、豊後の武士をまとめ上げ、82の軍船を率いて平家追討軍の援軍に加わるなど、少しずつ風向きが変わってきました。


1月26日、範頼率いる平家追討軍は、周防国の抑えに三浦義澄(相模国三浦郷の住人)を残し、周防国を出発。

「吾妻鏡」の記録によれば、翌2月1日、平家追討軍のうち、北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清実らが豊後国に上陸し、筑前国葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町あたりの湾港)にて、大宰権少弐(太宰府の副長官)を務める原田種直とその子・賀摩種益を攻撃しました。

原田種直と賀摩種益父子の弓矢の腕は凄まじく、これに下河辺行平、渋谷重国の両名が弓矢で応戦し、双方弓矢合戦となりましたが、行平が種直の弟・美気敦種を討ち取り、重国が種直を射抜き、初戦の勝利を飾りました。

これにより、筑前(福岡県北部)、豊前(大分県北部)、豊後(大分県南部)の三国は源氏の勢力下に置かれました。

これまで優位に戦いを進めていた彦島の平知盛は、正面の周防国に三浦義澄、背後の豊後国に平家追討軍総大将・源範頼に挟まれることになってしまい、源氏を釘付けにするための知盛の作戦が、逆に知盛を彦島に釘付けにする結果に変わってしまったのです。

これが、のちに屋島の戦いでの平家の敗因の1つとなってしまいます。

また同じ頃(2月)、後白河法皇より平家追討の命令を受けた義経は、摂津国、紀伊国、伊予国の水軍衆の調略に成功し、摂津国渡邊津(大阪府大阪市天満橋付近)に兵を集め、四国へ渡るタイミングを見計らっていました。


次回、いよいよ屋島の戦いです。。

(つづく)
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2018年12月09日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(104)-藤戸の戦い-

西暦1184年(元暦元年)12月某日、源範頼ら平家追討軍は備前国藤戸(岡山県倉敷市藤戸)まで進軍しましたが、屋島から出撃した平家迎撃軍に行く手を阻まれていました。

平家は児島(岡山県倉敷市児島)に砦を築いてそこにこもり、そこから軍船で岸辺まで進出して、海上から牽制攻撃を行っていました。しかし、源氏に船はなく、平家を迎え撃つことができません。

平家の牽制攻撃に怒りに震えた佐々木盛綱(佐々木秀義の三男)は、同月6日の夜、近所の漁村の漁師を買収し、馬で島に渡る方策はないか相談したところ、一人の漁師が「浅瀬を知っている」というので、その者を案内に立てて、盛綱は一人、その浅瀬に向かっていました。

半刻ほど行くと、

「ここだ」

と漁師が海を向いて指差しました。

「普通の海と変わらんぞ」

盛綱は不審がって言いました。

「じゃあ、俺についてきな」

と漁師が服を抜いて、海の中に入りました。
漁師は足から、膝、腰、胸、肩まで入ったところで、盛綱を手招きしたので、来ていた狩衣を抜いで盛綱も入りました。
海の水は肩まで浸かりましたが、しっかりと底に足が着いています。

「これは.....」

盛綱が驚くと、漁師はさらに奥に歩いて進んでいきます。
盛綱もそれに続き、ずっと底に足が着いているのを確認しました。

「この辺りはこの深さがずっと続いていて、あの島(早島?向山?)までは馬で渡れる。だが、これ以上進むと平家に見つかって、討ち死にされてしまう恐れがあるから、一旦引き上げた方がいい」

「うむ」

二人は海から岸へ向かって歩き始めました。

漁師は岸辺にあった漁師小屋に行き、火を起こして蒔をくべ、すぐに暖がとれる支度をテキパキとこなしました。
一方で盛綱は火にあたりながら、漁師小屋にあった布で体を拭くと、狩衣を身にまといました。

盛綱は岸から上がったあと、ずっと無言でいました。
それはあることを考えていたからでした。

「おぬし、漁師仲間を口説いて源氏に味方するように説き伏せられないか」

盛綱はそう言うと、漁師は「はぁ?」という怪訝な顔で答えました。

「俺たちはこの土地の漁師だ。西国は平家の領地だけれども、俺たちには源氏も平家も関係ねぇ。ただここで漁をして生活したいだけだ」

「そうか......そうだよな」

盛綱は思った通りの答えが出てきたことに苦笑しながら、その顔は悲壮に満ちていました。

「その方らは土地の漁師。源氏にも平家にもつかぬ。ということは、お主はこの情報を平家にも教える可能性がある」

「あんた......」

「すまぬが、この情報を敵に知られるわけにはいかんのだ.....」

「ひぇっ.....!!」

盛綱が放った殺気は、漁師に背を向けさせるのに十分でした。
しかし盛綱の方が動きは早かった。

盛綱は大きく一歩踏み込み、即座に刀を抜いてそのまま漁師の背を下から上に斬り上げました。
鮮血がシパッと跳ね、漁師の体が一瞬ぐらっと崩れると、今度は右から左に刀を走らせ漁師の首をスパッと刎ねたのです。

「......悪く思うな」

盛綱はそう言うと、その場を立ち去って刀の血を海の水で洗った後、自分の陣所に帰って行きました。


翌12月7日、平家は再び児島より軍船を出し、船より矢を放って源氏への牽制攻撃を行おうとしていました。

それを見た佐々木盛綱は自分の郎党七騎を率いて

「進めぇい!!」

と進軍の合図を送り、一目散に海に駆け込みました。
他の武士たちは、「おい、やめろ」「自滅する気か!」と声をかけましたが、盛綱は進軍を止めませんでした。
その姿は当然、総大将である範頼にも見え

「誰か佐々木殿を止めよ!!」

と命じられたので、土肥実平が承って馬を駆って盛綱に追いつきました。

「佐々木殿!待たれよ!!大将軍(範頼)の命令もなしに突き進むとは乱心されたか!留まられよ!」

実平の言葉を聞いていた盛綱は「はっはっは」と笑いし、

「我に続かれれば、理由(わけ)がわかり申す」

とだけ言って、そのまま海中への進軍を止めませんでした。

実平にとって大将軍である範頼の命令は絶対でしたので「止められませんでした」とは言えません。
やむえず、実平も盛綱に続いて馬を進めました。

海水は馬の足をすべて呑み込み、場合によっては深みに入って鞍まで浸かったこともありましたが、馬ごと沈むということはなく、むしろ島に近くにつれ、今度はどんどん浅くなっていきました。

「こ、これは.....」

実平の狼狽を見て盛綱はニヤリと笑うと、

「土肥次郎殿!御助勢感謝!」

とだけ言い放ち、さらに馬に鞭を入れて目の前の島に向けて進軍を進めました。

これを見ていた対岸の範頼は

「佐々木の三郎め......いつの間にあんな浅瀬を知り得たのじゃ」

と独り言のように言うと

「全軍!佐々木殿の後に続け!」

と総攻撃の下知を下されました。


驚いたのは平家です。
絶対不可侵領域であるはずの海に馬で渡れる浅瀬があろうとは、想像もしていませんでした。

浅瀬近くの軍船は急ぎ櫓を漕いで、戦線から離れようとし、船上では前にもまして弓矢をつがえましたが、ことごとく源氏の軍勢の船の侵入を許し、次々に討たれていきました。

源氏はついに児島の平家砦に上陸を果たしましたが、時すでに遅く、平家軍お主力はすでに島を捨て、屋島に撤退していました。
海は浅瀬で渡れても、瀬戸内海を馬で超えることは難しく、源氏は平家に追い討ちをかけることができなかったのです。

こうして、のちに「藤戸の戦い」と呼ばれた合戦は源氏の辛勝となりました。

一方で、大勝利のきっかけを作った佐々木盛綱には、「総大将・源範頼の命令違反」という罪が残されました。

しかし、同月26日付で頼朝から下記の感状が出されました。

「昔から今に至るまで、馬で川を渡る武士は数多いが、馬で海を渡るインド、中国はいざ知らず、我が国では極めて珍しいことである。盛綱の働きあっぱれである」

よって盛綱の命令違反の罪は帳消しとなり、逆に盛綱は恩賞として備前国児島の地を所領として充てがわれたのです。


源範頼率いる平家追討軍は、藤戸の戦いを経て、本来の目的である九州へ向けて軍勢を進めました。
しかし、鎌倉を経ってすでに4ヶ月がたち、範頼の元には諸所いろんな問題が積み上がってきていました。

1、兵糧の問題
2、水軍確保の問題


1については、瀬戸内海の制海権を平家に握られている以上、海路ならびに西国陸路における補給が満足に行き届いていませんでした。
2については、藤戸の戦いで追い討ちができなかったのと、来るべき屋島討伐のために、どうしても軍船が必要で、その確保がなかなか進みませんでした。

この頃、範頼はこれらの窮状を鎌倉に報告する文書を送っているようですが、それに対する頼朝の返事が「吾妻鏡」に残っています。
それは下記のような内容でした。


「風聞で物資が欠乏していると聞いたので、その手当が完了したという手紙を送ろうとしたら、お前の11月14日の手紙が、正月6日に到着した。

よってその返事をここに書く。

手紙の内容は承知した。

九州の御家人連中も平家の衰運はなんとなく感じているはずだから、それでも従わないのはお前に問題があるのだと思う。お前はこの頼朝の名代なのだから、もっと堂々と行動しろ。何事も落ち着いて対処し、現地の人達に憎まれるようなことをしてはならない。

追加で馬を送れとの件だが、戦に軍馬が必要なのは理解している。だが、平家も京都奪還を目指してそれなりに情報収集をしていることを考えると、戦場の大将に馬を送って、万が一平家に横取りでもされては本末転倒なので、鎌倉から送るのは難しい。

又、内藤盛家が周防国遠石庄(山口県周南市)を横領した事は驚いた。
しかし、地元の人達を怒らせるようなことをしてはならない。

今、屋島におわす安徳天皇や二位の尼(清盛未亡人・時子)や女房たち等を疎略なきようにお迎えを送ることを考えているが、それを公表すれば、二位殿などは、安徳天皇をお連れなされて、自決しかねないだろう。

御上への配慮は今に始まったことではないが、かつて木曾義仲は山の宮と鳥羽四宮を討ち奉ったので自滅した。
平家は、三條高倉宮(以仁王)を討ち奉ったので、今まさに自滅の道を歩んでいる。

そういうことなので、急がず良く考えて、敵を討ち洩らさないようにじっくりと計略を立てて、命令を出しなさい。

内府(清盛三男:平宗盛)は、臆病者なので、自害はしないだろう。生け捕りにして京都へ連行せよ。その事が世間の隅々まで伝われば良いことだ。

しかし、安徳天皇の身の上が心配だ。よってどんな手を使ってもいいから、うまくやりなさい。
他の武士たちにも、このことを良く言い含めるよ。団結を強めるため、懇切丁寧に説明せよ。

よいか。よくよく考え、九州の者共に憎まれないように振る舞うのだ。
関東武者の勢いだけで、九州の者共に頭ごなしに屋島の攻撃を急がせたりするな。

もう平家が弱体化したとはいえども、敵を侮るようなことは、絶対にあってはいけない。良く考えて、敵を討ち漏らすことの無いように、よくよく検討をして決定せよ。

なお、安徳天皇ことは、特に念を入れて、何事も無いように計らえ。

二月十日頃には、ある程度船を上洛させられると思う。

話は違うが、佐々木三郎盛綱が、九州へ下って行きたいと言うたので、遣わしたら備前の児島を攻め落としたらしいな。

何れにしても、慎重に考え、うまく軍隊を使うように心得よ。

侍たちにあ細かい指図をすると大将としての要を問われるぞ。

それと、お前、食料などが足りなくなって、京都などにあちこちに催促をしているらしいが、そんなものを要求しても意味ないと思うぞ。

鎌倉でも、時に変わったことはない。千葉介(千葉常胤)は、戦上手だからうまく使え。


九州の者共が降伏してくるようなことがあれば、丁重にもてなして、疎略なきようにしろ。

豊後(大分県)の船を調達できれば、たやすいことなので、もし船があれば自分たちで攻めて行くように地元の者共に伝えよ。(さっきも書いたが)関東からの船は二月十日ごろに出発できるように準備中だ。

今一度言う、九州の事は慎重に疎略なき指図を心がけよ。

しかし、東国の侍たちが帰りたがっているとは意外だったが、四ヶ月も鎌倉を離れれば、それもやむなしかな。

いろんな人がいろんなことを言うが、いちいち人の云うことなんか聞くことはない。本当に良いと思う方法を行うことが大事なのだ。

人の云うことなんか気にするな。所詮、大将と侍は背負ってる物が違う。

小山一族(長沼宗政と結城朝光)のことはくれぐれも宜しく。

私は思うが、これ以降に合戦に参加する者共は、今現在誰の領地や知行地だとかは気にするな。そんな事を考えていて、その者共が合戦の邪魔者になるのが面倒だ。

今は地元の人達をなだめすかしてでも旨くこの場だけでも気遣って、九州の武士たちに四國を攻めさせるのだ。

追伸:命令書を一枚送付したので、九州の地元の武士たちに披露しなさい。

そうそう、甲斐の武士たちの中の、いさわ殿(石和五郎/武田信光)、かがみ殿(秋山光朝/秋山氏の祖)は特に大事にせよ。かがみ殿は、次郎(小笠原長清/小笠原氏の祖)の兄だが、平家についたり、木曾義仲についたりした者なので、所領などを与える必要はない。弟の次郎殿だけを大事にせよ」



この前の範頼の書状の内容がどういうものかこの内容から類推するしかないのですが、まぁ、いわゆる「愚痴」を書き送ったものと思われます。それにしても頼朝の弟に対する気遣いが随所に現れている返書だと思います。

そして、この時、つけていた命令書が以下の通りです。


「九州地方の武士たちへ

可及的に速やかに鎌倉殿(頼朝)の御家人となって本領を安堵され、三河守(範頼)の命令に従って、力を合わせて、朝敵となった平家を滅ぼせ。

右(上記)のとおり、九州の武士たちに命令して、朝廷の敵を退治するように、後白河法皇の命令書が出されています。これによって鎌倉殿の代官として二人が京都へ上り、三河守(範頼)は九州へ行き、源九郎義經(義経)は四国へ派遣され流ことになった。

これにより、四国にある平家の部下、また九州へ着いた(逃れた?)としても、皆それぞれに後白河法皇の命令で動く三河守(範頼)の命令に従って、力を合わせ、朝敵退治するように命じる。

九州の朝廷へ着いた兵隊たちは、これに速やかに従い手柄を立てよ。

以上を命令する。

元暦元年正月  前右兵衛佐源朝臣(頼朝)」



この頼朝の命令書には「義経を四国に遣わす予定」とあります。
この時の義経は、後白河法皇の命令により「従五位下 左近衛少尉 検非違使」の官職を賜っており、京都の治安維持を命じられていたため、頼朝は追討軍の大将から外していました。

しかし、ここで義経の名前が出たことから、頼朝の朝廷工作がなんらかの成果をあげ、結果、義経に出陣ができる様子が整ったと考えられます。

屋島の戦いまであと少しです。

(つづく)
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2018年12月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(103)-東国固めと平家討伐-

西暦1184年(元暦元年)7月7日、伊賀・伊勢国で勃発した平家残党の反乱は、7月21日、佐々木秀義(近江国蒲生郡佐々木荘領主)大内惟義(伊賀国守護)の連合軍により、首謀者の平家継が打ち取られて京都で晒し首にされ、また8月に入って源義経(頼朝異母弟)によりもう一人の首謀者・平信兼本人が討たれた結果、収束へと向かっていました。

しかし、3人の首謀者のうち、最後の一人である伊藤忠清の行方はわからず、後白河法皇は義経を左衛門少尉・検非違使に任じ、京都の治安維持を図ろうとしていました。

法皇が義経を京都の治安維持に任じるということは、当初頼朝が考えていた義経を平家追討使として起用することができなくなったということでした。ゆえにこの人事に頼朝は非常に不満を持ったと言われています。


西暦1184年(元暦元年)8月8日、頼朝は源範頼(頼朝異母弟)に追討使を命じ、屋島に向けて出陣を命じました。

「吾妻鏡」によるとこれに従う御家人は次の通りです。


北条小四郎(義時/伊豆国北条荘領主・北条時政嫡男/頼朝の義弟)

足利蔵人義兼(足利氏当主/河内源氏庶流)

武田兵衛尉有義(武田氏当主・武田信義三男/甲斐源氏)

千葉介常胤(千葉常胤/千葉氏当主)

境平次常秀(千葉常胤孫)

三浦介義澄(三浦義澄/三浦氏当主)

男平太義村(三浦義村/三浦義澄次男)

八田四郎武者朝家(八田知家/下野国茂木郡領主)

同男太郎朝重(小田知重/八田知家嫡男)

葛西三郎清重(下総国葛西御厨領主)

長沼五郎宗政(小山氏当主・小山政光三男)

結城七郎朝光(小山氏当主・小山政光四男)

籐内所朝宗(比企朝宗/源頼朝乳母・比企氏の一族)

比企籐四郎能員(比企氏当主/頼朝嫡男頼家乳母父)
  
阿曽沼四郎廣綱(藤姓足利氏庶流/下野国安蘇郡阿曽沼領主)

和田太郎義盛(三浦一族・和田氏当主/侍所別当)

同三郎宗實(和田宗実/和田義盛末弟)

同四郎義胤(和田義胤/和田義盛三弟)

大多和次郎義成(三浦一族・大多和氏当主)

安西三郎景益(安房国丸御厨領主)

同太郎明景(安西景益弟)

大河戸太郎廣行(大河戸氏当主)

同三郎(大河戸行元か?)

中條籐次家長(八田知家養子)

工藤一臈祐経(工藤氏当主/伊豆国伊東荘領主)

同三郎祐茂(宇佐美助茂/工藤祐経弟/伊豆国宇佐美荘領主)

天野籐内遠景(工藤氏庶流/一条忠頼を斬った人物)

小野寺太郎道綱(首藤一族/下野国都賀郡小野寺荘領主)

一品房昌寛(源頼朝右筆)   

土左房昌俊 (土佐坊昌俊/土肥実平家人)

これらを合わせて総兵3万あまりで出陣しています。

これら頼朝に使える鎌倉御家人の中でも選りすぐりの精鋭部隊といえるものでした。

追討軍は同年8月27日に京都に到着。29日に朝廷より追討使の官符(命令書)を受け取り、翌9月1日に西国に向けて京都を出発しています。


またこの出陣と合わせて、頼朝自身が上洛する動きをとっています。
九条兼実の日記「玉葉」の8月23日の項目には、

「聞くところによると、法皇は摂政(近衛基通)を頼朝の婿にするため、五条亭を修理しているらしい。頼朝上洛時に新妻を迎えるためらしいが」

とあることから、頼朝上洛の報はすでに院庁に届いていたと思われます。
(結果的にこの時の頼朝の上洛はなかったんですが.....)


一方で頼朝は、同年8月24日、自身の鎌倉政権において、新たな行政機関として「公文所」を立ち上げています。
公文所は鎌倉政権における行政書類の発給・管理等の行政処理を目的とした機関です。

公文所は8月24日に棟上げ、同月28日に門が設置され、10月6日に業務開始となっています。

公文所の別当(長官)は、京都からやってきた中原広元が務めました。
ここに詰める担当役人として中原親能(広元の兄)、二階堂行政(公家)、足立遠元(武蔵国足立郡領主)、中原秋家(一条忠頼家臣)、藤原邦通(判官代/頼朝の右筆)など主に京都からの文官が配置されています。

これは頼朝に政務経験が全くなかったことが影響しているのではないかと考えています。


また、公文所稼働開始の14日後の10月20日、新たに「問注所」が設置されています。
問注所は上がってきた訴訟を迅速・円滑に処理するための機関です。
この初代問注所の執事は三善康信(頼朝乳母の妹が母)が務めました。

侍所が御家人の統制と管理、公文所が行政処理、問注所が訴訟処理を司ることとなり、この時期、鎌倉政権は着実に地固めを進めていました。

それに加え、平家討伐への準備も同時並行もやってるわけですから、この時期の頼朝の多忙さはなかなかですね。
そんな中、自分の家族のこともちゃんと考えているのが頼朝さんです。

同年9月14日、京都の源義経の屋敷に河越重頼の娘・郷が、頼朝の命令を受け、義経と結婚するために上洛しています。
この結婚にはいろいろな説があるのですが、「吾妻鏡」によると「もともと約束されていた」結婚のようです。

河越重頼は、東国武士のエリート集団・坂東八平氏の筆頭・秩父氏の嫡流で、武蔵国入間郡河越荘の領主です。
また、「武蔵国留守所総検校職」という国内の軍事統率権を有する重要な職責をもち、武蔵国最大の軍事力を持っていました。

加えて重頼の妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)で、頼朝の嫡男・頼家の乳母でもあります。

つまり鎌倉政権を担う河内源氏棟梁の頼朝弟の義経と、政権を支える重要な御家人である河越氏との結婚は、頼朝にとっては河越氏を親類化することで鎌倉政権を固める重要な事項だったと私は考えています。。

頼朝としては、義経の無断任官を決して喜んでおりませんが、自らの軍事活動が「御上を安んじ奉る」ことを信条としている頼朝にとって、その官位を以って朝廷・院が安心できるのであれば認めないわけにはいきませんでした。

しかし、ここで河越重頼の娘を上洛させ、結婚させることは、義経に対し「お前の主人は俺だ」という意思表示だったのではないかとも考えられます。

また、義経の結婚がどう影響したのかはわかりませんが、この4日後の9月18日、朝廷(院?)は、義経を従五位下に叙しています。
こちらも義経を取り込もうとする法皇・朝廷の戦略の現れとするのは、少々穿った見方でしょうか?


去る9月12日、範頼率いる平家追討軍は播磨(兵庫県)に到着しました。

9月19日、頼朝は橘公業(元平知盛の家人・橘公長の子)に命じて、平家を離反した讃岐国の武士に向けて、九州に向かうことを命じています。これは追討軍が屋島を攻めた場合、平家の逃亡経路は九州であり、その退路を防ぐということもさながら、水軍の確保の目的もあったと思われます。

一方、範頼は淡路島の水軍攻略などに手を出していますが、水軍の調達はうまく行かず、10月12日には播磨から安芸(広島県)に向けて陸路で軍勢を進めています。

屋島の平家側はこれに対抗するため、軍船を張り出させて範頼軍の補給線を断つ作戦にでます。
平家側の武将は

小松中将資盛(小松家当主/平重盛次男)

小松少将有盛(小松家/平重盛四男)

丹後侍従忠房(小松家/平重盛六男)

飛騨三郎左衛門景経(藤原景経/平家譜代家臣)

越中次郎盛嗣(平盛嗣/平盛俊の子)

上総五郎兵衛忠光(藤原忠清の子)

悪七郎兵衛景清(藤原忠清の子/忠光弟)


らと500艘の軍船で対抗しました。

同年12月、平家追討軍は屋島から平家水軍が発したのを認めると、備前国西川尻藤戸(岡山県倉敷市藤戸)に陣を敷いて、これを迎え撃つことにしました。

しかし、源氏には水軍がないため、平家の元まで軍勢を進める方法がなく、源氏は山に登って野営をし、平家は船を出して

「源氏の芋侍、戦う気あるのか!」

と源氏を野次る毎日が続きます。

連日のヤジ攻撃に頭にきたのは、源氏方の佐々木盛綱(先の平家残党反乱で討ち死にした佐々木秀義の子)でした。

「おのれ!毎日毎日、言わせておけば!!」

怒った盛綱は密かに漁村に赴いて、漁師たちに純白の小袖や腹巻などを与えて漁民を買収し、情報を得ることにしたのです。

「このあたりの海辺で馬で渡れそうなところはないか?」

と聞き込みを行うと、そのうちの1人が

「村の人間が多いが、この辺りの地形まで知り尽くしたものはそうそういない。まぁ、この俺ぐらいだろうな。」

と言うので

「それはどこだ?」

と問い詰めると

「川で言うところの瀬みたいなところがあるだよ。ただ......こいつは動くんだよ」

「どういうことだ?」

「月初には東にあるだ。でも月末になると西に移ってしまう。」

「そんなバカな」

さすがの盛綱も呆れました。地面が動くとか言われても普通は信じることができません。
猟師はその盛綱の態度を見て

「信じないなら別にいいだよ。ただその瀬を通れば、あなた様の馬なら難なく渡れるだろうさ」

と言って、仕事に戻ろうとしました。
盛綱はしばらく考えましたが、他に手がない現状は変わりないため

「よし。お主を信じよう。その場所に案内してくれ」

と答えました。

仕事に戻ろうとしていた漁師は

「あいよ」

と答え、盛綱と共に、その瀬に向かって進んでいきました。

本来であれば、盛綱はこの情報を自陣に持ち帰り、総大将の範頼に報告し、指示を仰ぐべきでした。
しかし、盛綱は数ヶ月前に父・佐々木秀義を平家残党に殺されており、彼の行動は恨みによって引き起こされたものであると彼自身もわかっていなかったかもしれません。

しかし、これにより戦況は大きく変化していくのです

(つづく)
posted by さんたま at 22:49| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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