2018年09月23日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(99)-義高無残-

一の谷の合戦後、捕らわれの身であった三位中将・平重衡は、平家滅亡後に南都に引き渡され、斬首されましたが、この時、もう一人、鎌倉の世話になっていた平家の公卿がいました。

平清盛の弟・平頼盛(通称:池大納言)です。

頼盛は平家都落ちの際、平家棟梁・平宗盛の落ち度によって京都に留め置かれたため、後白河法皇に助けを求めていました。

法皇は頼盛が八条院の縁者(頼盛妻は八条院の女房)であったことから、八条院に頼盛を保護させていましたが、西暦1183年(寿永二年)10月、頼盛は京都を出奔し、同年11月6日、鎌倉に到着しています。これには何かしら院の密命を帯びていたのではないかと考えられています。

鎌倉の源頼朝は、平治の乱の際に自分の命を助けてくれた恩人である池禅尼(頼盛母)の恩を忘れず、頼盛を丁重に扱い、自分のブレーンの1人として側に置いておりました。

そして、西暦1184年(寿永三年)4月6日、頼朝は頼盛の旧領だった荘園33箇所を返還しています。
これは頼盛が頼朝政権に組み込まれ、なおかつ頼朝の朝廷工作の手駒として動いていた結果ではないかと言われています。

また、同年4月10日、京都の源義経からの飛脚が鎌倉に到着。
先月27日に朝廷より除目(任官の人事)が行われ、頼朝は正四位下に叙任されたことが書かれていました。

頼朝は昨年1183年(寿永二年)10月9日に従五位下に復位しており、わずか半年たらずで3位(従五位上、正五位下、正五位上)を超えての昇叙は、いかに後白河法皇が頼朝に期待をかけているのかの現れかと考えます。

そしてこの頃、頼朝の元には新たなブレーンが2人加わっております。

一人は三善康信(みよし やすのぶ)です。

康信の母は頼朝の乳母(比企尼)の妹という関係もあり、康信は流人時代の頼朝に京都の情勢を度々知らせていました。
その中には以仁王の挙兵大庭景親の動向などもあり、時には頼朝に「奥州へ逃げろ」とも伝えています。

一の谷の合戦を鎌倉軍の勝利で収めたことにより、京都は頼朝の支配下に入っていたため、頼朝は康信に鎌倉に来るように伝えていました。

西暦1184年(寿永三年)4月15日、頼朝が鶴岡八幡宮を詣でた際、八幡宮の廊下で康信と対面。以後、康信は頼朝の補佐官として鎌倉に詰めることになりました。

そしてもう一人は、中原広元(なかはらのひろもと)です。

広元は、このブログにも何回か登場した中原親能(義仲追討時、義経と共に上洛した頼朝の名代)の弟です。
ただ、広元の実父は大江維光で、実母が維光と離縁し、中原広季に再婚したため、中原家に養子に入ったと言われています。

広元は兄・親能にその才覚を認められ、親能の推挙により頼朝に仕えることになりました。
頼朝はこの1184年に、自らの家の家政機関として公文所を設置し、広元をその長官(別当)に任じます。

これが後に鎌倉幕府の政務機関「政所」になります。

広元は後に大江姓に復し「大江広元(おおえのひろもと)」を名乗っているため、歴史用語としてはこちらの方が有名です。

中原親能、三善康信、中原広元の三名は、頼朝の「智」のブレーンとして、朝廷工作や後の鎌倉幕府の重要な施策の立案、決定に大きく役立つ存在になるのです。


一方で、西暦1184年(寿永三年)4月には、悲しい出来事もありました。


去る1月20日、京都にて源範頼・義経連合軍によって討たれた源義仲(木曽義仲)の遺児・清水冠者源義高は、前年の西暦1183年(寿永二年)3月、頼朝と義仲の間で起きた一触触発の事態の際、和睦の証として頼朝に預けられ、頼朝の長女・大姫の婿として迎えられていました。

これにより頼朝と義仲は互いに敵対しないという約束でありましたが、頼朝は後白河法皇より義仲追討の命を受け、範頼・義経に軍勢率いて京都に派遣し、義仲を討っています。

これにより、頼朝ならびに鎌倉においても、義高を鎌倉に置いておく意味合いは全くなくなっていました。
しかも義高と大姫の仲は非常によろしく、頼朝としてはどう落とし所をつけるか頭の痛いところだったのが実情です。

頼朝としては、敵とはいえ源氏の一族。信濃源氏の命脈をつなぐためにも、我が手の内にに残しておきたい気持ちがなかったわけではないと思います。

しかし、侍所別当の和田義盛や、舅の北条時政などは、後々の謀反の種は摘んでおきたいという考えであり、これも鎌倉政権のことを考えれば間違いではありません。

頼朝は御所内で散々議論した結果、最終的に「殺害やむなし」となり、義高殺害を決定します。

しかし、思いもしないところから「異議あり!」が出ました。
妻の北条政子が「冗談じゃない!」と大反対してきたのです。

「義高殿と大姫は非常に仲睦まじい。二人の間に水を刺すようなことを親がするのですか!」
「義高殿はまだ11歳。長じた後、他国に封じるなりやり方はいろいろあるでしょう!」


頼朝は鎌倉政権の棟梁でありますが、大姫の親でもあります。
棟梁としてなすべきこと、親としてなすべきこと、その葛藤に苦しみましたが、頼朝の決定は覆りませんでした。

しかし、ここで引き下がる政子ではありません。

政子は密かに大姫付きの侍女に「鎌倉殿が義高殿を殺害しようとしている」ことを伝えたのです。
驚いた侍女はそれを大姫に伝えます。大姫はなんとかして義高を救おうと、義高の側近・海野幸氏(小太郎)に相談しました。

幸氏は今宵のうちに義高の寝所に向かい、義高と入れ替わると、義高を侍女たちの部屋に移しました。

西暦1184年(元暦元年/4月16日より改元)4月21日早朝、大姫は侍女たちと一緒に寺参りに出かけて行きました。
その中には女装した義高が隠されていました。

一方、義高の寝所で入れ替わった幸氏は、寝所で起きるなり、庭先を背にして一人で双六をやり始めました。

義高の日常は、大姫と遊ぶ以外は、幸長と双六に興じていました。
なので、義高が双六をしていても周りからは全く怪しまれることはありませんでした。
ただ、この日は義高に扮した幸長が一人芝居をしていたわけですが。

夕刻になり、大姫ら侍女が御所に戻ってくると、さすがの幸氏の芝居もバレてしまい、
義高の行方不明が明るみになってしまいます。


「申し上げます」

書院で書物をしていた頼朝に側近・安達盛長が声をかけました。

「何事じゃ」

と頼朝は書物の手を止めることなく答えましたが

「清水冠者殿、御所内の屋敷より脱走したよし」

と盛長が申し上げると、頼朝の手が止まり

「なんじゃと......??」

と言いながら、筆を硯に戻しました。

「どういうことじゃ」

「そのことにつきまして、主殿にて堀殿がお待ちでございます」

「わかった。すぐ参る」

頼朝はそのまま立ち上がり、急ぎ足で御所の主殿に向かいました。

主殿には堀親家が控えており、庭には縄で縛られた海野幸氏の姿がありました。
頼朝は主殿に入るなり庭の幸氏の姿を見て「小太郎......」と声をかけ、縁側に控えている親家

「藤次(親家)、説明しろ。どういうことじゃこれは」

鎌倉殿に申し上げまする。本日夕刻、それがし所用ありて清水冠者(義高)殿の屋敷尋ねたところ、冠者殿の姿なく、その場にあったのは一人で双六に興じていたこの者だけでございまする。冠者殿の姿、屋敷内にどこにも見当たりませぬ」

「小太郎(幸氏)、冠者殿はどこじゃ」

「存じませぬ」

「ではそなたはなぜ冠者殿の部屋におったのじゃ」

「昨晩、我が主(義高)より今日はここで休め、この部屋を自由に使うて良いと言われましてございまする」

「では、本当に冠者殿の行方、知らぬと申すか」

「存じませぬ」

「藤次、こいつを部屋に閉じ込めておけ」

「はっ」

親家は頼朝の命令を受けて畏まりました。さらに頼朝は

「それからその方に清水冠者捜索を命ずる。たった1日ではそう遠くまでは行ってはおらぬはずじゃ、郎党を使って必ず探し出せ」

とだけで行って退出しようとしました。
親家は

「お待ち下さりませ。して、冠者殿を発見した後は如何ように取り計らいまするや?」

と重ねて問いました。
頼朝は足をピタッと止め、しばし沈黙の後、一瞬瞑目、歯を食いしばり

「捕らえて連れて参れ、但し、抵抗すればその場で手討にして構わぬ.....」

と絞り出すようにして言うと、奥書院に消えました。
親家は自分の家人に幸氏を預けると、頼朝に一礼し、急いで御所を出て行きました。

頼朝は奥書院に戻り、硯の前にドカッと腰をおろすと

「愚かな真似をしくさりおって.....」

と独り言のように言いました。
しかし、次の瞬間、頼朝は不気味な笑みを浮かべていました。

頼朝はいかにあの朝敵・木曽義仲の嫡男とはいえ、なんら罪のない11歳の子供を殺すことに、ある種の罪悪感を感じていました。
それが自分の娘・大姫を悲しませる結果になることもその罪悪感に一層の「重し」を課していました。

しかし、義高が御所から脱走したとなれば、頼朝の命に背いたことになります。
自らの命に背いたものは、鎌倉を支配する為政者として、裁かねばなりません。

仮に親家が探し出すことができなければ、行方不明者として扱うだけで、頼朝が手を下すことはなくなります。

「天の助けじゃ.....」

頼朝がポツリとそう漏らした時、書院に政子がドカドカと入り込むなり

「義高殿が行方をくらましたとは本当ですか?」

とぶっきらぼうに聞きました。

「ああ、さっき藤次から聞いた。今、かの者捜させておる」

政子は頼朝の言葉を聞きながら、頼朝の脇に進み、座りました。

「わざわざ捜させる必要はないのでは?」

「馬鹿を申せ。我が命に背いた者が勝手に脱走を図ったのだ。捜して罰を与えねば示しがつかん」

「罰とは.....死罪でございまするか」

「さあな」

頼朝は政子の問い詰めをかわし、先ほどの書物の続きをするべく硯の上の筆を取りました。
政子はそれを不満そうに見つめ、やがて奥書院から出て行きました。


それから数日後の西暦1184年(元暦元年)4月26日、堀親家は鎌倉に帰参しました。
彼の手には1つの黒い首桶がありました。

頼朝は親家が首桶持参で参ったことを聞くと、頼朝は盛長以外の近習・侍女らはもちろん、小者に至るまで人払いを命じ、親家を主殿に通すように言いました。

頼朝が主殿に参ると、親家は庭先に手をついて一礼しました。

「......ご苦労であった」

頼朝がそう声をかけると、親家は無言でさらに頭を下げました。

「藤次、仔細を申せ」

親家は「はっ」畏まって顔をあげました。

「鎌倉殿の命により我が手勢は鎌倉を起点に相模、武蔵両国を捜索いたしました。その結果、武蔵国入間川付近にて馬で逃走中の冠者殿を発見しました」

「うむ」

「冠者殿は我らが鎌倉殿の手の者とわかると、馬に鞭を入れ、さらに逃亡を図ろうとしたため、我らは一旦馬を退き、数騎のみを河原繁みに潜ませ、また数騎を大回りさせえて冠者殿の先を塞ぎ、挟み撃ちにした次第でございまする」

「義高はおとなしく縛についたのか」

「それが、太刀を抜かれて我らを攻撃してきたため、我らもそれに応戦しました。やむなく冠者殿を斬りつけましたが、斬りどころが悪く、そのまま死に至らしめてしまいました」

「そうか......」

「鎌倉殿は抵抗すれば、手討にして構わぬという仰せでしたので、首を頂戴した次第でござりまする」

「役目大儀であった」

「ははっ」

「藤次。それから藤九郎(盛長)。このこと、他言無用じゃ。一切誰にも言うてはならぬ。義高は行方しれずのままじゃ、良いな」

「承知つかまつりました」

親家と盛長、両名が畏まると、頼朝は首桶を盛長に託し、弔いを命じました。

こうして、源義仲の嫡男・清水冠者源義高はわずか12歳の命を散らしたのでした。

親家、盛長は頼朝の命により、義高のことを一切喋りませんでした。

しかしながら、親家の郎党たちから方御家人の間で話に出てしまい、御所内にも「義高が討たれた」という話が広がってしまいました。

それを聞いた大姫はショックで寝込み、何を聞いても反応しなくなってしまったのです。

これに烈火のごとく怒りまくったのが政子でした。

「死罪にするかどうかわからぬと言っておきながら、殺すとは何事ですか!」
「大姫は水も喉を通らぬほどやつれています。このまま衰弱死したら如何されるおつもりですか!」


頼朝とて、義高を死地に追い込んだことは悔やまれて仕方ないところに、女の剥き出しの感情をぶつけられては、頼朝も堪ったものではありません。

「では、如何せよと申すのじゃ」

頼朝は政子の怒りを宥めようとしますが、政子の申し出は

「堀親家殿に自害をお命じくださいませ」

という、とんでもないものでした。

「たわけ!.....藤次は我が挙兵の頃からの御家人ぞ。それをお主のわがままで死ねとは言えぬわ!」

「大姫の気鬱の病は義高殿の怨霊が原因です。その怨霊を消し去るためには討った者を殺すしかありませぬ」

「もし義高殿の怨霊が原因ならば、わしに向けられて当然じゃ。なぜ大姫に向くのじゃ!道理に合わぬではないか!」

「義高と大姫はゆくゆくは夫婦の間柄、ましてやあなた様は大姫の父です。あなた様に恨みを成すなら、あなた様がもっとも大事にしている大姫に取り憑くことは十分有り得る話です!」

「埒もない.....」

「頼朝殿!」

政子はこれまでにない凄まじい怒気を放ちながらの着物に掴みかかりました。

「堀親家殿に自害を!このまま大姫を怨霊に取り殺されても、あなた様の心は痛まぬのですか?」

「お方様、お控えくださいませ」

ずっと傍に控えていた盛長でしたが、さすがに見過ごせず政子を引き放そうとしました。

「無礼者、我に触るでない!」

「これ、お方様を奥へ」

盛長は侍女を数人呼び、半狂乱の政子を主殿から追い出しました。

「やれやれ。女は強し、母はなお強しよのう」

頼朝は乱れた着物を直しながら、ぼやくようにして言うと

「さりながら、大姫様の気鬱の病の病巣を取り除こうとするのも親心の表れかと存じます」

盛長が畏まって言うと

「藤九郎、まさかそなたまで政子の味方ではあるまいな」

「滅相もない。あくまでも心情としての話でございます」

と盛長は苦笑しました。
頼朝はそれに安堵してため息一つつくと

「かと言って、心情で御家人の一人の命を失えるか。御家人は我が家の持ち物ではないぞ」

「仰せごもっとも。しかしながら、冠者殿を討たれたのは藤次殿ではございませぬ」

「.....何が言いたいのじゃ」

「直接手を下したのは、藤次殿の郎党.....ということでございます。郎党は御家人ではございませぬ」

「なるほど......」

それから数ヶ月後、堀親家の郎党・藤内光澄は鎌倉殿の命により、斬首の上、晒し首にされました。
義高の致命傷となった傷は光澄がつけた一撃であったためです。

鎌倉殿の命令にしたがって、心ならずも義高を討ち、恩賞の代わりに死を賜るとは。
光澄、ならびに親家の心境、いかばかりだったでしょうか。

なお、大姫の病状はこの後、回復することなく、不幸な生涯を閉じることになります。

そして義高の従者であった海野幸氏は、義高への忠義を高さを認められ、以後、鎌倉殿の御家人として幕府のために働くことになるのです。

(つづく)
posted by さんたま at 13:37| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする