2018年09月09日

人吉相良氏の軌跡(4)ー室町時代(1)ー

1、八代目相良頼茂(実長)、九代目、相良前続の治世
西暦1394年(明徳五年)1月19日、相良氏七代目・相良前頼日向国野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)にて、島津元久・北郷義久の連合軍の攻撃を受け、前頼の兄弟共々討ち死にしました。

よって、前頼の嫡男・相良頼茂が相良氏八代目の家督を相続しました。


また、この頃、中央政界でも動きがあり、西暦1370年(建徳元年/応安三年)から20年以上に渡り、九州探題として足利幕府の権力基盤を築いた今川了俊が、西暦1395年(応永二年)1月、将軍の命令で上洛したところ探題職を解任され、新しい九州探題として渋川満頼が翌年派遣されています。


南北朝合一がなったとはいえ、頼茂は父・前頼の影響を受け、心情的に南朝方の味方をしていました。
これを知った足利幕府は、頼茂に「従五位下兵庫允」の官位に叙任させて懐柔を図り、頼茂も「実長」と改名しています。

以後の実長の軍事活動は北朝方としての活動が確認でき、日向国真幸院(宮崎県えびの市)からすでに没落していた畠山直顕の残存勢力を追い出す一方、幕府の命令で島津家の御家騒動に介入し、島津伊久(薩摩守護/総州家)を支援。島津元久(大隈守護/奥州家)を薩摩から追い出す功績を立てています。
(島津家の御家騒動は西暦1404年(応永十一年)に伊久、元久が和睦して決着)

西暦1417年(応永二十四年)、相良氏七代目・相良実長死去。
嫡男、相良前続(さきつぐ)が相良氏九代目の家督を相続しました。


八代目実長、九代目前続の時代は、人吉は戦乱に巻き込まれることも少なく、両氏は寺社仏閣の復興に注力しています。
実長は井口八幡神社(熊本県人吉市井ノ口町949)を整備し、前続は永国寺(熊本県人吉市土手町5/通称:幽霊寺)を建立しています。


2、上相良氏の謀反
西暦1443年(嘉吉三年)、相良氏八代目・相良前続は急死し、嫡男の相良堯頼(たかより)が相良氏十代目の家督を相続します。

しかし、堯頼はまだ11歳の子供でした。

幼子が相良氏の当主になると、その家督の不安定さから、比較的平穏だった人吉の地が、にわかにざわついてきました。


堯頼が家督を継いで5年後の西暦1448年(文安五年)、肥後球磨郡多良木城主(上相良氏)・多良木頼観、その弟・多良木頼仙は、外越(現在の人吉市上戸越、下戸越)地頭の桑原隠岐守ら国人衆を扇動し、人吉の寺院の僧徒、山伏、雑兵含め総勢1200人の軍勢を率いて、相良宗家に謀反を起こし、人吉城に攻め寄せてきたのです。

多良木氏は相良氏初代・相良長頼の子・頼氏を発祥とし、多良木氏三代目・多良木経頼の時代に宗家に反抗して、当時の相良氏当主・四代目長氏、五代目定頼を散々苦しめた家です。

多良木兄弟が不穏な動きをしていること人吉城でも察知していました。
しかし、国人衆や僧侶等の合力は想定外で、人吉城の防備は間に合わず、不意の攻撃に当時16歳の堯頼は狼狽し、僅かな近習を連れて誰にも言わずに密かに人吉城を脱出してしまいます。

城内では「長年の宿敵である上相良にこの城を渡すものか」と数名の勇士が踏み止まって奮戦しましたが、衆寡敵せず、全員討ち取られてしまいます。

しかし、多良木兄弟の謀反を知った肥後球磨郡山田城主(熊本県球磨郡山江村)・永留長重は、急ぎ集められるだけの兵を集めて山田城から出陣し、人吉城を奪って油断していた多良木兄弟を攻撃して、兄弟を人吉城から追い出しました。

人吉城を多良木兄弟の手から奪い返した長重は、相良氏家臣と共に行方知れずとなった堯頼の捜索を命じます。
ようやく、堯頼が薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口山野)にいることを突き止めると、長重は使者を遣わし


「多良木兄弟は我々が人吉城から追い出しました。もう殿様に害を成すものはおりませぬ。安心して城に御戻りくだされ」


と復帰を願いました。しかし堯頼は


「不意をつかれたとは申せ、城も領地も領民も手放してこの地に隠れた私に人吉城を預かる資格はない」

と人吉城への帰還を拒否します。その上

「此度の軍功第一は申すまでもなく永留長重。その栄誉を讃え、ここに相良氏家督を長重に譲る」

と言いだしました。


永留氏は、相良氏2代目・相良頼親の嫡男、相良頼明を祖としている相良氏庶流です。

初代・長頼が亡くなったあと、頼親が2代目家督を継ぎましたが、56歳という高齢の為、すぐに弟の頼俊に家督を譲り、以後はその血統が相良宗家となっていました。

頼親は隠居後、照角山(球磨村神瀬)に隠棲し、嫡男・頼明は山田に領地を賜って永留氏を名乗ったのです。

よって血統的には宗家の兄の血筋になるので、相良氏の家督を相続する資格は十分ありました。


使者は急ぎ人吉城に立ち戻り永留長重に言上すると、

「一体何をおっしゃっているのだ? 仮にそれがしに家督を譲るとしても、相良宗家の主が賊の襲撃をけて居城から追放されたままの状態では、相良宗家一門の不名誉に変わりはなく、近隣諸国に対して恥であるから、速やかに御戻りいただくように申せ!」

と再度使者を遣わしました。

この往来が何回も続きましたが合意することはなく、西暦1448年(文安五年)3月23日、堯頼は薩摩国牛屎院で事故死してしまいます。

事、ここに至っては当主の帰還は未来永劫望めない事態となりました。
かと言って、鎌倉時代より続く相良氏の名跡を絶やすわけにいきません。

よって、亡き堯頼の意向であり、人吉城を奪還して宗家を守らんとした長重の功績は何物にも変えがたく、同年5月13日、ここに永留長重が相良宗家を注ぐことになりました

ここに、相良氏三代目・相良頼俊を初めとする相良氏宗家の血統は絶え、新たに、相良氏二代目・相良頼親の血統から始まる新生相良宗家が生まれました。

相良宗家を継いだ永留長重は名を「相良長続」と改め、相良氏十一代当主が誕生したのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:05| Comment(0) | 人吉相良氏の軌跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする