2018年09月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(98)-重衡、鎌倉へ-

後白河法皇平重衡を通じて、平家一門に「三種の神器を返せば重衡の身も屋島に送る」という悪魔の交換条件を突きつけたのが、西暦1184年(寿永三年)2月14日で、平家一門棟梁・平宗盛が返書を送ったのが同月28日です。

その間の京都での動きを簡単にご説明します。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」によると、2月16日、後白河法皇は鎌倉の源頼朝の元に中原親能を遣わしています。

中原親能は源義経と共に鎌倉より京都にやってきた源頼朝の代官で、武家と公家との間の調整役でした。
法皇が親能を遣わしたのは

「4月までに上洛せよ。もしそれがない場合、我(法皇)が東国に臨幸する」

という意思を伝えるためでした。

九条兼実はこれを「ほとんど物狂い=狂気の沙汰」と呆れています。
法皇が東国に行かれるなど前代未聞であり、兼実の認識は間違っていません。
が、法皇としては頼朝とうまくやっていく良い方法が、これしかなかったのだと思われます。

一方で、鎌倉の源頼朝は2月18日、京都に使いを出しており、播磨、美作、備前、備中、備後(現在の広島県東部、岡山県全域、兵庫県西部)の五カ国梶原景時、土肥実平の両名を以って守護に任命しています。


月変わりて、翌3月1日付で、源頼朝は鎮西九国(九州?)の武家に平家追討を命じています。
その内容は、よくもまぁここまで自分を正当化できるものだという呆れる下記のような内容でした。


(ここから)
鎮西九国の武士共は鎌倉殿の御家人として平家の賊徒を追討しなさい。
これは法皇様の院宣を受け、そなたたちに命令している。

平家が謀反を起こし、昨年追討使として、東海道から遠江守義定(安田義定/甲斐源氏)、北陸道から左馬頭義仲(源義仲)を鎌倉殿の代官として上洛させた。ところが、義仲は平家と通じたため、追討の院宣を鎌倉殿が賜り、やむなく誅伐した。

平家は四国近辺に拠点を置き、通行中の船舶を襲撃し、人民のものを収奪する行為を繰り返している。
これ、人々の苦しみ耐えがたいものがある。

今に至っては陸上、海上問わず、官兵(天皇の軍)を以って、これを追討する他にはない。
鎮西九国の武士はこれを皆、承知し、平家を追討せよ。
追って勲功は沙汰する。

(ここまで)


安田義定は甲斐源氏であり、頼朝と祖を同じくする河内源氏の一族ではありますが、頼朝の家臣ではなく、あくまでも同盟勢力です。
そして義仲に至っては頼朝の従兄弟ではありますが、全く別個の勢力です。
それを「鎌倉殿の名代として上洛させた」とかどの口が言うのかと。
嘘八億もいいところです。

また、この頃、諸国の神社、仏閣が武士たちに横領、乱暴される事件が多発しており、何度か院庁から頼朝あてに諸国の武士の乱暴狼藉を取り締まるように宣旨が出されています。


3月2日、頼朝の命令で、土肥実平が山陽道に出立するため、実平の管理下にあった平重衡の身柄が、源義経に引き渡されました。

そして8日後の3月10日、平重衡は頼朝の命令によって、鎌倉に送られることになり、京都を出発しています。

この時の警護担当は梶原景時が務めました。

また、この頃、伊賀、伊勢両国(現在の三重県)において、伊勢平氏の一派の動きに怪しいものがある(平家一門の人間が潜伏してる?)報告を受けた頼朝は、その対策として、3月20日に大内惟義(清和源氏義光流・平賀氏/武蔵守)を伊賀国守護に任じ、大井実春(武蔵国荏原郡大井郷の住人)を伊勢に派遣しています。

鎌倉に送られた平重衡は、3月下旬に鎌倉に到着。
同月28日、重衡は立烏帽子に藍色の直垂をつけ、威風堂々とした姿で頼朝に引見しました。
重衡のそばには警護役であった梶原景時の姿もありました。

頼朝に対し、重衡は

「前の三位中将、平重衡にござる」

と平伏し、頼朝も

「前の右兵衛佐、源頼朝にござる」

とそれに答えて頭を下げると

「此度、このような形で中将殿と相対することになったことは私の本意ではない。しかし、御上(法皇)の怒りを慰めるため、また亡き父・播磨守義朝の仇を討つために心ならずも挙兵し、御上の心を安んじ奉るために平氏を退治せねばならなかったことは致し方のないことだったと存ずる。その結果、こうして中将殿と対面できたことは、私にとっては喜ばしいこと。いずれは内府殿(宗盛)とも対面する日が来るであろう」

と続けました。重衡は平伏したまま、顔をあげませんでした。
頼朝は重衡の言葉を待ちましたが、重衡の言葉は出なかったため

「ただ、1つだけ中将殿にお伺いしたいことがござる」

とさらに言葉を続けました。

「先年、中将殿は奈良の寺々を焼き討ちになされた。これは相国入道(清盛)のご命令か?それとも中将殿のご判断か?」

重衡は今一度深く頭を下げると、顔を上げました。

「お答え申し上げよう。奈良の寺々が炎上したのは我が父の命令でも、我の判断でもない。衆徒の悪行を鎮圧するために行った火計が予想以上に周りが早く、南都の寺々を灰塵に帰させてしまった。これは我の不得の致すところにござる。」

そう答えた重衡はさらに言葉を続け

「古来より、源氏と平氏は共に朝廷を守護し奉る者でした。ところがいつの間にか、源氏の運気が衰退し、平家のみが朝廷を守護することになり、数々の朝敵を討ち、主上(天皇)の外戚として昇殿する者(いわゆる公卿)60余名。その繁栄は20余年に及びまする。今、平家の命運尽き、我が身はこうして捕えられて鎌倉に送られてござる」

と申し上げました。
しばらく沈黙の間が漂い、頼朝が

「何事も世の移り変わりかと存ずる」

と発すると

「それがしは平治の戦いで父・義朝、兄・義平とはぐれ、平頼盛殿の家人・平宗清殿に捕らえられた。ありがたいことに池禅尼様の御慈悲を以って、死を免じられ伊豆に流された。伊東、北条、工藤などの諸氏に周囲を見張られ、一生ここで籠の鳥となって死ぬるのだと覚悟した。しかし、以仁王様、源三位殿が打ち上げた狼煙が、衰運しかなかった我ら源氏に一筋の光明を与えてくれた。」

「その光明を、たった1つの光明を通じて、それがしも、武田殿(甲斐源氏)も木曽殿(木曽源氏)も立ち上がったのじゃ。挙兵は人と物さえあれば誰でもできる。だが、戦って勝てるかどうかは時の運。かつて平治の戦いで源氏を衰退させた運気が、今回は我が源氏に味方したのじゃ。これ、すなわち世の中の道理ではなかろうか」

重衡は黙って頼朝の言葉を聞いていましたが

「鎌倉殿のおっしゃることが道理であるならば、『朝敵を討った者は七代後まで朝廷の恩を失わない』という我が国古来の道理はどこに行ったのでしょうな。我が平家は父・清盛入道の頃から、朝廷のために身を滅ぼしかけたこと数知れず。父亡き後、都を追われ、西国を彷徨うことの覚悟はあったが、まさか自身が捕らわれて鎌倉に送られるとは思いもせず。これも前世の報いであろうか」

と申し上げると

「武士たるもの、敵の手に捕らえられるのは恥とは思わぬ。すぐにこの首をはねていただきたくお願い申し上げまする」

と毅然とした態度で言上したので、景時は

(さすが平家の大将.....)

と感嘆しました。
頼朝も満足そうに頷くと

「平三」

「はっ」

頼朝は重衡の後ろに控えている景時に声をかけると

「侍所に狩野介が控えておる。呼んで参れ」

と命じました。

景時が一礼して主殿を後にするのを待ち、頼朝は再び重衡にむきなおり

「中将殿のあっぱれなお覚悟。右兵衛佐、感服つかまつりました。されど、平家だからと言ってそれがしの敵というわけではありませぬ。それがしの敵はこの世の秩序、すなわち御上と主上に仇なす者にございまする。また、中将殿の場合、少々事態が異なりまする」

「どういうことでござるか?」

「鎌倉の一存だけでは中将殿を裁くことはできませぬ。おそらく南都の衆の意向を以って、御上より宣旨があるものかと」

頼朝が言いたいのは、焼き討ちにされた南都の衆徒たちが引き渡せと申してくることが予想されるため、自分の意思で首を刎ねることはできないということでした。それは重衡にもよく理解できることでした。


主殿の廊下より足音が聞こえ、梶原景時と共にもう一人の武士が主殿に入りました。
このもう一人の武士は、工藤宗茂といい、伊豆国狩野荘の領主を務め、狩野介を通称としていました。
宗茂の父は工藤茂光といい、石橋山の合戦で討ち死にしております。

「狩野介、お呼びにより参上いたしました。」

宗茂は主殿の外の廊下で膝を付いて、かしこまりました。

「役目大儀。中へ入れ」

頼朝は主殿の中に狩野介を入れ

「狩野介、中将殿の身をその方に預ける」

と命じました。狩野介は

「ははっ」

とこれを受諾しました。加えて頼朝は

「良いか。中将殿は解官されたとはいえ、三位の位階にある方じゃ。決して粗相のないように、丁重におもてなし致せ」

と重ねて命ずると

「承知仕りました」

と平伏しました。

重衡は

「鎌倉殿のご高配、忝なく存じまする」

と頼朝に礼を述べると

「追って、沙汰あるまで、この狩野介に何なりと申しつけられませ」

と頼朝が答えました。
重衡は笑みを浮かべながら

「では」

と一礼し、狩野介と共に主殿を後にしました。

主殿に残ったのは頼朝と景時の二人だけとなり、頼朝は

「平三、中将殿の警護役、大儀であったな」

と景時をねぎらいました。
景時も頭を下げて、それに答えました。

「しかし、平家の公達。なかなかの器量でしたな。」

「まったくな.......平家一門、ましてや清盛入道の息子でありながら、源氏を敵視することも罵ることもせず、事の是非をきちんとわきまえることができる。そういう人間がこの鎌倉にはおらん。」

「はい」

「殺すには惜しい男よ」

そう言って、頼朝は主殿奥(頼朝の住居)に帰って行きました。

平重衡はこの後、壇ノ浦で平家一門が滅びた後、西暦1184年(元暦二年)6月22日、東大寺に引き渡され、翌日斬首。

その首は重衡自身が焼き討ちした般若寺の門前に晒されたのでした。
享年29。

(つづく)
posted by さんたま at 17:07| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする