2018年09月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(100)-和田義盛の謀略-

西暦1184年(元暦元年)4月21日、信濃源氏・源義仲の遺児・清水冠者源義高は、御所を脱走し、鎌倉殿・源頼朝の命により、同月26日御家人・堀親家が郎党、藤内光澄に討たれました。

このことは直ちに御家人に知らされました。
その結果、信濃国、甲斐国(現在の長野県、山梨県)に潜んでいた信濃源氏の残党がにわかに頼朝に謀反を起こす動きが出ています。

これに対処するため、同年5月1日、頼朝は足利義兼小笠原長清に甲斐国に出陣を命じ、小山政光、宇都宮朝綱、比企能員、河越重頼、豊島清重、足立遠元、吾妻助亮、小林重弘らを信濃国に向かわました。

同時に、相模(神奈川)、伊豆(静岡)、駿河(静岡)、安房(千葉)、上総(千葉)らの御家人に、叛乱の兆しを抑えさせるように侍所別当・和田義盛に命じています。


ここで名前が出てきた人間の多くは、この後の日本の歴史に大きく関わっています。


足利義兼は、河内源氏の棟梁・源義家(八幡太郎)の孫・源義康を祖とし、下野国足利荘(栃木県足利市)を本領とする源氏の一族です。
義兼は初代義康の子で足利氏2代目の棟梁であり、彼の7代後の子孫が足利幕府を開く足利尊氏になります。

小笠原長清は、源義家の弟・源義光(新羅三郎)の四男・加賀美遠光の次男で、甲斐国巨摩郡小笠原郷(現・山梨県北杜市明野町小笠原)を本領とする源氏の一族です。後に信濃守護に任ぜられたことにより、小笠原一族は戦国時代まで信濃国に深く関わることになります。

小山政光は、鎮守府将軍・藤原秀郷の子孫である太田行政の子で、下野国小山荘に土着して小山氏を名乗った小山氏の初代です。
下野国最大の武士団を持っており、妻が頼朝の乳母(寒河尼)であったことが縁で、頼朝に味方しました。
彼の嫡男・小山朝政は、源平争乱で戦功をあげて鎌倉幕府成立後は幕府宿老として重きをなします。

比企能員は、源頼朝の乳母である比企尼の甥で、この当時は頼朝の嫡男・頼家の乳母父となっていました。
後に娘を頼家の側室として差し出し、鎌倉幕府において有力御家人となりますが、その権勢を恐れた北条時政に滅ぼされます。

河越重頼は、秩父氏の一族で武蔵国最大の武士団を保持していた御家人です。
後に頼朝と義経の兄弟喧嘩の犠牲者の一人になってしまいます。

豊島清重も秩父氏の一族で、先祖は源義家、源義朝に仕えていた源氏累代の武将です。
石橋山の合戦で秩父一族はほぼ平氏方についたものの、父・清元と清重はこれに加わらず、逆に同合戦で敗れた頼朝が安房で再起を図った際に、秩父一族としては初めて頼朝に味方しました。

清重は奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の後に、奥州総奉行の職を頼朝より任じられ、後の戦国時代の葛西氏の祖となっています。

1つの史実に人が介在し、その人に紐付いて新しい歴史が紡がれる。
だからこそ歴史はドラマだと言えるのですが。


また、この頃、頼朝の長年の宿敵の一人である、源義広(志田三郎先生)がついにその命を散らしています。


同年5月4日、伊勢国羽取山(服部山)に潜伏していた源義広は、伊勢平氏の動向を調査していた波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊、大内惟義の家人らに見つかり、そのまま合戦となりました。合戦は丸一日かかり、ついに義広は捕縛されてその場で首を討たれました。

義広は源為義(頼朝の祖父)の三男で、頼朝にとっては叔父に当たります。

頼朝挙兵後、頼朝の勢力に合流することなく、逆に頼朝相手に叛乱を起こすこと数知れず、ついには義仲に味方し、義仲と頼朝の対立の原因にもなりました。

義弘は、源範頼・義経連合軍と義仲の京都での合戦にも義仲に従軍しており、そのまま敗れて行方知れずとなっていましたが、伊勢国に潜伏していたようです。

5月21日、頼朝は後白河法皇の近臣である高階泰経に書状を送っています。
その内容は、平家一門に連なって一斉解官となった平頼盛(清盛異母弟)を元の官位に戻すこと。

そして、源氏一族の者の中から、源範頼(頼朝異母弟/蒲冠者)、源広綱(源頼政の末子)、平賀義信(平治の乱後、頼朝と共に東国へ逃れた源氏の一人/大内惟義の父)の3名を国司(地方支配の責任者)に任官させて欲しいという内容でした。

この内容は受け入れられ、頼盛は6月5日付けで権大納言に還任されてますし、源範頼は「従五位下 三河守」、源広綱は「従五位下 駿河守」、平賀義信は「従五位下 武蔵守」に補任されています。

鎌倉の御家人が、頼朝の意向によって国司に補任されたのはこれが初めてのことでした。

6月1日、頼朝は頼盛を御所に招いて、宴を開いています。
おそらく上記のの権大納言還任の内示があり、京都に戻ることが確定したための別れの宴だと思われます。

この宴に参加したのは

一条能保(頼朝の義弟/妻・坊門姫は頼朝の妹/右馬頭)

平 時家(従四位下 右近衛権少将 / 故・上総広常の婿)


小山朝政(下野国小山荘の領主/妻は源頼朝の乳母である寒河尼)

三浦義澄(相模国三浦荘の領主)

結城朝光(小山朝政の弟/下総結城氏の祖)

下河辺行平(小山氏庶流)

畠山重忠(秩父一族/武蔵国男衾郡畠山郷の領主)

橘 公長(元平家の家人/右馬允)

足立遠元(武蔵国足立郡の領主)

八田知家(下野国茂木郡の領主)

後藤基清(一条能保の家人)


以上11名。

「吾妻鏡」によれば、これら「京都に馴染みのある者」という趣向で集められたようです。

この宴で頼朝は餞別として金で作られた剣一太刀、砂金一袋、鞍馬十疋を頼盛に与えています。
これは旧恩に報いるだけでなく、権大納言に戻る頼盛に朝廷工作を依頼していたのではないかと思えてなりません。

源義仲の遺児を討ち、平家一門に連なる頼盛を自陣に引き込んだ頼朝は、これより少しずつ源氏の一元化を考えていきます。

義仲存命中は、源頼朝、武田信義、源義仲という3人の棟梁がそれぞれ勢力を張っていました。


頼朝は相模を本拠としながら、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県)、そして朝廷より東海道全般の行政執行権を委嘱されていました。

信義は甲斐(山梨県)を本拠としながら、頼朝より駿河(静岡県東部)守護を任され、一族の安田義定が遠江(静岡県西部)を治め、3国に影響力を持っていました。

義仲は信濃(長野県)を本拠としながら、北陸道と越後(新潟県)を実効支配していました。

しかし、義仲はすでに滅び、源氏は頼朝と信義の2つの勢力のみとなりました。
三者の均等バランスは崩れ、頼朝は河内源氏の嫡流を誇り、信義は頼朝に助力するも一定の距離を保っていました。

そんな中、一の谷の合戦を終えて帰還し東国武将の中に一条忠頼という武将がいました。

一条忠頼は、甲斐源氏棟梁・武田信義の嫡男であり、甲斐国山梨郡一条郷(現:山梨県甲府市)を本領として一条氏を名乗っていました。

そして、忠頼は源範頼・源義経と共に京都に上って宇治川の合戦に参戦し、続く、粟津の戦いで源義仲、今井兼平を討ちとる功績をあげていました。鎌倉に帰着した忠頼はそのことを誇りとして、事あるごとに他の御家人に語って聞かせていました。

そしてその話は、侍所別当(長官)である和田義盛の耳にも入っていました。
義盛は

「武士が自分の手柄を誇らしげに語ることは別に悪いことではない」

と聞き流していましたが、時が経つに連れ、妙な噂が鎌倉に広がり始めました。

それは

「一条殿は、父の武田信義と相計らい、甲斐源氏の一族引き連れてこの鎌倉を狙っている」

というものでした。

忠頼個人の武勇の話であれば捨て置きますが、事が鎌倉の話になってくると、義盛も聞き流すことはできなくなり、ついに頼朝に言上せざるえなくなりました。

大倉御所主殿を訪れた義盛でしたが、そこには頼朝と中原親能、そしてその弟・中原広元の三人が頼朝を中心に議論を行っていました。

それを見た義盛は出直そうと思って退出しようとすると

「小太郎、なんぞ用か?」

と頼朝は呼び止めました。

「御談合の様子でしたので、また機会を改めまする」

と義盛は言葉を置いて、退出しようとしましたが

「良い。入れ」

と促されてしまったので、「はっ」と答えて主殿に入りました。
親能と広元は「では、我々は」と言って義盛と入れ違いに退出し、頼朝も頷きました。

「何の御談合でしたか」

着座するなり義盛は頼朝に尋ねると

「うむ。親能殿より新たな役所の提案があってな」

「役所?」

「院より東海道の行政執行を任されることになり、土地、田畑等の管理も行わねばならぬ。それにはこれまでの荘園管理の文書等を管理し、必要に応じて閲覧できる機関がいる。また平家の勢力減退により土地の所有権争いが増加しておる、それに対応する機関がいるという話であった」

「なるほど。言われてみれば道理。さすがは朝廷の文官、我ら武士が気づかないところに手が届きますな」

「して、小太郎。わしに用とは何か」

頼朝がそれまでの話を打ち切って義盛に来訪の目的を尋ねると

「鎌倉殿にお尋ね申し上げまする。一条次郎殿のこと、何かお聞き及びでしょうか」

と義盛は直球で質問をぶつけました。

「一条次郎のこと? ああ、義仲殿を討った話のことか」

と頼朝が笑みを浮かべながら答えると

「そのことではござりませぬ」

と義盛が笑み一つ浮かべずピシャリとたしなめるので、頼朝も笑みを消し

「申せ」

と小太郎に先を促しました。

「義仲殿を打たれた一条次郎殿の人気、御家人の中には非常に高く、その人望日々増えておりまする。しかるにここ最近、一条次郎殿、父・武田太郎信義殿と相語らい、この鎌倉を奪取するお考えありとの風聞、聞こえましてござりまする」

「はははは!」

頼朝は再び笑みを浮かべ、義盛の報告を遮りました。

「一条次郎がこの鎌倉を簒奪?小太郎、そなた正気で申しているのか?」

「もちろん、噂にて本気とは思えませぬ」

義盛は真顔で答えました。

「しかし、嘘ではないとは言いきれませぬ」

頼朝の顔から再び笑みが消えました。

「去る3月の頃、甲斐源氏の板垣三郎殿から土肥次郎の指揮下では働けぬという訴えがございました。鎌倉殿はこれを却下されましたが、土肥次郎は鎌倉殿が自身の名代として送り出した鎌倉殿の忠臣にござりまする。それをないがしろにすることは、鎌倉殿をないがしろにすることでござる。我らと鎌倉殿は同格という考え方、あれこそが甲斐源氏の皆さまの心底にある態度ではござりますまいか。」

「......」

頼朝は黙って義盛の申し状を聞いておりました。

「御家人はすべからく鎌倉殿を君主と仰ぎ、侍所によって統率されなくてはなりませぬ。富士川(の戦い)の頃ならいざ知らず、今の鎌倉殿は正四位下の位階を持ち、東海道の行政執行権を院よりお任せ頂いておりまする。無位無官の武田殿とは違いまする」

義盛がそこまで申し上げた時、

「来るべきものが来てしまったのかもしれぬ.....」

と頼朝が口を開きました。

「武田殿は甲斐を本領とし、駿河守護。一族の安田義定殿は遠江守護。同じ源氏とはいえ我が鎌倉とは別系統の勢力じゃ。したがって、その三国のことはわしは預かり知らぬつもりじゃった。じゃが、わしの指揮下にいる以上は、甲斐源氏であれなんであれ、鎌倉の御家人として従ってもらわねばならぬ」

「御意」

「それゆえに、鎌倉の秩序乱さんとする者は例え源氏の一族でも容赦はならぬ。そういうことだな。小太郎」

「仰せの通り」

義盛が我が意を得たりと深々と一礼すると

「では小太郎。一条次郎を侍所に呼び出せ。ただし、表向きの理由は義仲追討の任果たせしことによる褒美とせよ」

「はっ」

頼朝は義盛の側に近づき、耳元で囁きました

「その上で、綿密なる計画を練るのじゃ。このこと、絶対に失敗は許されぬ。」

「承知仕りました」

義盛は諸々承知して一礼し、主殿を退出しました。

頼朝は一人主殿に残り、思いを馳せていました。

「これで武田殿がどう出るか......」

(つづく)
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2018年09月23日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(99)-義高無残-

一の谷の合戦後、捕らわれの身であった三位中将・平重衡は、平家滅亡後に南都に引き渡され、斬首されましたが、この時、もう一人、鎌倉の世話になっていた平家の公卿がいました。

平清盛の弟・平頼盛(通称:池大納言)です。

頼盛は平家都落ちの際、平家棟梁・平宗盛の落ち度によって京都に留め置かれたため、後白河法皇に助けを求めていました。

法皇は頼盛が八条院の縁者(頼盛妻は八条院の女房)であったことから、八条院に頼盛を保護させていましたが、西暦1183年(寿永二年)10月、頼盛は京都を出奔し、同年11月6日、鎌倉に到着しています。これには何かしら院の密命を帯びていたのではないかと考えられています。

鎌倉の源頼朝は、平治の乱の際に自分の命を助けてくれた恩人である池禅尼(頼盛母)の恩を忘れず、頼盛を丁重に扱い、自分のブレーンの1人として側に置いておりました。

そして、西暦1184年(寿永三年)4月6日、頼朝は頼盛の旧領だった荘園33箇所を返還しています。
これは頼盛が頼朝政権に組み込まれ、なおかつ頼朝の朝廷工作の手駒として動いていた結果ではないかと言われています。

また、同年4月10日、京都の源義経からの飛脚が鎌倉に到着。
先月27日に朝廷より除目(任官の人事)が行われ、頼朝は正四位下に叙任されたことが書かれていました。

頼朝は昨年1183年(寿永二年)10月9日に従五位下に復位しており、わずか半年たらずで3位(従五位上、正五位下、正五位上)を超えての昇叙は、いかに後白河法皇が頼朝に期待をかけているのかの現れかと考えます。

そしてこの頃、頼朝の元には新たなブレーンが2人加わっております。

一人は三善康信(みよし やすのぶ)です。

康信の母は頼朝の乳母(比企尼)の妹という関係もあり、康信は流人時代の頼朝に京都の情勢を度々知らせていました。
その中には以仁王の挙兵大庭景親の動向などもあり、時には頼朝に「奥州へ逃げろ」とも伝えています。

一の谷の合戦を鎌倉軍の勝利で収めたことにより、京都は頼朝の支配下に入っていたため、頼朝は康信に鎌倉に来るように伝えていました。

西暦1184年(寿永三年)4月15日、頼朝が鶴岡八幡宮を詣でた際、八幡宮の廊下で康信と対面。以後、康信は頼朝の補佐官として鎌倉に詰めることになりました。

そしてもう一人は、中原広元(なかはらのひろもと)です。

広元は、このブログにも何回か登場した中原親能(義仲追討時、義経と共に上洛した頼朝の名代)の弟です。
ただ、広元の実父は大江維光で、実母が維光と離縁し、中原広季に再婚したため、中原家に養子に入ったと言われています。

広元は兄・親能にその才覚を認められ、親能の推挙により頼朝に仕えることになりました。
頼朝はこの1184年に、自らの家の家政機関として公文所を設置し、広元をその長官(別当)に任じます。

これが後に鎌倉幕府の政務機関「政所」になります。

広元は後に大江姓に復し「大江広元(おおえのひろもと)」を名乗っているため、歴史用語としてはこちらの方が有名です。

中原親能、三善康信、中原広元の三名は、頼朝の「智」のブレーンとして、朝廷工作や後の鎌倉幕府の重要な施策の立案、決定に大きく役立つ存在になるのです。


一方で、西暦1184年(寿永三年)4月には、悲しい出来事もありました。


去る1月20日、京都にて源範頼・義経連合軍によって討たれた源義仲(木曽義仲)の遺児・清水冠者源義高は、前年の西暦1183年(寿永二年)3月、頼朝と義仲の間で起きた一触触発の事態の際、和睦の証として頼朝に預けられ、頼朝の長女・大姫の婿として迎えられていました。

これにより頼朝と義仲は互いに敵対しないという約束でありましたが、頼朝は後白河法皇より義仲追討の命を受け、範頼・義経に軍勢率いて京都に派遣し、義仲を討っています。

これにより、頼朝ならびに鎌倉においても、義高を鎌倉に置いておく意味合いは全くなくなっていました。
しかも義高と大姫の仲は非常によろしく、頼朝としてはどう落とし所をつけるか頭の痛いところだったのが実情です。

頼朝としては、敵とはいえ源氏の一族。信濃源氏の命脈をつなぐためにも、我が手の内にに残しておきたい気持ちがなかったわけではないと思います。

しかし、侍所別当の和田義盛や、舅の北条時政などは、後々の謀反の種は摘んでおきたいという考えであり、これも鎌倉政権のことを考えれば間違いではありません。

頼朝は御所内で散々議論した結果、最終的に「殺害やむなし」となり、義高殺害を決定します。

しかし、思いもしないところから「異議あり!」が出ました。
妻の北条政子が「冗談じゃない!」と大反対してきたのです。

「義高殿と大姫は非常に仲睦まじい。二人の間に水を刺すようなことを親がするのですか!」
「義高殿はまだ11歳。長じた後、他国に封じるなりやり方はいろいろあるでしょう!」


頼朝は鎌倉政権の棟梁でありますが、大姫の親でもあります。
棟梁としてなすべきこと、親としてなすべきこと、その葛藤に苦しみましたが、頼朝の決定は覆りませんでした。

しかし、ここで引き下がる政子ではありません。

政子は密かに大姫付きの侍女に「鎌倉殿が義高殿を殺害しようとしている」ことを伝えたのです。
驚いた侍女はそれを大姫に伝えます。大姫はなんとかして義高を救おうと、義高の側近・海野幸氏(小太郎)に相談しました。

幸氏は今宵のうちに義高の寝所に向かい、義高と入れ替わると、義高を侍女たちの部屋に移しました。

西暦1184年(元暦元年/4月16日より改元)4月21日早朝、大姫は侍女たちと一緒に寺参りに出かけて行きました。
その中には女装した義高が隠されていました。

一方、義高の寝所で入れ替わった幸氏は、寝所で起きるなり、庭先を背にして一人で双六をやり始めました。

義高の日常は、大姫と遊ぶ以外は、幸長と双六に興じていました。
なので、義高が双六をしていても周りからは全く怪しまれることはありませんでした。
ただ、この日は義高に扮した幸長が一人芝居をしていたわけですが。

夕刻になり、大姫ら侍女が御所に戻ってくると、さすがの幸氏の芝居もバレてしまい、
義高の行方不明が明るみになってしまいます。


「申し上げます」

書院で書物をしていた頼朝に側近・安達盛長が声をかけました。

「何事じゃ」

と頼朝は書物の手を止めることなく答えましたが

「清水冠者殿、御所内の屋敷より脱走したよし」

と盛長が申し上げると、頼朝の手が止まり

「なんじゃと......??」

と言いながら、筆を硯に戻しました。

「どういうことじゃ」

「そのことにつきまして、主殿にて堀殿がお待ちでございます」

「わかった。すぐ参る」

頼朝はそのまま立ち上がり、急ぎ足で御所の主殿に向かいました。

主殿には堀親家が控えており、庭には縄で縛られた海野幸氏の姿がありました。
頼朝は主殿に入るなり庭の幸氏の姿を見て「小太郎......」と声をかけ、縁側に控えている親家

「藤次(親家)、説明しろ。どういうことじゃこれは」

鎌倉殿に申し上げまする。本日夕刻、それがし所用ありて清水冠者(義高)殿の屋敷尋ねたところ、冠者殿の姿なく、その場にあったのは一人で双六に興じていたこの者だけでございまする。冠者殿の姿、屋敷内にどこにも見当たりませぬ」

「小太郎(幸氏)、冠者殿はどこじゃ」

「存じませぬ」

「ではそなたはなぜ冠者殿の部屋におったのじゃ」

「昨晩、我が主(義高)より今日はここで休め、この部屋を自由に使うて良いと言われましてございまする」

「では、本当に冠者殿の行方、知らぬと申すか」

「存じませぬ」

「藤次、こいつを部屋に閉じ込めておけ」

「はっ」

親家は頼朝の命令を受けて畏まりました。さらに頼朝は

「それからその方に清水冠者捜索を命ずる。たった1日ではそう遠くまでは行ってはおらぬはずじゃ、郎党を使って必ず探し出せ」

とだけで行って退出しようとしました。
親家は

「お待ち下さりませ。して、冠者殿を発見した後は如何ように取り計らいまするや?」

と重ねて問いました。
頼朝は足をピタッと止め、しばし沈黙の後、一瞬瞑目、歯を食いしばり

「捕らえて連れて参れ、但し、抵抗すればその場で手討にして構わぬ.....」

と絞り出すようにして言うと、奥書院に消えました。
親家は自分の家人に幸氏を預けると、頼朝に一礼し、急いで御所を出て行きました。

頼朝は奥書院に戻り、硯の前にドカッと腰をおろすと

「愚かな真似をしくさりおって.....」

と独り言のように言いました。
しかし、次の瞬間、頼朝は不気味な笑みを浮かべていました。

頼朝はいかにあの朝敵・木曽義仲の嫡男とはいえ、なんら罪のない11歳の子供を殺すことに、ある種の罪悪感を感じていました。
それが自分の娘・大姫を悲しませる結果になることもその罪悪感に一層の「重し」を課していました。

しかし、義高が御所から脱走したとなれば、頼朝の命に背いたことになります。
自らの命に背いたものは、鎌倉を支配する為政者として、裁かねばなりません。

仮に親家が探し出すことができなければ、行方不明者として扱うだけで、頼朝が手を下すことはなくなります。

「天の助けじゃ.....」

頼朝がポツリとそう漏らした時、書院に政子がドカドカと入り込むなり

「義高殿が行方をくらましたとは本当ですか?」

とぶっきらぼうに聞きました。

「ああ、さっき藤次から聞いた。今、かの者捜させておる」

政子は頼朝の言葉を聞きながら、頼朝の脇に進み、座りました。

「わざわざ捜させる必要はないのでは?」

「馬鹿を申せ。我が命に背いた者が勝手に脱走を図ったのだ。捜して罰を与えねば示しがつかん」

「罰とは.....死罪でございまするか」

「さあな」

頼朝は政子の問い詰めをかわし、先ほどの書物の続きをするべく硯の上の筆を取りました。
政子はそれを不満そうに見つめ、やがて奥書院から出て行きました。


それから数日後の西暦1184年(元暦元年)4月26日、堀親家は鎌倉に帰参しました。
彼の手には1つの黒い首桶がありました。

頼朝は親家が首桶持参で参ったことを聞くと、頼朝は盛長以外の近習・侍女らはもちろん、小者に至るまで人払いを命じ、親家を主殿に通すように言いました。

頼朝が主殿に参ると、親家は庭先に手をついて一礼しました。

「......ご苦労であった」

頼朝がそう声をかけると、親家は無言でさらに頭を下げました。

「藤次、仔細を申せ」

親家は「はっ」畏まって顔をあげました。

「鎌倉殿の命により我が手勢は鎌倉を起点に相模、武蔵両国を捜索いたしました。その結果、武蔵国入間川付近にて馬で逃走中の冠者殿を発見しました」

「うむ」

「冠者殿は我らが鎌倉殿の手の者とわかると、馬に鞭を入れ、さらに逃亡を図ろうとしたため、我らは一旦馬を退き、数騎のみを河原繁みに潜ませ、また数騎を大回りさせえて冠者殿の先を塞ぎ、挟み撃ちにした次第でございまする」

「義高はおとなしく縛についたのか」

「それが、太刀を抜かれて我らを攻撃してきたため、我らもそれに応戦しました。やむなく冠者殿を斬りつけましたが、斬りどころが悪く、そのまま死に至らしめてしまいました」

「そうか......」

「鎌倉殿は抵抗すれば、手討にして構わぬという仰せでしたので、首を頂戴した次第でござりまする」

「役目大儀であった」

「ははっ」

「藤次。それから藤九郎(盛長)。このこと、他言無用じゃ。一切誰にも言うてはならぬ。義高は行方しれずのままじゃ、良いな」

「承知つかまつりました」

親家と盛長、両名が畏まると、頼朝は首桶を盛長に託し、弔いを命じました。

こうして、源義仲の嫡男・清水冠者源義高はわずか12歳の命を散らしたのでした。

親家、盛長は頼朝の命により、義高のことを一切喋りませんでした。

しかしながら、親家の郎党たちから方御家人の間で話に出てしまい、御所内にも「義高が討たれた」という話が広がってしまいました。

それを聞いた大姫はショックで寝込み、何を聞いても反応しなくなってしまったのです。

これに烈火のごとく怒りまくったのが政子でした。

「死罪にするかどうかわからぬと言っておきながら、殺すとは何事ですか!」
「大姫は水も喉を通らぬほどやつれています。このまま衰弱死したら如何されるおつもりですか!」


頼朝とて、義高を死地に追い込んだことは悔やまれて仕方ないところに、女の剥き出しの感情をぶつけられては、頼朝も堪ったものではありません。

「では、如何せよと申すのじゃ」

頼朝は政子の怒りを宥めようとしますが、政子の申し出は

「堀親家殿に自害をお命じくださいませ」

という、とんでもないものでした。

「たわけ!.....藤次は我が挙兵の頃からの御家人ぞ。それをお主のわがままで死ねとは言えぬわ!」

「大姫の気鬱の病は義高殿の怨霊が原因です。その怨霊を消し去るためには討った者を殺すしかありませぬ」

「もし義高殿の怨霊が原因ならば、わしに向けられて当然じゃ。なぜ大姫に向くのじゃ!道理に合わぬではないか!」

「義高と大姫はゆくゆくは夫婦の間柄、ましてやあなた様は大姫の父です。あなた様に恨みを成すなら、あなた様がもっとも大事にしている大姫に取り憑くことは十分有り得る話です!」

「埒もない.....」

「頼朝殿!」

政子はこれまでにない凄まじい怒気を放ちながらの着物に掴みかかりました。

「堀親家殿に自害を!このまま大姫を怨霊に取り殺されても、あなた様の心は痛まぬのですか?」

「お方様、お控えくださいませ」

ずっと傍に控えていた盛長でしたが、さすがに見過ごせず政子を引き放そうとしました。

「無礼者、我に触るでない!」

「これ、お方様を奥へ」

盛長は侍女を数人呼び、半狂乱の政子を主殿から追い出しました。

「やれやれ。女は強し、母はなお強しよのう」

頼朝は乱れた着物を直しながら、ぼやくようにして言うと

「さりながら、大姫様の気鬱の病の病巣を取り除こうとするのも親心の表れかと存じます」

盛長が畏まって言うと

「藤九郎、まさかそなたまで政子の味方ではあるまいな」

「滅相もない。あくまでも心情としての話でございます」

と盛長は苦笑しました。
頼朝はそれに安堵してため息一つつくと

「かと言って、心情で御家人の一人の命を失えるか。御家人は我が家の持ち物ではないぞ」

「仰せごもっとも。しかしながら、冠者殿を討たれたのは藤次殿ではございませぬ」

「.....何が言いたいのじゃ」

「直接手を下したのは、藤次殿の郎党.....ということでございます。郎党は御家人ではございませぬ」

「なるほど......」

それから数ヶ月後、堀親家の郎党・藤内光澄は鎌倉殿の命により、斬首の上、晒し首にされました。
義高の致命傷となった傷は光澄がつけた一撃であったためです。

鎌倉殿の命令にしたがって、心ならずも義高を討ち、恩賞の代わりに死を賜るとは。
光澄、ならびに親家の心境、いかばかりだったでしょうか。

なお、大姫の病状はこの後、回復することなく、不幸な生涯を閉じることになります。

そして義高の従者であった海野幸氏は、義高への忠義を高さを認められ、以後、鎌倉殿の御家人として幕府のために働くことになるのです。

(つづく)
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2018年09月09日

人吉相良氏の軌跡(4)ー室町時代(1)ー

1、八代目相良頼茂(実長)、九代目、相良前続の治世
西暦1394年(明徳五年)1月19日、相良氏七代目・相良前頼日向国野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)にて、島津元久・北郷義久の連合軍の攻撃を受け、前頼の兄弟共々討ち死にしました。

よって、前頼の嫡男・相良頼茂が相良氏八代目の家督を相続しました。


また、この頃、中央政界でも動きがあり、西暦1370年(建徳元年/応安三年)から20年以上に渡り、九州探題として足利幕府の権力基盤を築いた今川了俊が、西暦1395年(応永二年)1月、将軍の命令で上洛したところ探題職を解任され、新しい九州探題として渋川満頼が翌年派遣されています。


南北朝合一がなったとはいえ、頼茂は父・前頼の影響を受け、心情的に南朝方の味方をしていました。
これを知った足利幕府は、頼茂に「従五位下兵庫允」の官位に叙任させて懐柔を図り、頼茂も「実長」と改名しています。

以後の実長の軍事活動は北朝方としての活動が確認でき、日向国真幸院(宮崎県えびの市)からすでに没落していた畠山直顕の残存勢力を追い出す一方、幕府の命令で島津家の御家騒動に介入し、島津伊久(薩摩守護/総州家)を支援。島津元久(大隈守護/奥州家)を薩摩から追い出す功績を立てています。
(島津家の御家騒動は西暦1404年(応永十一年)に伊久、元久が和睦して決着)

西暦1417年(応永二十四年)、相良氏七代目・相良実長死去。
嫡男、相良前続(さきつぐ)が相良氏九代目の家督を相続しました。


八代目実長、九代目前続の時代は、人吉は戦乱に巻き込まれることも少なく、両氏は寺社仏閣の復興に注力しています。
実長は井口八幡神社(熊本県人吉市井ノ口町949)を整備し、前続は永国寺(熊本県人吉市土手町5/通称:幽霊寺)を建立しています。


2、上相良氏の謀反
西暦1443年(嘉吉三年)、相良氏八代目・相良前続は急死し、嫡男の相良堯頼(たかより)が相良氏十代目の家督を相続します。

しかし、堯頼はまだ11歳の子供でした。

幼子が相良氏の当主になると、その家督の不安定さから、比較的平穏だった人吉の地が、にわかにざわついてきました。


堯頼が家督を継いで5年後の西暦1448年(文安五年)、肥後球磨郡多良木城主(上相良氏)・多良木頼観、その弟・多良木頼仙は、外越(現在の人吉市上戸越、下戸越)地頭の桑原隠岐守ら国人衆を扇動し、人吉の寺院の僧徒、山伏、雑兵含め総勢1200人の軍勢を率いて、相良宗家に謀反を起こし、人吉城に攻め寄せてきたのです。

多良木氏は相良氏初代・相良長頼の子・頼氏を発祥とし、多良木氏三代目・多良木経頼の時代に宗家に反抗して、当時の相良氏当主・四代目長氏、五代目定頼を散々苦しめた家です。

多良木兄弟が不穏な動きをしていること人吉城でも察知していました。
しかし、国人衆や僧侶等の合力は想定外で、人吉城の防備は間に合わず、不意の攻撃に当時16歳の堯頼は狼狽し、僅かな近習を連れて誰にも言わずに密かに人吉城を脱出してしまいます。

城内では「長年の宿敵である上相良にこの城を渡すものか」と数名の勇士が踏み止まって奮戦しましたが、衆寡敵せず、全員討ち取られてしまいます。

しかし、多良木兄弟の謀反を知った肥後球磨郡山田城主(熊本県球磨郡山江村)・永留長重は、急ぎ集められるだけの兵を集めて山田城から出陣し、人吉城を奪って油断していた多良木兄弟を攻撃して、兄弟を人吉城から追い出しました。

人吉城を多良木兄弟の手から奪い返した長重は、相良氏家臣と共に行方知れずとなった堯頼の捜索を命じます。
ようやく、堯頼が薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口山野)にいることを突き止めると、長重は使者を遣わし


「多良木兄弟は我々が人吉城から追い出しました。もう殿様に害を成すものはおりませぬ。安心して城に御戻りくだされ」


と復帰を願いました。しかし堯頼は


「不意をつかれたとは申せ、城も領地も領民も手放してこの地に隠れた私に人吉城を預かる資格はない」

と人吉城への帰還を拒否します。その上

「此度の軍功第一は申すまでもなく永留長重。その栄誉を讃え、ここに相良氏家督を長重に譲る」

と言いだしました。


永留氏は、相良氏2代目・相良頼親の嫡男、相良頼明を祖としている相良氏庶流です。

初代・長頼が亡くなったあと、頼親が2代目家督を継ぎましたが、56歳という高齢の為、すぐに弟の頼俊に家督を譲り、以後はその血統が相良宗家となっていました。

頼親は隠居後、照角山(球磨村神瀬)に隠棲し、嫡男・頼明は山田に領地を賜って永留氏を名乗ったのです。

よって血統的には宗家の兄の血筋になるので、相良氏の家督を相続する資格は十分ありました。


使者は急ぎ人吉城に立ち戻り永留長重に言上すると、

「一体何をおっしゃっているのだ? 仮にそれがしに家督を譲るとしても、相良宗家の主が賊の襲撃をけて居城から追放されたままの状態では、相良宗家一門の不名誉に変わりはなく、近隣諸国に対して恥であるから、速やかに御戻りいただくように申せ!」

と再度使者を遣わしました。

この往来が何回も続きましたが合意することはなく、西暦1448年(文安五年)3月23日、堯頼は薩摩国牛屎院で事故死してしまいます。

事、ここに至っては当主の帰還は未来永劫望めない事態となりました。
かと言って、鎌倉時代より続く相良氏の名跡を絶やすわけにいきません。

よって、亡き堯頼の意向であり、人吉城を奪還して宗家を守らんとした長重の功績は何物にも変えがたく、同年5月13日、ここに永留長重が相良宗家を注ぐことになりました

ここに、相良氏三代目・相良頼俊を初めとする相良氏宗家の血統は絶え、新たに、相良氏二代目・相良頼親の血統から始まる新生相良宗家が生まれました。

相良宗家を継いだ永留長重は名を「相良長続」と改め、相良氏十一代当主が誕生したのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:05| Comment(0) | 人吉相良氏の軌跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする