2018年08月16日

日本人が忘れてはならないもう1つの終戦 「宮城事件」

日付が変わってしまいましたが、昨日8月15日は「終戦の日」です。

ですが、厳密に言えば、太平洋戦争が集結したのは、東京湾上のアメリカ海軍の戦艦ミズーリの甲板上において降伏文書に調印された1945年(昭和二十年)9月2日を指します。

では、なぜ、8月15日が終戦の日と呼ばれるのでしょうか?
それはこの日が、「昭和天皇による終戦の玉音放送が流された日」であるからです。

1945年(昭和二十年)8月15日正午、当時日本で唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(NHKラジオ第1放送)から、昭和天皇による終戦の詔書の音読放送がなされ、日本国民が初めて天皇の肉声を聞いた日であります。

しかし、この玉音放送は様々の立場の人間の思いが複雑に絡み合い、血を流した末にたどり着いた太平洋戦争の結末でした。

今日はその当時の8月15日の玉音放送前に起きた「宮城事件」について話をしたいと思います。


1、ポツダム宣言(無条件降伏)受諾の背景
西暦1939年(昭和十四年)9月1日に起きたドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦は、ドイツ、イタリア、日本の三国(通称:枢軸国)イギリス、アメリカ、中華民国の三国(通称:連合国)の間に広がり、西暦1941年(昭和十六年)12月8日未明、日本海軍がアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島真珠湾を攻撃したことで、日米の間の太平洋戦争が始まりました。

戦争は1943年時点で連合国軍が優勢に進めており、同年、枢軸国の1つであるイタリアが連合国に降伏。西暦1945年(昭和二十年)5月7日、ドイツが連合国軍に降伏し、残る枢軸国は日本のみになっていました。

同年7月26日、連合国軍であるアメリカ合衆国大統領(ハリー・S・トルーマン)、イギリス首相(ウィンストン・チャーチル)、中華民国主席(蒋介石)3氏は、大日本帝国に対して「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言、いわゆる「ポツダム宣言」を出し、日本に無条件降伏を迫りました。

このポツダム宣言について、当時の日本の首相・鈴木貫太郎は「ノーコメント」とし、態度を明らかにしなかったのですが、マスコミはこれを「黙殺」と報じ、通信社に至っては「Reject(拒否)」と伝えたため、日本は国際的に完全に孤立化してしまいます。

態度を明らかにしない日本に対し、アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、当初の予定通り、同年8月6日の広島への原爆投下、9日、長崎への原爆投下を実施しました。

また8日は、ソビエト連邦(現:ロシア)のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣が日本の佐藤尚武駐ソ連大使に日ソ中立宣言の破棄を通達。翌日9日未明にはソビエト(現:ロシア)が日本へ宣戦布告したことから、日本はアメリカに加え、ソビエトも敵に加わったため、これ以上戦局を維持することが物理的に不可能となってしまいます。

8月9日、宮中において、最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾についての議論が行われました。

会議は外務大臣・東郷茂徳が主張する「天皇の地位保証(国体護持)の1条件付きの降伏受諾案」と、陸軍大臣・阿南惟幾が主張する「天皇の地位の保障、武装解除の日本側実施、東京を占領対象から除外、戦犯は日本側で処罰の4条件月の降伏受諾案」の2つに集約され、東郷案支持3名。阿南案支持が3名という平行線でした。

首相・鈴木貫太郎は議論は平行線のため、天皇臨席による御前会議の席上で、首相からの「聖断」を要請することを主張し、昭和天皇は東郷外務大臣の意見に賛成したため、翌10日未明、ポツダム宣言(すなわち無条件降伏)の受諾が決定されました。


2、陸軍省の動き
ポツダム宣言受諾という御前会議での決定を知らされた陸軍省では、本土による徹底抗戦となると見込んでいた決定が180度覆ったため、多数の陸軍将校から激しい反発が起きました。なぜなら、ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、大日本帝國陸軍及び海軍は組織解体の危機に陥る可能性があったからです。

10日午前9時、陸軍省で開かれた会議において、陸軍幕僚の中には「終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべき」という意見が出ました。

当時の日本は軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の補任については現役武官の大将・中将でしか慣れないという「軍部大臣現役武官制」という制度があり、軍部大臣が内閣に不満があれば辞任し、軍部が後任の大臣を出さなければ、内閣は総辞職しなければならないという、なんとも信じられない制度がありました。

つまり、陸軍大臣である阿南が辞職すれば、陸軍は後任の陸軍大臣を出すことを固辞できるので、終戦を行おうとする鈴木内閣を総辞職においこめるということです。

しかし、阿南はこの幕僚に対し

「御前会議の決定は天皇陛下の御聖断である。陛下の御聖断に不服の者は、まずこの阿南を斬れ」

と言って、ひるませたと言われます。



3、連合国軍の回答文
8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は、日本のポツダム宣言受諾(東郷案)に対する連合国の回答文を放送しました。この中で、東郷案に示されていた「日本政府による国体護持の要請」については、

「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官(のちのマッカーサー)に従うものとする」

と回答されていたため、日本国内ではこれでは「天皇の主権が保持されない」と解釈されてしまいます。

外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、予定通り終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「これは、天皇陛下が連合国最高司令官に隷属するものだ」であると解釈し、「やはり本土決戦!戦争続行!」を唱える声が多勢を占めました。

翌13日午前9時、最高戦争指導会議が開催され、ポツダム宣言の回答文について議論が紛糾。

阿南をはじめ、松坂広政(司法大臣)、安倍源基(内務大臣)らは「国体護持について明確な返答をするよう連合国に再照会すべき」として受諾反対府が唱えられましたが、同日15時の閣議においてポツダム宣言の回答文の受諾が決定されます。

閣議後、陸相官邸に戻った阿南は陸軍軍事課長・荒尾興功大佐以下5名の陸軍将校の面会を受けます。
その時、彼らが阿南に提示したのは「兵力使用計画」と題された軍事クーデター案でした。

この計画に記されていたのは、終戦を進めている主犯を鈴木貫太郎首相、木戸幸一内大臣、東郷重徳外務大臣、米内海軍大臣とし、東部軍及び近衛第一師団を用いて皇居を包囲して、内閣と天皇陛下を隔離し、政府要人を逮捕して戒厳令を発布。天皇陛下による国体護持を連合国側が承認するまで断固戦争継続を求めるものでした。

阿南はこの計画について「とりあえず参謀総長と相談をする時間をくれ、その上で決心を伝える」と返答し、一旦一同を解散させました。

この時の阿南は相当疲れていたのだと思われます。
またこのクーデター計画についてもその意図はわかるとしても、そんなことで戦争継続したところで、日本に未来はないことが阿南にはわかっていたのではないかと思います。


8月14日午前7時、陸軍省で阿南と梅津美治郎(参謀総長)との会談が行われました。この会談で阿南は「実はこんな計画があるんだが」と「兵力使用計画」のことを梅津に告げると

「アホか。陛下の大命は下った。これを武力を以って覆そうとか帝國軍人の風上にもおけん!」

と烈火のごとく激怒し、阿南も「全くその通り」と賛同しました。
阿南の心中は

「だが、その帝國軍人だからこそ、陛下のお立場を何としても守りたいというその心構えは見上げたもののではないか」

という感じだったかもしれません。

また、この頃、陸軍軍務課員・竹下正彦中佐(阿南の義弟/陸軍軍務課)同課員畑中健二少佐は、新たなクーデター計画案「兵力使用第二案」を練っていました。

14日正午過ぎ、阿南は首相官邸閣議室において竹下らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められましたが、阿南はこれを拒否しました。

この時点で、竹下らクーデター賛同派は独力で決起することを決意したと見られます。

一方で鈴木首相も「陸軍がこのまま納得するはずがない」と読んでおり、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集。

その会議において、鈴木首相は再度昭和天皇に「聖断」を要請し、昭和天皇は連合国の回答を受諾しました。

また、この会議で昭和天皇は「国内の動揺を抑えるため自分自身の肉声で国民へ語りかける形を取っても良い」と述べられており、これがレコード盤に陛下の肉声を録音してラジオ放送する「玉音放送」につながるのです。

この時、14日の午後11時を回っていました。



4、クーデター発生
15日、午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了し皇居を退出しようとしていた下村宏(国務大臣・内閣情報局総裁)と社団法人日本放送協会(現:NHK)職員など数名が、皇居坂下門付近において、佐藤好弘大尉(近衛歩兵第二連隊第三大隊長)により身柄を拘束され、守衛隊司令部の建物内に監禁されました。

同じ頃、陸軍軍務課員・井田正孝陸軍中佐椎崎二郎陸軍中佐は、近衛第一師団司令部に押しかけました。
近衛第一師団長の森赳陸軍中将は、第二総軍参謀である白石通教陸軍中佐と会談中でしたが、井田・椎崎両名はそこを割って入り、森に自分たちのクーデター計画への参加を求めました。

森は陛下の大命に従わないクーデター計画に否定的な態度を取りましたが「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と井田に約束したため、井田はその言葉を信じて師団長室を退出しました。

井田と入れ替わりに師団長室に入ったのは、井田、椎崎と同じ軍務課員の畑中健二陸軍少佐でした。

畑中も井田・椎崎同様に森に決断を促しますが、森は取り合いませんでした。

「埒が開かない」と判断した畑中は、部屋を退出し、航空士官学校の上原重太郎大尉と陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ、再度師団長室に入室。畑中が無言で森師団長を拳銃で撃ち、続いて上原が軍刀で森を斬殺。その場にいた白石も上原と窪田によって斬殺されてしまいます。


この殺害を合図とし、近衛第一師団参謀の古賀秀正陸軍少佐は、畑中が起案したとされる「近作命甲第五八四号」を各部隊に口頭で伝え、近衛歩兵第二連隊に兵力展開を命じます。同じく、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館(現:日比谷シティ)へも近衛歩兵第一連隊第一中隊を派遣しています。

一方、皇居内の宮内省では、近衛兵によって電話線が切断されて外界から隔離されていました。また、皇宮警察は強制的に武装解除されました。

坂下門で佐藤に拘束された下村並びに日本放送協会職員らが、玉音放送の録音盤を持っていなかったため、古賀は宮内省内部の捜索を命じました。しかし、録音盤は侍従・徳川義寛の機転で、皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫の書類の中に紛れ込ませていたため、近衛兵たちの手には渡りませんでした。


5、鎮圧へ
一方、井田は、森師団長が殺害されたことの報告のため東部軍管区司令部へ行く水谷一生(近衛第一師団参謀長)に随行し、東部軍管区のクーデター参加を求めましたが、軍管区司令官である田中静壱陸軍大将高嶋参謀長は既に鎮圧の命令を下していました。

高嶋参謀長は午前4時過ぎに近衛第二連隊長の芳賀豊次郎と連絡が取れると、上官である森師団長の殺害と現在の師団命令が畑中による偽造であることを伝えます。

芳賀連隊長は師団長殺害と畑中の言動に不審なものを感じていましたが、高島参謀長の言葉で不審が確信に変わり、その場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻皇居からの退去を命じました

皇居を追放された畑中は近衛第一師団第一中隊の占領する放送会館へと向かい、大日本帝國陸軍軍人すべての決起の声明の放送を要求しましたが、日本放送協会の職員によって未然に防がれています。


午前5時頃、東部軍管区司令官・田中静壱陸軍大将は数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵連隊の一連の行動を停止させました。

そして同じ頃、陸相官邸では阿南陸相が切腹していました。
介錯を拒み、2時間後の午前7時頃、息絶えたと言われます。


クーデターは粛々と鎮圧に向けて動いていましたが、竹下陸軍中佐は陸軍大臣印を用いて大臣命令を偽造しようとしていました。しかし、井田はもうこれが無駄であることがわかっていました。井田にはクーデターが失敗であることがすでにわかっていたのかもしれません。

田中静壱陸軍大将は近衛第一師団の兵すべてを自らの指揮下に収めると、御文庫と宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝達しています。

午前8時頃、近衛歩兵第二連隊の兵士が皇居から撤収。

宮内省に保管されていた2枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ、副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬されました。

最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎と畑中は、皇居周辺でビラを撒き決起を呼び掛けましたが、玉音放送が始まる1時間前の午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺しました。

また、近衛第一師団参謀だった古賀は、玉音放送の放送中、近衛第一師団司令部二階の森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺しています。

そして15日正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われたのです。


6、まとめ
上記の事件は、歴史用語で「宮城事件」と言われています。
この事件は「日本でいちばん長い日」というタイトルで小説化されており、ドラマ・映画化された事件です。

太平洋戦争の終戦において、終戦・抗戦、それぞれが自分の信ずるところの道を進み、最終的に血が流れる事件になったのは痛々しいことですが、この後の昭和、平成という時代は、これらの礎があった上に成り立っていることを、忘れてはならないと思います。

阿南陸相が切腹をしたのはいろいろ諸説があります。
ですが、阿南陸相が陸軍を抑えていてくれたから、鈴木首相の終戦工作は成功したとも言えます。

阿南は終戦の詔書にサインをした後、鈴木首相の元を訪れ

「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」

と述べたそうです。

鈴木首相は

「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」

と答えると、阿南は

「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」

と言って、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去ったと言われています。
これは鈴木に対してだけでなく、ポツダム宣言受諾において、激しく戦った外務大臣の東郷に対しても「色々と御世話になりました」と礼を述べていたそうです。

阿南が割腹自殺をしたと聞いた東郷は「阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語ったと言われます。
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2018年08月14日

人吉相良氏の軌跡(3)ー南北朝時代後半ー

人吉相良氏の南北朝時代の後編です。


1、九州探題・今川了俊の赴任
西暦1372年(文中元年/応安五年)、相良氏六代目・相良定頼が死ぬと、その嫡男である前頼(さきより)が家督を相続し、相良氏七代目を継ぎます。

この時期の九州は北部九州(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前)は完全に南朝の支配下になっており、南九州(肥後、薩摩、大隅、日向)は南北朝が入り混じっている情勢になっていました。

そんな中、相良氏はずっと北朝方として主義を貫いていましたが、七代目前頼は「俺はオヤジとは違う」と言わんばかりに、家督相続前から密かに南朝と通じていました。

前頼からすれば

「北部九州は南朝の支配下にあり、足利幕府ば派遣する九州探題は揃いも揃って腰抜けばかり。筑前一つ維持できやしない。そんな北朝についてて、なんかいいことあるのか?」

という感じではないかと思います。

しかし、西暦1370年、すなわちまだ先代・定頼がまだ生きていた頃、情勢が変わってきました。
足利幕府六代目九州探題として今川了俊が赴任してきたのです(五代目九州探題・渋川義行は九州入りすることなく更迭)。
これは筑前守護・少弐冬資が室町幕府将軍・足利義満に望んだことでした。

冬資からすれば、南朝の天下となっている北部九州の南朝の牙城を崩すためには、何としても幕府の意向を受けた九州探題が必要だったのです。


了俊は九州探題に任じられると、まず中国地方に入って大内弘世(周防、長門、石見守護)の協力も得て中国地方の国人勢力と連携する一方、翌年1371年に豊前国(大分県)に入りました。

豊前入りした了俊は、肥前の国人・阿蘇惟村の協力を得て、了俊嫡男の今川貞臣豊後高崎山城に入り込ませます。

さらに了俊弟の今川仲秋を肥前に送って現地の松浦党を味方につけた上で、肥前、豊前、さらに筑前の少弐冬資の勢力を以って、三方から南朝本陣の征西府である太宰府を挟撃にしたのです。

この結果、前頼が家督を相続した西暦1372年には、太宰府から南朝勢力は一掃され、筑前国は北朝・足利幕府方の勢力下に復帰します。

前頼が相良氏の家督相続したのはこの直後のようで、新たに赴任してきた九州探題・今川了俊より北朝味方の軍忠を讃える文書を拝受しています。
これによって前頼は南朝に鞍替えするタイミングを失い、このまま北朝方に留まって、様子をみる方針に切り替えざるを得ませんでした。



2、今川了俊の猛攻
了俊の猛攻は続き、西暦1374年(応安七年/文中三年)には、太宰府を失った南朝の新拠点である筑後高良山城(福岡県久留米市御井町)を陥落。南朝方主力武将である肥後菊池氏を肥後菊池城(隈府城/熊本県菊池市隈府)に引きのかせて、筑後国を勢力下におきました。

さらに翌年、西暦1375年(天授元年/永和元年)、肥後阿蘇家にお家騒動が勃発します。

阿蘇家当主・阿蘇惟村の弟・惟武が、南朝の征西大将軍・懐良親王のお墨付きを以って、阿蘇大宮司職を世襲しました。これについて惟村が自らの家督の正当性を主張し、了俊を頼ったため、了俊の命令で相良前頼と相良一族の相良美作守らは、阿蘇惟武の領地を攻めることになったのです。

これが記録上、前頼の初の軍事行動になったと考えています。

また同年12月、今川了俊自身も肥後に兵を進め、大友親世(豊後守護)、島津氏久(大隅守護)、少弐冬資(筑前守護)の三大名を招集しますが、冬資だけが「やなこった」と参陣を拒むという事態が生じます。

了俊によって南朝勢力は筑前・筑後から追い出され、冬資は筑前守護職としての役割を果たせることになりましたが、今度は了俊の権力が大きくなり、守護権力に制限をかけるようになっていたため、冬資は了俊に非協力的になっていました。

そして今回の参陣の拒否で了俊の冬資への怒りは頂点に達し、島津氏久を遣わして冬資を説得させます。

冬資は氏久の説得を入れ、渋々出陣してきたため、了俊、親世、氏久、冬資は肥後菊池郡水島(熊本県菊池市七城町)で会盟しました。
しかし、その歓迎の宴の最中に、了俊は冬資を殺害してしまいます。

ようやく冬資を説得して参陣させたのに、面目を潰された島津氏久は激怒して大隅に帰国。薩摩守護・島津伊久と共に、あろうことか南朝に味方します。殺害された少弐冬資の跡を継いだ少弐頼澄も当然、南朝へ味方に。

大友親世は了俊に不信感を抱き、やはり豊後に帰国してしまいましたが、こちらは北朝方に止まっています。

この一件は「水島の変」と言われており、せっかく良好な関係を築けていた幕府九州探題と九州の守護大名との間に深い溝を作りました。
この時、相良前頼は出陣していませんが、相良一族の相良長時なる人物が名代として出陣しており、了俊の水島退去の際に殿軍(撤退時の後方を守る役目)を勤めており、今川仲秋(了俊の弟)より感状を頂いているそうです。



3、了俊への疑心と南朝への思い
西暦1376年(天授二年/永和二年)8月、相良前頼は今川了俊の命令で、了俊の末子・今川満範日向都於郡城主・伊東氏祐(日向伊東氏二代当主)と共に、南朝方となった島津家庶流・北郷氏の都於城(宮崎県都城市)を包囲しましたが、数年後に島津氏久・元久父子の援軍が現れて日向国庄内蓑原(宮崎県都城市蓑原町付近)で合戦となり、相良前頼の末弟・小垣頼頼氏が討ち死にしています。

西暦1381年(永徳元年/弘和元年)、今川了俊は南朝方・菊池氏の隈府城を落とし、肥後南朝勢力を後退させると、翌年、薩摩守護職・島津伊久が了俊に降伏し、薩摩・肥後両国に北朝勢力が広がっていきました。

肥後国に北朝の勢力が伸びてくると、もともと家督相続前から心情的には南朝方であった前頼は複雑な心境になってました。

薩摩の島津伊久は北朝方。大隅の島津氏久は表向きは了俊に降伏したものの、依然として今川了俊を敵認定し、裏では了俊を支えている南九州の国人同盟の切り崩しを行っていました。

国人同盟としては、今川方に味方した手前、逆恨みとして島津氏に攻撃されてはたまらないので、一致団結して事にあたり、了俊の保護を願うものでしたが、了俊は隈府から八代に移動していた征西府の攻撃のことしか考えておらず、国人同盟の期待した答えは出ませんでした。

これが相良前頼の後押しになったのかもしれません。

西暦1383年(永徳三年/弘和三年)4月、相良前頼は突如、南朝方に寝返り、征西将軍宮・良成親王より所領を安堵されました。
翌年、了俊は、都於城を攻めている今川満範に援軍を派遣しましたが、前頼は名和氏と共同でこれを阻止。了俊は焦ってさらに渋谷重頼を派遣しますが、これも敗退させています。

(球磨郡で何かが起きてるらしい......)

南九州の国人たちはこれを察し、前頼が南朝方に寝返ったことを確信すると、これまで了俊に従っていた禰寝氏、伊集院氏ら南九州の国人が揃って南朝に帰順し、南九州の南朝勢力は一気に復調しました。

前頼はこれらの功績を南朝・後亀山天皇に認められ、肥前守護並び蔵人頭に任じられています。

しかし、時はすでに遅しで、世の中は南北朝合一の時代に突入しようとしていました。



4、前頼の最期
西暦1392年(明徳三年/元中九年)、足利幕府三代将軍・足利義満によって南北朝合一(明徳の和約)が行われると、征西将軍宮・良成親王(後村上天皇の第七皇子)足利幕府九州探題・今川了俊との間にも和議が成立。前頼も了俊に帰順せざえる得ませんでした。

しかし、南北朝合一がなっても「関係ないね」今川了俊への敵対関係を止めなかったのが島津氏でした。
島津氏の行動原理は北朝、南朝関係なく「了俊憎し」で固まっていたのかもしれません。

西暦1393年(明徳四年)了俊は四男・今川貞兼を南九州に派遣しました。前頼はこれに従軍し、大挙して都城方面を目指して進出しました。

西暦1394年(明徳五年)正月、今川貞兼、相良前頼、日向旧北朝方の国人たちは、島津家庶流・北郷氏の野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)、梶山城(宮崎県北諸県郡三股町長田)を落城させました。

北郷氏の本城である都之城から北郷久秀(北郷氏三代当主)忠通兄弟が援軍として梶山白に駆けつけましたが、久秀と忠通は返り討ちにあってしまいます。これを聞いた島津宗家・島津元久が薩摩から援軍として駆けつけ梶山城を攻撃しました。

元久の軍勢は今川軍は敗退させ、総大将・今川貞兼は飫肥城(宮崎県日南市飫肥)に、前頼は前述の野々美谷城に逃走します。

北郷氏二代当主・北郷義久は嫡男を殺された恨みから即座に軍勢を編成し、野々美谷城を急襲しました。
この頃の飫肥城は土持氏の支配下にあり、土持氏は旧北朝方の国人でしたので、貞兼が追撃を受ける可能性はありませんでしたが、野々美谷城は都於城の支城で北郷氏の勢力圏内であり、敵地のど真ん中と言っても過言ではありませんでした。

その上、野々美谷城は攻城戦で受けた修築もままならず、また前頼は梶山城の戦いで失った兵の補充もできず、とても満足に戦える状態ではありませんでした。ここが死に場所と心得た前頼は、弟である丸目頼書、青井前成、丸野頼成と共に、この野々美谷城合戦で討ち死にしました。

南北朝の混乱期の肥後を戦い抜いた相良氏七代目当主の最期でした。
中央では南北朝和合が成りましたが、相良氏にとってはこれからが苦難の時代の始まりになります。

(つづく)
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2018年08月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(96)-重衡捕縛-

西暦1184年(寿永三年)2月7日、摂津国一の谷(兵庫県神戸市)で鎌倉軍と平家軍が激突しました。世に言う「一の谷の合戦」です。

当日未明に塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)で起きた熊谷直実、直家父子、平山季重らの先陣に始まり、夜明けとともに生田口(兵庫県神戸市中央区)源範頼率いる鎌倉軍本隊五万騎が押し寄せ、本格的な戦闘が開始。

その勝敗をわけたのは、平家の本陣・一の谷の崖上(鵯越)から駆け下りて、奇襲攻撃を行った鎌倉軍別働隊・源義経の一千騎でした。
奇襲攻撃で一の谷に降り立った義経軍の放った火は、平家の本陣も燃やし、上がった炎と黒煙は、生田口の平家勢に動揺をもたらしました。

生田口の総大将である平知盛は自軍の動揺を抑えつつ、生田口の軍勢を一の谷に向けてジリジリと撤退させようとしますが、本陣の黒煙による平家軍の士気の減退は避けがたく、また本陣が落ちたことを知った鎌倉軍の勢い凄まじく、非常に苦しい撤退消耗戦を強いられました。

また同じ頃、塩屋口の城戸が破られ、土肥実平率いる鎌倉軍別働隊七千騎が一の谷に押し寄せました。
これより、戦況は鎌倉軍有利となり、平家軍は総崩れとなります。

平家は多数の船を要しており、万が一の逃走経路は海上と決まっておりました。
しかし、源氏には船がなかったため、追跡は砂浜もしくは海岸の浅瀬までが限界でした。

ですが、この戦いでの平家一門は多数討たれ、その被害は甚大なものがありました。
戦死した平家一門は次の通りです。


・平経正(清盛異母弟・平経盛の嫡男/左馬権頭/敦盛の兄)
武蔵国入間郡の住人・河越重房によって討たれる。

・平敦盛(清盛異母弟・平経盛の三男/能「敦盛」のモデル)
武蔵国熊谷郷の住人・熊谷直実によって討たれる。


・平通盛(清盛異母弟・平教盛の嫡男/中宮亮/夢野口守将)
夢野口を離れ、湊川付近で、近江国の住人・佐々木俊綱に討たれる。

・平業盛(清盛異母弟・平教盛の三男/五位蔵人/夢野口守将)
常陸国の住人・土屋重行に討たれる。

・平忠度(清盛異母弟/薩摩守)
武蔵七党の猪俣党の一人、岡部忠澄とその子によって討たれる。

・平経俊(清盛異母弟・平経盛の四男/若狭守/敦盛の兄)
・平清房(清盛八男/淡路守/生田口守将)
・平清貞(清盛養子/尾張守/生田口守将)

全員、生田口の城戸合戦で討ち死。

・平知章(平知盛嫡男/武蔵守)
武蔵七党の児玉党の一人が知盛を襲ったのを助け、これを討ち取った後、児玉党の武士たちに包囲されて討たれる。

・平師盛(小松家・平重盛の五男/備中守/三草山の合戦後一の谷に逃げてきていた)
知盛家臣・清衛門公長という男を助けるため、船に乗せたところ、鎧の重みで船が転覆し、武蔵国男衾郡畠山郷の住人・畠山重忠の手の者によって討たれる。

・平盛俊(越中前司/清盛政所別当/夢野口守将)
武蔵七党の猪俣党当主・猪俣範綱によって騙し討ちにされる。



この戦いで失った平家一門の有力武将は十名以上にも及びました。
また上記通盛の弟・平教盛(能登守)は、逃走中に通盛と離れ離れになり、生死不明となっています。

また、生田口の総大将だった知盛は、嫡男だった知章に命を救われ、逆に知章が代わりに討ち死にするという「子が親を助ける」という、なんとも悔恨の残る事態になっていました。

辛くも一命を取り留めた知盛は船に助けられた後、棟梁・平宗盛の御前に罷り出て

「嫡男・知章には先立たれ、心細くなっております。なんの因果で、子が親を助け、親がその子が討たれるのを見なければならないのか。親が子を助けず、このように生き恥を晒しているならば、他人ならば大いに罵ることでございましょう。しかし我が身の事であれば、よくよく命が惜しいものであると思い知った次第でございまする。お恥ずかしい限り」

と言って泣き伏したと言われます。それを受けた宗盛は

「知章がその方の命を助けたことは一門にとっては尊いことじゃ。腕も立ち、豪胆な若武者だった。我が倅・清宗と同じ年齢だったの.....」

と涙したと言われます。


さて、この戦いにおいて、特筆すべきことをこれから書かねばなりません。
それは、上記の死亡リストに入っていない、平家の有力武将・平重衡(清盛五男/左近衛権中将)の行方です。

平重衡は兄・知盛とともに生田口の大将として源範頼軍と戦っていましたが、知盛の命令で、一の谷の北方・夢野口(平通盛、教経、盛俊が大将)の加勢に向かいました。しかし、衆寡敵せず、夢野口は落ち、重衡は重臣・後藤盛長と共にたった二騎で西へ逃走しました。

大将軍の鎧は他の武将と違い、非常にきらびやかで派手目立つため、落ちていく重衡主従二騎は、範頼軍の梶原景季(梶原景時嫡男/源太)庄家長(武蔵国児玉党)が目をつけられ、猛追撃を受けます。

通盛が討たれた湊川を超え、刈藻川(兵庫県神戸市長田区付近)を渡り、須磨方面に向けて必死に猛スピードで逃げていく重衡主従。命がけの逃避行のため、景季や家長がどれだけ馬に鞭打っても、追いつくことができません。

「ええい!これでは埒が開かん!」

景季は追撃を諦め、弓に矢をつがえ、思い切り引っ張って、上の空に向けると

「南無八幡大菩薩......」

と唱えて、思い切りを矢を放しました。
矢は大きく弧を描いて飛び立ち、重衡には当たらなかったものの、重衡の馬に命中し、馬は足を詰めらせ、重衡は地面に叩きつけられました。

「おのれ......」

幸い重衡は落下時の打ち身以外は無傷で、立ち上がって振り返り、追っ手の方角を見、敵の姿を認めると

「盛長、敵は二騎じゃ。ここで見事立ち合って我らの未来の血路を開こうぞ」

と言って振り返ると、盛長は重衡の目線を逸らし、

「御免!」

と言って頭を垂れると、馬に鞭を入れ、一目散に駆けて行ってしまいました。

「盛長?。おい盛長、なぜ逃げる?お主、俺を捨てて一人だけ逃げるというのか?」

盛長はその言葉を背後で受けながら振り返らず、平家の武将の印である赤印を投げ捨て、一路、西へ西へ駆けて行きました。

後藤盛長は、重衡の乳母の子供で、幼い頃より重衡に仕えていた腹心中の腹心でした。

その腹心に裏切られた重衡は茫然自失となり、平家も遠く逃げてしまっていれば、観念するより他はありません。背後から景季、家長の馬の蹄の音が近づいてきていました。

重衡は兜を捨て、鎧を解き、その場に座って胡座をかき、いざ、自害せんと欲しました。
しかし

「あいや、待たれよ!しばらく!しばらく!」

という家長の声が聞こえ、脇差を抜こうとする手を止めました。
家長は馬から降り、重衡に駆け寄って

「大将軍ともあろう方が、このようなところで自害されるとは、なんと分別のないことをなされるか!」

と重衡に言いました。
家長に続いて、景季も後から重衡に近づき、重衡に膝を付くと

「それがし、相模国鎌倉郡梶原郷の住人・梶原源太と申しまする。将軍の御名をお聞かせ賜りたい」

と頭を下げると、重衡は脇差を家長に預け

「三位中将・平重衡」

とだけ名乗りました。
これには景季も家長も驚き、家長に至っては重衡より預けられた脇差をその馬に放り出して、平伏しました。

すでに平家の人間は、朝廷によって全員解官されているため、左近衛権中将の官位は無効となっておりますが、正三位といえば、上級貴族であり、これまで源氏が討ち取り、捕縛した平家の人間の中で、間違いなく最高位の公卿でした。

「三位殿、我らと共にご同行願い奉りまする」

景季をそう言うと、重衡を盛長の馬に乗せ、盛長は矢を受けて弱った重衡の馬を引き、本陣へ帰投しました。
こうして、清盛五男にして、正三位左近衛権中将・平重衡は鎌倉軍の捕虜となったのです。


これにて「一の谷の合戦」は鎌倉軍の大勝利で終了しました。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」によると、この戦いの翌日の2月8日に、藤原範季(従二位式部権大夫)の元に梶原景時より飛脚が送られており、そこには合戦の模様が克明に記されていました。

それによると、この戦いは2月7日の辰の刻(午前7時から午前9時)から巳の刻(午前9時から午前11時)までの一時ほどの間、と記載されており、およそ2時間程度の戦いだったようです。

また同じ日の「玉葉」に

「劔璽・内侍所の安否、同じく以て未だ聞かず」

とあり、この時点で鎌倉軍は「三種の神器」の奪回に失敗していることを報告しています。

つまり、平家が京都を奪還せんと一の谷・福原まで攻め寄せており、それを撃退したことは鎌倉軍の大手柄でした。

しかし、朝廷としてはそれ以上に「三種の神器」の奪還が至上命題でした。なぜなら、神器が朝廷に存在することこそが、後鳥羽天皇の即位の正当性を公家社会に示すものだったからです。

これを聞いた後白河法皇の苦虫を噛み潰した顔が思い浮かぶようです。


そして、2月9日、鎌倉軍は京都に凱旋しました。そこには囚われの身となった平重衡の姿もありました。
京都に着いた後の重衡の身柄は、土肥実平(鎌倉軍別働隊・義経名代)の屋敷に閉じ込められました。

一方、一の谷を追われた平家は、海流に従って紀伊方面へいく船、瀬戸内海を西へいく船、それぞれが行先の決まらない当てのない船路が始まっていました。

京都を追われた後、西国を基盤に再び十万余騎を従えて、京都を奪還せんと望んだこともたった一日の合戦で、多くの身内を失い、一の谷・福原を失い、また行先も決まらない不安な中では、眠ろうと思っても眠れないことだったと思われます。

なお、一の谷の合戦の前、一の谷北方の夢野口の大将を仰せつけられた平通盛の正室・小宰相(第87回「平教経の出撃」参照)は、通盛が討たれたことを知った日からおよそ七日後、平家の船団が屋島に到着する寸前に、お腹の子供と一緒に瀬戸内の海へ入水自殺されました。

平家物語は

「昔から夫が死んだ後、残された妻が出家することは多いが、身投げしてまでとは滅多にない。武士の世界は忠臣は二君に仕えずというが、女の世界でも貞女は二夫にまみえずというのだろうか」

という言葉で結んでいます。

(つづく)
posted by さんたま at 16:33| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする