2018年07月17日

人吉相良氏の軌跡(1)ー鎌倉時代ー

熊本県の南西部に「人吉市」という都市があります。

熊本県の最南端であり、人口は約32,000人。

市内を日本三大急流の1つである球磨川が流れ、川下りと温泉を主な観光資源とし、人吉市を含む球磨地方全体が日本遺産に指定されています。

人吉は鎌倉時代から相良氏が支配し、江戸時代に人吉藩2万石が立藩され、明治維新まで続きました。
鎌倉時代から明治維新まで1人の大名によって支配され続けた例は、人吉相良氏の他は薩摩島津氏ぐらいではないでしょうか(他にもあるかもしれませんが)。

今回はその「相良氏」にスポットを当ててみたいと思います。


1、相良氏とは
相良氏の初期系図には混乱が生じておりまして、何が真説かを特定するのは非常に困難な状況です。
通説では、相良氏は藤原南家(藤原不比等の長男・武智麻呂から発する藤原氏の一族)の流れで、工藤氏庶流・工藤周頼が、遠江国(静岡県西部)の相良荘に住んでおり、その地名を姓としたことに始まると言われています。

で、工藤改め相良周頼には子がなく、同じ工藤氏の流れである伊東氏(子孫は日向国の戦国大名)から当主・祐光の子・伊東光頼が相良家に養子入りしたとあるのですが、この光頼という人物の足跡がほぼ分かりませんでした。


2、鎌倉時代の相良氏
西暦1180年(治承四年)、源頼朝が平氏打倒の挙兵をしてから、1185年(元歴二年)に平氏が壇ノ浦に滅びるまでの間、相良氏当主・相良頼景は一貫して平氏の武将として活動しており、領地である相良荘の大半を没収の上、肥後国球磨郡多良木荘(現:熊本県球磨郡多良木町)に追放されました。

しかし、それから8年後の西暦1193年(建久四年)、頼景は許され、頼朝より追放先の多良木荘の地頭(荘園の管理者)に任命されています。

一方で頼景には嫡男・相良長頼がおり、彼は没収された相良荘の一部を領し、そこで細々と生計を立てていました。

西暦1198年(建久九年)12月、頼朝は長頼を呼び出し、肥後国球磨郡人吉に下向し、下球磨地方を横領している平頼盛の家臣・矢瀬主馬祐を討てという命令を与えます。これは父・頼景が下球磨地方の多良木荘の地頭だったことも関係してるかもしれません。

長頼は命令通りに人吉に下り中球磨地方を領している平川義高(木岩上城主:現:熊本県球磨郡錦町木上岩城)と協力して、矢瀬を討ち、見事人吉城を奪取しました。


その6年後、相良氏の将来を一変するような大事件が起きます。


西暦1204年(元久元年)11月4日、鎌倉幕府重臣・畠山重忠の嫡男・畠山重保は、平賀朝雅(北条氏当主・北条時政の娘婿)と口論となり、朝雅は義母である北条時政の正室・牧の方に讒訴しました。

牧の方はこれを夫である時政に「畠山重忠の謀反」と伝えたため、翌1205年(建久二年)6月22日、畠山重保は謀反人として誅伐されました。世に言う「畠山重忠の乱」です。

北条氏当主・北条時政は畠山重忠を討つべく御家人に招集をかけました。この御家人の中に鎌倉に参勤していた相良長頼の姿もありました。

大将軍・北条義時に率いられた討伐軍は二俣川(横浜市旭区)で畠山軍と激突。この戦いで長頼は武功をあげ、恩賞として肥後国球磨郡人吉荘の地頭職を賜りました。人吉相良氏の始まりです(相良氏初代)

さらに西暦1221年(承久三年)、後鳥羽上皇による鎌倉幕府撲滅作戦「承久の乱」が勃発すると、長頼は弟である相良宗頼相良頼忠と共に、北条時房(義時弟・後の鎌倉幕府連署)の軍に加わりました。

相良軍は宇治川の戦いで一番槍の功名を立て、敵将を討ち取るなどの軍功を挙げた結果、北条義時から遠江国相良荘を与えられ、父子の代から続く念願の本領回復を果たしたのです。

しかし良いことばかりではありません。
西暦1227年(安貞元年)、長頼が多良木荘を相続してることから、この頃、父・相良頼景が亡くなったようです。

続く西暦1243年(寛元元年)には、甥・相良頼重(前述の相良宗頼の子)肥後国山鹿郡泉新荘(現:熊本県山鹿市)の事で内輪もめが起き、これが原因で人吉荘の北半分を召し上げられてしまいます。

ただし、西暦1249年(建長元年)、北条時頼(鎌倉幕府5代執権)より、豊前国上毛郡成恒荘(現:福岡県築上郡上毛町)の地頭職を賜っていることから、この召し上げは冤罪の可能性がありそうです。

西暦1254年(建長六年)3月、相良氏初代・長頼死去。家督は長頼嫡男の相良頼親が継ぎましたが、すでに56歳だったそうで「今更家督を譲られても」と憤慨し、翌1255年(建長七年)、弟の相良頼俊が相良氏三代目の家督を相続しました。

西暦1281年(弘安四年)、蒙古が襲来し、弘安の役が始まると、頼俊は兵を率いて菊池武房(肥後菊池氏当主)に従って博多で戦い、嵐で船が難破した蒙古兵を一網打尽で捉えて斬首する武功を挙げました。この功で菊池武房より葦北郡(熊本県葦北郡)が与えられています。

単純に考えて、この頃の相良氏は肥後国の3分の1ぐらいは領土にしていたと考えられるのではないでしょうか?

しかし、この蒙古襲来以後、鎌倉幕府は少しずつ崩壊に向かって進み、相良氏も歴史の流れに翻弄されることになります。

(つづく)
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2018年07月14日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(95)-本陣落つ-

西暦1184年(寿永三年)2月7日、鎌倉軍は、一の谷の東の生田口(兵庫県神戸市中央区)から源範頼率いる本隊五万騎が、西の塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)から土肥実平率いる七千騎がそれぞれ攻めかかりました。

また、義経に夢野口(兵庫県神戸市兵庫区夢野町)の抑えを託された安田義定(甲斐源氏)が率いる別働隊七千騎も、夢野口の平家軍に攻めかかっていました。

源氏も平家も入れ替わり、名乗り合い、戦い、傷つき、一進一退の大混戦という状況です。
その状況を一の谷の崖上(鵯越)から伺っていたのが源義経率いる別働隊一千騎でした。

義経は自らの手勢一千騎をできる限り音を立てることなく、鵯越の上に着陣し、一の谷の模様を眺めていたのです。
しかし、動物たちは正直なもので、馬に乗った騎馬武者を見るに、鹿などは次々と鵯越から一の谷に降りて行っていました。

「あれが、鹿の鵯越か」

義経がそういうと、熊王が

「あの動きをよく見ておくことです。ポイントはは重心のかけ方と分散の仕方」

と言上すると、義経は

「相わかった」

と答えると、弁慶を呼んで

「馬を二、三頭、崖下に放て」

と命じました。

弁慶によって放たれた馬三頭のうち、一頭が崖下にたどり着く前に足を折って転がり落ち、うち一頭は問題なく一の谷の地に降り立ちました。もう一頭は、うまく降りながら、平家の陣のとある屋敷の屋根に降りたち、下に降りれなくなって右往左往していました。

これに驚いたのが、言うまでもない平家の陣です。
先ほどの鹿に続いて、今度は馬が降ってきたのですから

「間違いなく、崖上に敵がいる」

と勘づくのは当然でした。しかし平家の兵たちが崖上の敵に備えるのは、掻盾と呼ばれる矢の盾を揃えることでした。この崖上に敵がいるなら、その武器は弓矢であるという考えは、間違いではありません。彼らには、ここから人間が降りてくるとは、到底思えなかったのです。

崖上の義経は放った馬三頭の動きを見

「馬は自分で降りる道、降り方を心得ているようじゃ。これぞ野生のなる技よ」

と言うと

「これより、我が軍はここを降りる!九郎に続け!!」

と檄を飛ばし

「いやああああ!」

と喚声をあげながら馬ごと鵯越を下りて行きました。弁慶ら義経主従もこれに従いますが、幾人かの武士がビビって狼狽していると

「我は相模国三浦郷の住人・佐原十郎なり。我ら三浦の者は鳥一羽追い立てる時もこのようなところを駆け回っておる。ここは三浦の馬場と同じよ!臆することはない、自分の愛馬を信じて、進めやあ!!」

と、さらに檄を飛ばして勢いよく鵯越を駆け下りていくと、先ほどまでビビっていた武士達も

「ええい、ままよ!」

「南無三!」

と口々に叫びながら、一斉に鵯越を降って行きました。


一方の平家の陣は、馬の蹄の音とともに近づいてくる人の喚声に

「おい......何が起きてるんだ?......この喚声はどこから聞こえてくるんだ?」

と周囲を見回して狼狽するばかりでした。
やがて何人かの兵が、上に目をやると

「敵だ!敵が現れたぞー!」

と言いながら、一目散に逃げていきます。
周囲の兵達も崖上に目をやると、そこには義経を筆頭とした騎馬軍団が怒涛の勢いで降りてくる姿がはっきりと見えていました。

平家の陣立ては、東の生田口に平知盛(清盛四男)重衡(清盛五男)。西の塩屋口に平忠度(清盛異母弟)、北の夢野口に平通盛(清盛異母弟・平教盛嫡男)平教経(平教盛次男)が守っており、一の谷本陣の守りは手薄となっていました。

それは一の谷を攻めるならこの三口しかなく、馬での通行が難しい鵯越の崖を降りてくるなど想像もしていなかったからです。

義経軍一千騎のうち、何頭かの馬は駆け下りに失敗し、武将も負傷した者もいましたが、多くは無事に一の谷に突入することができました。主たる将もなく、右往左往する平家軍に対し、義経軍は縦横無尽に一の谷の平家陣を蹂躙し、義経軍の村上基国(信濃源氏)が平家陣の松明を奪って、建物に火をかけました。

一の谷は海に面している関係から風が強く、火は瞬く間に燃え広がって、平家の陣の建物を次々と焼け落として行きます。

兵達は岸につないであった船に我先にと乗り込んで逃げようとしますが、鎧をつけた武者が100人単位で乗れば、さすがの船も重さに耐えきれず、次々と沈んでいきます。沈没を防がんと、平家の武士は自分たちの配下である平家の兵の手足を斬り、船から投げ下ろして、逃げる姿が見受けられました。


同じ頃、生田口の平家の陣には、夢野口(平通盛、平教経、平盛俊)が押されているという報告が届き、知盛は最前線で戦っていた弟・重衡を陣に戻して夢野口方面の救援に回しました。そして総大将である知盛自ら最前線に押し出すことになります。

知盛は平家最強の武将であり智将でありました。一の谷の三方の攻め口には、戦上手の平忠度、平盛俊などを置き、その上に三草山に小松家一族(平資盛ら重盛の子供達)をおいて、源氏を牽制するなど、その軍法に隙はないと言っても過言ではありませんでした。

ゆえに、この時、一の谷の本陣で何が置きているのか、まだわかってはおりませんでした。

「そこに見えるは、前の武蔵守殿とお見受けいたす」

と源氏方の騎馬武者から声をかけられた知盛は

「いかにも前武蔵守・平知盛じゃ」

と答えると

「我は児玉党(武蔵国の武士団)の一員です。あなた様が武蔵国の国司であったご縁でお教えいたします。後ろをご覧なされませ」

と騎馬武者がいうので、知盛は馬を45度右に回し、その上で首を45度右に回して後ろを伺いました。
首だけ90度回すのはあまりにも隙が多すぎて、後ろからバッサリ斬られる可能性もあったからです。

その知盛の目に映った光景に知盛は目を大きく開けて愕然としたのです。
それは、黒煙をあげている一の谷の本陣でした。

「バカな......本陣が落ちたのか......」

そして次の瞬間、源氏方の方から凄まじい喚声が上がりました。
範頼が総攻撃の下知を下したのです。

本陣からの黒煙は生田口の平家の兵達の士気を下げるのに十分でした。

「退くな!退いてはならん!あれは源氏の策略じゃ!本陣は......ミカドは無事じゃ!」

知盛は一瞬ひるみましたが、児玉党の騎馬武者に向かって刀を向けると

「小賢しい真似をしくさって......あんな策略に引っかかる我ではないわ!」

「言うたはずです。前の国司であるあなた様だから申し上げたと」

「言うな!」

知盛は刀を騎馬武者に向けて一合、二合交わすと、隙をついて、騎馬武者の腹に刀を突き刺すと、騎馬武者はそのまま馬上から崩れ落ちました。

「本陣はまだ落ちてはおらん!守れ!守りを崩してはならん!」

士気が下がり気味だった平家の兵達は知盛の檄でかろうじて、士気を取り戻し、必死に守りを固めました。

しかし、知盛は本陣が落ちたことは間違いないと思っていました。
ただ、本陣が落ちたとしても、容易に撤兵すれば軍の損耗は激しくなる上、ミカド(安徳天皇)を失いかねない状況だけは避けなくてはならないと思っていました。

それゆえ、モチベーションの下がった兵の士気を鼓舞し、ここの守りを固めながらジリジリと撤退する消耗戦を行わねばならなかったのです。

(兄上、主上を女院を頼みます.....)

知盛の忍耐が試される戦いが始まろうとしていました。

(つづく)
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2018年07月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(94)-鬼神・梶原景時-

西暦1184年(寿永三年)2月7日の明け方、武蔵国の住人・熊谷直実・直家父子と平山季重らが、一の谷の西側にある塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)の平家の陣にに攻めかけたことにより、開戦となったこの戦いは、後世には「一の谷の戦い」と呼ばれるものです。

直実、季重の先陣もさしたる手柄をあげられることなく、後続の土肥実平率いる別働隊七千騎の到着により、塩屋口は一気に混戦模様となりました。

一方、源範頼率いる本隊は、一の谷の東側である生田口(兵庫県神戸市中央区)から攻めかけました。その数、約五万騎。
生田口の平家方の総大将は平知盛(清盛四男)でした。

本隊の先陣も、偶然にも熊谷直実と同じ武蔵国の住人の河原太郎、河原二郎という弓の名手の兄弟でした。しかし、塩屋口とは違い、この兄弟は深入りしすぎて、平家方の弓の名手・真名辺五郎の手によってスキをつかれて討たれてしまいます。

河原兄弟の討ち死に聞いた梶原景時は、自身の手勢五百騎を連れて生田口の平家の陣に突撃をかけました。

景時の軍勢は平家の陣形を崩すのに十分な暴れっぷりでした。だが、それは景時次男・景高が父親よりも先行しすぎて孤立状態となった際に、景時はもちろん、三男・景茂までもが、景高を守らんと獅子奮迅の活躍をしたためです。

「一旦、本陣に戻るぞ!」

景時の五百騎は平家方を五十騎ばかりうち破り、本陣に帰還しました。
しかし、帰還した騎兵の中に嫡男・景季の姿が見えないことに景時が気づきました。

「おい、源太(景季)はどうしたのだ?」

景時は手勢の者に訪ねましたが

「わかりませぬ。源太様の馬は平次様(景高)よりも先行していた様子。もしや敵陣に深く分け入って、討たれてしまったのかもしれませぬ」

「なんだと......」

手勢の者に声に、景時は愕然としつつ、自らの行動を恨めしく思いました。

先陣を務めた河原兄弟が討たれたことで、本隊の士気が下がるのを恐れた景時は、味方の気勢を上げるため、手勢を率いて自ら敵陣に突撃しました。その際、先行していた次男・景高は視界の領域内にいたので、なんとかフォローできましたが、嫡男・景季は視界から外れており、帰陣するまで気にも止めていなかったのです。

景時は景高の姿を見つけて、景季のことを訪ねましたが

「兄者はそれがし(自分)よりも相当前に行っておりました」

という答えが帰ってきたため、景季が景高先行していたことは疑いもないことでした。

「わしの馬を牽け!」

景時は自分の手勢にそう命じると、下男が慌てて、景時の馬の轡を引いてきました。

「父上、何をなされるおつもりです」

景高が尋ねると、景時は黙したまま馬に跨り

「この世に生まれ、今のこの時を生きるは、我が家・子孫を絶やさんがため。しかし、ここで嫡男を失って、わしが生きながらえたとしても意味がないわ。」

「まさか、再び戦さ場に?」

「それにまだ源太が討たれたと決まったわけではない。仮に討たれていたとしても我が目で見ぬうちは信じられぬ!」

そう言った景時は、馬の手綱に檄を与え、再び、生田口の戦場に戻っていきました。

生田口の戦場は敵味方の混戦状態となっており、簡単に馬が分け入れられる状態ではなくなっていました。
景時は大きく息を吸い込み

「平家方の者共、よっく聞けぇぇぇ!!」

と叫び

「その昔、八幡太郎義家公が、奥州の後三年の戦いで、出羽国千福の金沢城をお攻めになられた時、たった十六歳で先駆け、右の目を射抜かれながらもその敵を見事射落とした鎌倉権五郎の末裔・梶原平三。ここにあり!見事我を討って、御大将にお見せしろ!!」

と言葉を続けながらも、混戦状態の敵陣に突っ込んで行きました。

それを見ていた平家の平知盛は

「梶原平三......確か大庭一族の縁者よの」

と馬上で呟くと

「は。平家より源氏に移った裏切り者であります」

と従者が罵りましたが、

「だが、東国では知らぬ者はいない猛者と聞く......皆の者に伝えよ。あの者を討ち漏らすでないぞ!!」

と周囲の士気を鼓舞させて、景時に向かわせました。


この時の景時はまさに「鬼神」と言っても過言ではありませんでした。
混戦状態の戦さ場に馬で分け入ること自体、自殺行為に他なりません。しかし景時は我が身を顧みず、刀を振り回し、馬を縦横無尽に走らせ、奇声をあげながら平家の兵をバタバタと倒していきました。それは何かに取り憑かれた様に見えました。そして口にする言葉は

「源太!梶原源太はどこじゃあ!」

ただそれだけ。景時の鎧にはすでに数本の矢が刺さっており、鬼気迫る表情は、平家の兵を恐れおののかせるのに十分な怖さでした。

そんな中、景時は生田口の崖の下に、景季らしき鎧をつけた武者を発見しました。
すでに馬は矢で射抜かれて、近くに横たわっており、景季らしき武者自身も鎧に無数の傷を受けていました。
その武者の左右には、郎党らしき者二名が景季を守るかのように、平家の武士五人と戦っていました。

「源太!そこかぁ!」

景時は即座に馬をそこまで走らせると、即座に馬から降り、刀を地面に突き刺して景季のそばに寄りました。

「父上.....?」

景季は自分の目の前に父がいることが信じられない様子でした。

「はっはっは!まだ討たれたおらなんだか!源太!」

景時は、幾度も景季の鎧をバンバンと叩いて、景季を正気にさせました。
景季の意識がはっきりするのを確認した景時は、景季を背にして平家の兵に向かい合うと

「平家の者どもよ。ようも我が愚息をいたぶってくれたものよ。ここからはこの梶原平三がお相手仕る!命知らずはかかってまいれ!」

と言うと、地面に突き刺した刀を勢いよく抜き、敵に構えました。

「平三様.....」

二人の郎党も顔を見合わせ、気を持ち直して、平家の兵に相対します。そして源太も崖に寄りかかっていた体を起こし、太刀を抜きました。

「いやあああああ!」

景時が喚声をあげながら、平家武士五人の前に太刀を大きく斬り下げました。五人はサッと身を交わし、景時を取り囲むように散ると、今度は左右の両脇から平家武士が景時に斬りかかってきます。それを刀で受け払ったのは景季の郎党二人でした。

「見事!」

それを見届けた景時は、正面の平家武士三人向けてさらに踏み込んで素早く太刀を横一文字に太刀を流しました。景時の手には相応の手応えを感じました。二人の武士の胴と手から鮮血が吹き出ました。しかし、鎧に阻まれ、傷は浅い者でした。

それを見た左右の平家武士も傷を負った二人のところまで引きと、二人を庇ってジリジリと後退していきます。

「立ち合えや!立ち合え!」

景時は刀をだらんと下げ、さらに平家武士との間を詰めるべくゆっくりと歩を進めますが、まるで磁石が反発するかのように平家武士はジリジリと後退し、やがて「退け!退くのじゃ!」と一人の武士が叫んで、全速力で撤退していきました。

敵の撤退を見届けた景時は振り返って、景季のところまで戻ると

「進むも退くも戦機による。その戦機を読む目を早う身に付けよ。源太」

と声をかけ、景季は無言で頷きました。

「陣へ帰るぞ!」

景時は景季の郎党に命じ、景季と共に馬を駆けて陣所に戻りました。

生田口、塩屋口の戦いは一進一退で、どちらが優勢か劣勢かはにわかには見定めにくい状況となっていました。
その状況を一の谷の北側の「鵯越」からじっと眺め、「戦機」を伺っている一団がありました。

(つづく)
posted by さんたま at 11:37| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする