2018年06月16日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(93)-一の谷開戦-

西暦1184年(寿永三年)2月7日の明け方、一の谷の塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)の東の空は、ゆっくり明けつつありました。

塩屋口の平家陣の前に並ぶは、熊谷直実、直家、平山季重の他に、見知らぬ武士が二騎近づいてきていました。

直実はすでに先陣の名乗りを済ませているので、今更名乗る必要はありませんでしたが、後から来た平山らに自分の立場をはっきりさせようと、夜明けとともに、改めて名乗ることにしました。

掻盾(盾を垣根のように並べたところ)の前まで進みながら

「先に名乗った武蔵国の住人・熊谷次郎直実と我が子、小次郎直家。この戦いの先陣つかまつる。我こそと思う平家の侍はこの直実と立ち合え!」

この名乗りを聞いた平家陣の方は

「まーだ、誰かなんか叫んどるのか.....」

と陣幕の中から眠い目をこすりながら出てきたのは、平盛嗣(平盛俊の子/越中次郎)、藤原忠光(平家譜代の家人・伊藤義清の次男/上総五郎兵衛)、藤原景清(伊藤義清の四男/悪七兵衛)の三人でした。

「はい。あそこにいる武者たちから聞こえてきまする」

門兵がそのように答えると

「熊谷なんちゃらと言うたの......夜が明けるまであそこにずっといたっちゅーことかい」

と忠光が呆れ顔で言いました。

「そしたら、一つ、朝飯代わりの運動といきますか」

と景清。三人は顔を見合わせて、頷くと「馬、引けぇ!」と下人に命じました。
盛嗣、忠光、景清の三人と、その郎党、合わせて二十騎兵ばかりが塩屋口の城門を開いて、熊谷ら五騎に向かって出撃したきたのです。

これを見た季重は

「保元・平治の戦に先駆けを仕った武蔵国の住人・平山武者所季重!参る!」

と名乗りながら、二十騎の中に突撃していきます。負けじと直実・直家父子もそれに続きました。

「平山殿、先陣の名乗りはワシじゃぞ。抜け駆けは無礼ではござらぬか!」

直実は季重に異議を申しますが

「はっはっは!敵は二十騎。我らは五騎。ともに先陣の花を散らせようぞ!」

と笑いながら敵に向かって駆けていきます。

季重が敵の中に深く分け入り、直実・直家父子は季重の後方を守ります。季重が後ろに引くと、今度は直実・直家父子が中に分け入って、季重が後方を守る。両者はそんなコンビネーションを繰り返し、一丸となっていた平家二十騎がやがてズタズタに散り散りなっていきました。

「ただの猪武者と思っておったが、これはかなわん。一旦退け!」

と盛嗣が下知をし、残った平家の騎兵に再び城門に向かって引き上げろと命じました。

それを知った直実は

「鎌倉を出発した時から我が命は佐殿(頼朝)に預け、この地を死に場所と定めた直実ぞ! 室山、水島の戦いで功名をあげた越中次郎殿!、上総五郎兵衛殿!、悪七兵衛殿!、能登殿(平教盛)!、いずれの方かおられぬか? 手柄は敵によってこそ決まるのじゃ! それがし以外の者に立ち向かっても手柄をあげることはできん!直実と立ち合え!」

と再び大声をあげると、自分の通称を呼ばれた盛嗣は馬を返し、盛実の方に歩み寄って行きました。
直実も刀を額の前に構え、全身より殺気を放ちながら、盛嗣に向かって馬を歩みよらせると、盛嗣はさっと馬を返して城門に逃げ帰りました。

「さては越中次郎殿とお見受けする。ワシが敵では不服か?立ち合え!」

と叫びましたが、盛嗣は

「そうはいかん!」

と一言だけ返して城門の中に戻っていきました。

「次郎殿、これは些か敵に対して無礼ではないか」

と景清が言うので

「では、そなたが行けば良い」

と盛嗣が促し、景清も出陣しようとしますが

「まぁ、待たれよ。これが主君の大事というほどのことでもあるまい。ここで出るのはもっての他じゃ」

と忠光に制しされました。

直実はなおも「馬を出してともに立ち合え!」と叫び続けますが、これに呼応する平家の武士はおりませんでした。
やがて、土肥実平率いる別働隊七千騎が到着し、そのまま城門に押し寄せ、一の谷の塩屋口の戦いが開戦となりました。

この戦い、直実の望み通り、熊谷直実が一番槍、平山季重が二番槍と記録されています。

なお、余談ではありますが、ここに出てきた「悪七兵衛景清」こと伊藤景清とは、後世では「平景清」と呼ばれ、能の演目「景清」、人形浄瑠璃「出世景清」など多くの創作物のモデルとなった人物です。

近年(と言っても1980年代ですが)では、ナムコ(現:バンダイナムコゲームス)が開発したコンピュータゲーム「源平討魔伝」の主人公にもなっております。


(つづく)
posted by さんたま at 14:01| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする