2018年05月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(92)-先陣争い-

西暦1184年(寿永三年)2月6日夜、鎌倉軍別働隊の源義経は、一の谷の上の崖(鵯越)を降りる決心を構えました。

この別働隊の武士の中に武蔵国熊谷郷の領主・熊谷直実という者がいました。

直実は、もともとは平家の軍神・平知盛に仕えた平家の武士で、大庭景親にしたがって石橋山の戦いに参加しましたが、その後は頼朝に臣従し、常陸国の佐竹氏討伐(金砂城合戦)で軍功をあげたので、本領である熊谷郷の支配を認められていました。

そして、この戦いにも鎌倉軍の一人として、嫡男・直家とも参加しております。また、同じく武蔵国の多西郡舟木田荘平山郷(東京都日野市平山)の領主であり、先の佐竹氏討伐で直実とともに軍功をあげた平山季重も参加していました。

別働隊は、大将である義経が鵯越を馬で駆け降りて、平家の一の谷の陣を急襲する決定を下しました。

しかし、この決定に直実はあまり納得はしておりませんでした。

というのも、無事に鵯越を降りて一の谷に攻め込むことができれば文句はないのですが、万が一、駆けおりる最中に態勢を崩して首でも折れば手柄の立てようがありません。

(果たして、九郎殿と供に鵯越を駆けおりることがベストな選択なのか?)

そう考えた直実は、使いをやって嫡男・直家を自陣に呼び寄せました。

「父上、お呼びにより参上いたしました」

直家は戦の直前の突然の召喚にやや戸惑いを感じつつも、直実に対面しました。
直実は人払いを命じると、直家に「近う」と言い、直家もそれにしたがい、直実との間を詰めました。

「戦の前に呼び寄せたのは他でもない。そなたも知っての通り、御大将の部隊は明朝、この崖・鵯越を駆けおりることになっておる」

「そうですが、それが何か?」

「我が家は鎌倉殿の幕下に加わって日が浅く、まださしたる大手柄がない。この戦でなんとか先陣を務めて鎌倉殿の覚えめでたくしたいものの、駆け下りでは誰が先陣というものでない。最悪、落馬してあの世行きじゃ。なので、ワシはこれから密かに土肥殿が向かった塩屋口に向かおうと考えておる」

父の突然の独白に、子である直家は驚いたものの

「さすがは父上。あっぱれな心がけと存じます。ならば直家もお供させていただきます」

と父・直実の考えに同意しました。

「しかしながら、我が手勢だけではちと心許ないものがあります」

と直家が言うと

「確かにそうじゃな......ならば平山殿にも声をかけよう」

と直実は下人を呼んで、平山季重に使いをやりましたが、なんと季重はすでに山を降りて一人で塩屋口に向かって行っていました。そのことを下人から聞いた直実は

「やられた!。平山殿も同じことを考えておったか」

と悔しがり、すぐさま直家と共に塩屋口に出立しmした。


一方、一の谷の塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋)では、義経から七千騎を託された土肥実平が無事に着陣し、陣を整え、合戦が始まるのをじっと待っておりました。熊谷直実・直家父子は波打ち際まで出て、闇に紛れてそっと塩屋口の西の門に近づくことに成功します。

「よし、うまく行ったぞ」

「父上、あとは夜明けを待つばかりですね」

「いや、平山の例にもあるように意外と先陣を狙っている者はいるのかもしれん。わしだけとは思わん方が良いな」

「まさか」

「すでに我らの近くに居て、夜明けを待って、いきなり名乗りをあげる者がいてもおかしくない。我らがここまで入り込めたのだから、他の者の可能性もある」

そう言われると直家も不安そうに周りを伺い始めました。

「だが、こういうものは名乗った者が勝ちよ。いざ名乗らん!」

と言いながら直実は掻盾(垣根のように並べた盾)の側まで移動して

「武蔵国の住人、熊谷次郎とその一子・小次郎、一の谷の先陣なるぞ!」

と名乗りました。

しかし一方の、平家の方は

「んー? 夜明け前のこんな時間に先陣の名乗りとかアホちゃうか。皆の者、相手にするでないぞ。放っておけ。矢が射掛けられても射返してはならん。相手の矢が尽きて馬の足が疲れるだけじゃ」

とガン無視を決め込みました。

勢いよく名乗ったものの、相手の反応がない直実はあたりの静けさに自分の居場所を失いそうでしたが、後ろから人が近づく気配を感じ

「誰だ」

と振り返りました。すると

「武蔵国の住人・平山季重」

と名乗りました。その声にホッとした直実でしたが、季重から逆に「その方は?」と尋ねられると

「熊谷次郎直実」

と名乗り

「なんだと?熊谷殿はいつからここに?」

「夜明け前からです。あなたはわしより先に出発したはずなのに、なぜこんなに遅かったのですか」

「それがな、まぁ、恥ずかしい話じゃが。聞いてくれや。成田五郎にハメられて遅くなった。」

「成田.....あの者も先陣狙いでしたか」

「そうよ。あの者、わしが先陣狙っておるのを知ると『死ぬなら一緒に』とかいうので、供を許したのじゃ。そしたら直前になって『味方の手勢もなく突入するのは無意味なこと』とか抜かしおったので、わしも『そりゃそうだ』と同意し、敵陣からちょっと離れた丘の上に共に馬を並べたのじゃ。そこで討ち入る算段でもするのかと思ったが、あいつだけサッサと抜け掛けしよった。」

「ほう」

「それで頭に来てな、やつの馬を追い越し、蹴飛ばして今ここまで来たところよ」

「それはそれは」

直実は苦笑して季重をねぎらいました。

先陣を狙う者はあの手この手で他者を出し抜こうとするのは当たり前であり、直実はそこにホイホイ乗った季重の迂闊さを嘲笑したのですが、季重に通じたかどうかはわかりません。が、季重の一件は直実にとって

(やはり、先陣を狙う者は多そうじゃ)

という考えを確信するのに十分でした。

(つづく)
posted by さんたま at 15:34| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月15日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(91)-鵯越-

西暦1184年(寿永三年)2月6日、鎌倉軍別働隊を率いていた総大将・源義経は、七千騎を土居実平に預けて塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋町)に向けさせ、自分の郎党(家来)と一千騎と共に一の谷の崖の上に残りました。そこで自分の郎党の一人、武蔵坊弁慶なるものに、付近の地理に明るい者を捜させたのです。

この武蔵坊弁慶という男、源義経の忠臣として有名な存在ではありますが、出生、育ちなど同時に非常に謎が多い人物でもあります。

ただ、鎌倉幕府の公式歴史書である「吾妻鏡」や軍記物語「平家物語」にその名前が出てくることから、実在であることは間違いないようですが、現在に伝わっている弁慶の活躍は、南北朝時代に成立した軍記物語である「義経記」を元にされていることが多く、検証と考察が必要なことが多いようです。

話を一の谷に戻します。

義経が一時(約2時間)ほど待つと、弁慶が一人の老人を連れて戻ってきました。

「ただ今、戻りましてござりまする」
「弁慶。ご苦労」

義経がそう言うと、弁慶は膝まづき

「この者、この土地の漁師にございます。このあたりの地形、天候等に詳しいゆえ、連れてまいりました」

と答えると、振り返って漁師に向かい

「我が主、源九郎殿でござる」

漁師と言われた老人は地面に座り、頭を下げ、弁慶に続いてこう言いました。

「ワシは鷲尾庄司と申すもの。この法師殿はあなた様を源九郎と仰せられたが、あいにくワシには何者かは存ぜぬ。ゆえにご無礼はご容赦くだされ」

義経は

「面倒をかけてすまぬ」

と礼を申すと、庄司は

「して、何かワシにお聞きになりたいことがあるとか」

と義経に尋ねました。義経は満足そうに頷き

「いかにも、実は、ここから下の一の谷に馬で降りようと考えているのだが、何か方策はないものだろうか」

と尋ねました。
すると庄司は「カッカッカ!」と笑って

「何の用か思えば、そのような」

と呆れたような不敵な笑みを浮かべたので

「鷲尾庄司、無礼であろう」

と弁慶が割って入りましたが、すると庄司は弁慶に噛み付いて

「ここから一の谷に降りたいとか申すからじゃ。戦が始まる前に死にたい武士がおれば、笑いたくもなるわ」

と吐き捨てるように言いました。

「ほう。なぜ、そのように申すのか」

義経が庄司に尋ねると

「この崖は鵯越と申しての。こっからは見えんがの、この崖にはくぼみや岩がゴロゴロしておる。その大きさはまちまちじゃが、大きいものは10メートルを超えるものもある。ましてやここは霧が頻繁に出るでな、先が見えにくい」

「ふむ」

「先が見えない状態で馬で降りれば、くぼみに嵌るか岩に激突するのが関の山。一度態勢を崩せば、あとは転がり落ち、首でも折って死ぬるだけでじゃ」

「やはりそうか......」

予想はしていましたが、義経は庄司の言うことはもっともと思いました。
ですが、義経は未だ自分の考えを改める気はありませんでした。

「鹿ならともかく、馬ではさすがに無理。いたずらに死人を増やすだけよ」

その庄司の一言に、義経は

「鹿?この辺りの鹿がここを通るのか?」

と庄司に尋ねました。

「うむ。鹿は通る。播磨の鹿は暖かくなると草深い丹波路を超え、寒くなると雪の浅い印南野(兵庫県稲美町)の方に抜けていく。鹿は馬より跳素早く、態勢を崩しても整えるのが早い。」

それを聞いた義経はニヤリと笑いました。

「殿?」

弁慶が尋ねました。

「弁慶。鹿が通れるのなら、馬が通れない訳もあるまい。さしずめ、ここは少々荒い馬場と思えば良いようじゃ」

と答えた義経の言葉に、庄司は慌てて

「ちょっと待たれよ。ワシは馬では無理と申したのじゃぞ」

と異議を申しました。しかし義経は

「言うたであろう。鹿が通れて馬が通れないわけがない」

と庄司に答えました。庄司も負けじと

「確かに理屈はわかる。じゃが、そなたらの馬は人が乗っておる。普通の馬ではない。バランスを崩せば重さで地獄に真っ逆さまじゃ」

と押しとどめようとしますが、義経の目に迷いはもうありませんでした。

「そなたの話で決心がついた。我らはここを降りる!鷲尾庄司と申したな。そなたに案内を頼む」

と義経が庄司に案内を依頼しました。
庄司は義経の目や顔に一切の迷いがないのを確認すると、深いため息をつきました。

「もはや止めても無駄なようじゃの。御大将の仰せじゃが、あいにくワシはもう老体。とても案内は務まらぬ」

庄司はそう言い、義経の依頼を断りました。
義経も老体に無理はさせられないと思ったのか気の毒な表情を浮かべていました。
そうすると

「じゃが、ワシの息子、熊王を代わりに遣わす。最近はあいつの方が漁師としては有能じゃ、何かと御大将の役にも立つじゃろうて」

と苦笑いをしながら答えました。

義経は弁慶に武久を送るように命じると、彼の息子、熊王を連れて戻ってきました。
熊王は漁師としてはすでに立派な体躯を備えた若者であり、義経は非常に頼もしく思いました。

「熊王と申しまする。父の命により、鵯越の案内いたしまする」

こうして、義経は一の谷の崖(通称:鵯越)を馬で奇襲する作戦を実行に移すのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:50| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする