2018年01月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(82)-義仲落ちる-

西暦1183年(寿永二年)12月20日、房総平氏棟梁・上総広常が、謀反の疑いにより、梶原景時によって殺害されました。また、この直後、嫡男である上総能常が自害して果てたため、上総氏は断絶となりました。

広常には数人の弟たちがいましたが、頼朝は広常の弟たちは罪なきものとして従兄弟である千葉常胤(千葉介)に預け、広常の所領も預けおきました。これにより、房総平氏棟梁の座は千葉氏が担うことになります。

広常亡き後、頼朝は弟・蒲冠者範頼に総兵五万五千の大軍を預け、近江に向かうように命じました。これは後白河法皇の求めに応じての軍勢派遣でしたが、京都では義仲の意向で「頼朝追討」の院庁下文が発給されており、このあたりの大義名分は相当いい加減なものがあります。

一方の京都では、義仲が西国の平家を討つ、いや、平家と和睦する、平家がすぐにも京都を奪還する、義仲ら法皇を連れて北国に一時避難する、などの様々な噂が錯綜しており、何が正しい情報なのか誰も正確なところがわかっていませんでした。

「玉葉」「吾妻鏡」などの歴史書をみると、義仲の北陸移動については、義仲が本気で考えていた節が見受けられます。しかし、近江に駐屯している義経の軍勢が千騎に満たない(実際は五百騎)ことを知ると

「鎌倉軍など恐るるに足らず!」

と考え、鎌倉軍と正面切って戦うことを決意します。

その影響か、西暦1184年(寿永三年)1月10日、木曽義仲が征夷大将軍を兼ねたという記録が「吾妻鏡」(鎌倉時代の歴史書)に見えます。

征夷大将軍とは、桓武天皇の時代に坂上田村麻呂が蝦夷征討のために任じられた臨時の役職です。

義仲は先頃出された頼朝追討の院庁下文に従い、東国を征伐する最高司令官の証としてこれを願ったと思われますが、同月15日の「玉葉」(右大臣・九条兼実の日記)によると、義仲が任じられたのは征東大将軍という役職だったようです。

征東大将軍も臨時の役職で、平将門の乱(承平天慶の乱)の鎮圧のために、西暦940年(天慶三年)に藤原忠文(参議・右兵衛督)が任じられて以来、244年ぶりの補任になります。

義仲が将軍職を欲した理由はいろいろ考えられますが、この時期、義仲を見限って離反した勢力が結構あり、朝廷のお墨付きをもらうことで、再び勢力を回復させようと考えていたのではないかと思います。

ところ、事態はその翌日(1月16日)の夜に一変します。

義仲は近江に放った密偵の報告で「鎌倉の軍勢が数万にも及んでいる」ことを知ります。おそらく範頼の軍勢が義経の軍勢と合流したと思われます。

「こないだ聞いた話が違うじゃねーか!!」

焦ったのは義仲です。自分の手勢は二千騎たらず、数万の軍勢相手に戦える戦力ではありません。

この時、義仲は法皇を奉じて瀬田(滋賀県大津市)に出陣することを奏上しますが、法皇はこれを拒否しました。

法皇からすれば、義仲の言うことにホイホイのって行動して、うっかり北陸に拉致られてはたまりませんし、そもそも鎌倉の軍勢は法皇の求めによって京都に迫っているわけで、義仲に味方するわけがありません。

また、法皇は院近臣を使って情報収集に務めており、この時の義仲の戦力を冷静に分析していました。

半年前に数万の軍勢をもって京都に入り、平家を追放させた義仲でしたが、水島の戦いの敗戦、瀬尾兼康の謀反などで兵力を減らした中、法住寺合戦で「法皇を幽閉した」という行為が治承三年の平家のクーデターと同じ手法であったため、多くの味方が義仲を見限って離反していたのでした。

また、義仲は知らなかったと思われますが、この時、すでに瀬田川の近江国寄りは範頼軍の勢力下に置かれていました。

法皇が動かないことを悟った義仲は、いよいよ独力で鎌倉軍と戦う決意を固めます。
しかし、それにはどうしてもやらねばならぬことがありました。

叔父・行家の排除です。

去る前年11月29日、法皇より平家追討の院宣を受けて、播磨国室山(兵庫県たつの市御津町)で平家の平知盛・重衡と戦って大敗した源行家は、河内国に逃げ、そこで勢力の回復を待っていました。

河内国は京都のある山城国の西にあたるため、義仲が東の近江に出兵すると、後方から行家の攻撃を受ける可能性があったのです。

1月19日、義仲は叔父の源行家を討つため、腹心・樋口兼光に一軍を預けて河内に向かわせました。
また、今井兼平に五百騎を与えて瀬田の唐橋(瀬田川の橋)に出兵させ、根井行親、楯親忠、源義広に三百騎を与えて宇治(京都府宇治市)を守らせました。総大将の義仲は百騎を率いて院庁(法住寺)に陣を張りました。

しかし、この動きはすでに範頼、義経に読まれていました。

同日、範頼と義経は軍議の末、本隊である範頼が三万騎を率いて瀬田の今井兼平に当たる、別働隊である義経が二万五千騎を率いて宇治の根井行親・楯親忠・源義広に当たる作戦を立てます。

記録にあるこの戦いに従軍していた主な御家人は次の通り

<範頼軍>
河越重頼(板東八平氏・秩父氏庶流)
河越重房(重頼の嫡男)
渋谷重国(板東八平氏・秩父氏庶流/佐々木高綱の祖父)
渋谷高重(重国の次男)
一条忠頼(甲斐源氏・武田信義の嫡男)

<義経軍>
佐々木高綱(宇多源氏/頼朝挙兵時からの武将/重国の孫)
畠山重忠(板東八平氏・秩父氏庶流/頼朝の義理の兄弟)
梶原景季(侍所所司・梶原景時の嫡男)
安田義定(甲斐源氏/遠江守)


西暦1184年(寿永三年)1月20日、範頼・義経連合軍と義仲軍が瀬田川近郊でついに激突しました。

しかしここまで書いている通り、義仲の軍勢は、樋口兼光に戦力を分散させたことが仇となり、総勢千騎に見たず、一方の範頼・義経の軍勢は五万五千騎を超える軍勢。
もはや戦いにならないのは明白でした。

義仲軍を散々に蹴散らした範頼・義経軍は大和大路(京都市東山区)から九条河原を抜けて入京し六条に入りました。この間、義仲は法皇を拉致して北国に逃げようという考えで法皇の六条御所に踏み込みますが、すでに法皇はその場にいませんでした。

「御上はどこに行かれたのじゃー!!」

義仲はさらに御所内を荒らしますが、敵の喚声が聞こえ始め、その声がだんだん大きくなると、

「ちっ.....止むを得ぬか」

と舌打ちして御所から退出。馬を駆って、ついに京都市中から逃走しました。
義仲が退出した後、範頼・義経らも六条御所に踏み込みましたが、

「御上に申し上げまする。我ら鎌倉殿の命を受け、御上の許に馳せ参じた者にござる!」

と範頼が高らかに大声をあげると

「我はここじゃ......」

と御所の物置らしき所から法皇が現れました。

「御上.....」

法皇の姿を確認した範頼と義経らは、即座に御所内から退出し、地面に膝まずくと、頭を垂れました。

「その方ら、鎌倉殿の命を受けてと申したの......名はなんと申す」

「蒲冠者範頼」
「源九郎義経」
「河越太郎重頼」
「同じく小太郎重房」
「佐々木四郎高綱」
「畠山次郎重忠」
「渋谷庄司重国」
「梶原源太景季」

全員が頭を垂れたまま、名乗りをあげると、法皇は満足そうに何度も頷き

「役目大義。その方らにはしばらくの間、御所の警護を命ずる」

とお言葉をかけると、一同

「ははっ!」

と畏まりました。

この時の御家人の名前は「吾妻鏡」に記載されておりますが、一条忠頼、安田義定の名前はありませんでした。

それは、彼らは京都に入ることなく別の動きをしていたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 19:32| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする