2018年01月06日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(81)-粛清-

西暦1183年(寿永二年)12月20日、房総平氏棟梁・上総広常は二人の供を連れ、梶原景時の屋敷の入り口付近にいました。数日前、景時が「今後の鎌倉のことについてご相談したきことがありますので、ぜひともお知恵を拝借したい」という文を広常に送っており、その文に応えた形でした。

広常からすれば「話があるならお主の方から我が屋敷に参れ」という思いでしたが、若輩者とはいえ景時は、御家人を統率する侍所の所司(長官補佐)の職にあり、鎌倉の支配機構上、広常の上官に当たります。それゆえ、求めに応じて景時の屋敷まで出向きました。

広常が景時の屋敷の敷地内に入ると、すでに景時、その嫡子・景季ら梶原家の主だった家人が勢揃いで、出迎えておりました。

「お待ちしておりました。わざわざのお越し、恐縮でございまする。また、上総殿のような御方を我が館にお迎えできたこと一門の誉れに存じまする」

景時が一門を代表して挨拶を述べました。
これに対し広常も

「平三殿自らのお出迎え、痛み入る」

と応えました。

上総氏は、桓武平氏の平良文(平将門の祖父)を祖とする坂東八平氏の中でも房総地方(上総、下総、安房=千葉県)の棟梁です。

坂東八平氏とは、その平良文の子孫たちを祖とした上総・千葉・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八氏を指します。

源頼朝が石橋山の戦いに負け、箱根権現を経て安房に移った後、上総氏当主である上総広常と千葉氏(上総氏庶流)当主である千葉常胤が真っ先に頼朝に味方したため、同族である坂東八平氏の諸氏が次々と頼朝に味方することになり、頼朝再起のキッカケとなった富士川の合戦の勝利につながったのでした。

この時点での坂東八平氏出身の主な御家人は

上総広常(上総権介/上総・下総国を支配/房総平氏棟梁)
千葉常胤(下総権介/千葉介/下総国千葉荘が本拠)
三浦義澄(三浦介/相模国三浦郡が本拠)
土肥実平(相模国足下郡土肥郷が本拠)
大庭景義(大庭景親の実兄/相模国大庭御厨懐島郷が本拠)
梶原景時(侍所所司)


らがいます。つまり、梶原氏もまた坂東八平氏の一族だったのです。
景時が鎌倉の支配機構「侍所」の所司である以上、広常より上位の地位にはありますが、景時にとって広常は房総平氏の棟梁であり、一族の上位に位置にいた関係で、東国武士としては広常の方が格上になります。

景時は広常を自ら客間に案内しました。
客間の中央には双六が一つ置かれていました。

「ほう、双六か.....平三殿にしては珍しいものを持っておるな」

広常は平三を見ながらからかうように言うと

「はい。先日、鎌倉殿より頂戴したものなのですが、恐れながら私、こういうものが少々不得手でして」

景時も恥ずかしそうに答えました。

「百戦錬磨の平三殿も風流ものになるとか苦手か」

と言い、広常は高らかに笑いました。

「とはいえ、こういうものは強い人とやらねばなかなか上手くはなりませぬ。かと言って、御家人の中に双六上手もあまりおらず、今日は上総様と双六を交えながら、お話がしたくてお招きした次第」

「なるほど。そういうことか。よし、では御相手いたそう」
「何卒、御手柔らかに」

広常は客間を見渡すして客間の壁側に座り、二人の供は広常の左右に離れて侍りました。
これを見た景時は

(やはり、警戒しているな)

と察しました。
先日の御所でのやりとりから、広常は景時、並びに侍所別当(長官)である和田義盛にある種の警戒心を持っていました。ましてや、ここは景時の屋敷。背中を無防備にするのは用心のためでもあったのです。

それを察した景時は、自分の供に対して手を払う仕草をして客間から退出させました。

(ほう。自分にやましいところはないということか)

その振る舞いに広常はある種の安堵感を感じました。
これで客間の中には広常、景時、広常の供二人の四人しかいませんでした。

「では、参ろうぞ」
「はっ」

こうして、二人の双六勝負が始まりました。
双六にはいくつか遊び方があるのですが、この時のゲームは「本双六」でした。

「本双六」とは、最初に駒を並べて陣地を作り、サイコロを振って出た目に従って駒を動かし、自分の陣地に自分の色の駒をすべて入れることが勝利条件です。攻撃や防御の要素があるため、双六というよりは囲碁に近いものだと考えられます。

二人が双六に興じてしばらくたった頃、広常がサイコロを振りながら言いました。

「できることなら実際の戦いもこの双六の駒のように動かしたいものじゃのう」

「はて、それはまた何故で」

広常は盤上に出たサイコロの目で駒を動かしながら言葉を続けます。

「戦場での指揮は現場でないとわからんが、現場では全体像が見えん。しかしこうやって盤の上を俯瞰で見れれば、今、自分が大将として何をどうすべきか、また敵の陣形に対し、どう攻めるかよくわかるではないか」

「双六であっても盤上を実際の戦場に見立ててのご考察、恐れ入りました」

「我ら東国武士はいついかなる時でも、鎌倉殿のご命令によって戦いに赴かねばならん。場合によっては一軍の総大将を拝命することになるかもしれん。そんな時、どのように兵を指揮し、動かすべきか。いわゆる用兵術の心得1つで戦いの流れはガラリと変わる。富士川の戦いがいい例じゃ」

富士川の戦いは、西暦1180年(治承四年)10月20日、再起した頼朝が甲斐源氏の武田信義と連合を組み、平維盛率いる平家軍と対峙した戦いですが、甲斐源氏の安田義定の偵察を源氏の奇襲と勘違いした平家軍が一目散に退却し、戦わずに源氏の勝利となった戦いです。

景時が頼朝に仕えたのは、この富士川の合戦後に大庭景親が処刑された、その後のことでした。

「富士川の戦いのことは、別当(和田義盛)殿、小四郎(北条義時)殿らから話には聞いておりまする。あの戦いは上総殿、千葉殿らの御味方があっての戦いであったと」

「しかし、結局、手柄は全部武田殿に持って行かれたがな」

と広常がおどけて言うと、客間は二人の大笑いで満たされました。

「平三殿、ほれ、手が止まっておる。そちの番じゃぞ」

「あ、これは失礼」

景時はサイコロを振って、駒を動かしながら

「上総殿は我らが坂東八平氏一族である房総平氏の棟梁。ご自身は上総一国に勢力を張り、従兄弟の千葉殿の支配する下総国の勢力と合力すれば、その兵力はおよそ三万騎」

と独り言のようにつぶやきました。
含みのある言い方に広常は怪訝な顔になり

「何か言いたいことがありそうじゃな?」

と聞き返しました。
景時は駒を全て動かし終わると、手を床につけ、

「上総殿が鎌倉殿の御家人として加わっている真意を知りとうござる」

と言って、平伏しました。
広常はボリボリと頭を掻きながら、面倒くさそうに言いました。

「先日の御所でも申したであろう。わしはこの鎌倉に東国武士だけの国を作りたい。これはわしだけではない、千葉介(千葉常胤)も同じ考えじゃ。確かに平三殿の言う通り、ワシは房総に独立勢力として割拠しておった。あのまま鎌倉殿に味方せず、平家の組みしておったらまた違った未来があったかもしれん。しかしそれは上総の家にとっては良くても、東国武士全体にとってはどうであろうか?」

「家や一門、所領のことでなく、東国全体のことを考えてのことでござるか」

「そうじゃ。東国に武士だけの国を作る。これは平将門公が成し遂げようとした悲願ぞ。しかしそれには、地方豪族上がりのワシや千葉ではダメなのじゃ。人の力を自然と集める力を持つ貴種的存在が必要だったのじゃ。それをわしは鎌倉殿に見出した」

「......」
景時は黙って広常の話を聞いていました。

「だからこそ鎌倉殿には己の心のままに振舞って欲しいのじゃ。院や朝廷が何かを言ってきても、はねつけるような胆力をもち、鎌倉を阻むものは何一つなく、鎌倉殿の自由に裁量できるという独自の国を」

広常の話が一段落したところで、景時も反論します。

「鎌倉殿のお考えは上総殿と同じです。そのために御家人の制度を作り、その統率機関である侍所を作り、鎌倉を拠点に武士の支配機構を整えておられます。しかし、今は院や朝廷のお墨付きがなければ、これは非合法な組織であり、ただの侵略です。そうなると、鎌倉殿はいずれ将門公のように朝敵となって討たれて終わってしまいます」

「かといって、院や朝廷の求めに応じてホイホイ動くのもおかしなことであろうが。我らは北面(北面の武士/院の警護武士)ではないのだぞ」

「しかし今は仕方ありませぬ。鎌倉殿は、寿永二年十月宣旨を以て、罪人の地位から解かれて従五位下に復位し、東国・東海道・東山道の行政執行権を与えられました。これは鎌倉殿の支配機構を院が認めたことに他なりません」

「いかにも」

「しかし本当に武士の国にするには、院や朝廷とうまく誼を通じつつ、下手に介入されず政治の主体性のみを維持する必要があります。そのため、鎌倉殿は院や朝廷を利用しようとされています。これは、陸奥・出羽両国を治めている奥州の御館・藤原秀衡殿のやり方と全く同じです」

「......」
今度は広常が景時の話をじっくり聞いていました。

「今現在、院や朝廷を無視して東国だけの独立国家は成り立ちません。我らの意思をきちんと公に通すには、踏むべき段階というものがございます」

「その結果、鎌倉殿が院や朝廷に利用されるような存在になった場合はなんとする。平家全盛期には平家と通じ、平家追放後は木曾冠者と組んだ、あのコウモリのような法皇様だぞ。」

「上総殿は、我が鎌倉殿がそのような存在になるとお思いですか?」

「埒もないことを。じゃがワシは院や朝廷とは一定の距離感を保つべきかと存ずる。今回の木曾冠者の謀反についても同じじゃ。鎌倉に院を助ける義理はないではないか」

「その結果、鎌倉殿追討の院宣を出されたらなんとされまする。鎌倉殿が討たれるようなことになれば、我らは屋台骨を失いまする」

「案ずるな。以前ならともかく、今の鎌倉には蒲殿(範頼)、九郎殿(義経)、千葉介が養育した陸奥冠者(源頼隆)ら源氏の血筋はいくらでもある。たとえ鎌倉殿が倒れようとも、その血の威厳と我ら坂東八平氏の武力があれば、東国は東国だけで独立していけるではないか。」

この一言で、景時はここで自らの心が折れたことを認めざる得ませんでした。

(もはや、ここまでか......)

頼朝は、今後の鎌倉は院や朝廷とうまく連携して支配機構を充実させ、やがては鎌倉を院や朝廷をしのぐ勢力に広げていく方針でありました。東国武士による東国武士のための独立政権を作ったところで、それは実効支配という横領にすぎず、院や朝廷、そして社会的に受け入れられるわけがないことに頼朝は気づいていました。

上総広常、千葉常胤の両者は、「鎌倉に東国武士の国を作ること」を夢見ており、頼朝もその考えに賛同していました。また同時に、富士川の戦いが神格化されるに連れ、当時の大きな味方であった広常と常胤の発言力は大きく、その影響力は侍所であっても制御しにくくなっていました。

そんな中、近江国にいる義経から伝えられた法皇からの「義仲謀反」に対する援軍派遣において、頼朝、景時、広常のそれぞれの持つ国家観の違いが微妙なズレを生じさせていました。

結果として、広常は頑なに「院や朝廷も関係ない東国武士のための国」にこだわっており、そのための国ができるのであれば「棟梁は頼朝でなくても構わない」とまで言いました。それは、頼朝を鎌倉殿として組織の頂点に戴く、侍所所司である景時には容認できるものではありませんでした。

(上総殿、お許しを)

景時は床に置いていた刀を左腕でつかむと、右手で素早く刀身を抜き払い、双六の盤を超えて横一文字に払って広常の首を刎ねました。

あまりの勢いに広常の首がそのまま右斜め60度の角度で刎ね上がり、首の根っこからほとばしる血が、二人の双六の盤面にビシャと音を立てて広がりました。

供の二人も慌てて刀を抜きましたが、すぐに二人の背後の戸板がバーンと外され、そこから客間に踏み込んできた武士にそれぞれ殺害されてしまいました。

その間、ほんの10数秒のことでした。

「あの一言さえ、なければ、命生き永らえられたものを......上総殿。お恨み申し上げまする......」

景時の目に一筋の涙こぼれ落ちました。


その日の夕刻、頼朝は大倉御所の書院で書物をしていました。

「殿」

書院の戸の向こう側で呼びかける声に気づいた頼朝は

「藤九郎(盛長)か。入れ」

と入室を許しました。
戸が開けられ、一礼して安達盛長が書院に入りました。

「何用か」

頼朝が盛長に尋ねると

「平三殿より文が届きました」

と言って、平伏して頼朝に手渡しました。
頼朝は書状を受け取り、包み紙をゆっくり開いて、中の書状に目を通すと、ある部分で大きく目を見開き、そして瞑目して書状を盛長に渡しました。

「平三が上総を斬ったそうじゃ」

「なんと.....殿の裁断も伺わずに」

「いや、判断は平三に委ねたのでそれは良い。それは良いが。まさか平三が上総を斬るとはな...」

「平三殿を詰問いたしまするか」

「それには及ばぬ。判断を任せたのは私だ。」

そう言って頼朝は書院を出、仏間に向かいました。


西暦1183年(治承二年)12月20日、房総平氏棟梁・上総権介上総広常、謀反の疑いにより、梶原景時の手によって双六の最中に殺害。

なお、この翌年、上総国一之宮(玉前神社?/千葉県長生郡一宮町一宮)に奉納された広常の鎧から、頼朝の武運長久を祈る三か条の願文が発見され、広常に謀反の心はなかったとされました。

頼朝は広常の死を後悔し、その一族は罪を解いて赦免しています。

上総広常の死は、この後、鎌倉幕府成立後における初の御家人の粛清とも言えるものでした。
ここから血塗られた「鎌倉幕府ができるまでの黒歴史」が始まることになります。

(つづく)
posted by さんたま at 15:29| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする