西暦1183年(寿永二年)11月19日、正午ごろ、
源義仲は手勢三千騎あまりを率いて、後白河院の院庁である
法住寺にカチ込み(襲撃)をかけました。世に
法住寺合戦です。
対する院庁側は、
鼓判官・平知康を筆頭に、
美濃源氏・源光長などが迎え撃ちますが、新熊野社に控えていた
樋口兼光の別働隊からの二方向攻撃に迎撃体制をうまく整えられず、法住寺南殿は陥落。天皇・法皇両陛下は法住寺北門から脱出する羽目に陥りました。
法皇が逃れた五条東洞院内裏は、程なく義仲の耳に届き、義仲は法皇に危害を加えないことを約束すると、内裏を完全に包囲し、
法皇を幽閉することに成功します。
右大臣・九条兼実の日記
「玉葉」によれば、兼実が
「官軍全滅」の報を知ったのは、申の刻という記載から午後3時から5時の間であると思われます。正午から合戦が始まったので、およそ3時間か4時間という短時間の戦闘だったようです。
しかしながら、兼実もこの時点では院庁の敗北は理解したものの、被害(戦死者や損害)などの程度についてはわかっていませんでした。
翌日の20日、京都六条河原に
天台座主・明雲、そして
後白河法皇の第四皇子・円恵法親王他約300の首が晒されたことが「玉葉」に記載されています。また
「吉記」(正二位吉田経房の日記)によると、
源光長ら100名の首は五条河原に晒されたようです。
日本の歴史上において、賊徒によって院庁が襲撃されることは初めてで、ましてやそこで皇族に連なる方が討たれることも例がなく、兼実も経房も複雑な思いを日記に記しています。
「ここに書くのもおぞましい」(吉田経房)「私はこのような皇族出身の高僧がこのような無残な目に遭ったのを聞いたことがない」(九条兼実)
一方の義仲は法住寺合戦の戦後処理を2日で済ますと、次は
機能不全に陥っている朝廷を再起動させる必要に迫られていました。
しかしながら、信濃の山奥から出てきた義仲に頼りになる公家がいるはずもなく、正直、どこから手をつけていいのか全くわかりませんでした。とはいえ、今、政治の空白を作るわけにはいきません。
鎌倉の頼朝の代理である源義経の兵が近江まできているのですから。
そんな時に、一人の使者が義仲の屋敷を訪れました。使者は
松殿基房の家人を名乗りました。
松殿基房とは、このシリーズの
第3回「後白河法皇の反撃」と
第4回「清盛、怒りのクーデター」で登場しています。
あの時は、関白・近衛基実の亡き後「中継ぎ」の役割で平清盛から関白に任ぜられ、
ドサクサに紛れて藤原氏嫡流を乗っとろうとし、その権勢欲を後白河法皇に巧みに利用され、結果的に
治承三年のクーデターの原因を作った人物です。
基房の使者が言うには
「是非一度、我が屋敷にお越しいただきたい。木曽殿のこれからの政(まつりごと)についてご相談申し上げたい」と言う内容でした。
義仲も基房がかつて関白の地位にあった人物であることは知っていましたが、前述のような「いわく付き」の人物ということは知りませんでした。
ただ、元関白であれば摂関家はもとより公家人脈も知識も豊富であることは言うまでもなく、義仲にとっては非常にありがたい申し出であったため、藁をも掴む思いでその日のうちに、基房の屋敷に伺うことにしました。
基房の屋敷は
京都郊外の西方・嵯峨野(京都市右京区)にありました。嵯峨は騒がしい京都の都とは違い、非常に静かで空気も凛として威厳に満ち溢れていました。
使者に連れられて屋敷に入った義仲を出迎えたのは、
「これぞ公家の娘」を人間にしたかのような美しい女人でした。義仲はその女人を見た瞬間、呆気にとられましたが、「こちらへでどうぞ」と言う声に我に帰り、客間に通されました。
そこで小半時(30分ほど)待たされた後、奥から「やぁやぁ、お待たせ致しました」と言う声を共に、一人の直衣姿の公家が現れました。義仲は床に手を付き、頭を深々と下げました。
「伊予(木曽)殿であるな。表を上げなされ」公家は上座の敷物の上に立ったまま、義仲に頭をあげるように促しました。
義仲はゆっくり頭をあげると
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。伊予守・木曽冠者義仲にござりまする」と言って、再び深く頭を下げた。
「松殿基房じゃ」基房は自ら名乗ると、その場に着座しました。
「使者の口上をお聞きし、取るものもとりあえず罷り越した次第。ご無礼は何卒ご容赦くだされ」「苦しゅうない。そう硬くならず、お楽になされよ」
基房はニコニコしながら、義仲にリラックスするように言いました。
「伊予殿は我にとって憎っくき平家をこの京都から追放した英雄。いつかお会いしたいと思っておった。また今回は恐れ多くも御上(後白河法皇)に戦を仕掛け、しかも勝ってしまわれた。その胆力に、この基房、感じ入りましたぞ」「過分なるお言葉を賜り、かたじけなく存じます」「しかしじゃ。伊予殿はこの後のことをどのようになさるおつもりかな?」
基房はじっと義仲を見て言いました。
「我が藤原家(松殿家は藤原北家の流れ)しかり、平家しかり、いずれもこの国の政治を司って参ったが、それぞれに院の権威を拠り所にすることでその権力を正当化してきた。じゃが、伊予殿は院の権力の源泉である御上を閉じ込めた以上、天皇(ミカド)を立てて政治を行われるおつもりか?」「正直、戸惑っておりまする.....」義仲は苦し紛れに己の本当の心根を白状せざる得ませんでした。
「それならそれでも良い。古来は天皇のみの政治が当たり前だったのじゃ。じゃが、それならまずは摂政を変えねばなるまい」「摂政.....近衛基通さま......であらせられますか?」基房は大きく頷きながら
「さよう。基通殿は清盛入道の娘を妻とし、以前として御上の信任も厚い。基通殿が天皇の補佐役である摂政であるのは、御上の意思を伝える役割も持っておられる。伊予殿の意思を汲んだ形の天皇のみの政治を行うなら、院の影がちらつく基通殿は真っ先に取り除く必要がある」「そうなると、後任の摂政にはどなたを宛てれば宜しいので?」
「それは我の口からは言うべきことではない」基房は手を振って、我関せずと言う態度を取りました。
しかし、義仲にとってはそれは
「私はその答えを知っている」と言う態度に見えました。
その基房の態度に腹立たしい気持ちを抱きつつも、基房に対抗できる知識も経験もない義仲は、何がなんでも教えを乞うしか手がありませんでした。
義仲は、両手に握りこぶしを作ると、ゴンと音が出るほど拳を床に打ち付け、基房を睨みつけ、歯を食いしばりながら言いました。
「基房様、私は木曽の山中の育ち。朝廷の儀礼や風習などには疎く。この場合、どなたを摂政に立てるのが適任なのか、とんとわかりませぬ。何卒、ご教示を!」
いきなり荒々しい態度で出てきた義仲に一瞬ひるんだ基房ですが、土下座に近い形の平伏姿を見て、ニヤリと笑い、
「伊予殿は今や天下に並ぶ者のいない豪傑。そこに身共(私)の人脈・調整力が加われば、新しい政治の形を世の中に示せるかもしれませんなぁ」基房がポロっとそう言った瞬間、ガバッと上体を起こした義仲は
「基房様、この山猿にお力、お貸し願えまするか?」
と乞わずには入られませんでした。
「ただ、それには条件が2つほどありまする」「どのような?」義仲は先を促しました。
「お力をお貸しするには、こちらも身代投げ打って御助成する覚悟。ゆえに伊予殿との間に変わらぬ縁を結びたい。ゆえに、我が娘を伊予殿の妻にして頂きたい」
「基房様の娘を私の妻に?」元関白の娘が受領(国司/地方領主/この場合は伊予守)の妻になるなど聞いたことがありません。
いや、それ以前に、義仲はどのような女子だろうかと本気で心配になりました。
「それはどちらにいらっしゃるお方ですか?」
「ほれ、先ほど、伊予殿を客間に案内させたと思うが」
「え?」義仲は自分が一瞬惚けてしまったあの女人が基房の娘であることに衝撃を受け、顔が真っ赤になりました。
「ほう......その様子では、御異存ないようじゃな?」「きょ......恐悦の極みに存じます」義仲はただ平伏するしかありませんでした。
「もう1つの条件は他愛もないことです。先ほど話に上がった近衛基通殿の後任の摂政には、我が三男・師家を宛てて頂きたい」
ここに名前が出てきた松殿師家も、このシリーズの
第4回で登場したことがあります。
当時は、後白河法皇が平家牽制のため、近衛家の嫡流である基通を差し置いて、
師家を権中納言に任官させました。これは、
藤原家の嫡流にしか許されないことであり、これがトリガーとなって清盛を激怒させたのでした。
師家は治承三年の政変で一旦は解官(クビ)になりましたが、寿永二年のこの時は
権大納言に任官しており、摂政に任じるに不足はありませんでした。
義仲はこの2つ目の条件も受け入れました。
11月21日、朝廷は
近衛基通の摂政を停止し、その翌日22日、
松殿師家が内大臣に任じられ・摂政兼任となりました。また、この時、
藤氏長者(藤原氏のトップ)の地位も基通から師家に移っています。かつて基房は、基通の父・近衛基実が亡くなった時、基通が幼少のため「中継ぎ」という名目で藤氏長者に任ぜられました。しかし、今回は、
正真正銘の正当な藤氏長者の地位を松殿家で継承したことになります。基房の野望はここにあったのです。
(ついにやったぞ。これで我が松殿家が代々藤氏長者の地位を継承していくのだ!)基房の心はこれまでの苦労を吐露するかのように、咆哮に満ち満ちていました。
そして師家の摂政就任のおかげで、朝廷もなんとか体裁を整えることができ、朝廷を再起動させることができたのです。
11月28日、摂政・松殿師家は、
前摂政・近衛基通の領地80箇所あまりを義仲に与える下文を発給し、同時に
藤原朝方ら後白河院に関わりのある諸国の受領(国司/地方領主)49人を解官(クビ)にしました。九条兼実は「玉葉」に
「平家はかつて42名を解官したが、木曽は49人の解官。あやつは平家の悪行を余裕で超えてる」と皮肉たっぷりの一文を記載しています。
まさに義仲の春とも言える時代でした。
(つづく)