2017年11月16日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(77)-法皇、敗れる-

西暦1183年(寿永二年)11月19日、自らの手勢を三千騎あまりを七条河原に集めた源義仲は、全軍を率いて法住寺西門に突っ込ませました。世に言う「法住寺合戦」の始まりです。

この時、院は義仲が攻めてくるという考えはほとんど持っていませんでした。
ゆえに、七条河原から大軍が押し寄せてくると聞いた院は、平知康(検非違使・左衛門尉/鼓判官)が率先して兵を指揮し、西門の防戦に当たりました。

平知康は合戦の最中に

「昔は法皇の宣旨を読み上げただけで枯れた草木も花が先、悪神も素直に従った。今が末法の世(末法思想/し釈迦入滅千年後に正しい教えが消滅するという思想)とはいえ、御上に反することがどうして許されようか!お前たちの弓矢はお前たちに跳ね返るのだ!」

と口上を述べ、義仲軍を牽制しようとしますが、義仲軍にとっては

「アホな公家がなんか言ってる」

ぐらいにしか思っておらず、全くなんの効果もありませんでした。

また、法住寺西門から喚声が聞こえてくると、別働隊として新熊野方面に二千騎で駐屯していた樋口兼光は、法住寺の南側に馬を進め、そこから法住寺に向けて無数の矢を射かけました。

この西と南からの攻撃に一番驚いたのは法皇でした。

法皇は義仲追討の院宣を出して、二万の軍勢で義仲の屋敷を襲撃する準備に着手したばかりでした。

それは義仲と義経の武力衝突を回避させるため、義仲の勢力をできる限り迎え討ち、その上で義経の軍勢を京に迎え入れ、義仲の残存勢力を壊滅させる考えでした。

しかし、義仲は機先を制し、法住寺に先制攻撃を仕掛けてきたのです。
しかし、義仲に最後通牒を突きつけ、謀反を焚きつけたのは法皇なので自業自得であります。
それでも法皇は本気で義仲が攻めてくるとは思っていませんでした。

法住寺は西と南の攻撃によって兵力を分断され、やがて司令官である平知康が戦場から離脱すると、二万の兵は統率を欠いたただの寄せ集めとなってしまい、我先にと法住寺から逃げ出していきます。

義仲軍は院の軍勢を壊滅に近い状態まで追い込むと、法住寺の南殿に火をかけました。

「これは、なんとしたことぞ.......」

焼けただれる法住寺南殿。
自らの院庁が木曽義仲の軍勢によって攻め落とされようしています。

法皇は平家全盛期の頃は、その権力によって院政を停止されたことがありました。
清盛亡き後、ようやく政治を自らの手に取り戻し、また義仲によって平家追放後は、新たに後鳥羽天皇を立て、政治を本来のあるべき姿に戻しました。

しかし、それが再び木曽義仲という源氏の勢力に崩壊されようとしていました。

後白河法皇は歯ぎしりをし、こみ上げる悔しさを押し込ながら、側近が用意した輿に乗り、法住寺北門から脱出しました。目指すは五条大路にある五条東洞院内裏
一方、後鳥羽天皇はすでに閑院殿(二条大路にある旧藤原冬嗣邸)に避難していました。

九条兼実の日記「玉葉」によれば、11月19日の正午あたりに法住寺から黒煙が見受けられ、午後4時頃には法皇が五条東洞院に逃れられたという一報が入っていることから、正味3時間程度の戦いだったようです。

この戦いは完全に法皇の負け戦でした。

かつて院政の役所である「院庁」が武士によって襲撃された例はなく、また明確なる皇族を攻撃目標にした反乱、かつ北面の武士など院庁を守るべき武士が壊滅状態まで追い込まれたのは、これが我が国の歴史のおいて初めてのことでした。

この戦で、義仲は一時的にこの国の頂点に立つことに成功したのでした。

(つづく)
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2017年11月07日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(76)-法住寺合戦・開戦-

西暦1183年(寿永二年)11月17日、院庁である法住寺を要塞化し、美濃源氏・土岐氏摂津源氏・多田氏を味方につけ、自勢力を作り上げた策謀家・後白河法皇は、ついに源義仲に最後通牒を突きつけました。

「平家討伐のため西国に向かえとこれまでなんども言ってきた。しかしながら、お前は我の許しもなしに勝手に京都に帰ってきて、その後、京都に留まり、西国に向かおうともしない。頼朝代官(義経)を討つために何度も院宣を求めていたが、そんなに戦いたければお前の力だけでやれ。

しかし、それは院を軽視している証拠であり、我(法皇)に対する敵対行為とみなす他はない。お前の真意はどこにある?もし我に逆らう気持ちがないのなら、早く西国に赴いて平家を討て。」


これを聞いた義仲は

(平家追討から勝手に帰ってきたのはその通りだが、その原因を作ったのは鎌倉と勝手に通じた御上(法皇)ではないか.....)

と歯ぎしりせんばかりに悔しがりました。
しかし、法皇に歯向かう気持ちは義仲にはなかったため、以下のように返書を認めました。

「御上に謀反の気持ちなど毛頭ございませぬ。だからこそ私は京都、そして院・朝廷のため、度々申し上げてきました。今、改めて御上より我が真意をお尋ねになられたこと、生涯の喜びでございます。

西国への下向、速やかに行いたいところではありますが、間も無く鎌倉殿代官の数万の軍勢が京都に入ります。その軍勢が京都に入れば京都を守護するのが私の役目ですので、戦わざるえません。しかし、鎌倉殿の軍勢が京都に入らなければ速やかに西国へ向かいます」

これを受けて法皇は

(もはや、鎌倉軍と義仲軍の激突は避けられんな.....)

と悟りました。

しかし、義経軍は五、六百騎。義仲軍の勢力は水島の戦いや、源行家が平家追討の出兵を行ったりしたものの、六、七千騎はありました。まともに激突すれば10倍以上の兵力に開きのある戦いになりかねません。

もし、ここで義経軍が敗退するようなことになれば、頼朝は今後京都に興味を持たず、奥州藤原氏のように東国に自己の勢力を繁栄させ、朝廷の統制の及ばぬ独自政権を作り上げてしまうかもしれませんでした。

そうなった場合、京都と北陸は完全に義仲のもの勢力に入ってしまいます。それは法皇が絶対許せないことでした。

そのため、何としても義経軍をここで滅ぼすわけにはいきませんでした。

また、今の院庁(法住寺)には美濃・摂津源氏の兵力、公卿、園城寺、延暦寺の親法皇勢力の大衆などが集まり、総勢二万弱の兵力が揃いつつありました。

(こっちから仕掛ければ、義仲を排除できるかもしれん......)

と法皇が考えるのも無理ないことでした。

11月17日、18日の両日に渡り、法皇は八条院(ワ子内親王/鳥羽法皇の孫/以仁王の猶母)、上西門院(統子内親王/後白河法皇の准母)、亮子内親王(後白河法皇の皇女/後鳥羽天皇の准母)を院庁から退出させました。

それとは入れ替わりに後鳥羽天皇、守覚法親王(後白河法皇の皇子/真言宗仁和寺第6世門跡)、円恵法親王(後白河法皇の皇子/園城寺長吏)、明雲(天台座主)が院庁に入っています。

「何?ミカドと守覚様、円恵様、明雲が法住寺に入っただと?」

義仲がこれを密偵から聞いたのは11月18日の夜でした。
義仲は、法住寺が武装化を始めた11月10日あたりから絶えず見張りをつけていたのです。

「また数日前から土岐伯耆守(光長)殿、多田蔵人(行綱)殿らの軍勢の姿が見えませぬ」

「あやつらも御上に取り込まれたか.......」

義仲の軍勢は自分の直参である信濃源氏に加え、美濃源氏(土岐氏)、近江源氏(山本氏)、摂津源氏(多田氏)、甲斐源氏(安田氏)などから構成される混成部隊でした。

彼らは京都から平氏を追放し、政治のやり方を院・朝廷のあるべき姿にすることを目的としていました。

しかし、義仲が西国遠征から京都に帰還して以降、義仲は頼朝に対する敵対心を募らせ、それに諸将の心は義仲から離れはじめ、行家が単独で平家追討を受けて出陣するのをキッカケに、諸将が思い思いの独自の動きをしていました。

義仲にとって、頼朝はどうしても下さなくてならない敵でした。
義仲は頼朝と戦争になりそうになったことがあり、一刻も早く京都への上洛を望んだ義仲は、自分の息子である清水冠者(義高)を人質に出してまで和議を結び、後顧の憂いを絶ったという苦い思い出があります。

清水冠者を自分の元に戻すためにも、頼朝の軍勢を京都に入れることは、義仲にとって承服できないことでした。

(もはや、これまで。この一戦にすべてをかける!.....)

「樋口次郎(兼光)、今井四郎(兼平)を呼べ」

義仲は意を決して、自分の腹心である樋口兼光今井兼平に使いを出し、自分の屋敷に呼びあつめました。

西暦1183年(寿永二年)11月19日朝。源義仲は自軍を七つの部隊にわけ、一隊を別働隊として二千騎を樋口兼光に預け、新熊野方面(現在、新熊野神社がある京都市東山区今熊野椥ノ森町)に向かわせました。

残り六隊についてはそれぞれの大将に兵を率いさせて、七条河原(鴨川河原の七条大橋付近)に集合させます。

そして、部隊をまとめた義仲は一軍から六軍までの軍勢を率いて、法住寺の西門にめがけて軍勢を突っ込ませました。

世に言う法住寺合戦の始まりであり、義仲の最初で最後のクーデターでした。

(つづく)
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2017年11月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(75)-法皇の反撃-

西暦1183年(寿永二年)閏10月、法皇の院宣を受けて西国の平家追討に赴いていた源義仲は、京都留守居役の樋口兼光の要請により、急ぎ京都に戻りました。

義仲はそこで後白河法皇が鎌倉の源頼朝と連絡を通じ、上洛を促した結果、頼朝の弟・源義経(九郎)が数万の大軍(伝聞)を率いて上洛することを知ります。

義仲は、頼朝の軍勢を無用の混乱を引き起こすものと決めつけ、法皇に頼朝追討の院宣を賜ろうとしますが、頼朝に上洛を促したのは法皇であるので、法皇はそれを承諾しませんでした。

義仲は自軍を動かさず、義経の軍勢の行く手を阻むため、閏10月26日、興福寺の大衆(僧兵)を動かそうとしますが、それも失敗してしまいます。

この頃の義仲にとって頼朝はもう「自分の権力を阻害しようとする邪魔者」として存在し、それを止めるためならあらゆる手段を選ばない思考になっており、それは他の義仲軍の諸将の間に隙間風を吹かせるのに十分でした。

「頼朝に義仲の勢力を対峙させ、義仲の権勢を抑え込むこと」

それは後白河法皇の狙い通りでしたが、それに伴って義仲軍の中に不協和音が起きたことは、思わぬ副産物でした。そしてそれを利用しない法皇でもありません。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」の閏10月27日の項には、源義兼の話として

「行家は院より平家追討の任を受け、来月1日に出発すること、義仲と行家の間には大きな亀裂が生じていること」

が記録されています。
(ただし、出陣の日取りが悪いために実際は8日に延引)

11月4日、義経の軍勢は不破の関(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着。翌5日、行家の平家追討の出陣が8日になることが決定しますが、義仲は義経と戦うために京を動かない方針のようです。

京都周辺がにわかに不穏に包まれつつある頃、鎌倉には珍しい客人がきていました。平頼盛(前権大納言/清盛弟)です。

頼盛は、平家都落ちの際に、平家一門棟梁・宗盛の要請で京都山科(京都と大津の県境)方面の出兵を命じられたものの、平家一門が揃って勝手に都落ちしてしまったため、戦いの最前線に一人取り残されてしまいました。

この時、進退きわまった頼盛は後白河法皇に保護を求め、法皇は八条院(ワ子内親王/鳥羽法皇の孫)に手を回して頼盛を保護させました。

同年7月28日の公卿議定で、頼盛の処遇が議題に上がりましたが、平家都落ちに同調しなかったことから公卿に頼盛を罰する声は少なかったものの、義仲軍の手前、官位剥奪(解官)という軽い処分で済んでいました。

以後、頼盛は八条院の保護を受けながら京都で隠棲していましたが、いつの頃からか、頼朝と連絡をとっていたようです。それは、平治の乱の際、頼朝の命を救ったのが頼盛の母である池禅尼である縁であること。加えて、法皇の意向があったもの考えられます。

法皇の「寿永二年十月宣旨」(頼朝の東国行政権を認める内容)によって、法皇と義仲が不穏になると、閏10月20日、頼盛は京都八条院から突如姿を消しました。「玉葉」によれば、同年11月6日、頼盛は鎌倉に到着したとあります。

頼朝は相模国府(神奈川県庁)にて頼盛を迎え入れ、相模国の代官(神奈川県副知事)に頼盛の世話を命じました。これは父の恨みである平家一門に対する扱いとしては破格の扱いになります。それだけ頼朝が池禅尼に感謝している表れとも言えますが、頼盛が八条院の縁者であることも無関係ではなかったと思われます。

八条院と源氏の関係は、源氏の決起を促した以仁王(最勝親王)が八条院の猶子であり、以仁王の令旨を持ち回った源行家は八条院の蔵人であったことから、この源平争乱においては非常に強いものがあったのです。

また、すでに法皇の「寿永二年十月宣旨」によって東国及び東海地方においての行政権は頼朝にあり、正式に朝廷に認められた今、頼朝にとって重要なことは院や朝廷とより良い関係性を築くことでした。

すでに頼朝の元には中原親能(元後白河院の役人)というブレーンがいましたが、親能は位階は「正五位下」で公卿にも至っていない中級貴族のため、院や朝廷の中枢に深く入り込める人材が不足していたのです。

そのため、頼盛は清盛の異母弟で、位階も「正二位・前権大納言」であり、その上、八条院の縁者であることは、頼朝にとってこの上ない吉兆でした。


話を京都に戻します。


源義経の軍勢が不破の関に到着したことを聞いた後白河法皇は、いよいよ義仲排除の動きを本格化させます。

同年11月7日、後白河法皇は、源行家以下、源氏の諸将に院庁(法住寺)の警護を命じました。この時の命令は義仲一人がハブられてました。

義仲は、自分の知らないところで法皇の名前で命令が下され始めたことに、不穏なものを感じざるえませんでした。

ところが、ここで法皇の誤算が生じます。

この日、義経の軍勢は近江国(滋賀県)に入国しますが、その軍勢はわずか五百から六百騎たらずであることが判明します。それまで義経の軍勢は数万という伝聞が届いていましたが、わずが五、六百騎では戦いになりません。

そもそも頼朝が自身ではなく、名代として弟・義経を遣わしたのは、先の宣旨(頼朝の東国行政権の承認)に従って、東国の年貢を京都に収めるためで、戦をするつもりはなかったと思われます。供物の護衛なら五、六百騎で十分でしょうから。

翌11月8日、源行家は予定通り、法皇の命令を受けて二百七十騎を率いて平家追討に向かいました。

ここから法皇と義仲の間は確実に不穏な空気が漂いはじめ、それは京都市民の間にも様々な「噂」となって広がって行きました。

同年11月16日、法皇は近江に止まったままの義経入京の件を会議で図り、義仲に使いを出して「義経の軍兵が小勢なら入京を認める」ことを了承させました。

翌11月17日、京都市中には

「いよいよ義仲が法皇様を討つらしいぞ」
「いやいや、法皇様が義仲を誅伐されるのだ」


と双方をけしかける噂が流れていることが「玉葉」で確認できます。

その原因は行家が出陣した8日以降、法皇が園城寺や延暦寺の大衆(僧兵)らを動員して、院庁(法住寺)に堀や柵を作って、武装化を進めたことにあります。

法皇の本陣とも言える院庁が武装化すれば、そりゃ京都市中の人たちは「いよいよ戦争か?」と噂してもおかしくはありません。

また、法皇のお得意の「策謀」により、義仲軍を構成していた美濃源氏(土岐氏)や摂津源氏(多田氏)などが院に味方することが確定すると、法皇は

「頃はよし.....」

と決心し、義仲に対して、ついに最後のトリガーを引くことを決意したのです。

(つづく)
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