2017年10月24日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(74)-根くらべ-

西暦1183年(寿永二年)閏10月14日、平氏追討の院宣を受けて西国に出向いていた源義仲が、軍勢を率いて京都に戻ってきました。

帰還の理由は、京都に留守居役として残していた樋口兼光から、「行家のおっさんがいろいろ暗躍しているのと、法皇さんが密かに鎌倉と通じてる」という報告を受け取ったからでした。

義仲の京都の陣所にはすでに兼光が到着の手配をしておりました。
兼光は義仲が帰還すると真っ先に出迎えて

「無事のお帰り、安堵いたしました。」

と義仲の帰還を喜ぶと、広間に通し、改めて安堵した表情を浮かべました。
義仲は鎧も解かず、上座の床几に座るやいなや

「樋口次郎、留守居の役目、大義であった」

と兼光の苦労を労うと、兼光は丁寧に頭を下げました。

「お前の書状を読んで飛んで帰ってきたのだ。一体何があったのだ」

義仲は挨拶もそこそこに兼光に報告を求めました。
兼光は「お耳汚しは何卒ご容赦」と前置きを置いた上に

「殿が出陣されて以降、院の内部で公卿らが殿のよからぬ噂が出回っています。また御上(法皇)が鎌倉と書状を取り交わしていたようで、先月このような小除目が発表されております」

兼光は院が発した頼朝の従五位下復位の除目を義仲に見せると

「なぜ、突然このような.....」

と義仲は驚きました。

先の平家の都落ちで勲功の第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家となっておりました。
義仲と行家はすでに任官していたので、頼朝のみ叙任がない状態でしたが、それは頼朝が上洛するまで行われないと義仲は思っておりました。にもかかわらず、自分の留守中に抜け駆けのように行われたことに、モヤモヤ感が満載でした。

「それだけではありませぬ」

と兼光が続けると、義仲は除目の書状から目を離し、兼光に目をやりました。

「去る先月24日、院から頼朝に対し、東国における公家の荘園や公領の回復とそれに伴う行政執行権を頼朝に与えるという宣旨が出されたようです」

「な......」

義仲は目を目一杯に広げて、二の句が告げませんでした。

いかに公家の荘園や院・朝廷の公領の年貢収入の回復のためとはいえ、頼朝に東国の行政権を与えるということは、東国に根を張っている義仲勢力(常陸の源義広<志田三郎先生>など)は、頼朝の支配を甘んじて受けなくてはならないことになります。

義仲と頼朝は同じ源氏であり従兄弟同士でありますが、義仲は北陸、頼朝は東国で勢力を張っていました。しかし頼朝に反旗を翻した源義広と源行家を義仲が匿った際、両者の間に緊張が走りました。

ですが、京都への進軍を一刻も早く進めたい義仲は頼朝と休戦協定を結び、嫡男義高を鎌倉に送っています。

義仲は念願通り京都に進軍し、平家を追放しました。義仲の思惑は平家を追討し、院も朝廷も意のままに操った後、東国の頼朝を「東国を不法に横領している謀反人」として決着をつけるつもりでした。

ところが、法皇が頼朝の官位を戻して中央貴族の中に組み込んだ上で、公家領・公領の回復のために頼朝の東国行政権を認めるとなると、もはや朝敵でも謀反人もなくなってしまい、義仲に頼朝を討つ大義名分がなくなってしまったのです。

(俺が西国で必死に平家と戦っている間に、あの御方は.....)

義仲は除目の紙を握りつぶして力の限り引き裂くと

「御上!あなたはどこまでこの義仲を愚弄すれば気がすむのだ!!」

と激昂しました。

「頼朝は自分の名代として九郎義経なる者を京へ向かわせているという風聞もございます」

「いよいよ鎌倉が動き始めたか.....」

「それはそうと、十郎(行家)様の姿が見えませんが」

兼光が不審に思って義仲に言上すると

「叔父御は備前に陣を張って、平家の東上を食い止めると言いおった。そういえば、お前、叔父御のことも何か言っていたな。正直、使えない叔父御だがあれは俺の身内だ。いくらお前でも讒言は許さんぞ」

「讒言と思いたければお思いなされ。十郎様は戦に出陣中もあれこれと御上に遣いを出され、殿のあることないことを吹き込んでいますぞ」

「なんだと?」

「院では、『京都に帰還した義仲は御上や公卿を連れて北陸に動座される』ともっぱらの噂でござります」

「なんで俺がそんなことをしなきゃならん?」

「理由などどうでもよろしい。問題は殿が武力を行使して院を動座させようとしている風聞が出回っていることです。こういう噂が出れば、腰の定まらない公卿どものこと、殿に変わる勢力を味方につけようとするでしょう」

「それが、鎌倉の頼朝か.....」

「十郎様はこの噂を巧みに操り、自分こそは御上の忠臣と必死に売り込んでるようですがね」

兼光が吐き捨てるように言うと、義仲は床机から立ち上がり

「状況はよくわかった。次郎役目大義じゃ」

とだけ言うと、屋敷の奥に消えて行きました。

ここからの義仲の行動は素早いものがありました。

まず、翌日16日、義仲は院に参内し、平家との戦いのあらまし、並びに備前で起きた瀬尾兼康の反乱を鎮圧したことを後白河法皇に報告し、「平家の軍勢恐るるにたりませぬ」と評しました。

加えて、鎌倉の頼朝の弟・九郎義経が数万の軍勢を率いて京都に向かっていると聞き、これを食い止めんと急ぎ京都に戻ってきたと奏上しています。

頼朝に上洛を促したのは法皇ですので、ここで義仲が動かれると法皇の企みがパァになります。

同月19日、義仲は備前に残してきた行家を急ぎ京都に戻し、源光長(美濃源氏)らを含めた義仲に属する源氏一族を集めて今後の方策を話しあいました。この時、義仲は法皇を奉じて関東に出陣し、頼朝を討つことを諮りますが、行家や光長らはこれに猛反対し、行家に至っては「もしこれを行うと言うなら、私は御上にすべてを言上する」とまで言い切りました。

それまで肚の中はともかく、表面的には叔父・甥の良好な関係を表していた二人ですが、この頃から徐々に険悪な雰囲気になっていきます。

身内の反対の剣幕に、義仲も自案を撤回せざる得ませんでしたが、それでも頼朝追討の院宣を得て、九郎義経の軍勢を討つことだけは譲りませんでした。

同月20日、法皇は静賢法印(後白河法皇の側近)を院の使者として義仲の屋敷に向かわせましたが、義仲はすでに関東に向けて出陣する準備を進めていました。驚いた静賢が「これはどうしたことぞ」と義仲に問いただすと、

「この義仲、御上をお恨み申し上げまする。その1は鎌倉の頼朝に上洛を命じたこと。その2は頼朝に東海並びに関東における行政執行権を付与したこと。この2カ条、義仲、生涯お恨みもうしあげまする。頼朝の名代・九郎義経の軍勢が京都に向かっている以上、私はそれを防がねばならない。ゆえに関東に出陣する」

と答えました。

しかし、いかに義仲と言えども院宣がなければ、軍勢を動かせません。
同月21日、義仲は重ねて頼朝追討の院宣を願いますが、頼朝を味方にしたい法皇が頼朝追討の院宣を下すわけがありませんでした。

一方で西国の平家軍の方にも動きがありました。この段階で平家は備前国・美作国(岡山県)より西方を完全に抑え、播磨(兵庫県)の一部も勢力下に置いていました。

かつて水島の戦いで義仲軍が敗れた時、平家の勢力は備前国の中ほどでしたが、すでに備前、美作と言う2国を奪われ、ジリジリと平家の軍勢が京都に迫りつつありました。

関東から九郎義経が迫っているとしても、平家が西から迫っていては、義仲としてもこの状況を無視するわけにはいきません。同月23日、義仲は平家追討軍として源義広(志田三郎先生)を差し向けることを法皇に上申しますが、法皇はこれを断固拒否しました。

「御上め......!!」

義仲の権力基盤は法皇によって維持されているため、法皇を無下にできないところがなんとも辛いところ。

義仲は自分が動けないのであれば、自分以外の勢力を九郎義経に差し向けようとし、同月26日、奈良興福寺の衆徒に関東の頼朝を討てという命令を出しますが、これも衆徒に拒否されています。

ここまでくると、義仲の行動は「目的のためには手段を選ばない」と言う狂気じみたものになっていました。

そして、義仲の再三、再四の要請にも決して首を縦に降らない法皇は、ある時期をただひたすらに我慢強く待地続けていました。

肚と肚の探り合い、義仲と法皇の根くらべ。
それは、意外な形で終了することになります。

(つづく)
posted by さんたま at 00:56| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする