2017年09月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(73)-義仲・激昂する-

西暦1183年(寿永二年)10月9日、後白河院は、右大臣・九条兼実の薦めに従い、小除目(人事)を発表し、源頼朝を従五位下に復位させ、罪人の地位を取り消しました。ただし、この小除目は官位のみの記載で、職位はどの文献にも記載されてはおりません。

従五位下というのは従五位上の下に位置し、京都においては貴族としての最低の官位で有るとともに、地方においては国司(国の代官/現代で言えば都道府県知事)と同等の位階でした。

法皇が頼朝を従五位下に復位させたのは、罪人の地位を取り消し、中央貴族に籍のあるものとして認めたことにあります。これは前述の通り、九条兼実の助言があったわけですが、法皇個人としてもある「狙い」があった上での行動でした。

同年10月14日、後白河院は頼朝に対し、新たな宣旨を下しました。
それは、東国(関東)における公家・寺社の荘園・公領の領有権を、本来の領主ないし、国衙(国の役所)へ回復させる命令と、その回復を実現するため頼朝の行政権の執行を朝廷として承認するというものでした。

法皇がなぜ、この宣旨を出さなければならなかったか。それは当時の院・朝廷の経済事情に直結しています。
この時の日本国はどうなっていたかというと

奥州:奥州藤原氏が実効支配
東国・東海:源頼朝・武田信義が実効支配
北陸・畿内:源義仲が実効支配

西国(西日本):平家が実効支配

となっており、院と朝廷(すなわち)経済基盤は、奥州藤原氏の年貢収入しかなく、経済的にかなり困窮している状態でした。

さらに義仲の京都侵入・駐留は、京都の食糧事情を一変させており、京都は物資が枯渇している状況だったのです。加えて、北陸宮の皇位継承問題の勃発で、法皇は義仲を倦厭し始めていました。

義仲の勢力を牽制させたいために、何としても頼朝を味方につけたい法皇は、頼朝の官位を復位させ、中央貴族の中に組み入れました。その上で、院の命令として、東国から上がる年貢の保全を頼朝に課し、東国からの収入を安定させたかったのです。

また、これは頼朝にとっても大きな意味を持つ宣旨でした。

この頃の頼朝の鎌倉政権は、有力東国武士の集合体であり、頼朝はその盟主として存在していました。しかし、同盟関係にある甲斐源氏の中には分裂が生じ、安田義定のように義仲軍に加わって官位(遠江守)を得たり、常陸の源義広(志田三郎先生)のように義仲に公然と加わる東国武士もおり、頼朝を盟主と仰ぐことに不安を覚える御家人も少なくない状況でした。

しかし、先の小除目によって従五位下の復位して、罪人の地位から解かれたことは、中央貴族の一員としての地位を持つことになり、頼朝の東国支配を朝廷が認める役割を果たしました。

さらに今回の宣旨では、頼朝は東国で公家や寺社の持つ荘園を奪い、横領している不届者を、朝廷の命令で討てる権限を持つことができたのです。

今回の宣旨は、法皇と頼朝の利害が一致した宣旨でした。
ですが、頼朝の東国支配について、有力東国武士の多くは、東国は京都とは独立した軍事政権を望んでいた者が多かったため、鎌倉御家人としては納得行っていない者が多数おりました。

この影響は、後日、頼朝の東国支配に小さなさざ波を起こすことになります。

一方、法皇も頼朝に勝手に実効支配と行政権を付与したことを義仲に責められてはたまらんと考え、同月24日、法皇は義仲に新たに上野(群馬県)と信濃(長野県)の実効支配権を認め、頼朝との牽制を企みました。

また、閏10月13日、頼朝は先の宣旨の領域を北陸道にも適用させて欲しいと院に働きかけを行っていることが右大臣・九条兼実の日記「玉葉」に記されています。

法皇は

「冗談じゃない。そんなことしたら、自分の身が危ないやんけ。」
「北陸も頼朝に与えて、義仲が怒って院に攻めてきても、頼朝は東国。援軍が来る前にこっちが先に死んでしまうわ」

とスルーを決め込みます。この態度に右大臣・九条兼実は

「天下の政治のトップがこのザマかよ。器の小さき者を近くに置いてる限り、天下の乱が静まることはあるまい」

と法皇を批判しました。


話を備前国に戻します。

西暦1183年(寿永二年)閏10月14日、義仲は軍勢を率いて、突如京に戻ってきました。それは、京都留守居役だった樋口兼光からの密書を受け取ったことが原因でした。密書には

「備前守(源行家)様が御上と気脈を通じ、怪しい動きをしているようです。また鎌倉の頼朝とも気脈を通じている噂もあります。西国の戦いはひとまず置いといて、急ぎ京都に帰還してもらえませんか?」

という内容でした。

(あの叔父御め......)

行家はこの時、義仲の軍勢に加わって備前国まで出陣してました。
院と通じていることなど一切義仲に伝えていないということは、裏でよからぬことを考えているに他なりません。

義仲は兼光からの密書のことは伏せ、京都にて急用発生のため、京都に戻ることを行家に伝えました。
すると

「御上より剣まで賜って平氏追討の命を受けたのは木曽殿です。にもかかわらず大した戦果も出さずに京都に戻られれば都人から失笑を受けましょう。私は木曽殿の名代としてここに陣を構え、平家の軍勢が京都に向かうようなことがあれば、盾となってそれを食い止めます」

と申し上げ、この地に残ることを希望しました。

(よくもまぁ、ぬけぬけと......)

義仲は呆れ果てましたが、京都に戻る途中に平家から追撃を受けるのも本意ではないため、行家の申し出を受け入れました。

そうして戻ってきた義仲は、兼光から留守の間の話を聞くと

「おのれ、御上!この俺を愚弄するのか!!」

と激昂したのです。

(つづく)
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2017年09月25日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(72)-法皇と兼実-

源義仲瀬尾兼康の反乱を沈めている頃、京都では後白河法皇が暗躍しまくっていました。

法皇は、去る10月1日頃に中原康定が持ち帰った源頼朝の書状を読み、神仏への敬意、朝廷への敬意等、物事の筋目の立て方にいたく感心しておりました。

法皇は頼朝の上洛を願いましたが、同月9日にその件について頼朝から「今は上洛できない」という書状が届きます。ただ理由が明確に書かれており、

1つ目は今、上洛すれば常陸国(茨城県)の佐竹隆義・秀義らが鎌倉を伺う姿勢を崩していないこと、
2つ目は手勢を引き連れて京都に入れば、京都の食糧事情が一気に逼迫させることになり、それは頼朝の望むところではない
と書かれていました。

これにも法皇は非常に気をよくしましたが、頼朝は結果的に法皇の上洛要請を巧みにかわしており、ある種のしたたかさも感じていました。

頼朝を上洛させ、義仲を牽制する勢力にし、武士の台頭を抑えたい法皇の企みは無に帰しました。しかし、ここで黙って引き下がる法皇ではありません。事態の打開を図るため、ある日、法皇は右大臣・九条兼実を院庁に呼び出しました。

これは法皇にしては非常に珍しいことでした。

兼実は自らのスタンスを明確にせず、朝廷や院はもちろん平氏や源氏などの武士勢力にも特に肩入れすることなく、中立の立場を貫いていました。それは院政を確たるものにしたい法皇からすれば、建前論者としか映らず、なかなか信用ならない存在だったのです。

しかし、兼実はあらゆる有職故実に精通しており、当代きっての知恵者であることは法皇も認めざる得ませんでした。

院よりお召しの使者がきた時、兼実は「何用だろうか」と訝しみましたが、断る理由もありませんし、また断ったら余計な憶測を呼ぶだけであることも承知していました。ゆえに着替えをして院に参上しました。

「御上におかせられましては、ご機嫌麗しゅう」

兼実は法皇の前まで進み、かしこまりました。

「右府(右大臣)。久しいな。変わりはないか?」

法皇は顔色一つ変えず、言いました。

「世情の喧騒、さぞ御上の大御心を悩ましているものと推察し、謹んでお見舞い申し上げまする」

兼実は再び畏まって平伏し、そのまま

「わざわざのお召し、何事やあらんと思い馳せ参じましたが、御用を承りとう存じ奉りまする」

と言葉を続けて、顔をあげました。
それを見た法皇はニヤリと笑い

「政のことならそちなど呼ばぬ。」

「これはまた......」

(言いにくいことを)と兼実も思い、苦笑せざる得ませんでした。

「鎌倉のことじゃ」

「史大夫(小槻隆職)より話は聞いておりまする。物事の筋目をわきまえた礼節を重んじる者として、御上の覚えもめでたきこととか」

「上洛はできぬと言うてきた」

「はて、それは何故にでござりまするのか」

「頼朝の留守に鎌倉を奪おうと画策しているものがおるらしい」

「なるほど。東国も一枚岩ではないのですな」

「頼朝の心配はもっともじゃ。ワシが同じ立場であればそう返すであろう。それは理解できる。だがそれでは困るのじゃ」

「はて、どうお困りになられるまするのか?」

「伊予守(義仲)じゃ。先日の皇位継承問題(後鳥羽天皇即位)の時に思ったのじゃ。このままあやつのやりたいようにやらせては、朝廷も院もいずれ滅んでしまう」

法皇の言っている皇位継承問題とは、平氏が三種の神器と共に安徳天皇を連れ去ったため、天皇が空席となり、安徳天皇も神器も戻る見込みが絶たれたため、朝廷は新たな天皇を擁立する必要に迫られた問題です。

法皇は高倉天皇の皇子で、安徳天皇の異母弟に当たる尊成親王を、後白河院の院宣を以って践祚させるつもりでしたが、ここで義仲が自身の主上として北陸宮(以仁王の皇子)を即位させろと後白河に迫ったのでした。

結果として、御籤のイカサマの上で後鳥羽天皇が即位することになったのですが、この件について、兼実は自分の日記「玉葉」で大いに批判していました。

しかし、兼実は、自身の性格なのか信条なのかはわかりませんが、表立って院や朝廷、源平の武士のやることの批判を口にすることはなかったのです。

「御上は、義仲の牽制のために鎌倉の頼朝を味方につけたいとお考えでいらっしゃいますか」

兼実は法皇の言わんとしていることを推測で当てました。

「さすが右府。その通りじゃ」

法皇は兼実をギロリと睨みながら言いました。
法皇は、兼実のこういう先を読んで機先を制するところを嫌らしく思っていました。要するに「心の奥底まで見透かされているのではないか」という恐れの表れですね。

兼実は「恐れながら」と畏ながら

「義仲と頼朝は従兄弟同士。とはいえ、義仲の父・義賢は頼朝の兄である悪源太義平に殺されておりますので、義仲としては、心穏やかならなぬものがあるでしょう。また頼朝にとっても義仲の存在は自分に変わって平家を討たれかねないため、快く思ってはおりますまい」

「そう、そして今、義仲は平家追討の院宣を受け、播磨に遠征している。状況としては絶好のタイミング。じゃが、頼朝が上洛を拒んでいる以上、打つ手がないのじゃ」

法皇は手に持っていた扇子を床に叩きつけましたが、兼実は微動だにしませんでした。

(この御方にしては珍しく、焦っておられるな......)

兼実はここでどう立ち振る舞うのがベストなのか、法皇の言動からそれを読み取ろうとしていました。

兼実は自身が源平どちらにも与するつもりはありませんでした。それは、己の信念として「政を淳素に反す(政治を古来よりの本来あるべき姿に戻す)」ことを誓っていたことと無関係ではありませんでした。

今の政治は院が力をもち、朝廷はその下に置かれ、天皇であっても皇太子のような扱いにされている現状は、決して「あるべき姿」ではなかったのです。

兼実が考える本来あるべき姿、それは朝廷に政治権力を集約させること。そのために院の弱体化は避けて通れませんでした。

しかし、このまま義仲の暴走を容認することは、院でも朝廷でもなく、義仲が主体となって朝廷を牛耳るということにになり、それも兼実の望むところではありません。

(しかたない。ここは頼朝を担ぎ出す策を与えるか)

兼実は「恐れながら」と畏み

「頼朝の官位をお戻しなされませ」

と言いました。

頼朝は、かつて西暦1160年(平治元年)の「平治の乱」で父・義朝が賊軍となり、父と兄の悪源太義平は殺され、頼朝自身も平家に捕縛されて、伊豆に流されました。その時頼朝がついていた官位「従五位下 右兵衛権佐」は、流罪とともに解任され、以後の頼朝は現在に至るまで、無位無官の謀反人だったのです。

「なんだと?」

法皇はゆっくりと兼実に尋ねました。

「鎌倉の頼朝は今でこそ鎌倉を中心に関八州の多くを支配下に起き、甲斐の武田信義と連携することで東海道一帯までその力を広げておりますが、未だに謀反人として流罪の身でございます。」

「平治の戦の話だな」

法皇は遠い目をして宙を仰ぎました。

「御意。御上が頼朝を上洛させ、義仲を牽制させようとするならば、まずは官位を復位させて朝敵から外してからでないと、無位無官のままで上洛させてもなんの意味もありません」

「しかし復位を認めるということは、院が頼朝の東国の実行支配を認めることになりはしないか?」

「それはそれでよろしいではありませぬか。むしろ復位させることで、朝敵の汚名が外れるわけですから、頼朝の東国武士への権威付けにも効果的だと存じます。院としては頼朝の復位を認めるとしても、その支配体制に口を出すつもりはないという立場さえ明確にしておけば問題はないかと」

「なるほど.....」

これらの問答をした後自邸に戻った兼実に、院から一通の書状が届きました。
それは、院が除目(人事異動などの発表)を発し、10月9日付を以って、源頼朝を従五位下に復位させることに決定したことを伝える内容でした。

その上において後白河法皇は新たな手を頼朝にうつのでした。


(つづく)
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2017年09月10日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(71)-瀬尾兼康の大博打-

西暦1183年(寿永二年)10月10日未明、源義仲の配下・倉光成氏は、成氏の部下で元平家の剛将・瀬尾兼康の裏切りにあい、備中国三石(岡山県備前市三石)の宿で三十人の郎党と共に惨殺されました。

兼康は、自分の元領地だった妹尾荘の旧臣たちを使者に立て、備前、備中、備後各国に檄を飛ばし、平家に心寄せる者たちに決起を促しました。その結果、約二千人の軍勢が兼康の元に集まりました。

兼康は、備前国御野郡津島の福隆寺縄手(岡山県岡山市北区津島本町の妙善寺あたり)に立て籠って砦を築き、ここを訪れるであろう義仲に対し、迎撃体制を整えます。

一方の義仲は、兼康の裏切りを知ると、腹心である今井兼平に三千騎を与え、急ぎ備前国に向かわせました。

しかし、福隆寺縄手は非常に道が狭く、大軍の行動がしにくい土地でありました。やっとの思いで到着した今井兼平は、矢倉の上に立つ兼康を発見しました。

「おのれ瀬尾太郎!(兼康)。倉光三郎(成氏)および木曽殿がつけた郎党三十名もろとも殺害におよびしはなんの考えがあったのことじゃ!。その上、国府を襲い、備前国を横領するとは気でも狂ったか!」

兼平はそう兼康を大声で罵りました。
それに対し、兼康は「かっかっか!」と笑い

「我はもともと平家の家人!。倶利伽羅峠の戦いで木曽殿に捕縛され、降伏し、今日まで生きながらえて参った。だが、いかに平家の命運が衰えつつあるとはいえ、おとなしく源氏の世を受け入れられるわけがないわ!」

「しからば、そなたはずっとこの機会を待っておったと?」

「その通り。たまたまワシの領地(妹尾荘)近くまで木曽殿の軍勢がきたから、かねてよりの計画を実行したまで」

「この恩知らずが!」

「無礼者!この瀬尾太郎。一度受けた恩義を忘れるほど落ちぶれてはおらぬわ。これまでの御恩、これにてお返しいたす!」

兼康がそう言うと、刀を高らかに上に上げました。すると矢倉に潜んでいた何百という弓兵は建物の上に現れました。これを見た兼康は本能的に「いかん!」と思い、伏せの合図をしますが

「放てぇい!」

と言う号令と共に、数百の矢が一度に兼平の軍勢を襲ったのです。
狭いの道幅で前後にしか行動ができず、そして左右には深い堀が掘られていたため、兼平の軍勢は左右の堀に自ら身を入れて弓矢をよけ、また矢を射られて倒れた馬などを盾にしてその場をしのぐしかありませんでした。

しかもその弓矢の雨はなかなか途絶えませんでした。

「止むをえん。左右の堀の兵に最前まで進ませて、砦に近づき、下から矢を放って、弓兵を一掃させろ」

兼平は自分の部下にそう伝え、左右の堀に避難した隊に命令を下しました。
この作戦は徐々に効果を発し、少しずつ矢倉の上の兵が減っていきました。
やがて日没となると

「頃は良し......全軍かかれっ!」

と兼平は全軍総攻撃を命令を下します。

兼康の軍勢は二千騎という大軍でしたが、兼平の軍勢と決定的に違う部分がありました。
その違いは「統率」です。

兼康の軍勢は、兼康の号令を受け、単に「平家に心寄せるもの」たちであり、源氏に一矢報いたい武士たちです。兼康がキッカケとはなりましたが、兼康を総大将と認めているわけではありません。ぶっちゃけ、兼康の命令通りに動いていたのは、旧領である妹尾荘の武士たちのみでした。

ですので、二千騎とはいえ、言ってしまえば「ただの烏合の衆」
そんな軍勢が、統率の取れた兼平の軍勢に叶うはずもなく、また数の上からも兼平の軍勢の方が上のため、福隆寺縄手の砦は総攻撃が始まると、瞬く間に落ちてしまいます。

兼康自体は砦が落ちる前に自軍をまとめて密かに脱出し、板倉川(足守川?)の河原で陣を張って、兼平との最終決戦に備えました。しかし、兼平の追撃を受け、兼康はさらに西へ撤退しようとします。この時、兼康の郎党はたったの三騎になっていました。さらにそれを追う兼平ですが

「今井殿!」

と声をかけられたので兼平が振り向くと、そこにいたのは、備中国三石で兼康に殺された倉光成氏の兄・倉光成澄でした。

「奴には弟を殺された恨みがあります。ワシはそれが悔しい。是非とも再び生け捕りにし、武士の恥辱を散々に味合わせたいと思ってます。」

兼平は成澄の思いは尤もだと思い

「この場は次郎殿(成澄)にお任せいたす」

と道を開けました。
成澄は

「かたじけない」

と一礼すると、馬を駆って兼康を追撃しました。
成澄は板倉川を西に渡ろうとする兼康を発見すると

「瀬尾太郎!お主はそれでも武士か?敵に背を向けて恥ずかしくないのか?貴様に武士の心意気があるなら、見事引き返してみよ!」

と大声で怒鳴りつけました。
渡河中の兼康はその声に止まり、ゆっくり振り向きました

「次郎殿か......」

兼康は追っての武者が成澄であることを確認すると、止まったまま馬ごと振り返りました。

「このような対面はしたくはなかった!貴様の武勇を見込んでいればこそ、弟に貴様を預けたのだ!それを.....」

兼康は何も答えませんでした。答えたところでなんの言い訳にもならないことを彼自身が知っていたからでした。

単に平家に鞍替えするだけなら、暇を取って自分の旧領に戻ればいいだけのこと。そうすれば成氏も義仲がつけた三十騎も死なずに済んだのです。でも兼康はそうせず、自分が源氏を裏切って平家武士として挙兵するためのデモンストレーションとして世話になっていた成氏を殺害しました。

到底許されることではありませんでした。
しかし、何も言わない兼康に成澄はイライラが高まっていました。
そしてとうとう

「言うべきことは何もないというのか。では、そなたの身柄、もらいうける。そこで待っておれ!」

と言って一人馬を走らせ、川中の兼康のところまで進みました。
兼康も馬を成澄に合わせて並ぶと、兼康の方からいきなりガッシと成澄の両肩を掴んで、取っ組み合いになり両者共馬から川に落ちました。

両者は上になり下になり、また上になりを繰り返していました。

「次郎殿、許してくれとは言わん。だが黙ってそなたに討たれるほどお人好しでもない」
「黙れ、貴様はここでワシに討たれるのじゃ。それが貴様の運命ぞ」

押さえ込み、はね退け、また抑え込み。この繰り返しは最終的に体力の潰えた方が負けに成ります。
そうこうしているうちに両者は偶然にも川の大きな深淵にはまってしまいました。

「な、なにー!?」

ここで驚いたのが成澄でした。なぜなら、彼はカナヅチ(泳げない)だったからです。
深淵に落ち込んだ関係で取っ組み合いが離れ、目を大きく見開いた成澄は呼吸をしようとなんとか水面に浮上しようと、もがきました。

(ここまでだな)

兼康は後ろから回り込んで成澄の体を左手で抑えると、右手で刀を抜いて、成澄の首にグサッと深々に差し込みました。

痛みと息苦しさに成澄は暴れ、兼康の体に拳と膝蹴りを食らわし、兼康も体勢を崩して成澄の体を離してしまいました。急速に水面に浮かび上がる成澄。口をパクパクさせてなんとか呼吸をしようとしますが、首からドクドクと流れている赤い鮮血と、水面に出たのに自分の息苦しさが変わらないことで、初めて首に斬撃を受けたことに気づきます。

そして次の瞬間、成澄の目の前に兼康が浮き上がって現れ

「成仏されよ......」

と刀で成澄の首を横一文字に払ったのです。
再び鮮血が噴出し、成澄は白目向いて、そのままガクンと落ちました。
兼康は沈もうとする成澄の体を抱えると、そのまま首を刎ねたのでした。

兼康は討ち取った成澄の馬を奪い、板倉川を渡河しきって、なおも西に向かって進みました。その途中、自分の息子である瀬尾宗康と落ち合いましたが、宗康は相当の肥満で走ることも叶わない巨体だったので、兼康はこれを見捨てて追い越し、先を急ぎました。しかし

「このまま逃げ延びて平家の陣に迎え入れてもらったとしても、六十を超えた老将が息子の命を見捨てて逃げ延びたと陰口を叩かれるのは恥ずかしい」

という思いから、馬を返して宗康の元に戻りました。
戻った頃、宗康は足が相当に腫れ上がって歩ける状態でもなくなり、横たわっていました。

兼康は馬から降りて、宗康のそばによると

「もったいないことでございます。私は足手まといに成りたくはありません。ここで自害するので、父上は逃げ延びて再起を図ってください」

と泣きながら言いました。
兼康は

「ワシは敵とはいえ、今日まで私を生かしてくれた恩人をこの手で殺し、その恩人の兄弟もさっき討ち取ってしまった。この上、息子のお前までワシのために死なせては、ワシの業が深すぎる。せめてお前だけはワシと生死を共にしてくれ」

と言って宗康を勇気づけました。
しかし、次の瞬間、近くで喚声が聞こえました。
兼康の郎党が駆け寄り

「今井四郎の追っ手でございます」

と述べると。

「もうやってきたか.....早いな」

と独り言を言い、宗康にニッコリ笑うと、喚声の聞こえる方向へ郎党を率いて向かいました。

今井兼平の手勢はざっと四十騎。こっちは兼康の郎党三人と宗康の郎党十人。数の上では勝敗は火を見るより明らかです。
兼康はあたりを見回すと、崖と崖がS字に重なりあっている狭い路地を発見しました。

「あの崖下に敵を誘導する。まず五人が先に崖下に移動し、下三人、上二人で弓隊を作れ。残りのものは弓矢で敵を攻撃しながら、崖下へ敵を誘導するのだ!」

と命令を下すと、全員、兼康の指示通りに行動しました。
まず宗康の手勢五人を先に崖下に送り、兼康の郎党三人と宗康の郎党五人で兼平の軍勢に矢を射かけながら、適度な距離を保ち、ジリジリと崖下に引いていきます。

兼平の軍勢も、接近戦で挑むのは敵の矢の標的になるため、兼平の軍勢も弓矢での応戦になっていました。
これで、両者の間には適当な距離を保つことに成功したわけです。

兼康ら八人は相当の矢傷を負いながらも、兼平の軍勢をうまく引きつけることに成功しました。
兼康は頃合いを見計らって

「いまだ!崖下に撤退しろ!」

と八人に退けの合図をしました。八人は一目散にS字の崖下に逃げ込みます。それを追う兼平ですが、すでにS字には5人の弓兵が矢を構えておりました。

「放てー!」

兼康の下知で弓が放たれ、攻め込んできた兼平の武士たちはその矢をまともに受けてしまいます。

「かかれー!」

今度は兼康ら八人が刀を抜いて、S字に入り込んできた武士たちと斬り結びました。、そしてまた撤退して、矢を射かけるということを繰り返していました。

しかし、多勢に無勢、兼康側も疲労が重なり、一人、また一人と倒れていきます。
状況を見定めた兼康は、崖下の守備の指揮を自分の郎党に任せると、宗康の元に戻りました。

「父上、戦況は?」

宗康は体を起こして兼康に訪ねました。

「いいところまでいってたんじゃがな。もはや、これまでのようじゃ」

「そうですか......」

「小太郎(宗康)、お主はワシの馬に乗って落ち延びよ。この先の水島までいけば平家の皆様がいらっしゃる。そこに合流し、平家の武人としての瀬尾家の姿を見せてくれ」

「申し訳ありません。私はこのような体にて戦働きもできない無能な親不孝者でございます。生き残ったところで、父上のような戦働きなどできるはずもございませぬ。むしろ父上が生き残ることこそ、平家のため。私はここで死にます。どうぞ御身をお大事に」

「六十をすぎたワシが生き残って、三十そこそこのお前を敵に殺されるとか、ありえん」

「では、父上の手で私を殺めてくださいませ」

「何?」

「敵兵の手にかかって死ぬるくらいなら、父上の手にかかって死にとうございます。どうせ私はここから動けません。敵兵の手にかかるのは時間の問題です。瀬尾家の名誉を、そして私のことを思ってくださるのなら、さあ、父上、私の首を刎ねてくださいませ。」

確かに宗康のいうことは理がありました。このまま兼康だけが馬に乗って平家の陣に落ち延びれば、宗康は敵兵の手にかかって死に、また兼康は子供を見殺しにした武士として汚名を終生背負わねばなりません。

ですが、ここで息子を手にかけて、また兼康も勇猛果敢に戦って散れば、瀬尾家の名は何人にも辱められることはないでしょう。

「父上、さ、はよう」

宗康は体を起こして胡座に座ると目をつぶりました。
宗康も覚悟を決め、ゆっくり刀を抜きました。

「父上の御武運をお祈りいたします。」

それだけ言うと、宗康は前かがみになりました。
兼康はその突き出た宗康の首を一刀の元に斬り落としました。

もう兼康には失うものは何もありませんでした。
もはや平家のことなどどうでもよくなっていました。

兼康は宗康の首を埋めると、刀を抜き、また戦場に戻って行きました。
そして敵を五、六人討ち果たすと、疲労で膝をつき、その瞬間に三本の矢に射抜かれ、その隙に首を刎ねられてしまいました。

こうして瀬尾兼康の一世一代の大博打は全て終わりました。

義仲は備中国鷺が森(現在地不明)で、兼康とその主従三人の首を検分しました。
その際

「まさしく、剛の者と呼ぶにふさわしい。一騎当千とは彼らのような者を言うのだろう。惜しい武将を失った者だ」

と嘆き

「四郎(兼平)、役目大儀であった」

とその労をねぎらいました。

兼平が瀬尾兼康の謀反を鎮圧したことは、水島の敗戦で落ちていた義仲軍の士気を、大いに高める結果になりました。
義仲は軍勢を整え、平家の本拠である屋島を目指して行動することになるのですが、ここで思わぬ事態が勃発する事になるのです。

(つづく)
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