2017年07月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(66)-平家追討-

西暦1183年(寿永二年)7月25日、平家一門は棟梁である平宗盛以下、京都を脱出し、西国(福原)へ逃れました。しかも幼い天皇(安徳天皇)を連れて。

しかし、平家が西国への逃走を計画していることを察知した「治天の君」である後白河法皇は、院庁の人間にも誰にも何にも告げず、コッソリに院庁である法住寺を抜け出し、比叡山に隠れてしまいました。

平家としては、何としても法皇と天皇を自分の手の内に入れて西国に落ち延びる必要がありました。法皇と天皇を抱えておけば絶対に朝敵になることはないからです。

しかし、宗盛にとって、後白河法皇という存在を制御するには、あまりにも大きすぎました。

武士として、初めて太政大臣という頂点に上り詰めた清盛と何度も権力闘争でぶつかり、何度も敗北し、時には幽閉され、その権力さえ抑え込まれても、決して復権を諦めなかった後白河法皇です。

腹黒さ100%、権謀術数の達人。後に源頼朝から「日本一の大天狗」とさえ言われた後白河法皇です。

本来は重盛が継ぐはずだった平家一門の棟梁の地位を、重盛の死で覚悟のないまま後継者にされ、清盛の急逝によって強制的に継ぐことになった宗盛が、到底太刀打ちできる相手ではありませんでした。


翌26日、その後白河法皇が比叡山東塔円融坊に隠れていることが公卿連中に知れ渡った(むしろ呼びかけた?)ため、院庁関係者や多くの公卿が円融坊に集まってきました。

「玉葉」(右大臣・九条兼実の日記)によれば、兼実も藤原定能(従三位)から「早く比叡山に参れ」という知らせを受けて比叡山に向かっていました。その途中、兼実は源雅頼(正二位/村上源氏)とその息子・兼忠(正五位下/大和守)と会い、雅頼は

「三種の神器、お呼び宮廷内の様々な宝物が平家は奪い去さられました。御上(法皇)は朝廷の威信にかけて平氏追討の院宣(命令書)を出すだろうが、それは困ります。まずは神器の安全を第一に考えなくて頂かなくてはなりません」

と言ったので、兼実が比叡山に参内して法皇にそのことを伝えると、法皇は平親宗(正四位下参議/平時忠異母弟)を摂津で暴れている多田行綱(摂津源氏)に遣わして「宗盛を攻撃するな」という命令を出すという決定を行います。しかし、それを聞いた兼実は

「そんなの(行綱が)聞くわけないでしょう!」

と再度法皇に申し上げて、平家女院そして平時忠(正二位権大納言/清盛義弟)に密使を使す許可をもらい、手配しています。

この記録からもわかりますが、この時の後白河院はかなりの混乱を極めていたことがわかります。
また「吉記」(従三位吉田経房の日記)には

「比叡山の僧たちが京都に入ってきた。乱暴狼藉、放火、窃盗なんどもありの状態に、もう世の中はおしまいだ」

と言う記載があります。

平家が安泰だった頃は、京都の治安は平家が守っていました。最盛期は左兵衛督、右兵衛督の両方を平家が占めていましたので。
しかし、その平家が揃って京都を去ったため、兵衛府(京都県警本部みたいなもの)が正しく機能できず、京都の治安は極度の悪化状態にありました。

ただ、兼実もこの事態は把握していたようで、院庁への帰還を促す公卿に対し、義仲、行家に京都警備を申しつけて、各地の乱暴狼藉を取り締まった上でないと、今の状況で法皇の身を京都に返すのは危険すぎると警告を出しています。


27日、法皇は比叡山を下山し、京都・蓮華王院(三十三間堂)に入りました。
この時、法皇を護衛したのが近江源氏の山本義経とその子・義高です。

義経は3年前の西暦1180年(治承四年)の近江源氏の反乱第43回「清盛、再びマジ切れする」参照)の際の首謀者の一人で、自勢力壊滅後、行方知れずになってましたが、今回の義仲の軍勢にに加わっていたようです。


28日、朝廷の命を受け、源義仲は京都北門から、源行家は京都南門から軍勢を率いて入京しました。
またこの日、法皇の命令で蓮華王院にて公卿議定が開催されていることから、この時点で、院庁の機能は元に戻ったと考えられます。「百錬抄」(歴史書)によれば、この日の議題は

「勝手に天皇を拉致して西国に逃亡した前内大臣(宗盛)から、いかにして天皇と三種の神器を取り戻すか」

でした。
しかしながら、事なかれ主義の公卿に有効な策があるわけでもなく、また京都はすでに義仲・行家の軍勢に抑えられている以上、平家が降伏することは考えられませんでした。

そこで、法皇は義仲並びに行家を蓮華王院に呼びつけ、両人に「平家追討」を命じます。
平家が「賊軍」に貶められた瞬間でした。

また、両人は藤原兼光(従四位下左中弁)から、京都市中の狼藉(犯罪)の取り締まりも合わせて命令されています。

29日、平家一門の都落ちに同道しなかった伊藤忠清(従五位下上総介/平家最強の侍大将)平貞頼(清盛家令・貞能の次男)らの降伏が確認されています。

またこの日は五条坊門の南(下京区坊門町付近?)六波羅蜜寺が放火によって焼け落ちていました。

そして30日、また公卿議定が開催されました。
ここで一連の源氏の武力行動に対し、朝廷からの初めての回答が出るわけですが、それは少なくとも義仲にとっては意外なものでした。

(つづく)
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2017年07月17日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(65)-平家都落ち-

西暦1183年(寿永二年)7月、比叡山延暦寺は源氏に味方することを決定し、平家と手切れになりました。これを知った平家一門の棟梁・平宗盛は、京都を防衛するため、平資盛・重能宇治田原(京都府宇治市)に、平知盛・重衡近江国勢多(滋賀県大津市)に向かわせました。

また西国への動揺を抑えるため、平忠度(清盛異母弟/薩摩守)に百騎を与えて丹波国に遣わしています。

同年7月22日、京都に義仲軍が攻め入るという噂が出ました。これは同日、比叡山延暦寺の僧綱が比叡山を下山し、東塔惣持院に義仲の出城が完成したことを朝廷に報告したために出た噂でした。しかし、持てる兵力をほぼ外に出している平家の本拠・六波羅(現在の京都市東山区松原通南、山城町、大黒町、池殿町付近)は上へ下への大騒ぎとなりました。

一方で、義仲の別働隊として、伊賀国で平家継と戦っていた源行家は、大和国宇陀郡に転進し、吉野の大衆を味方につけることに成功しました。このため、宇治田原に駐屯していた資盛・重能の軍勢は京都の東と南の両方から迫り来る敵を相手にしなくてはならず、宇治から身動きができなくなっていました。

京都の北東の外縁部は日を追うごとに軍事的緊張が高まっていました。
そしてこんな時にある一報が六波羅にもたらされます。

「何?多田蔵人の動きがおかしいだと?」

宗盛に入った情報は、摂津・河内両国の代官を務める多田行綱(蔵人頭)が不穏な動きをしているというものでした。

この多田行綱とは、かつて西暦1177年(安元三年)6月に東山鹿ヶ谷(京都市左京区)で起こった平家打倒の陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」を清盛に密告した裏切り者で、その時から平家に味方していましたが、もともとは摂津源氏の出自でした。

宗盛はまさかと思いつつも、丹波に駐屯していた平忠度に連絡を取ろうとしましたが、忠度はすでに都に帰還していました。

「多田蔵人、ご謀反でござる。摂津河尻の平家の船は悉く蔵人の手にかかり、物資を収奪されました」

忠度の報告を宗盛は愕然としながら聞きました。
敵は東方だけでなく、西方からも忍びよっていたのです。さらに大和の大衆も源氏に味方するとなれば、東、西、南、周りはすべて敵でした。

また、北陸を奪われた今、西国からの物資だけが頼りだった平家にとって、その船を奪われたことは、補給路を奪われたに等しいことでした。


同月24日、宗盛は、叔父である平頼盛に対し、義仲が軍勢が都に入ることにないように山科(京都市山科区)に出陣するようにお願いしています。

そしてその後、一人自室に籠り、取るべき方策を模索しました。

現時点の平家の本体の兵力は二万騎。しかし北陸の敗戦で怪我人が多く、満足に戦えるものは一万にも満たない数でした。

数日前、六波羅に報告にきた佐渡重貞は攻め寄せる義仲の軍勢は五万騎を超えるといいました。平家の拠点でもある北陸は完全に義仲に掌握され、西国からの物資補給に頼らざるえないのに、多田行綱の謀反によってそれも収奪されています。

敵である義仲は比叡山東塔に砦を築いた以上、勢多の本陣から多くの兵をここに移すことは時間の問題です。
そうなった場合、確実に都が戦場になり、焼け野原になるのは必定でした。

(それだけは避けなくてはならない。平家一門の棟梁として、この都を戦場にすることだけは......)

24日深夜、宗盛は思案の末、六波羅の建礼門院(徳子/安徳天皇生母/宗盛妹)を訪れました。
徳子は

(このような緊張状態に総大将が何用であろう)

と訝しみましたが、宗盛の土気色の顔色を見た瞬間、これが尋常でないことを察知しました。

「情けないことではあるが、もはや事態はどうにもなりませぬ。このままでは、この都(京都)は早晩、血で血を洗う戦場となりまする。そのような様を御上(法皇)や主上(天皇)にお見せするわけには参らぬゆえ、ここは一旦、西国へお移り頂きたいと考えております」

「兄上......」

「ワシに父上ほどの度量がなかったばっかりに、源氏の者どもを都に入れさせてしもうた。北陸で七万騎もの兵力を失った今、我らにに満足に戦える兵は一万騎。賊徒(義仲)は五万騎と言う。口惜しいが、これでは戦いにならぬ.......」

宗盛はボロボロと大粒の涙を流し、それを直垂の衣で拭っていました。
そのような兄の姿を見た徳子は何も言えず

「今は、ただ、兄上の良きように取り計いましょう」

と西国への移動に一定の理解を示しました。

これより先、宗盛の行動は「西国落ち」の一本に集約されます。まず、同日中に京都の各所に陣取っていた平家の諸将全員が六波羅に呼び集められました。

この動きを察知した後白河法皇は、

(平家に何か動きがあるな......)

と考え、宗盛に

「この慌ただしさは何事ぞ。火急の事態が起きているならば、速やかにその内容を知らせよ」

と申し知れたところ、宗盛は

「取り立てて何もございませぬ。これより御所に伺います」

と詳細をはぐらかして答えたので、逆に「やはり、何かある」という法皇の疑念は確信に変わりました。

翌25日明け方、後白河法皇は源資時、平知康の2名のみを供とし、その他の女房、公卿らに一切何も告げず、忽然と院政庁である法住寺殿から姿を消したのです。

法皇は、5月の倶利伽羅峠の戦いによって平氏の源氏の軍事バランスが崩壊したこと、また官軍(平家の北陸追討軍)として送り込んだ十万騎が賊軍(義仲)に敗退し、二万騎になって帰洛したことから、平家の権勢の衰えを感じていました。

そして7月に入り、比叡山延暦寺が源氏に味方することを表明したことで、時の勢いは源氏に傾いており、これ以上の平家の肩入れは身を滅ぼしかねないと考えていました。

その状況において、平家が京都防衛のために派遣した各将を六波羅に呼び戻すということは、平家は都を捨てて、福原で再起を図るつもりではないかと法皇は考えました。

そうなった場合、「治天の君」である法皇が平家の手の内に確保されることは、平家に「官軍」のお墨付きを与えることに他ならず、源氏はとてつもないハンディを背負うことになりかねません。

また、もともと法皇は平家に対し、愛憎渦巻く複雑な思いを持っていました。
法皇の最愛の人・建春門院(滋子)は清盛の義理の妹であり、その血縁関係を持って、後白河院と平家は連携した政権運営を行っていましたが、建春門院亡き後の法皇と清盛の間は、政治の主導を巡って闘争が繰り返され、時には法皇自身が清盛によって幽閉されるという異常事態に陥ったこともありました。

しかし、時の上皇である高倉上皇の死によって後白河法皇は幽閉を解かれ、再び「治天の君」となって院政復帰しました。そして清盛亡き後は、平家を牽制するために異母妹である八条院と連携して政治を行っていました。

従って、法皇にとって平家とは、神聖にして侵すべからずの法皇の権力を、臣下にすぎない平家権勢の下に組み伏せた屈辱的な存在であり、倒すべき敵でもあったのです。

法皇は法住寺を脱出したあと、鞍馬方面に抜け、横川を経由して最終的に比叡山に入ります。
そして、法皇の行き先は院庁の人間はおろか、丹後局(法皇の寵姫)も含めて誰一人知りませんでした。
そしてこの法皇の失踪が、宗盛をさらなる「鬱」に陥れてしまいます。

「もうよい!こうなれば主上(安徳天皇)だけでも西国にお連れする!」

同月25日、やけっぱちになった宗盛は、平家本拠の屋敷である六波羅や西八条に火をかけて、幼い安徳天皇を二位尼(平時子/清盛未亡人)、建礼門院らと共に輿にに乗せて、朱雀大路(現在の京都市千本通)を南へ向かい、淀を目指しました。この時、平時忠(清盛義弟/権大納言)の指示により、三種の神器も持ち出されています。

これに驚いたのが、山科に出陣していた頼盛でした。

「これはどういうことなのだ!」

実は頼盛の元には、一門都落ちなどの話は一切届いていなかったのです。
自分の知らないところで平家本体が都から撤退して姿を見て、たまらずに嫡男・為盛を使者として宗盛の元に派遣しています。

しかし、法皇に逃げられたことで頭がいっぱいだった宗盛は、完全に頼盛のことを失念していました。
為盛の言上を聞いた宗盛は

「実は法皇様が失踪しちまってな......」

「は?」

「いや、だから、そっちに気が回ってたというかなんというか......察してくれ」

「つまり、我が父のことを忘れていた、ということでしょうか?」

「そういうわけではない。わけではないのだが、すまぬ。他にもやることが山積みでな.....」

という具合にはぐらかされたそうです。
帰ってきた為盛から報告を聞いた頼盛は、ただ一言

「わかった」

とだけ言い、軍勢を率いて都に戻りました。
しかし、自分の池殿の屋敷は宗盛がつけた火で焼け落ちており、頼れる一門もすでになく、やむなく後白河院に助けを求めたところ「八条院を頼られよ」との指示を受けています。

ここで八条院を頼るように言った法皇の真意は、頼盛がもともと八条院に近い人間関係を持っていたこと、また八条院が後白河院の院政を補佐していた関係から、八条院ならば頼盛を疎略に扱わないだろうという考えがあったからでした。

同じ頃、平資盛も平家一門とは別行動を取り、後白河院に庇護を求めていますが、こちらは拝謁を許されなかった為、後追いで一門の都落ちに合流することになっています。。

こうして、平家一門は都を後にし、西国へ落ち延びていくことになりました。

時の右大臣・九条兼実は自身の日記「玉葉」において

「昨は官軍と称し、縦えば源氏等を追討す。今は省等に違い、若しくは辺土を指し逃げ去る。盛衰の理、眼に満ち耳に満つ。悲しむ哉。」
(現代語訳:昨年は官軍と称して源氏を追討したが、今は都から遠く離れた地を指し示して逃げていく、物事が盛え、衰えるのは世の中の道理なれど、悲しみが目と耳に満ちてくる)

と平家の西国落ちを記録しています。

(つづく)
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2017年07月16日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(64)-比叡山延暦寺の葛藤-

西暦1183年(寿永二年)6月1日、加賀国篠原(石川県加賀市旧篠原村地区)で、平維盛(重盛嫡男/小松家当主)率いる北陸平家追討軍を大敗北に陥れた源義仲(木曽義仲)は、同月10日に越前国の支配を回復し、北陸を完全に手中に収めると、13日には近江国勢多(滋賀県大津市)にまで進出していました。

その間、義仲は平家の迎撃部隊が攻めかかってくることを想定し、慎重に軍を動かしていました。

平家も義仲の近江入りは把握していましたが、北陸戦の敗戦で帰京した二万騎は疲労で使い物にならず、ぶっちゃけ兵力と物資を著しく欠いており、組織的な迎撃体制が整っていませんでした。

6月18日、2年前に九州の反乱鎮圧に派遣され、肥後国の菊池隆直を降伏させた平貞能(清盛の第一の腹心/肥後守)が帰京しました。かの軍勢は数万という風聞がありましたが、実際の兵力はわずかに千騎にすぎず、平家一門の方々は気色を失いました。

また、東海道からも安田義定(甲斐源氏/遠江国守護)源光長(美濃源氏)が兵を率いて義仲軍に合流していました。この頃の甲斐源氏(武田信義、安田義定、一条忠頼)は頼朝とは連携しつつも独自の勢力を築いていたため、鎌倉殿(頼朝)の御家人ではありません。よって義定の義仲軍への合流は鎌倉殿の意向を受けたものではありません


平家の本格的な迎撃体制が見えてこない中、義仲はある賭けを行いました。
同年6月末、義仲は近江国勢多に本陣をおいたまま、比叡山延暦寺との交渉を開始したのです。

比叡山延暦寺は天台宗の本山でありながら、京都の北東に位置して近江に接し、宗教的のみならず実益の面からも京都の北東を守ってきた寺院でした。ゆえに、義仲はここ延暦寺を京攻めの侵入口と定め、延暦寺に対し協力を持ちかけたのです。

とはいえ、義仲が延暦寺に送った書状には

「私たちは北陸で平氏を敗った。それゆえ京に上洛をして平氏を追討したい。しかし、一つ気になることがある。あなたたち延暦寺の考えがわからない。延暦寺は平家に味方するのか、それとも源氏に味方するのか、どっちに味方するのかハッキリしてほしい。

もし悪徒平氏に味方するのであれば、我々は延暦寺の大衆(僧兵)と合戦になる。もし合戦になれば、延暦寺は一瞬で滅亡することは間違いないだろう。それは悲しいことだ。悪逆を追討するために立った我々とともに、神、仏、国、そして皇室のために我々源氏と一緒に戦ってほしい。」


という内容のものでした。
言葉は丁寧ですが、有無を言わせず「脅し(恫喝)」に等しいですよね。

当時の延暦寺では、大衆(僧兵)たちは時の流れに敏感で、源氏に味方しようとする意見は大勢を占めていました。一方、僧綱(役職についている僧)たちはどちらにもつかず、源平両氏の和平を模索していました。

また、平家にとっても、延暦寺は京都を守る最後の砦でありました。
そのため、義仲が延暦寺に連絡してきたと聞いた宗盛は、「延暦寺を平氏の氏寺に、日吉社(比叡山の地主神。天台宗と延暦寺の守護神)を氏社とする」という起請文を平家一門の公卿連名で出し、延暦寺を味方につけようと必死の工作をしていました。

義仲が延暦寺と交渉始めた事実は朝廷にも伝わっており、「玉葉」(右大臣九条兼実)の日記には、「賊軍は今日攻め込んでくる」「いや明日らしい」「鎌倉の頼朝がせめてくるらしい」「いや、木曽の義仲とその郎党たちだそうだ」と公卿の間でかなりの憶測まじりの情報が飛び交っていることが記録されています。


義仲からの書状、そして平家からの起請文に、延暦寺内は、大衆・僧綱問わず、意見が完全に真っ二つに割れていました。終夜議論を繰り返した結果、最終的に延暦寺の老僧たちが議論して下した結論は

「我が比叡山延暦寺は源氏につく」

というものでした。

実際、大衆や僧綱だけでなく、老僧の中でも意見が散々割れていました。
その中で老僧たちが最も重視したことは「延暦寺がなんのために存在するのか」でした。

言うまでもなく、それは国家鎮護であり、皇室の未来永劫の安定にあります。

そしてその皇室の外戚(親戚)であり、比叡山にも寄進を欠かしたことがないのが平家であり、その恩恵として栄耀栄華を極めいました。

そう考えた場合、延暦寺としての大義名分は間違いなく「平家」にあります。

老僧たちはこの面を重視しつつも、昨今の全国各地の反乱における官軍(平家)賊軍(源氏)の戦況を鑑みた場合、官軍の敗退多く、源氏の勢いを認めざるを得ないという現実がありました。

老僧たちはこれを「天の意思」と考えた場合、今の平家の栄華は義仲の言うように「悪行」のレベルにまで達しているのではないかと考えました。天はそれを戒めるため、新たな皇室の守護者として源氏を迎え入れようとしているのではないかと。

従って、皇室を新たに守る存在が源氏であるならば、命運尽きかけている平氏ではなく、源氏につくべきだと老僧たちは考えたのです。

しかし、これは平家にとって全くの想定外でした。

「延暦寺を氏寺、日吉社を氏社にすると」いう平家一門の起請文を反故にされたことは、宗盛だけでなく平家の権威を著しく貶めました。なおかつ、京都の北東が源氏の勢力に落ちたことを意味しました。要するにいつでも京都に攻め込める環境が整ってしまったのです。


平家一門棟梁の宗盛も、この事態は看過できませんでした。

7月13日、宗盛は、平資盛(維盛弟/右近衛権中将)と帰国したばかりの平貞能に千騎を率いさせて宇治田原(京都府宇治市)に着陣させて京都の東方の最前線としただけでなく、平頼盛(清盛異母弟/権大納言)を山科(京都市山科)に出陣させて、資盛・貞能の抑えとしました。

さらに平家一門の中で最強の武将である平知盛(清盛四男/宗盛弟/権中納言)平重衡(清盛五男/宗盛弟/左近衛権中将)三千騎を与えて、義仲の本陣の近江国勢多に向かわせました。
これが当時、平家が満足に動かせる全軍に等しいものと思われます。

同月14日、義仲の叔父で、志保山の戦いで平家に敗れた源行家(新宮十郎/義仲の叔父)の軍勢が、伊賀国(三重県)に進出し、平家を牽制しています。

しかし、伊賀は伊勢平氏の本拠とも言えるところで、平家重代の忠臣である平家継(貞能の兄)が守っており、きっちり防戦していました。

源平の争乱の舞台は確実に京都に迫っていました。

(つづく)
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