2017年04月19日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(55)-北陸地方、反平家勢力の手に落ちる-

西暦1181年(治承五年)6月13日、信濃国横田河原の合戦で、源義仲ら率いる信濃源氏は、越後から侵入してきた城長茂を撃退し、越後、信濃を源氏の支配下に置きました。

城氏は越後平氏の棟梁であり、中部地方における源氏を牽制する重要な一族でした。その城氏の敗退が平家本体に与えたショックは凄まじいものがありました。

まず、横田河原の合戦の影響として、西暦1181年(※治承より改元し、養和元年)7月、北陸地方の加賀、能登、若狭(現在の石川県、福井県)において、在地豪族たちの反平家活動が活発化します。主だったのは能登国の活動で、目代(代官)が追放され、国守が反乱軍に殺害されるという事件が記録に残っています。

これまで東海、甲信越近辺が源氏と平氏の勢力の境界線だったのが、いきなり若狭まで京都に寄ってきたのですから平家が安穏としてるわけがありません。

平家一門の棟梁・宗盛(清盛三男)は、同年8月、奥州を実効支配している奥州藤原氏棟梁(御館)・藤原秀衡陸奥守に、そして越後の片隅にひっそりと生きている城長茂越後守に任じました。これは東国、甲信越、北陸のと源氏勢力の背後を牽制すると共に、奥州藤原氏を平家勢力に引き込むための方策でした。

しかし、もともと奥州藤原氏は平家にも源氏にも与せず「中立」を保っており、陸奥守になったからと言って、平家のためにドンパチやらかす素振りは一切ありませんでした。

また、城長茂はこの時点で越後一国すら掌握できない状態で、越後守任官したところで、何の意味もありませんでした。

また、当時、地元の豪族が国司(いわゆる官僚)になることなど出来なかった時代だったため、当時の右大臣・九条兼実「狂気の沙汰」という内容の日記を残しています。

さらに宗盛は、同年9月、平通盛(清盛異母弟・教盛の嫡男)平経正(清盛異母弟・経盛の嫡男)らに北陸への出兵を命じます。これは、北陸の反平家活動が越前国(福井県東部)に飛び火するのを防ぐため、越前守だった通盛に国を反平家勢力から守る為に命じられたものです。

通盛は同年4月、重衡と共に墨俣川の合戦で、源行家軍を壊滅させた戦功をあげていましたため、宗盛の期待は非常に高いものがありました。

ところが、越前国の状況は、宗盛の想像をはるかに超えていました。

9月に越前国に入った通盛でしたが、越前の豪族たちは越前守である通盛の命令に従わないばかりか、豪族たちが賊徒となって国中のあちこちで放火・強盗を繰り返していたのです。一方若狭に入った経正も自分の身も守るのが精一杯の状態でした。

そして同年9月4日、平通盛と越前賊徒軍はついに越前国敦賀郡水津(現在の福井県敦賀市杉津か?)で激突しました。これには源義仲配下の根井行親の名前も記録にあるため、賊徒軍には義仲率いる信濃源氏の援軍も加わっていたものと見られます。

この戦いで通盛は賊徒軍に敗れ、国府(県庁のようなもの)を明け渡し、津留賀城(のちの金ヶ崎城<福井県敦賀市金ヶ崎町>)に退却しています。しかし、賊徒軍は通盛が籠る津留賀城への攻撃を緩めることなく、また、若狭の経正も身動きが取れなくて通盛の援軍にも向かうことも出来ませんでした。

進退きわまった通盛はついに城を明け渡して、越前の山林に逃げ込んだと言われています。

結果として、越前国から平家の力は排除され、越後、信濃、加賀、能登、越前、若狭の5ヶ国が反平家勢力に実効支配されました。

通盛の敗退を聞いた宗盛は、完全にブチ切れたのか、とんでもない狂気の大遠征計画をブチ上げます。

<東海道・東山道方面軍>
平維盛(重盛嫡男・小松家当主)、平清経(重盛三男)

<北陸道方面軍>
平知度(清盛七男)、平清房(宗盛異母弟)、平重衡(清盛五男)、平資盛(重盛次男)

<熊野方面軍>
平保盛(頼盛嫡男)、平為盛(頼盛次男)

<洛中警護>
平宗盛(清盛三男・平家一門棟梁)教盛(清盛弟)、経盛(清盛弟)、頼盛(清盛弟)、知盛(清盛四男)

この計画の何が無謀かって.....(汗)

北陸支配を復活させる為に五人の武将を派遣するのは理解できますが、東海道と東山道に維盛と清経の二人しか当てていないことです。東海道には源頼朝・武田信義、東山道には源義仲の本拠地がいるわけです。

これらの猛者に、富士川の戦いで失態を演じた戦闘経験値の低い維盛を当てるとか、普通に考えるとありえないんですよね。

一説によると、宗盛は先に病没した兄・重盛の一族・小松家へのライバル視がすごかったようなので、もしかするとこれは嫌がらせだったのもしれません。

その上で、平家一門の中でもっとも戦上手と言われた知盛が洛中警護とか、どんだけびびってんだよと。

この遠征計画は立案された記録はありますが、実行に移された記録は確認出来ません。
というのも、この頃、後白河法皇が八条院と結託して、また反平家的な朝廷工作を行っており、宗盛はそっちの対応にかかりきりになっていた可能性があります。

外からは源氏の脅威。内からは後白河法皇の暗躍.....
宗盛のストレスは相当なものだったと思います。ホント。現に、宗盛は、院との伝奏役である平親宗(平時忠の異母弟)に対し

「天下が乱れたり、法皇の政治の不満等は、全てお前のせいだぞり。泣き父(清盛)は法皇に遺恨がある時は、直接伺って報復していた。しかし、お前がちゃんと仕事をしないばっかりに、私にはなんにも知らされないことばかりで、面目はまる潰れ。どうしてくれるんだ!」

と八つ当たりに近い愚痴をこぼしていたことが記録に残っています。

またこの年は飢饉が発生し、軍事活動を行う兵糧米が不足した為、平家、源氏、双方ともにこう着状態に陥っていましたが、これにより、北陸の反平家勢力はその実効支配を確実にしつつあったのです。

(つづく)
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2017年04月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(54)-源義仲-

西暦1181年(治承五年)4月現在、源氏の勢力は大きく3つに分かれていました。

1つ目は鎌倉を拠点として、上総、下総、武蔵、相模の4ヶ国を実効支配し、東国武士の支配体制を整えつつある河内源氏嫡流の源頼朝

2つ目は甲斐を拠点とし、頼朝と連携しながら駿河、遠江を実効支配し、東海地方での勢力の拡大を図ろうとしている甲斐源氏棟梁の武田信義

3つ目は、信濃国木曽谷を拠点とし、信濃の源氏勢力を束ねて、北陸の地方での勢力拡大を図ろうとしている河内源氏庶流の源義仲(通称:木曽義仲)

今回のお話は、この3つ目の勢力、源義仲のお話です。


源義仲は、父が源義賢で、頼朝の父・義朝と兄弟でした。つまり義仲は頼朝と従兄弟同士ということになります。

義賢は関東で勢力を築きつつあった兄・義朝を牽制する為、父・為義の命令で北関東に向かいますが、義朝の子・義平(通称:悪源太義平/頼朝の兄)に討たれて非業の死を遂げます。

義賢の遺児・駒王丸にも義平より「叔父御のガキ、ブッ殺せ」と殺害命令が下されていましたが、義賢に従っていた地方豪族・斎藤実盛(武蔵国長井荘領主)畠山重能(武蔵国大里郡畠山荘領主)らの手により、義平の手を逃れ、信濃権守・中原兼遠の元で養育されました。

ちなみにこの中原兼遠の娘が、巴御前であり、彼の息子が樋口兼光(子孫は直江兼続)です。

この駒王丸が成人して、源義仲となります。

西暦1180年(治承四年)以仁王の令旨(命令書)の発覚によって、源頼政(源三位頼政)が平氏政権に反旗を翻して挙兵しました。

すでに令旨を受けていた全国の源氏もこれに呼応して次々と挙兵し、義仲も同年9月7日、信濃国水内郡市原(長野県長野市若里)で起きた合戦で、平氏方の豪族・笠原頼直と信濃源氏・村上義直との戦いで歴史の表舞台に現れることになります。

この市原合戦は、笠原頼直(平氏方)VS村上義直(源氏方)の間に起きた1日の戦いで、日没とともに矢が尽きた義直が義仲に援軍を求めたので、義仲が軍勢を率いて駆けつけたところ、頼直が「こりゃ、かなわん」と戦意を消失させ、越後の城長茂を頼って撤退したという引き分けに近い形でした。

笠原氏は一刻も早く信濃に再度攻め入って、信濃の源氏勢力を一掃することを目的に長茂を頼ったようですが、彼は非常に器量の小さな男で、催促を受けても言を左右にのらりくらりと出兵要請をかわしていました。

しかし、年が変わって平家本体から一通の書状が長茂の元に届きます。
そこには

「昨年、お前のところに逃げ込んで来た笠原平吾(頼直)を保護してるのは非常にありがたいことだ。でも、お前、なぜ信濃に攻め込まんの?大義名分があるんだから、さっさと兵を動かして信濃を平定しなさい」

というキッツイ語調の内容が書かれていました。

この頃の平家は清盛が亡くなり、全国各地の平家の態勢はバラバラで、吉報は墨俣川の戦いに勝ったことぐらいでした。そして平家の台所事情は度重なる戦いで兵糧も尽きかけており、信濃の支配を取り戻して兵糧を手に入れるのは急務だったのです。

平家本体からの出兵催促が来ては無下にはできません。
西暦1181年(治承五年)6月、城長茂は10,000兵の軍勢を率いて信濃国に攻め入り、まず手始めに横田城(長野県長野市篠ノ井会)に布陣しました。

城長茂が信濃国に攻め入ったことを聞いた信濃源氏の諸将らは、連絡を取り合って横田城より50kmほど南の依田城(長野県上田市御岳堂)に集結し、北上を開始します。その数、3,000兵。

そして同月13日横田河原(長野県長野市篠ノ井横田付近の千曲川河原)において両軍が対峙しました。

兵力の差が3倍以上に及んでいるため、まともにぶつかっては信濃源氏軍に勝ち目はありませんでした。
しかし、義仲の味方で保科党という軍団を率いていた井上光盛が面白い策を立てました。

それは3,000兵のうち、2,000兵はこのまま正面に対峙し、残り1,000兵は光盛が指揮して城軍の背後に周り、奇襲をかけるというやり方でした。

しかし、10,000兵の陣に1,000兵程度の小勢で近づくなど自殺行為に他なりません。
他の諸将は反対しましたが、光盛はケロッとして

「いやいや、味方のように振舞って近づけばいいのですよ」

諸将はますます困惑を深めます.....

「これを出せばご理解いただけますかな?」

光盛が出したのは赤と白の2つの旗でした。
赤旗は平家の旗。白旗は源氏の旗です。
それを見た義仲はピーンときました。

「なるほど、赤旗を掲げながら敵に近付き、十分近づいたら白旗に掲げ直すということか」

「ご明察」


この光盛の作戦は大当たりでした。

城軍は、光盛らが率いている赤旗1,000兵の接近を「信濃の平氏軍が駆けつけた」としか見ませんでした。ところが、もともと信濃の平氏勢力だった笠原頼直らの目は誤魔化せませんでした。

「あれは、味方ではない!味方の旗を掲げている敵じゃあ!」

しかし、時、すでに遅しでした。十分接近していた光盛の軍勢は3隊に別れ、赤旗を捨てて白旗を掲げなおしました。

「敵襲じゃあ!」

3隊に別れた光盛の部隊は、そのまま敵の陣中に入って、油断していた敵陣をかき乱しました。

敵陣の中に喚声が上がったのを聞き取った本陣の義仲は

「今じゃ!全軍!かかれ!」

と総攻撃の下知を下しました。

義仲が指揮する2,000兵の兵が一気に城軍に攻めかかります。城軍も正面部隊は臨戦態勢にあり、2,000兵が来ようと全く動じることはありませんでしたが、戦いが進むにつれ、背後から聞こえてくる喚声に気勢を削がれ始めていました。

また越後から信濃までの軍旅の疲れもあり、すでに士気が上がりにくい状態になっており、ついに城軍は9,000兵近い損害(打ち取られただけでなく、戦線離脱した兵も含む)を出してしまいます。

城長茂は、わずが500程度の手勢に守られながら越後へ退却することになりました。
笠原頼直も戦線離脱し、高井郡(長野県須坂市、上高井郡、下高井郡の全域)に落ち延び、二度と歴史の表舞台には出てきませんでした。

越後に帰還した長茂でしたが、この戦いの後、味方はどんどん減っていき、さらに義仲が越後に侵攻してきた関係で、ついに越後を立ち退き、陸奥国会津郡(現在の南会津郡および会津若松市の大部分)に落ち延びました。

ところが、今度は奥州藤原氏から攻撃され、会津からも追われ、再び越後の片隅に生息する極小勢力にまで落ちぶれてしまうのです。

この戦いによって源義仲は信濃、越後両国に勢力を張ることができ、大きくその力を伸ばしました。これに付随する形で北陸の反平家活動は一気に活発化していきます。

(つづく)
posted by さんたま at 18:17| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

本当はこうだった「大坂の陣」(最終回)-大坂の陣とは何だったのか-

足掛け3か月に渡って書いてきたこのシリーズも今回をもって最後になります。
最後のお題は「大坂の陣とは一体何だったのか」です。

日本近世史という観点から見れば、この戦いの後、西暦1637年(寛永14年)10月25日に「島原の乱」(日本最大の百姓一揆)が勃発するまで、軍事活動は起きておりません。

だからこの戦いは「戦国時代最後の戦い」と言われます。

事実だけ見れば、「徳川氏が征夷大将軍の将軍権力をもって、将軍権力に従わない一大名である豊臣秀頼を征伐した」ことになり、徳川氏が自身の権力基盤を確立するため「主筋」に当たる豊臣家を滅亡させたことになります。

しかし、私は思うのです。

本当に徳川家康は豊臣家を滅亡させたかったのか?

本当に滅亡させたかったのなら、冬の陣で和議などせず、あのまま大砲をブッ放し続けて、大坂城をガレキの山にし、大坂城と共に豊臣家を葬っていたと思うのです。

それをせず、和議に持ち込んだのは、豊臣秀吉から「秀頼を頼む」と言われていた家康の慈悲(孫娘千姫も関係)と、大坂城に集う「平和な時代を受け入れられない武士たち」を排除するための方策だったと思います。

当時、大坂城に入場していたのは、「関ヶ原の戦い」で西軍に味方して主家が領地没収となり、浪人となっていた武士、そして迫害されていたキリシタン信徒たちが多かったと言われています。

これらはいずれも「徳川家の天下では生きてはいけない人たち」でした。

家康の狙いとは裏腹に、和議締結後の豊臣家は大坂城に集う浪人たちを排除することができず、結果として京・大坂(特に朝廷)を不安に陥れ、再び武力衝突(夏の陣)が起きます。

徳川家は朝廷を安んじ奉る征夷大将軍職を拝命している関係上、大坂城の浪人の勝手振る舞いを許すことはできません。その棟梁であるこの時の家康は断腸の思いで完膚なきまで大坂城を叩き潰す覚悟だったと思います。

それでも、家康が本気で秀頼・淀殿の命まで取るつもりだったのかどうかは、正直わかりません。

一方で、征夷大将軍である徳川秀忠は豊臣家を許すつもりはなかったことは明らかでした。
秀忠は豊臣家の残党を密告したものには褒美を与え、秀頼の隠し子である国松を捕らえて斬首していることからそれがわかります。

しかし、同じ隠し子の娘は千姫(秀頼正室/秀忠娘)によって一命を救われ、千姫の養女にされ、成長後に東慶寺(神奈川県鎌倉市山ノ内1367/通称:縁切寺)の住職になっています。

また、大坂の陣の波及効果は徳川、豊臣だけでなく、全日本の大名の庶家にに広がっていました。
それをまとめとして書きたいと思います。

<越前北ノ庄藩(越前松平家)>
越前松平家は家康次男・結城秀康を祖とし、秀康亡き後はその嫡男である松平忠直(左近衛権少将)が当主となっていました。

忠直は「冬の陣」の戦いぶりが家康の叱責を受け、「夏の陣」では大和口方面軍大将:水野勝成を抜け駆けして天王寺口の最前線に立ち、真田勢と戦いました。

家臣の西尾宗次が真田信繁を討ち取り、また水野勝成と共に真田勢の本陣である茶臼山を陥落させ、大坂城にも一番乗りと目指しい戦功をあげましたが、将軍家の戦功評価(初花の茶壺と左近衛権中将への任官)に不満を持ち、徐々に将軍家に反抗する振る舞いをするようになります。

そして、大坂の陣から8年後の西暦1622年(元和8年)、忠直は自分の正室であり、将軍秀忠の三女である勝姫を斬殺しようと乱行に及びました。これが将軍家の耳に入ると、これ以外に表沙汰になっていなかった家臣への扱いの酷さなども露呈したため、翌年、将軍秀忠は忠直に強制隠居を命じました。

隠居後、出家した忠直は、同年5月、豊後府内藩(藩主:竹中重義)に流罪謹慎となり、西暦1650年(慶安三年)そのまま府内にて死去しました。
夏の陣の戦功第一のヒーローの終焉としてはあまりにも悲しいものでした。


<越後高田藩(長沢松平家)>
家康六男にして長沢松平家当主・松平忠輝(左近衛権少将)は、「夏の陣」で当初家康より大和口方面軍の総大将を仰せつかっていましたが、道明寺の戦いに遅参しました。その上、「夏の陣」後、家康の朝廷への戦勝参内の約束をすっぽかしたため、家康より「2度と対面は許さず」という厳しい処罰が下されました。

家康の死後、西暦1616年(元和二年)7月6日、忠輝は将軍秀忠から改易(領地没収)を命じられて伊勢国朝熊に流罪とされます。

忠輝はその後には飛騨高山藩、信濃諏訪藩と配流先を転々とし、2度と大名として復帰することなく、西暦1683年(天和三年)7月3日、諏訪高島城(南の丸)にて92歳で死去しました。


<陸奥仙台藩(伊達家)>
大坂城落城の際、伊達家家臣・片倉重綱(二代目小十郎/陸奥白石城主)が乱取りした娘の中に、真田信繁の娘(阿梅)がいました。当初は侍女として片倉家に仕えていましたが、父親が真田信繁とわかると重綱の側室として目をかけられ、正室・綾姫が亡くなった跡は継室に昇格しています。

阿梅は弟・大八や妹・阿昌蒲、於金などを仙台に呼び寄せており、大八は後に片倉の姓を名乗って「片倉守信」を名乗ってという300石取りの仙台藩士になっています(仙台真田家の祖)

また、長宗我部盛親の家臣・佐竹親直の妻、阿古姫とその子・輔丸も伊達家に乱取りされ、輔丸は元服したあとは柴田朝意と名乗り、仙台藩奉行職(いわゆる家老)まで上り詰めました。

なお、家康は、「冬の陣」の後、政宗庶子・秀宗(侍従)伊予国宇和島10万石の大名に取り立てています。
秀宗は、のちに幕末期に活躍する伊達宗城の祖先にあたります。


<豊前中津藩(細川家)>
細川忠興の次男・興秋が大坂方に与していましたため、忠興は興秋に切腹を命じました。


<摂津味舌藩(織田有楽家)>
元々有楽自身が3万石を領していましたが、夏の陣が終わった後、有楽は隠居し、有楽の所領は息子たちに分与されました。

四男・織田長政に1万石が分与され、摂津芝村藩を立藩。
五男・織田尚長に1万石が分与され、摂津柳本藩を立藩。
残り1万石は有楽斎本人が隠居料として手元に残しました(有楽死去後は没収されています)。


<伊勢亀山藩(奥平松平家)>
伊勢亀山5万石の藩主・松平忠明は、奥平信昌と家康長女・亀姫との間の子供で、家康の外孫にあたります。5歳で家康の養子となったため、松平の姓を許されました。

忠明は「冬の陣」で河内口方面の大将を勤め、和議が成立すると大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当し、「夏の陣」では道明寺の戦い、誉田の戦いで戦功をあげました。

これらの戦功を鑑み、将軍秀忠の命令で、忠明が摂津大坂藩を倍の10万石で立藩。大坂の陣で荒れ果てた大坂の復興を見事成し遂げ、西暦1619年(元和五年)に、大和郡山藩12万石に加増転封となりました。

忠明はその後、徳川幕府大政参与(のちの大老)となり、播磨姫路18万石に加増転封となって、西国の押さえとなります。越前松平家の松平忠直とはえらい違いです(汗)。


大坂の陣の終了により、日本国から戦争は無くなりました。
これを祈念し、同年7月13日、将軍家の奏上により、朝廷より「元和」改元の詔が発生られています。

皮肉にもこれは、禁中並公家諸法度に基づく最初の幕府の公式なる朝廷介入と言えるものでした。
(本来年号を改元するのは朝廷固有の権利で、公家と武家の意見の一致が必要だったため)

翌年、西暦1616年(元和二年)1月、家康は鷹狩りの途中で倒れ、同年4月17日に病死しました。

一般的には死因は「鯛の天ぷらに当たった食中毒」と言われていますが、医学的見地からそれは正しくなく(食中毒が原因で3か月も生き長らえるわけがない)、病状の中に胃癌末期の兆候が見られることから、おそらく既に症状が進んでいた胃癌の症状が、「鯛の天ぷらに当たった」ことによって加速させられ、死期を早めたと考えるのが正しいと思います。

大坂の陣のついては賛否両論あると思いますが、一つだけ確かなことがあります。
それは

「徳川家康は、200年間の長きに渡って、戦乱のない平和の世の中を作り上げた」

ということです。

(このシリーズ終わり)
posted by さんたま at 02:07| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする