2017年03月26日

本当はこうだった「大坂の陣」(10)-真田 VS 伊達(誉田の戦い)-

西暦1615年(慶長二十年)5月6日は、激動の1日でした。
午前中だけで道明寺の戦いで後藤基次討死。若江村の戦いで木村重成討死。八尾の戦いで長宗我部盛親撤退と、豊臣方の被害は甚大でした。

一方の徳川方も井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)は、木村重成、長宗我部盛親の猛攻で、先鋒としては役にたたないほどの損害を受けています。

しかしながら、豊臣方の兵力は10万以下にた対し、徳川方は20万を超す大軍勢であり、たかが2大名が使い物にならなくなったとしてもビクともしませんでした。

話を道明寺付近に戻します。
後藤基次が討死した正午過ぎになって、ようやく後続の薄田兼相(隼人正)明石全登(元宇喜多秀家家臣)らが道明寺に到着し、壊滅寸前の後藤勢を助け、反撃に移ります。

しかし、形勢は明らかに不利でした。

薄田兼相は後藤勢の残存兵力をまとめると自ら殿軍(殿)となって敵を引きつけ、残った味方を撤退させ、石川を渡らせて誉田村(大阪府羽曳野市誉田)方面に後退させました。兼相はここで力尽きて討死します。

一方、道明寺方面に進軍中だった真田信繁(幸村)は、撤退してきた明石全登を吸収し、徳川勢を迎え撃とうとしました。後続の毛利勝永は藤井寺村(誉田村の北西)に抑えとして着陣しました。

石川を渡ってきた徳川勢は

一番隊大将・水野勝成(日向守/三河刈谷3万石)
二番隊大将・本多忠政(美濃守/伊勢桑名10万石)
三番隊大将・松平忠明(下総守/伊勢亀山5万石)
四番隊大将・伊達政宗(陸奥守/陸奥仙台62万石)


で、五番隊大将・松平忠輝(左近衛少将/越後高田75万石)は石川を渡河せず、小松山付近に残って後詰としました(これは、伊達政宗の指示という説があります)

石川を渡河した徳川勢の中でも四番隊・伊達政宗の家臣、片倉重綱(二代目片倉小十郎/陸奥白石城主)の活躍は目覚ましいものがありました。

伊達勢の戦法の特色は「騎馬鉄砲隊」で、その名の通り、馬上から鉄砲を射かけるという奇抜なものでした。

当時の鉄砲は一発撃てば、次の弾の装填まで時間がかかりますので、馬で合戦場に踏み込んだら一発撃ち込み、すぐに撤退して弾込め銃と交換し、また戦場に戻るということを繰り返していたようです。

また、騎馬鉄砲隊の的は、足軽雑兵ではなく、騎馬武者や侍大将らしき者を一撃で倒すことを目的としていたと言われます。

この伊達の騎馬鉄砲隊に対し、真田信繁は鉄砲隊を伏兵として潜ませて、馬が接近した段階で隠れたまま地上から撃ち上げるという戦法でこれに対抗しました。最終的には乱戦に持ち込まれ、片倉重綱自身も馬から落馬して危うく一命を落としかねない状況だったようです。

真田信繁の用兵術により、真田勢は伊達勢を道明寺村まで押し返しました。
信繁は伊達勢の撤退を見届けた後、自軍も藤井寺村に後退して、後詰の毛利勢と合流しました。

一方、徳川勢は豊臣勢の反撃に備えて、道明寺村から誉田村まで広く陣を広げました。

また、豊臣勢は徳川勢の踏み込みを警戒して、藤井寺村から誉田村西部にかけて縦一列に布陣したため、両軍ともに様子見の膠着状態に陥りました。

そこから数時間が過ぎ、午後3時少し前、大坂城から真田信繁、毛利勝永らに伝令が届きました。
それは若江村での木村重成の死と、八尾の戦いにおける長宗我部盛親の撤退を伝えるものでした。

また、伝令には「若江、八尾方面の軍勢は徳川の本隊」であることが伝えられており、大和口方面は別働隊であることが判明すると、大坂城が本当に警戒すべきは、大和口方面軍ではなく、若江・八尾方面であるという信繁の判断から、豊臣方は大坂城に撤退することを決めます。

これに毛利勝永や明石全登らは反対の意向を示しましたが、信繁は真田勢が殿軍となることを条件に、撤退を承諾させました。

午後4時過ぎ、豊臣方は真田勢のみを残し、少しずつ天王寺方面に撤退を開始しました。
やがて徳川方に知れることとなり、徳川方一番隊大将である水野勝成は

「今こそ、豊臣方を根絶やしにする時!奴ら生きて大坂城に返すな!」

と追撃を主張しましたが

「いやいや、今日はもういいでしょう。朝からずーっと戦い続けてなんか疲れた」

と諸将は乗り気でなかったため、渋々追撃を諦めています。
このあたりに、徳川方の余裕を感じざるをえませんね。

(つづく)
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2017年03月05日

本当はこうだった「大坂の陣」(9)-長宗我部、藤堂高虎に一矢報いる-

5月6日の早朝、豊臣方の木村重成若江村(大阪府東大阪市若江南町付近)に到着した頃、もう一人の大将・長宗我部盛親は、若江村の6km程度南西の久宝寺村(大阪府八尾市久宝寺町一帯)に到着していました。

そして、長宗我部勢の先鋒を務めていた吉田重親(内匠頭/土佐吉田氏/元長宗我部家臣)は手勢を率いて、長瀬川を越え、久宝寺村の北東にある萱振村(大阪府八尾市萱振町)に向かい、木村勢の後詰に向かいつつありました。

しかし、その途中の八尾村(大阪府八尾市本町地区)で、すでに木村勢の動きを察知していた藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)勢の一軍・藤堂高吉(宮内少輔/丹羽長秀三男・高虎養子/今治2万石)の勢力と衝突し、合戦に突入してしまいました。

重親は兵力や武器(火器)で形勢不利を悟ると、本隊の盛親宛に伝令を発し、自らは盾となって高吉勢にぶつかって、重親勢は全滅。重親も討ち死にしてしまいます。

重親が放った決死の伝令は無事に盛親の元に届いたため、久宝寺村を出発した盛親は無謀な進軍を止め、長瀬川の川岸に着陣し、高吉勢の迎撃体制を整えることができました。

一方、藤堂高虎は、高吉勢が吉田重親を討ち取ったことで、藤堂良勝(高虎の従兄弟)勢が偵察した木村勢以外に、後続軍が続いていることを察知しました。

そのため、道明寺に向かって南進させていた藤堂家家臣・藤堂高刑(仁右衛門/高虎甥)を大将に、桑名吉成(弥次兵衛/元長宗我部家臣)藤堂氏勝(勘解由)らを付けて西へ転進させ、八尾村方面の敵の攻略を命じます。

対する盛親は騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて長瀬川の堤防の上に伏兵として配置させました。

藤堂高刑勢は全く警戒することなく長瀬川を渡り堤を越えました。

盛親は高刑勢の先手が堤を渡り、本隊が堤にさしかかるところで

「かかれーーーー!」

と号令をかけ、伏兵として伏せていた長宗我部の槍隊が一斉に槍を地上に向けて突き刺しました。結果、高刑本隊の手勢が崩れ、侍大将クラスが次々と槍の串刺しに。
びっくりしたのは先手を任されていた桑名吉成です。自分の後ろの本隊で悲鳴が上がるわけですから。

吉成も驚いて振り返りますが、すでに一糸乱れぬ長宗我部槍隊が喚声を上げて吉成に向かってきていました。先手と本隊が分断され、その上、本隊の主だった侍大将は槍襖の餌食にされており、藤堂勢の戦力はすでに半減してしまっていました。

「もはやこれまでか......」

吉成は、馬を返して長宗我部槍隊の中に切り込み、討ち死して果てました。

桑名吉成は元は長宗我部家臣でした。盛親の父・長宗我部元親の四国平定事業に功績を上げ、中村城(高知県四万十川市)を預かっていましたが、関ヶ原の合戦で長宗我部氏が改易(領地没収)になると、時代の流れを悟って、長宗我部の家臣たちの反乱を説得し、その後、藤堂高虎の家臣になっていました。

なので、吉成にとっては盛親は旧主に当たり、旧主に刃を向けることに当たることから、吉成がこの戦いで自殺したという説もあるようです。

長宗我部勢の槍隊は、藤堂高刑勢の本隊を四散させて壊滅状態に陥れました。

前述の通り、桑名吉成はもちろん、大将である藤堂高刑、藤堂氏勝も戦死。
藤堂高吉も高虎の命令を受けて援軍として駆けつけましたが、一糸乱れぬ長宗我部勢に圧倒され、十分な戦果を上げることができませんでした。

戦闘は正午あたりまで続き、長宗我部勢は最初に着陣した長瀬川の堤から一歩も退くことなく、藤堂高虎勢を見事に撃退しました。藤堂勢は一旦、撤退し、長宗我部勢は長瀬川の陣所にて、午後の戦いに備えて休息しておりました。

そこに驚くべき知らせが届きます。
それは若江村方面で戦っていた木村重成が、井伊直孝隊の攻撃で壊滅し、討ち取られたという報告でした。

若江村の木村重成隊が壊滅したということは、午後からの戦いは、徳川本隊の先鋒である井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)・藤堂高虎の二大名を長宗我部勢のみで相手しなくてならないということになります。
藤堂勢を蹴散らして戦勝に沸いていた長宗我部勢を取り巻く形勢は、一気に圧倒的不利に陥りました。

それでも盛親は長瀬川から動くことなく、状況を見守るつもりでしたが、午後に入り、藤堂勢に加え、赤備えの井伊勢が加わった一団が長瀬川方面に向かってくるのが見えると

「これはまずい......」

と考え、即座に全軍に大坂城への撤退を命じました。

盛親は長瀬川を放棄して、最初の久宝寺村まで撤退し、そこで敵をなんとか食い止めて撤退の時間稼ぎをしようとしますが、絶対的兵力が違う上に、徳川方には「井伊の赤鬼」という最強軍団が加わっています。どう考えても壊滅必至の状況でした。

その時、長宗我部軍の後詰として後ろに控えていた増田盛次(豊臣家五奉行・増田長盛の次男)が殿軍(敵の追撃を阻止し、大将を逃すこと)を務め、小勢ながら藤堂・井伊勢に立ち向かっていきました。

これによって、長宗我部勢はなんとか久宝寺村を脱出し、大坂城へ撤退することに成功しました。
そして殿軍を務めた増田盛次は、藤堂高虎家臣・磯野行尚(近江高島郡領主・磯野員昌の孫)に討ち取られています。

この「若江の戦い」と「八尾の戦い」で、徳川方の井伊直孝と藤堂高虎は大きな損害を受けました。特に藤堂高虎の死傷者は600人(高虎が率いていた兵のおよそ10%)にものぼると言われ、この後の天王寺・岡山合戦の先鋒を辞退せざるえない状況でした。

そして豊臣方も木村重成勢が壊滅し、重成は討ち死。長宗我部勢も再び出陣ができないほど兵を失っており、盛親はこの後の軍事行動が記録にありません。

また、「八尾の戦い」が起きてる頃、道明寺方面では、後藤基次を失った真田信繁(幸村)の戦いが始まろうとしてました。

(つづく)
posted by さんたま at 16:31| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

本当はこうだった「大坂の陣」(8)-若江の戦い(木村重成の死)-

西暦1615年(慶長二十年)5月6日、道明寺村あたりで後藤基次(又兵衛)が徳川方を相手に一人で戦っていた同じ頃、豊臣方の木村重成(長門守)長曾我部盛親(前土佐国主)の二人は、徳川方の河内路方面軍を相手に若江村(大阪府東大阪市若江南町付近)で戦っていました。

前々回で説明した通り、徳川方は今回、大和路方面、河内路方面、紀伊方面の3方向から大坂城を目指していました。そしてこの河内路方面軍こそが秀忠・家康という総大将を擁した本軍とも言えるものでした。これら総勢55,000。

これに気づいた木村重成は、5月5日、秀忠・家康の本陣を偵察で確認し、総大将の脇腹を突く大胆な作戦を立てました。

翌日5月6日午前0時、重成は家臣らを率いて若江村方面向けて進軍を開始。しかし重成の練兵の精度が悪く、行軍は遅れに遅れました。この行軍の遅れが藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)に捕捉される要因になってしまいました。

午前4時頃、藤堂高虎軍の藤堂良勝(高虎の従兄弟)が若江に向かう豊臣軍を発見しました。

報告を受けた高虎は将軍家より「勝手な戦闘は禁止」と命令されていましたが、良勝が「豊臣方の目的は上様(将軍秀忠)と大御所(家康)様。これを放置するわけにはいかぬ」という進言をうけ、命令違反を決断、各隊に進撃を命じました。

午前5時頃、木村重成勢はようやく若江村に着陣。先鋒を3手に分け、重成の家臣である内藤長秋山口弘定らにこれを率いさせました。

これに先ほどの藤堂良勝勢が攻めかかり、合戦が勃発。
木村勢先鋒はよく戦って、見事、良勝勢を壊滅させました。

重成は次なる戦いに備えるため、良勝勢との戦いで傷ついた残存兵を本隊に収容すると共に、若江村東方の玉串川の西岸上(現在の大阪府道15号線西側)に鉄砲隊を配置して次なる戦に備えようとしました。

しかし、先ほどの小競り合いは、徳川方にとって敵が若江村まで出張ってきているのを、各将に知らしめるのに十分でした。

午前7時頃、井伊直孝は、南への進軍を中止し、西の若江村方面に転進させると、家臣である庵原朝昌川手良利の両人に兵を率させて、先鋒として玉串川の東岸(現在の大阪府道15号線東側)に兵を展開させました。

すると、対する西岸にはちょうど木村勢が鉄砲隊を展開中で、川を挟んで両軍が鉢合わせとなりました。
木村勢は突然現れた井伊勢に即座に対応できず、庵原・川手両軍が素早く鉄砲隊の一斉射撃を行って先制攻撃を仕掛けると、木村勢は岸の西に撤退。すかさず庵原・川手両軍が玉串川西岸を占拠しました。

庵原は本隊の到着までこの西岸を守ろうとしますが、川手はそれに従わず、自らの手勢のみを率いて、木村重成の本軍へ突っ込んで行ってしまいます。

この川手良利という武将は、先の「大坂冬の陣」「真田丸の戦い」において、徳川方の軍法を守り、勝手な攻撃をしなかったのですが、結果としては勝手に攻めかかった武将だけが功を賞されたことに不満を持っていました。それゆえ、この夏の陣では何としても戦功が欲しかったようです。

川手隊が木村勢に突撃したことを聞いた庵原は慌てて後追いするものの、川手勢は壊滅良利は討ち死にしていました。

しかし川手勢の突撃は木村勢の士気に大いに影響を与えました。
木村重成自身の練兵や指揮の甘さという部分はあるものの、川手の捨て身の獅子奮迅の活躍の上、庵原の勢力が後追いで加わった為、藤堂良勝勢を打ち破って士気が上がっていた木村勢もジリジリと後退せざる得なくなっていました。

青木久矩、飯島太郎左衛門、同三郎左衛門など重成の家臣が次々と討ち死にしていく中、井伊勢も前述の川手良利だけでなく、ワケありで井伊勢に加わっていた山口重信(元将軍家家臣)も討ち死し、その激戦の凄まじさがよくわかります。

そして、木村勢先鋒の内藤長秋、山口弘定の軍も崩れ、本隊を守る前衛が全てなくなった後、木村重成は自ら槍を取って馬上の人となり、討ち死にしました。享年23だったと言われています。

討ち取ったのは庵原朝昌とも安藤重勝とも言われていますが、確かなことはわかっていません。

この戦いの首実検で重成の首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあり、この所作は「武士は討ち取られた後の不様な姿を晒さない」という覚悟と矜持を表していたと評されています。

重成の墓は大阪府八尾市の八尾幸公園(大阪府八尾市幸町6丁目2番地)の中にあります。ただ、ここは彼が討ち死にした場所ではありません。

1965年(昭和40年)から始まった寝屋川・恩智川の水害対策の一環で、元々木村重成の墓があった旧楠根川の流域は、第二寝屋川を開削する関係でなくなったため、現在地に移築したものです。

この辺りは大坂の陣当時は様々な川が流れており、そのほとんどが現在は消滅、または縮小されていため、現在地を特定するのも非常に骨が折れます。

次回は木村重成と共に出陣したもう一人の大将・長宗我部盛親の戦いは次の回です。

(つづく)
posted by さんたま at 18:33| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする