2017年01月21日

本当はこうだった「大坂の陣」(4)-徳川方初の敗戦・真田丸の戦い-

博労淵砦の攻防戦が行なわれていた、11月28日、29日は、大阪城の北西である野田・福島(現在の大阪市福島区)でも戦いが勃発していました。

ここを守っていた豊臣方は、下福島の五分一に大野治胤(大野治長の弟/通称:道犬斎)が柵と砦を築いて兵800。上福島にも宮島兼与・小倉行春の兵2,500が配置されていました。

一方の徳川方は
九鬼守隆(長門守/志摩鳥羽3万5000石)
小浜光隆(徳川家康旗本/5000石)
千賀信親(志摩守/尾張徳川家旗本)
向井忠勝(将軍家旗本500石/幕府御召船奉行)


彼らは去る11月16日から10日間あまり、この福島地区の牽制攻撃を繰り返して、豊臣方を脅かしておりましたが、11月28日夜半の攻撃で下福島の五分一砦が陥落。

当時は大雨で視界が保てず、治胤の兵は恐怖のあまり大坂城へ退却してしまったそうです。
この後、池田忠雄(宮内少輔/淡路洲本6万石)戸川達安(肥後守/備中庭瀬3万石)が攻撃方に加わりましたが、砦はすでに豊臣方の兵はなく、もぬけの空だったと言われています。

これらの戦いで、大坂城を守るために張り出した外堀周辺を守る砦はすべて徳川方に落とされました。
唯一残されたのは大坂城の南東に出張った出城・真田丸だけでした。

勢いを得た徳川方は大坂城をぐるりと取り囲み、真田丸の正面には篠山を挟んで

南部利直(信濃守/陸奥盛岡10万石)
前田利常(右近衛権少将/加賀金沢100万石)
松倉重政(豊後守/大和五条1万石)
榊原康勝(遠江守/上野館林10万石)
桑山一直(左衛門佐/大和新庄1万6000石)
古田重治(大膳大夫/伊勢松坂5万5000石)
脇坂安元(淡路守/伊予大洲3万5000石)
寺沢広高(志摩守/肥前唐津12万3000石)


などの大名が付けられました。
真田信繁たった一人の浪人相手になんというフルボッコ(笑)。

西暦1614年(慶長十九年)12月2日、家康は茶臼山あたりを見回り、仕寄(城攻めのための設備、塹壕を掘ったり土塁を築いたり、竹束を作って陣に配置するなど)構築を指示しております。
これによりより徳川方は包囲網を徐々に縮め、大坂城に近づいて行きました。

また、家康は真田丸に近いところに配置した前田利常に

「むやみに城に攻めかかるな」
「塹壕を掘り、土塁を高くして、敵の攻め込みに応戦する備えは十分にせよ」


と命令しています。
しかし、利常にとってはこの命令が仇となってしました。

利常は家康の命令通りに塹壕と土塁工事にセッセと励んでいましたが、それを知った真田信繁は篠山に兵を進め、篠山の上から工事中の前田勢に向かって鉄砲を撃ち込んだのです。
当然、前田勢の被害は甚大で、工事も思うように進みませんでした。

それから2日後の12月4日、工事を進めようとすれば毎度毎度篠山の上から鉄砲を射掛けられて、被害は甚大、工事は進まぬという二重苦に苦しんでいた前田利常は、ついに大御所の命令を破り「篠山奪取」を計画します。

同日夜、前田利常の家臣、本多政重(本多正信次男/安房守/7万石)山崎長徳(庄兵衛/1万5000石)が利常の命令を受け、夜陰に乗じて篠山に攻め入りますが、真田勢はすでに篠山を放棄し、真田丸に撤退していました。

政重と長徳はそのまま篠山に駐屯しましたが、翌朝になると、真田丸の中から真田勢が2人を挑発しました。これに怒った政重と長徳は利常に指示を仰ぐこともせず、独断で真田丸への攻撃を開始します。

それは信繁の策にはまってしまうことを意味しました。
まんまと信繁の挑発に乗った政重と長徳は真田丸への攻めかかり、真田丸の城壁に備えられていた真田の火縄銃の的になってしまったのです。

篠山の南の本陣にいた前田利常は、篠山の向こう側の喚声は聞いていましたが、篠山に駐屯していた政重と長徳が、篠山を再び取り戻そうとするとする真田勢との戦いの喚声だと思っていました。

しかし、物見の報告で、政重と長徳が勝手に真田丸に攻撃し、逆に壊滅状態に陥っていることを聞き、慌てて兵を撤退させるように両者に伝令を送ります。

ところが、前田勢が真田丸へ攻撃を開始したことが、思わぬ飛び火をすることになります。
徳川方の各将は家康の命令を守って、じっと待機していたところに前田勢が真田丸に攻めかかったため、

「抜け駆けされてたまるか!」

と八丁目口の攻撃部隊として駐屯していた井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)と、松平忠直(左近衛権少将/越前北ノ庄67万石)の2人は、大坂城八丁目口に攻めかかりました。

八丁目口を守っていた豊臣方は

長曾我部盛親(浪人/元土佐国主/長曾我部家当主)
佐野道可(浪人/元毛利家臣:内藤元盛)
栗屋元種(浪人/元毛利家家臣)
大谷吉治(浪人/大谷吉継の遺児)


後詰が

木村重成(豊臣譜代/長門守)
山川賢信(浪人/元伊達家家臣:富塚小平二)
郡 宗保(豊臣譜代/主馬頭)


そして、遊軍として

後藤基次(又兵衛/元黒田家家臣)

たちです。

直孝と忠直が八丁目口に攻めかかった頃、大坂城内の火薬庫で大きな火の手が上がりました。
この時、徳川方は藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)の調略により、豊臣方の南条元忠(元伯耆羽衣石城4万石、南条元続の子)を内通させていました。
なので、直孝と忠直はこの火薬庫爆発が「元忠の工作」であると考えたのです。

「敵の城内に火の手が上がったぞ!今こそ攻め時!押し出せ!」

全軍の士気を鼓舞し、さらに強引な攻めを行う直孝と忠直。

ところが、この火薬庫爆発は大坂城内のただの事故に過ぎず、そして南条元忠はすでに内通がバレて切腹させられていました。

そんなことも知らず、かなり強引な攻めを行った直孝と忠直は、豊臣方の必死の防戦で500兵以上を失うという多大な被害を被ってしまいます。

時間の経過とともに真田丸の戦い、八丁目口での戦いなどの報告が、住吉の家康本陣に届くと

「どいつもこいつも、なぜワシの命令を無視するのか!!」

と烈火の如く怒り、前田利常、井伊直孝、松平忠直に向け

「あのアホどもたちに、とっとと兵を退かせろと伝えろ!!」

と命令しています。

これが、「大坂冬の陣」における、初の徳川方の敗退となった戦いでした。

この戦いの同日、将軍家・徳川秀忠は本陣を平野(大阪市平野区)から岡山(大阪市生野区勝山)へ移動しています。

さらに翌日の12月5日、大御所・徳川家康も、本陣を住吉(大阪市住吉区)から茶臼山(大阪市天王寺区茶臼山町・天王寺公園内)に移動しました。

秀忠はこの時、側近より「家康が和議を考えている」ことを知り、茶臼山まで出向いて家康に直ちに総攻撃を仕掛けるべきだと提案しています。
しかし、家康は

「敵を侮る事を戒め、戦わずに勝つことこそ征夷大将軍の器量」

とはやる秀忠を押さえ込んでいます。

真田丸・八丁目口の戦いは手痛い敗退だったものの、大坂城の包囲網は完璧で、仕寄の構築によってその包囲網は徐々に縮まっており、この段階で徳川方の各将の陣は大坂城から5〜600メートルまで迫っていました。

それは豊臣方を精神的に不安にさせるものだと家康は考えていました。天守閣から見下ろせば、日に日に大軍が迫ってくるわけですから、その心理的影響は十分だったでしょう。

大坂城の中の浪人がおよそ10万人。食糧の調達にも限界があるし、城を包囲されているので補給もできない。その上、日に日に大軍が迫ってくる心理作戦。となると、「豊臣方が取るべき策は和議しかない」ことは家康にはわかっていたのです。

「和議が成立できるなら、いたずらに兵を失うような戦い方をするべきではない」
「いかにして少ない犠牲で戦いを終わらせるかこそ、為政者としての役割」


ということを十分理解していたのだと思えます。

ここから先は家康の用意周到とも言える様々な方策が放たれることになるのです。

(続く)

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2017年01月09日

本当はこうだった「大坂の陣」(3)-大坂城西部方面陥落-

西暦1614年(慶長十九年)11月26日、徳川方は、豊臣方の鴫野村今福村(大坂城の外堀の北東。平野川の先)の砦や柵を落とし、大坂城の南西部と北東部において拠点を得ました。

徳川方は序盤戦の戦いをさらに有利にすべく、次の手を打ちます。

もともと豊臣方は木津川方面からの敵に対する備えとして、19日の戦いで徳川方の蜂須賀至鎮が落とした木津川砦(大坂城の南西部/大坂城の外堀河口)と、それを補完するため、その北西に博労淵(木津川と大坂城の間にある中洲/現在の大坂市西区立売堀付近)に砦を築き、薄田兼相(通称:隼人正/元秀吉の馬廻衆)に700兵をつけて守らせていました。

しかし、木津川砦が落ち、なおかつ鴫野や今福が落ちてしまっては、博労淵砦は北と南からの攻撃リスクをモロに受け、ほとんど孤立している状態でした。

そして兼相はそのことを未だ知りません。
知っていたら、この砦を維持する意味はほとんど無いため、早々に退却していたでしょう。また本陣も撤退命令を出すはずです。
こういう命令が出ていない時点で、当時の大坂城は本陣が本陣として正しく機能していないことがわかります。

徳川方としては、ここで博労淵砦を落とせば、大坂城の西部はほぼ徳川方の拠点になるため、戦いをさらに有利に進めることになります。

徳川家康は、博労淵砦の攻撃を決定し、水野勝成(日向守/三河刈谷3万石)永井直勝(右近大夫/近江7000石)に命じて、博労淵砦の西の木津川の川中に浮かんでいる狗子島(現在の大坂市西区江之子島)に攻撃準備のための塹壕を掘らせました。

11月28日、塹壕設備が完成したことを勝成が家康に報告すると、木津川砦を落としてそこに駐屯していた蜂須賀至鎮がこのことを小耳に挟みます。

「大御所様は今度は博労淵を攻めるのか。あそこを水野に取られて、俺の木津川砦を後ろから監視されるのは嫌だなぁ......」

至鎮はそう考え、博労淵砦を自分が落とそうと策略を巡らします。

まず至鎮は家康に

「博労淵砦の兵らしき連中が、生い茂った荻に隠れて自分の木津川砦銃撃してくるので、付近一帯の荻を刈り取らせて頂けないでしょうか?」

と伺いを立てます。
至鎮は、その萩の刈り取りのどさくさに紛れて、博労淵砦を落とそうと企んだのです。

しかし、家康はその真意を察しておりました。
家康は

「阿波守の申し分は神妙なり。されどそのようなことは我らの手(徳川家中)で行うので、しばし待たれよ」

として、徳川譜代の石川忠総(主殿頭/大久保忠隣の子/美濃大垣5万石)に萩の刈り取りを命じたのです。

忠総は芝を刈り取った後、狗子島の南の葦島に着陣し、博労淵砦に向けて銃撃を行い、博労淵砦の兵を牽制しています。そして家康はこの時、博労淵砦への攻撃命令を忠総に出しています。

慌てたのが至鎮です。
忠総のおかげで博労淵砦の兵が木津川砦へ攻撃してくることは無くなりました。

ですが、水野に手柄を立てさせないようにやったカラクリが、水野どころか石川まで加わったため、博労淵砦を攻める口実が完全になくなってしまったのです。

こうなるともう独断かつ強引に博労淵砦を攻撃するしか手がありません。

翌11月29日未明、石川忠総は九鬼守隆(長門守/志摩鳥羽3万5000石)から船を借り、一旦北方の狗子島に上陸して、博労淵の北へ渡り、攻撃を開始しました。

また同じタイミングで蜂須賀至鎮も木津川口から博労淵砦の南へ攻撃を開始したため、博労淵砦は北と南の両方から一斉に攻撃を受けたのです。

南北からの徳川方の攻撃は約5300兵と言われます。
対する博労淵砦は700兵。
7倍強の兵力を相手に、博労淵砦の守将・薄田兼相はいかにして立ち向かったのか。。。。

誠に残念ながら、

何にもしませんでした。

というのも、この時、兼相は

大坂市中の遊女屋に遊びに出かけていて、不在

だったんです。

のんきに遊女屋でイチャイチャしてるような余裕があるのか!と突っ込まれそうですが、木津川砦や鴫野・今福柵が徳川方に落とされた事実を知らなかったとすれば、「まだまだ戦は先のこと」と思い、ちょっと気分転換に遊びに......という気持ちもわからなくはありません。

何れにしても守将・薄田兼相のいない砦は、木津川砦の時と同様、ろくに統率も取れず、兼相に後を託された副将・平子正貞もろとも全滅するのです。

こうして大坂城は城の西側(木津川沿岸部)をすべて徳川方に奪われました。
この戦いにおいて、豊臣方が「統率がとれてない烏合の集団」であったことはもう明らかでした。

(つづく)
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2017年01月07日

本当はこうだった「大坂の陣」(2)-大坂冬の陣の始まり-

豊臣譜代家臣の「籠城論」に対し、浪人衆は「主戦論」でした。
戦って手柄立てないと浪人衆は出世できないですし、家康に恨みを晴らすこともできないからです。

なので、浪人衆の中の一人、真田信繁は、大河ドラマ「真田丸」で描かれたような、

@瀬田川まで進軍して徳川軍を迎え撃ち、大坂へ入れさせないように足止めする。
A豊臣恩顧の大名に檄を飛ばし続け、大坂に味方するように大名翻意を仕掛ける。
Bこれらが封じられたもしくは成果がない時に籠城する。


という野戦作戦を立てましたが、秀頼(というか豊臣家)の裁断は「籠城戦」となりました。

そんな豊臣方の動きを知ってか知らずか、徳川方は着々と戦準備を始めています。

西暦1614年(慶長十九年)10月11日、大御所・徳川家康は居城・駿府城を出発。
23日、家康、二条城に入城。
同日、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠、6万の軍勢で江戸城を出発。
25日、家康、藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)と片桐且元(東市正/大和竜田1万石?)に先鋒を命ず。

同年11月10日、秀忠、伏見城に到着。
(※この時、江戸から伏見まで17日間で走破。結果的に兵は疲労困憊。家康はゆっくり来いと命令していたのを無視したため、激怒したと言われます)
15日、家康、二条城を出発。奈良経由で大坂に向かう。
18日、秀忠と茶臼山で合流。軍議。

なお、前の回に書きましたが、家康に味方する大名で、福島政則、黒田長政、蜂須賀家政ら主だった豊臣恩顧の大名は、江戸留守居役を命じられています。

家康と秀忠が茶臼山で軍議をしている頃、蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡男/阿波守/阿波徳島25万7000石)木津川(大阪市南西部を流れる淀川水系の川、大坂城の西の外堀の役割を果たしている)あたりを偵察し、砦を発見(以後「木津川砦」と言います)。そこに敵兵らしきものが駐屯していたことが認められることから、将軍家に報告し、攻撃許可を求めました。

将軍家は、至鎮の妻が家康の養女であることから、手柄を立てさせてやりたい反面、命を落とさぬように配慮し独断での攻撃は許可しませんでした。しかし、

「浅野但馬(浅野長晟/紀伊和歌山藩37万6000石)と池田宮内(池田忠雄/淡路洲本6万石)との共同作戦ならOK」

という条件つきの許可を出しました。

浅野長晟は、秀吉の妹婿・浅野長政の孫です。
池田忠雄は、織田信長の乳兄弟・池田恒興の孫で、家康次女・督姫の次男です。

あくまでも至鎮が独断専行しないようにとの将軍家の配慮でしたが、木津川砦を発見したのは至鎮であり、優先攻撃権も至鎮が持つのは当然でした。その攻撃を浅野や池田と共同でというのは、手柄を横取りされてしまう可能性もあり、至鎮にとっては大いに不満でした。

しかし、至鎮はある考えにたどり着きます。

「そっかぁ。あいつらには何も言わず黙って勝手に攻め入ればいいんだ。手柄あげれば将軍家も何も言わないだろう。」

そして至鎮は即・行動に移ります。
11月19日夜、至鎮は軍勢を率いて木津川砦に単独奇襲を実行。
木津川砦の守将は明石全登(掃部/元・宇喜多秀家家臣)でしたが、たまたま全登が大坂城に登城していたため、守将がおらず、砦の指揮命令系統はメチャクチャで、木津川砦はあっけなく陥落しました。

これが「大坂冬の陣」の始まりでした。

11月25日、家康は、大坂城の北東、大和川北の今福村に出城を築き、大和川、平野川辺り一帯の押さえにするように、上杉景勝(会津中納言/出羽米沢30万石)、堀尾忠晴(山城守/出雲松江24万石)、丹羽長重(加賀守/常陸古渡1万石)、榊原康勝(遠江守/上野館林11万石)に出陣を命じました。

豊臣方は、徳川方が今福村と大和川南の鴫野村を狙ってくることは予想しており、鴫野村には三重の柵を築いて、井上頼次(秀頼黄母衣衆)が守将として守っていました。

11月26日早朝、上杉景勝5000兵が鴫野柵へ攻撃を開始。井上頼次は鉄砲隊2000兵で反撃したものの、衆寡敵せず第3の柵まで攻め込まれ討ち死。しかし大坂城から大野治長ら12,000兵が援軍に駆けつけ、上杉勢第1陣の須田長義を敗退させました。

しかし、上杉勢第2陣の水原親憲が怒声を放って自軍を二つに分け、須田敗退させた豊臣方援軍に鉄砲の一斉射撃をかけて、豊臣方援軍を足止めし、脇から同じく第2陣の安田能元の槍隊が攻めかかって体勢を崩した豊臣方援軍は大坂城に退却せざる得ませんでした。

鴫野柵は上杉勢が見事占拠しましたが、家康は景勝に守将を堀尾忠晴と交替して休息しろと命じました。
しかし、景勝は

「武士の家に生まれ先陣を争い、今朝より身を粉にして奪い取った柵を、将軍家の命令とは言え他人に任せることはできません」

として拒否したと伝えられています。


一方の今福村においても、豊臣方は、堀と柵を構築して、矢野正倫(和泉守/元・伯耆米子17万5000石中村家家臣)、飯田家貞ら600兵で守備させていました。

鴫野柵に上杉勢が攻め掛かっていた頃、佐竹義宣(右京大夫/出羽久保田20万石)が1500兵を率いて、今福柵に攻撃を開始します。これも衆寡敵せず、矢野も飯田も討ち死し、大坂城から木村重成が援軍として駆けつけ、戦局は拮抗した状態のまま時が過ぎました。

もう一押しだと思った大坂城の秀頼は後藤又兵衛に出撃を命令。駆けつけた後藤又兵衛は木村重成と協力して、見事佐竹勢を押し返しました。この時、佐竹家家老・渋江政光が討ち死しています。

このまま押し返し、今福柵の豊臣方奪還なるかと思われましたが、態勢を崩して壊滅し掛かっていた佐竹勢は、対岸の鴫野柵攻撃隊(上杉、堀尾、丹羽、榊原)に援軍を求めました。

すでに鴫野柵の攻略を終えていた攻撃隊は、佐竹の要請を受け、大和川の川中まで進み、一斉に豊臣方に銃撃を浴びせました。木村重成はそれに呼応して攻めかかろうとしますが、後藤又兵衛がそれを止め、形勢不利を悟り、そのまま大坂城に退却しました。

豊臣方は、この1日で、今福、鴫野を徳川方に奪われ、大坂城の北東の守りが手薄になりました。
豊臣方は、じわじわと徳川の包囲網が内に迫ってくるのを感じざる得ませんでした。

(続く)
posted by さんたま at 12:48| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする