2016年11月21日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(51)-義円の死-

西暦1181年(治承五年)4月25日、源行家軍6,000騎は、平重衡率いる頼朝追討軍30,000騎を相手に、墨俣川(現在の長良川/岐阜県大垣市墨俣付近)を挟んで対峙しました。

敵の圧倒的兵力に対し、行家は三隊に分け、夜陰に紛れて墨俣川を渡河の上、奇襲攻撃をかけ、平家の大軍を寸断する作戦を立てます。

行家の本軍と源重光(尾張源氏)が率いる第2軍が渡河しようとした矢先、頼朝の名代として参陣した義円率いる第1軍の陣がもぬけの空になっていることを、軍監として第1軍に付けていた源頼康が知らせてきたため、行家は困惑しました。

しかし、第2軍の源重光らは既に南から渡河を開始しており、今更変更はできません。
行家も作戦通り渡河を開始するしかありませんでした。

この時、義円は第1軍2,000騎を率いて勝手に墨俣川を渡河し、平家の陣の北方に上陸していました。
義円はどうあっても先陣を務める覚悟で、行家の指揮を無視したのです。

しかし、義円の軍勢は既に平家の見張りに発見されていました。
見張りの軍勢が義円の軍勢を発見し、確認のために数騎を走らせてきたため、義円はちょっと狼狽しましたが、すぐに平静を装い、全く動じず、見張りの軍勢に一礼をしました。

「そなたたちは何者だ?どこから参られた?」

見張りの頭領らしき武将と馬上から声をかけました。
義円は全く動じず

「われらは相模国大庭御厨の主・大庭景親に連なる者にござる。主人亡き後、源氏に一矢報いんと思得ていたところ、蔵人様(重衡)ご出陣と聞き及び、取る物もとりあえず参陣仕った次第」

と堂々たる口上を述べました。
すると見張りの頭領は

「おお。大庭三郎殿の御身内でしたか。これは大変失礼いたしました」

と詫びを言うと、馬から降りて地面に膝をつき、頭を垂れました。

「いやいや、お役目ご苦労に存ずる」

義円は馬から降りることなく、頭領をねぎらいながら、頭領の前をゆっくりと馬を歩かせて、平家の陣処に向かおうとしました。今は怪しまれることなく、この場を過ぎ去るには仕方がありませんでした。

ここで、見張りの頭領は義円の馬が水を滴り落としているのに気付きました。
松明の光ではっきりとは見えませんでしたが、義円自身も股下から水が落ちていました。
頭領は周りの騎兵にも目をやり、義円の率いている軍勢全てが水を浴びていることにを察知すると、

「恐れながら」

と声をかけました。
義円は手綱を引いて馬を止めると

「何か?」

と尋ねました。

「大庭殿の軍勢は皆、水を浴びられているようでございますな。」

それまで平静を装っていた義円が初めて「ギクッ」と身を強張らせました。

「まるで、今しがた、この川を渡って来られたかのような......」

見張りの頭領は地に膝をつけ、頭を垂れたままの体勢でしたが、体からは禍々しい殺気を放ち始めていました。

「この川の対岸は源氏の軍勢が固めておりまする。10や20ならともかく、1000を超える大庭殿の軍勢が源氏の囲みを突破するのはほぼ不可能でござりましょう」

「であれば.....なんとする?」

と義円が答えた矢先、頭領がサッと立ち上がって後方に引くと、

「敵じゃあ!出会え候え!敵が侵入しておるぞ!」

と声高に叫んで自らの馬に飛び乗ると、配下の兵に命じ、見張り台に向けて赤い布を括り付けた一本の矢を射かけました。

それは見張りの頭領があらかじめ決めていた合図で、赤い布は「危急の時」の知らせでした。
すぐに見張り台から10〜15騎が出撃して義円たちに駆け寄ってきます。

(やむをえぬ......)

義円は刀を抜き、

「かかれー!」

と自軍に攻撃命令を下しました。
不本意にも義円は平家の陣の北方の見張り台で交戦状態に陥ってしまったのです。

その喚声は渡河中の行家にも聞こえていました。

「なんじゃ、あの喚声は」

「北のほうから聞こえてきますが」

頼康が独り言のように言いながら、ハッとあることに気付きました。

「まさか、あれが義円殿の軍勢では!」

「もしそうなら、シャレにならん。たった2000騎で敵陣に単身乗り込みなど死にに行くようなものじゃ!」

行家は自分のスピードを上げるように各隊長に命令すると、上陸地点を喚声の聞こえる北方に変更しました。

一方で、義円の方は次から次へと出てくる見張り台の騎兵に応戦し続けた結果、見張り台の前から動けない状況に陥っていました。そしてその義円の前に見事な黒馬に乗った一人の武将が現れます。

「平越中守(清盛の政所別当・盛俊)が嫡男・左衛門尉盛綱と申す。名を名乗られい」

平盛綱は自らの名乗りを上げ、義円にも名乗りを求めてきました。
義円は躊躇しましたが、やがて平静を装い

「前の播磨守源義朝が八男にして、前の右兵衛佐頼朝が弟・源義円!」

と名乗りました。
義円の名を聞いた盛綱は、一瞬驚きの表情を浮かべました。

「なんと......源氏の軍勢は十郎殿(行家)の軍勢のみかと思うておったら、佐殿(頼朝)の御舎弟も在陣されておったのか」

しかし、すぐに無表情に戻ると、馬上で刀を抜き

「いざ!」

と声を上げ、獣を威嚇するような目と眼力で義円を射抜きます。
義円は一瞬体が強張りましたが、それを跳ね返すかのごとく、刀を抜いて構えました。

義円の軍勢は見張りの騎兵たちを撃退するのに注力していましたが、義円が盛綱と対峙しているのを見た数名が義円の危機を知って馬を取って返し、義円の前に立ち塞がって盛綱を威嚇しました。

盛綱はニヤリと不敵な笑いを浮かべました。
義円を守るように取り囲んだ三名の騎兵は、目で示し合わせて、喚声を上げながら一度に盛綱に襲いかかりました。

盛綱は三名のうち、一番早く自分に到達する兵を見極めると、その者の刀を横から薙ぎ払って馬上から弾き飛ばしました。

しかし二番目に到達した兵の刀が盛綱の肩をかすめます。盛綱は鈍い痛みを感じましたがそれを物ともせず、返す刀で二番目の兵の首に斬撃を入れ、馬上から落馬させました。

すかさず3番目の兵の方が盛綱を襲いますが、盛綱はとっさに馬の腹を蹴って馬を前に走らせ、三番目の兵の刀を寸前でかわしました。

三番目の兵の刀は空を切って兵が体勢を崩すと、今度は盛綱が手綱を捌いて馬の頭を180度返し、そのまま正眼で三番目の兵の兜を叩き割りました。

盛綱は三人の騎兵をあっという間に片付けてしまったのです。
これは義円も背筋に悪寒が走りました。

「さあ、これで邪魔者はいなくなりました。いざ、参られよ!」

再び盛綱の目が義円を捉えました。
義円は心の中で「南無八幡大菩薩」を唱え、意を決してを盛綱に走らせました。

「いやああああ!」

右上段から左下に袈裟懸けに斬りかかりましたが、盛綱はこれを刀で受け止めます。義円はすぐに手綱を取って返して再び盛綱に向かって、今度は上段から正眼で斬りつけますがこれも盛綱に受け止められます。
盛綱は義円の斬撃を二度受け止め、微笑を浮かべていました。

「なかなか筋がいい。ですが、本当の戦の攻撃とはどういうものか教えてしんぜよう」

今度は盛綱が馬の腹を蹴って義円に向かって斬りかかってきました。

「うおおおおお!」

それはまさにイノシシがごとき一直線かつ鬼気迫る殺気をほとばしらせての攻撃でした。
盛綱は第一撃を右袈裟、第二劇を左袈裟と十文字に刀を振り下しましたが、義円はこれをなんとか刀で防御しました。しかし、次の瞬間、盛綱の刀は第三撃として、義円の喉を突いていました。

「ぐは......」

喉を突かれているため、声が出ません。
盛綱は突き刺した刀を抜くのではなく、そのまま右に薙ぎ払いました。
首から義円の鮮血が噴出し、義円の体はそのまま体勢を崩して頭から落馬しました。

盛綱も馬から降りて、落ちた義円の体に歩み寄ります。
義円の意識はまだあり、口をカパカパ開けながら、何かを言おうとしてますが、声になりません。

「御免」

盛綱は再び刀を義円の首に当て、押し込みました。

源義朝の八男にして、頼朝の異母弟、そして義経の実兄である源義円。
墨俣川の戦いにて戦死。享年二十七。

義円の死んだ場所は現在「義円公園」となっており、そこに義円の墓も立っています。 

(続く)
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2016年11月19日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(50)-行家、平家軍と対峙する-

西暦1181年(治承五年)閏2月4日夜、一代で平家を公卿に押し上げ、太政大臣として権勢を振るい、治天の君である後白河法皇までも抑え込んだ絶対者・平清盛が享年六十四で亡くなりました。

閏2月6日、平家一門棟梁の後を継いだ平宗盛(清盛三男)後白河法皇の元に参内し、

「今は父・清盛の遺命を守り平家一門の総力を挙げて、何事も院宣の趣旨を以て政治を行うつもりです」

と申し上げました。
これは後白河法皇が政治の命令書(院宣)を下し、宗盛の責任においてその執行に当たるという、宗盛の所信表明でありました。

神妙なる宗盛の態度に法皇も安堵しましたが、それがどこまで本心のものかは正直わかりませんでした。

法皇は、宗盛を試す意味も込めて、翌7日、院庁にて公卿議定(会議)を開催し、源氏の諸勢力に対する追討中止を決定しました。法皇の側近である静賢法印が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は

「追討中止などとんでもない。すでに重衡を追討使として東国に派遣することが決まっているため、追討のための院庁下文(公の命令書)を発行していただきたい」

と静賢にすごみました。しかし静賢も

「そなたは何事も院宣のままに従うと申したではないか。それでは話が違いまするぞ」

と反論しました。しかし宗盛も負けていません。

「ならば、池殿(清盛異母弟:頼盛)、門脇殿(清盛異母弟:教盛)らの平家の公卿らと相談の上、改めて主上(法皇)に申し上げます」

と静賢を退けました。
この件は最終的には宗盛の主張が法皇に受け入れられ、頼朝追討の院庁下文が下されることになります。
このように宗盛は法皇の院政に恭順の意は示したものの、生前の清盛から「畿内惣官職」に任じられていたこともあり、軍事権だけは法皇の自由にはさせなかったのです。
一種の「面従腹背」ですね。

同年4月、宗盛は予定通り、自分の弟である平重衡平知度らに頼朝追討の院庁下文に30,000騎を付けて、東国へ出陣させました。

この頃、源頼朝、武田信義、源義仲(木曽義仲)とは異なる、4つ目の源氏の勢力が、東海地方に築かれつつありました。源行家の勢力です。

源行家とは、別名・新宮十郎義盛と名乗り、かつて源頼政の命を受け、最勝親王(以仁王)の令旨を持って全国の源氏に挙兵を促した人物であり、源頼朝の叔父にあたります。また、頼朝の挙兵のキッカケになった人物です。

行家は、頼朝とは袂を分かち、平家に敗れた近江源氏や美濃源氏の残党を取り込みながら独立勢力を形成し、尾張・三河(現在の愛知県)に勢力を張っていました。

平重衡の軍勢が頼朝追討の院庁下文を携えて東国に向かっていることを知った行家は、ここで平家の一軍を撃退し、己の勢力を確たるものにして、頼朝と張り合おうと考えます。

行家は、わざわざ「自分が重衡軍を食い止める」と頼朝に申し出ますが、頼朝はこの戦いの後、行家の発言権が強まるのを警戒し、自分の異母弟である義円(乙若。義経の実兄)に2000騎を付けて援軍として送り込みました。

同年4月25日、行家は4000騎を率いて墨俣川(現在の長良川)の東岸に陣を張り、平家軍を待ち構えました。義円も行家の陣から200メートルほど北に陣を敷きます。行家軍は義円の2000騎を加えて総勢6,000騎となっていました。

程なく重衡軍も川の西岸に陣を張り、川を挟んで対峙する構えになりました。

行家は、対岸に立ち、兵力の差は歴然であることを痛感しました。ゆえにこの戦の作戦は、かつての甲斐源氏・武田信義が富士川の戦いで行ったような、夜間の奇襲攻撃しかないと考えていました。

しかし、ここで援軍として加わっていた義円が「自分が先陣を務める」と言い出してきたのです。

行家は、この戦いで並び立つ源氏諸将の勢力の中で、行家の勢力を頼朝に認めてもらおうという企みがありました。したがってここで義円に先陣を務められては、結果的に頼朝の助勢で勝てたと世間に受け取られ、自分の実力を天下に示すことにはなりません。

行家にとって、義円の先陣はあってはならないことでした。
先陣を願う義円に対し行家は

「あっぱれな仰せ。十郎(行家)感服いたしました。しかしながら、援軍とは申せ、義円殿は佐殿(頼朝)の御名代でもあられます。いわば源氏の総大将。そのような方に先陣を買って出られては私どもに立つ瀬がなくなります」

と行家が諫めました。

「叔父上、お気遣い痛み入る。さりながらここで私が先陣を努めなくては、逆に兄に対して申し訳が立たなくなってしまう」

と義円も退きません。

「義円殿、先陣は戦の勝敗を決める大事なお役目でござる。だからこそ百戦錬磨の将にしか務まりません。どうかこれ以上の問答はご無用に。」

行家はまるで甥っ子をピシャリと叱り付ける、ややキツイ口調で申し上げました。
戦の経験値を出されては、義円は行家に抗う弁舌を持ちませんので、黙り込むしかありません。

行家は自軍の北方200メートルに着陣している義円率いる2000騎を第1軍尾張源氏の源重光率いる1000騎を第2軍として、自軍の南400メートルほどに着陣させて第2軍とし、自軍3000騎を本軍と編成しました。

その上で夜半過ぎから第2軍のは川の流れに乗りながら西へ渡河。本軍は川の流れに逆らいながら西へ渡河。

渡りきったところで第2軍が鬨の声をあげると同時に本軍と共に前線の陣を奇襲攻撃。

平家軍第2陣、第3陣の反撃を受ける前に撤退し、敵を川の中におびき寄せた後、義円の第1軍が北方より攻めかかるという作戦を立てます。

ところが、行家がいざ渡河をしようとした際、第1軍の目付として派遣していた源頼康が、第1軍がもぬけの殻であることを行家に報告してきました。

「義円殿はどこに行かれたのじゃ!」

先陣ではないとはいえ、行家の立てた作戦上、第1軍は平家に追加の打撃を与える要の軍であります。第1軍がなければ、本軍と第2軍は平家の追撃をかわしながら撤退をせねばならず、それは壊滅必死な状況に他なりません。
何よりも行家の立てた作戦が全くの無駄になってしまいます。
しかも第2軍は何も知らずに渡河を始めていました。

その頃、義円率いる第1軍2000騎は勝手に墨俣川を渡河し、平家陣の北方に密かに上陸していました。
義円は、どうしても自分が先陣を飾らねば鎌倉には帰れないと自分を追い込んでいたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 23:09| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

真田丸解体新書(10)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(後編)

西暦1614年(慶長十九年)4月、豊臣秀吉が自身の権威のために作らせた寺で、西暦1596年(文禄五年)9月5日に発生した慶長伏見大地震で倒壊した方広寺が豊臣家の手によって再建され、4月には梵鐘が完成しました。

これらの総奉行は片桐且元(東市正)
秀吉の直参家臣であり、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉亡き後は秀頼傅役として豊臣家を支え、この時点では大和竜田2万4千石の大名となっていました。

主だった豊臣恩顧の大名が亡くなっていく中、秀頼の家臣の中において家康とうまくやっていけるのは、戦国の時代から家康を知っている且元をおいて、他に人はいませんでした。

且元は、開眼供養の開催に向けて、京都所司代・板倉勝重を通じて、駿府の家康と綿密なるやり取りを行っていました。

同年5月、且元より相談を受けた家康は、方広寺の堂供養の導師に真言宗仁和寺門跡の覚深法親王(後陽成天皇の第一皇子・良仁親王で、御水尾天皇の兄)を指名しました。

さらに同年7月、後水尾天皇より大仏開眼供養を天台宗妙法院門跡の常胤法親王(後陽成天皇の弟・智仁親王で後水尾天皇の叔父)を指名する勅命が下されます。
堂供養、開眼供養ともに親王をお迎えすることになり、開眼供養は予定通り順風満帆で動いておりました。

家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出しました。
しかし、18日は、秀吉十七回忌の大祭の日と重なっていたため、且元は、両法要を8月3日の1日にまとめ、早天(早朝)に常胤法親王を開眼堂法要の導師を覚深法親王とし、終日、天台宗僧侶を上座とすることを決定しました。

同じ頃、京都所司代・板倉勝重から家康への報告により、方広寺梵鐘銘文等に疑惑がかけられます。

これを受けて、家康の宗教政策担当補佐官・金地院崇伝や、本多正純らによるプロジェクトチームが組まれました。

プロジェクトチームの調査結果が家康の耳に入った同年7月26日、家康は板倉勝重を通じて片桐且元にあてて

「開眼・大仏殿供養日が同日であること」
「大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないこと」
「その内容に問題がある」


として開眼・大仏殿供養の延期を命じました。

それは銘文の中にある「国家安康」が家康の諱を分断しており不吉であることでした。

そして8月に入り、家康は自分の教養担当補佐官・林羅山五山(臨済宗の最高寺格)の僧に、方広寺梵鐘銘文の解読を命じ、それぞれ意見を出させました。

五山の僧は「家康の諱」を分断して使用したことは手落ちであると認めましたが、家康を呪詛するものでとまでは認めず、これを呪詛と解したのは幕府の林羅山ただ一人でした。

教科書等ではこれを「家康が豊臣家を滅ぼすための言いがかり」とする解釈が多いようですが、実際は五山の僧の言う通り、呪詛とまでは言えるものではありませんでした。

ただ、諱を分け隔てるのは良くないこと、諱は通常避けるべきものと解釈されており、そんなつもりはなくても呪詛を疑われる余地は十分にあったと思われます。

話を戻して。。。これでびっくりしたのは片桐且元です。
これまで全てを幕府と密に相談しながら進め、段取りもほぼ完璧に整えていた且元に取って、大仏開眼・大仏殿供養の延期はまさに寝耳にでした。

「一体、大御所は何を考えているのだ!」

豊臣家は、家康の真意を探るため、8月13日に且元と銘文を作成した文英清韓を急ぎ駿府に派遣しますが、17日に清韓が駿府で捕縛されてしまいます。且元は19日に駿府に入ったものの、家康と会うことは叶わず、もっぱら崇伝相手の弁明しか行えませんでした。

且元から何の連絡もなく、また帰りが遅いことを心配した豊臣家は、同月29日、大蔵卿局、正栄尼(秀頼乳母)ら3名を駿府に派遣すると、家康はこれを上機嫌で迎え、鐘のことなど話題にも出しませんでした。さらに彼女らが9月8日、大坂帰る際に崇伝から

「大御所様の機嫌は上々。徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いように心得えられよ、後ほど江戸に幕府への盟約書を送ってもらえれば、あとは何の心配もいらぬ」

と伝えられています。

これを「家康の2枚舌」「二重外交」と評することがありますが、私の考えは、家康は最初から大蔵卿局たちと真面目な話をするつもりはなく、適当にお茶を濁して帰ってもらうために、ああいう態度をとったのではないかと思います。

それゆえ、家康は正規の使者である且元とは一切会おうとしませんでした。これが家康の大御所としての無言の圧力であり、それを以て、豊臣家の出方を伺っていたのだと考えています。

家康に全く会ってもらえなかった且元は失意の中、大阪への帰途の途中、豊臣家が徳川家に異心ないことを何らかの形で示さねばこの怒りは解けないことを痛感していました。その彼が考えたのが

「他大名と同じく、江戸や駿府への参勤に努める」
「淀殿を江戸詰め(人質)とする」
「現在と同じ石高のまま、秀頼が大坂城を出て、近隣の大和、山城国に移る(転封)」


というものでした。
当時、まだ参覲交代は制度化されていませんでしたが、諸大名は年に1度は江戸の将軍家に伺候していましたし、大名の妻子は江戸詰めでした。また、幕府に転封を願い出ることは、幕府に臣従することを意味していました。

且元はこの三か条を到底受け入れられないことはわかっていました。
しかしながら、これを受け入れられなければ、徳川と豊臣は戦闘になることもわかっていました。
これは且元として最後の賭けだったと思います。

且元は大坂に戻って、自分の私案としてこの3か条を秀頼と淀殿に提示しました。
しかし、一足先に戻っていた大蔵卿局から家康の機嫌を聞いていた淀殿は、且元のこの態度に不信を抱き、淀殿付きの大野治房(大野治長の弟)らが「東市正(且元)は徳川に内通しているのではないか」と疑いを持ち始めました。

9月23日、大阪城内において、薄田隼人正らを首謀者とする「片桐且元暗殺計画」が立案されました。
しかし、これを知った大阪城内の客将・織田信雄(織田信長の次男)が且元に密告したため、且元は大坂城内の自分の屋敷を兵で固めて襲撃に備えました。

9月28日、すぐすぐ討ってくる様子がないことを見て取った且元は、秀頼に対し「高野山に入って謹慎します」と言上。それまで且元に寛容な態度を取っていた秀頼もこれには怒り、即座に改易(領地没収)を命じます。

しかし、且元は改易にも全く動じず、豊臣家奉行の仕事を後任に引き継ぐと、10月1日、弟の片桐貞隆(播磨1万5000石の大名)、そして同じく内通を疑われた石川貞政(2000石の豊臣家旗本)と共に大坂城を退去しました。

ところが、且元は高野山には入らず、貞隆の居城・茨木城(大阪府茨木市)へ入城。暗殺計画に基づいて豊臣家からの追討軍が攻め寄せることを想定しましたが、茨木城の兵力では敵わないかもしれないと思った且元は、旧知の京都所司代・板倉勝重に援軍を要請します。

これが、豊臣家には「片桐且元・貞隆兄弟は、徳川に味方した」と映ってしまったのです。
板倉勝重の兵が茨木城に到着したことを以て、豊臣家は片桐且元の裏切りは事実と決定し、大坂城内の片桐且元屋敷を打ち壊しました。

片桐且元は豊臣家における徳川家交渉全権大使でありました。その屋敷が破壊されたことを知った家康は、これを将軍家に対する「手切れ」と判断し、正式に豊臣家に宣戦布告します。

こうして、大坂冬の陣が始まってしまったのでした。

家康に豊臣家を滅ぼす考えがあったかどうか。
世間一般では、徳川幕府にとって豊臣家は主筋であり、屈服させることができない存在であったことから、謀略を用いて勝てない戦争に持ち込み、豊臣家を滅ぼしたという説が通っています。

しかし、大坂冬の陣以前の家康の豊臣家に対する気の遣い方などを考えると、謀略を用いてまで豊臣家をこの世から消し去りたかったとは、私にはどうしても考えられません。

豊臣家を臣下におけないならば、自分たちの支配が及ばない違う次元(朝廷)のところで栄えてもらいたいという考えがあり、ゆえに豊臣家は公家として生きてもらいたかったという考えが、家康にはあったのではないかと思ってます。

ただ、それを許さなかったのが、難攻不落の大坂城の存在でした。
秀吉が築城技術の粋を集めて作った大坂城は、徳川の太平の世では生きられない浪人武将にとって、「この城で戦争すれば徳川に勝てるかもしれない」という希望であり、同じように徳川の世を認められない豊臣家の諸将と利害が一致してしまったのが、間違いの始まりだったと思います。

歴史に「もしも」はないだけに、なんとも残念です。

(このシリーズ終わり)
posted by さんたま at 22:13| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする