2016年10月22日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(49)-清盛の死-

西暦1181年(治承五年)正月14日 「治天の君」である高倉上皇の崩御により、高倉院の院政は終わり、「治天の君」の地位は幽閉中の後白河法皇(後白河院)に移りました。

ここに「平清盛VS後白河法皇」の戦いが再び勃発することになります。

しかし、清盛の方は高倉上皇が病になった段階で打つべき手は打っており、その1つが後白河院支持派である仏教武闘派勢力(園城寺、延暦寺、興福寺)の勢力の弱体化でした。

さらに清盛は、後白河院の復活が源氏を勢いづけないように、正月18日、前年10月に近江(滋賀県)を追い出し、美濃(岐阜県)に逃げ込んだ近江源氏と美濃源氏をまとめて征伐する命令を下します。

その翌日である正月19日、「高倉上皇の遺詔」として清盛嫡男・宗盛「畿内惣官」職に任じられました。これは畿内一帯にまたがる軍事指揮権を宗盛に与えるという強力なもので、後白河法皇の院政下であっても兵馬の指揮権は平氏が掌握することに他なりませんでした。

要するに、後白河院が反平家勢力のシンボルに祭り上げらて、勝手な軍事活動ができないように、軍事権を取り上げたわけですな。

加えて清盛は、翌2月7日、京の西方にあたる丹波国(兵庫県北東部、大阪府北部)「諸荘園惣下司職(国内の荘園の統括官)」を設置し、平盛俊(清盛側近・平盛国の嫡男)を任じました。これで平氏は、京に最も近い丹波国から自由かつ無制限に兵糧を調達できるようになり、京周辺における兵馬と食糧を完全に平家のものにしてしまったのです。

さらにダメ押しとして、越後(新潟県)城資永(越後平氏、越後の有力武将)に命じて、信濃(長野県)で暴れている源氏勢力の1つ、木曽義仲(源義仲)を討てという命令を下します。

西国をメインの拠点とする平氏にとって、越後や北陸地方は数少ない東日本の拠点であり、それを脅かす木曽義仲は是が非でも排除しなければなりませんでした。

この時期の清盛は、正直、焦っていました。

かつてクーデター(治承三年の政変)を起こして、清盛に政権を奪われ、堀河殿に幽閉させられた後白河法皇は、平家に良い感情を持っているわけがありませんでした。それが各地の反平家勢力と結びつき、後白河院そのものが反平家勢力となることは、平家の将来のためにも、何としても阻止しなければならなかったのです。

京を含めた畿内全域の軍事指揮権の掌握と、食糧調達の準備を終えた後の清盛の次なる仕事は、征討軍を編成して一刻も早く反平家勢力を抑え込むことでした。同時に平家の威信を高め、二度と反乱を起こすような真似をさせない威圧的なものが必要でした。

ところが、ここでも清盛の計算狂いが生じました。
同年2月25日、信濃に出兵準備を進めていた、越後の城資永が卒中で急死したのです。
これは信濃の木曽義仲を牽制できる勢力がなくなったということで、逆に東国の源頼朝武田信義と連携される可能性が大きくなりました。それは東国武士勢力がさらに強大化することに他なりませんでした。

清盛はすでに26日に五男・平重衡を鎮西(九州)に向けることを決めていましたが、資永の死を聞かされるとすぐさま方針を転換。嫡男・平宗盛、四男・知盛、重衡など平家一門の武力を結集し、東国の源頼朝・武田信義に向けて平家全軍を出撃させることを決定しました。

ところが、ここでも清盛に計算狂いが生じます。
翌27日、清盛自身が原因不明の熱病に倒れてしまうのです。

さすがの清盛もこの計算狂いには面食らったと思われます。

反平家への対策として打てるべき手は全部打ち、あとは出陣し戦果を上げるだけのはずでした。実は数日前の22日頃から体調は思わしくなかったのですが、自身の歳も考えずあれだけ精魂つぎ込んで調整に当たっていた疲れが一気に出たのではないかと思われます。

清盛は病の中、自らの死期を悟ると、翌月の閏2月4日の朝、後白河法皇に以下の申し入れを行います。

「私が死んだ後は、政務のことはすべて宗盛に申しつけてください。何事も宗盛に仰せつけられ相談し、共に手をとって政務を行ってください。それが私の最後の望みです」

しかし、これを受けた後白河法皇は

「何を気弱な。今はまだその時ではあるまい」

とやり過ごしたので、清盛は再度

「天下の事、すべて前幕下(近衛大将のこと、すなわち前右大将・宗盛)に委ねるのが最上であります。法皇様であってもこれに異論はなりません」

と再度強い申し入れを行ったと言われます。
しかし、清盛がその返答を聞くことはありませんでした。

西暦1181年(治承五年)閏2月4日夜、平清盛、自身の執事たる平盛国の屋敷で死去。享年六十四。

後白河院の復活に合わせて、寝食を忘れて反平家勢力を駆逐する体制を作り上げたにもかかわらず、その結果を見ることなく、熱病で死ぬ清盛の無念さはいかばかりであったでしょうか。

「玉葉」(右大臣九条兼実の日記)によると、同月8日、清盛の葬礼が行われましたが、法住寺(京都府京都市東山区法住寺)の中では2〜30人が今様を謡い踊っている声が聞こえていたようです。当時の法住寺は後白河院の院の御所になっていたことから、この中に後白河法皇もいたことはほぼ間違いないと言われています。

法皇にとっては、長年にわたる清盛との権力闘争の末に勝ち得た高らかな勝利の雄叫びを今様に乗せて謳っていたのかもしれません。

また、高倉上皇と清盛の死は、南都焼討を行った祟りとも言われました。
何れにしても、清盛の死を境に、平家の運命は大きく揺らいでいくことになります。

(つづく)
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2016年10月16日

真田丸解体新書(10)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(中編)

1、徳川家と豊臣家の微妙なバランス関係
西暦1603年(慶長八年)2月12日は、内大臣・徳川家康は朝廷より、右大臣ならびに征夷大将軍に任ぜられました。

これは家康が「天皇の代理となって朝敵を滅ぼす権利」を得たことになり、名実ともに「武士の頂点」に立ったことを国内外に示しました。

現実問題として、関東に250万石近い直轄領を持ち、全国の諸大名に号令できるような大名は家康以外は誰もいませんからね(汗)。

家康はこの将軍宣下にもカラクリを施していました。

まず、家康は前年の西暦1602年(慶長七年)1月6日に「正二位」から「従一位」に昇叙されています。
従一位は豊臣秀吉の極官であり、関白に任じられる者と同等の位になります。

家康はここで「為政者」としての下地を作った上で、翌年の征夷大将軍に臨むのですが、それと時期を合わせて、嫡男である秀忠の官位を上げる工作を行っていました。

秀忠の官位は

西暦1601年(慶長六年)3月28日
権大納言に補任。
西暦1602年(慶長七年)1月8日 
正二位に昇叙 権大納言如元。


と成っており、さらに家康の征夷大将軍補任の2か月後

西暦1603年(慶長八年)4月16日
右近衛大将 兼任


となっております。
右近衛大将は朝廷においては武官最高の官職であり、鎌倉時代に源頼朝が平家を滅ぼした後、上洛した際に「権大納言兼右近衛大将」に任じられて以来、武家政権の権威とされてきました。

つまり秀忠がこのタイミングで右近衛大将に任じられることは、征夷大将軍である家康の後継者であることを諸大名に示したことになります。

ただし、この時点では、家康も豊臣家を主筋とするスタンスは変わりありませんでした。

西暦1601年(慶長六年)3月27日、秀頼は8歳で権大納言に任じられており、その翌日、秀忠が同じ権大納言に任じられてます。

また翌年西暦1602年(慶長七年)1月6日、秀頼は従二位から「正二位」に昇叙しており、その2日後の1月8日に秀忠が「従二位」に昇叙されていることから、ここまでの動きは、すべて豊臣家を前面に立てています。

その後、前述のとおり秀忠は「右近衛大将」に任じられておりますが、その6日後の西暦1603年(慶長八年)4月22日には、秀頼が内大臣に任じられています。これは、家康が右大臣に任じられる前の内大臣を秀頼が受け継いだことになります。

さらに家康は、同年7月、秀吉の遺言通りに、千姫(秀忠娘/家康孫)を豊臣秀頼に嫁がせています。
七歳での輿入れは当時としてもかなり早い方ですが、家康としてはとにかく豊臣家を刺激したくない考えからだと思われます。

こうして微妙なバランスの上に成り立っていた豊臣家と徳川家でしたが、西暦1605年(慶長十年)に最初の亀裂が生じることになります。


2、家康、豊臣家を公家化する
家康は、将軍宣下を受けて8か月後の西暦1603年(慶長八年)10月16日付で右大臣を辞任し、西暦1604年(慶長九年)には嫡男の秀忠に将軍職を譲ることを決め、将軍職は「武家の棟梁」である代々徳川家が世襲していくことを世に示すための方策を打っていきます。

同時に、徳川家の主筋に当たる豊臣家をどう位置づけるのかもはっきりさせていく必要に迫られていました。

家康は、朝廷に秀頼を右大臣に任じるように奏請し、秀忠を正二位に昇叙させ、秀頼の後任の内大臣に任じた上で、征夷大将軍を秀忠に譲る考えでした。
これで秀忠は征夷大将軍に任じられたとはいえ、官位においては秀頼が上という図式になります。

征夷大将軍は全国の武士の棟梁であり、軍事指揮権を持っています。秀頼の官位を秀忠より上に位置したのは、豊臣家を徳川家の権力の下に入れるのではなく、豊臣家が摂関家の一家に位置していることから、豊臣家を自らの権力の外に置き、豊臣家を公家化する目的に他なりませんでした。

西暦1605年(慶長十年)4月13日 
豊臣秀頼、右大臣に昇任。

西暦1605年(慶長十年)4月16日
源(徳川)家康、征夷大将軍辞任。
源(徳川)秀忠 従二位に昇叙。内大臣に転任。征夷大将軍宣下。


家康は全国の諸大名に上洛を求め、秀忠の征夷大将軍就任、秀頼の右大臣昇任を祝わせることを計画していました。家康は高台院(秀吉正室・北政所)を通じて豊臣家に上洛を求めましたが、秀頼生母の淀殿が

「主筋の者が臣下の者と揃って祝賀を受けるなど無礼千万。まずは秀忠殿が秀頼に挨拶に伺うのが筋」

と頑強に反対したため、病気を理由に辞退しました。
家康はここでも豊臣家を立て、六男・松平忠輝を「将軍の名代」として大坂に遣わし、豊臣家との融和に心を砕いています。

それから6年後の西暦1611年(慶長十六年)3月、後陽成天皇が譲位なされて後水尾天皇が即位されるということで、家康はそれらの儀式に出席するために上洛をしました。その際、家康は二条城での秀頼との会見を豊臣家に申し入れています。

この時の理由がなんだったのかははっきりわかりませんが、孫娘の千姫が輿入れして十年が経っており、その様子を伺いたいのと、成人した秀頼に会っておきたいという考え、もう1つは徳川家と豊臣家の間には何事もないというパフォーマンスの意味合いだと思われます。

これに対し、豊臣家の態度は「会いたければ大坂にくれば良い」という反発もありましたが、豊臣恩顧大名である加藤清正、福島政則、浅野幸長らと客将である織田長益(信長弟/有楽斎)の取り成しもあり、会見は3月28日に実現しています。

この会見により、徳川家と豊臣家との関係は一旦平穏に収まりますが、この後、秀吉子飼いの大名たち(加藤清正、浅野長政・幸長父子、池田輝政など)が次々と亡くなっていき、豊臣家を支える大名たちが激減していくと、豊臣家は「自分の身は自分で守る必要性」を感じ、諸国の浪人、兵糧、弾薬などを蓄えるようになります。

この頃、家康はまだ大坂の動きを正確につかんでいませんでした。
そんな中、大坂の陣の直接の引き金となる「方広寺鐘銘事件」が勃発するのです。

(つづく)
posted by さんたま at 17:50| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月11日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(48)-高倉上皇の死-

西暦1181年(治承五年)正月12日、「治天の君」であり、院政を行っていた高倉上皇の容体が急変し、危篤状態に陥りました。

「治天の君」とは天皇家の長を意味し、天皇を補佐・指導するポジションです。
この時の天皇は数え年4歳の安徳天皇で、子供に政治が行えるはずもなく、安徳天皇に天皇の御位を譲った高倉天皇が上皇となって、高倉院を興し、院政を行っておりました。

というのは表向きの理由で、実際は清盛の孫である安徳天皇を皇位につけ、天皇の名の下に清盛が自由に権力を振るえるように高倉上皇には院政を行ってもらっていたというのが正しい認識と思われます。

なぜなら、高倉上皇も母は平滋子(清盛の義妹)、中宮(正室)は平徳子(清盛の娘)ですからね。
したがって、高倉上皇は安徳天皇同様に、平家の権力の源泉であり、キーパーソンとなる人物でした。

しかし、高倉上皇は安徳天皇に位を譲られてから、病がちになっており、その病状は一進一退でした。それがここに来ていきなり危篤と聞いては、清盛も慌てぬわけにはまいりません。

ただ、清盛はこういう時を来ることを見越して、園城寺並びに興福寺を焼き討ちにしたと考えられています。
万が一、高倉上皇が崩御なされた場合、未だに子供の安徳天皇に親政が行えるはずもなく、「治天の君」のポジションは、現在幽閉されている後白河法皇に自動的に移るからです。

これまで散々平家に対して煮え湯を飲まされた後白河法皇です。「治天の君」に復帰すれば、全力で平家を排除しにかかってくることは必定でした。その時に備えて、清盛は後白河支持派である仏教武闘派勢力(園城寺、興福寺、延暦寺)の力を抑え込む必要があったのです。

結果として、清盛は目的を成し遂げたわけですが、彼の計算狂いは、これほど早く高倉上皇の容体が悪くなるとは思わなかったことです。

清盛のシナリオは仏教武闘派勢力を抑え込んだ後は、各地で蜂起している反平家運動の鎮圧でした。そのあと、後白河法皇が実権を手にしたところで、平家に一分の揺るぎもない地盤が築かれていれば、後白河法皇も無下に平家を排除することはないだろうと思っていました。

ところが、清盛は仏教武闘派勢力の抑え込みには成功し、近江から源氏の勢力を追い払ったものの、まだ各地の反平家活動は依然として元気いっぱいに活発化していたのです。

東国の源頼朝(河内源氏)と武田信義(甲斐源氏)、北陸の源義仲(木曾源氏)、東海の土岐光長(美濃源氏)、四国の河野通直、九州の緒方惟栄、各地で火の手が上がっており、ここを復権後の後白河法皇に突かれるのは時間の問題だったのです。

(さて、どうするべきか......)

清盛は考えました。このまま高倉上皇が崩御すれば、政治権力は後白河法皇に移り、平家は権力の源泉を失います。それを維持させる方策は......考えに考えた結果、清盛は非常識極まりない(ハレンチと言ってもいい)ある試みを実行しようとします。

それは「高倉上皇の中宮(正室)の平徳子(清盛娘)を、後白河法皇の後宮(後妻)に迎える」というものでした。

要するに危篤状態の上皇の奥さんを離縁させて、今はまだ幽閉中だけど次の「治天の君」間違いなしの後白河法皇と再婚させようというものです。そうすることで、後白河法皇と平家は縁つづきとなり、平家は国政に関与し続け、権力の源泉を保持することが可能となるという、なんとも恐ろしい考えでした。

これを聞いた時の右大臣・九条兼実は「言葉にするのも汚らわしい」と卒倒しかけたと言われます。
そして当の後白河法皇本人は「平にお断り申し上げる」と首を縦に振らず、そしてもう一方の当人である徳子に至っては「お父さん、バカじゃないの!!」と髪を逆立ちさせて烈火のごとく激怒したそうです。

まぁ、普通、そうですわね。(汗)

実際、この策は、清盛の正室・時子以外の賛同は得られず、清盛は周りからフルボッコにされて意気消沈しかかっていました。

とは言え、ことは平家一門の将来に関わること、ここで諦めてなるものかと自分の娘(七女)である御子姫君を法皇に輿入れさせますが、法皇も清盛の意図を見抜いているため、一切手をつけなかったと言われています。

そして、高倉上皇が危篤になって2日後の西暦1181年(治承五年)正月14日

高倉上皇 崩御。享年二十一。

そしてこの時を以て、眠っていた後白河院がゾンビのように復活するのでした。
清盛と後白河法皇の最後の戦いが始まろうとしていたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 22:55| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする