2016年09月18日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(46)-清盛の謀略-

西暦1180年(治承四年)12月20日、平清盛は、平家の中でも屈強の武将である妹尾兼康に兵500を与えて、反平家活動を行う興福寺へ向かわせました。

清盛は、興福寺の焼き討ちを息子重衡に命令していましたが、重衡の諫言により、武力による威圧ではなく、あくまでも平和的解決と相手の出方を見るという方針に転換し、軽武装で向かうようにとの清盛からの厳命でした。

一方、興福寺では平家が兵をよこすというので、園城寺の仇はもちろん、平家と斬り結んで南都七大寺の意地を見せんと、臨戦態勢で興福寺周りを固めていました。

ところが攻め手の兵の数がたった500の上、軽装備と聞いた興福寺側は

「おのれ、清盛。我らの力を侮っておるのか。ならばその甘い考えを改めさせてやろうではないか」

と、興福寺の僧兵たちを兼康勢に攻めかからせたのです。

兼康の兵は最低限の武装はしておりますが、戦闘になるとは聞かされていなかったため、突然の奇襲攻撃に兼康の体制は崩れ、100ほどの兵を失い、急ぎ京に逃げ帰るという屈辱を飲まされました。

さらに興福寺は打ち取った60余の兵の首を、興福寺近くの猿沢の池(現在の奈良公園にある池)の端に並べて、清盛をけん制しました。この行為は重衡の諫言を無にし、清盛の恩赦を願っていた重衡を深く傷つける結果になってしまいました。

妹尾兼康の敗退の報を聞いた、清盛は「是非もなし」と言い、興福寺攻撃を再開する決心をします。

重衡から諫言された通り、興福寺は摂関藤原家の氏寺であり、その影響力は大和一国を支配下に置くほどの大きなものでした。権力にモノを言わせて攻め滅ぼせば、摂関藤原家はもとより、多くの公卿との間に軋轢が生じます。
ゆえに清盛は、この興福寺を「合法的」に潰す謀略を仕掛けます。

この時期、高倉上皇は体調が優れず、床につく日が多くなっていました。上皇の病が快方に向かう兆しは見えなかったため、清盛は万が一のことを考え始めていました。

平家の権力の源は、清盛の孫である安徳天皇の存在でした。しかし安徳天皇は数え年3歳の幼児。子供に政治が行えるわけもなく、そのため、先帝である高倉上皇に高倉院として院政を行ってもらって、裏で高倉院を思い通りに動かし、朝廷を実質的に支配していました。

今、高倉上皇に万が一のことがあれば、政治を執る者がいなくなり、必然的に現在幽閉状態にある後白河法皇の院政(後白河院)を復活させる必要が出ていました。

しかし、これは清盛としては迂闊に飲めない頭の痛い話でした。後白河院は高倉院と違い、平家とは縁もゆかりもないだけなく、過去に清盛とは何度もガチンコで権力闘争をやりあった仲だったからです。

後白河院の復活は、平家の朝廷支配に制限がかかることは必定でした。しかし、それがもう止む得ない路線であるならば、清盛は逆に可能な限り後白河院の勢力を排除することを考えます。

園城寺と興福寺は、一貫して後白河院を支持し、幽閉された法皇の救出計画を立てたり、以仁王の挙兵に対しての助力などを惜しみませんでした。それは全て反平家活動に繋がっていました。

ゆえに、清盛は後白河院の院政復活前までに、園城寺と興福寺の力を削いでおく必要に迫られており、それが今回の園城寺の焼き討ちの真の理由だったのです。

しかし、興福寺はバックに摂関藤原家が付いているため、平家の独断で焼き討ちを行うのは容易なことではありませんでしたが、今回の妹尾兼康の一件が功を奏すことになります。

「畏れ多くも高倉院より賜った宣旨の通り、逆賊・近江源氏を撃退し、園城寺を焼き討ちにした。この園城寺と手を携えて院に歯向かっていたのが興福寺であり、院の権威を保たんがため、興福寺も焼き討ちにする」

この清盛の言には予想通り、藤氏長者(藤原氏の代表者)・関白である近衞基通(清盛の娘・盛子の養子/清盛の娘・完子の夫)より取りなしが行われましたが、清盛は

「わしは穏やかに平和的な話し合いと解決をと思うて軽装の兵500を送った。しかし興福寺の僧兵どもはこれを侮り、話し合いの席にもつかず、軽装の兵に奇襲をかけ、60以上の兵の首を取って、猿沢に晒した。これは依然として興福寺が院への謀反を捨てておらぬ証拠じゃ!」

と答え、興福寺の反平家活動を「高倉院への謀反」に話をすり替えて、興福寺の焼き討ちを「大義名分」化させたのです。
関白・近衞基通はこの清盛の言葉に抗う弁舌を持ちませんでした。

12月25日、清盛は重衡を呼び興福寺攻めの総大将を命じました。
すでに藤氏長者の近衞基通に興福寺攻撃の内諾を得ている以上、重衡も清盛に抗う言葉を持っていませんでした。

ただ一人、清盛だけが不気味なせせら笑いを浮かべていました。
かつて以仁王の挙兵の際、当時の右大臣藤原兼実の横槍のせいで断念せざるえなかった興福寺への誅罰。それがいよいよ果たされると考え、思わず清盛に笑みが出たのかもしれません。

翌26日、重衡と副将の平通盛(清盛の甥)は4万の兵を率いて興福寺に向けて出発しました。
興福寺攻撃の出兵を聞いた後白河法皇は、下唇を噛んで悔しさを耐えたと言われています。

(つづく)
posted by さんたま at 16:46| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月11日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(45)-重衡の諫言-

西暦1180年(治承四年)12月16日、近江源氏の反乱を沈めた平知盛、重衡、清房、資盛の4人は無事京に帰還し、父・清盛に戦勝を報告しました。

清盛は源氏との戦いで初勝利を収めた息子たちを褒め称え、すごぶる上機嫌でした。
知盛、清房、資盛も終始笑顔でしたが重衡だけは笑顔一つ見せませんでした。それは重衡には清盛の密命が2つ下されていたからです。

先の近江源氏の戦いで、園城寺を包囲し戦況が膠着状態に入ったことを知った清盛は、密かに重衡を呼びました。
そしてその重衡に対し

「そなた、手勢を率いて知盛に合流し、知盛にこう伝えよ。園城寺を焼き払えと、それが父の意志じゃと」

と命じました。

重衡は清盛の五男で、正三位・蔵人頭(くろうどのとう)の地位にあり、清盛の兄弟の中でも、知盛と並ぶ武勇と教養を併せ持ち、気遣いが深く、事の是非を問うたらほぼ誤りない答えを出す貴人の気品を持つ殿上人でした。
その重衡に対し、清盛は無情にも園城寺を焼き討ちにせよと命じたのです。

父の命令ならば素直に従う重衡も

「お待ちください。父上」

と頭を低くして言上せざるえませんでした。

「園城寺の僧たちが父上に過去に2度も歯向い、特別の慈悲をもって許されたにもかかわらず、今度も近江源氏の山本兄弟と結託し、延暦寺まで巻き込んで我が平家に歯向かったことは万死に値します。それはこの重衡も厳罰を止む得ぬと考えます。されど、園城寺は全国の天台宗寺門の総本山。それを焼き討ちにするなど、言語道断の所業と存じます」

重衡必死の諫言でした。
それに対し、清盛は

「確かに僧どもに罪はあっても、寺自体を焼き払う言われ必要性もない。それは道理じゃ。」

と重衡の一言に一定の理解を示しつつも

「じゃがの、過去2度、園城寺を許した結果が、これぞ。これをどう見る、重衡?。」

この時の清盛の目は恐ろしいまでの怪しい光を放っていました。

「人をいくら許したところで、人の心は変わるものぞ。それを変えさせるのは何か?。ワシはそれがあの寺の中に巣食っていると思うのじゃ」

「父上......」
重衡は頭を下げたまま、首を横に振りました。
それを見た清盛は、重衡の襟に手をかけ、持ち上げると、重衡の目を見て言いました。

「だから、一度キレイさっぱり焼いてしまうのじゃ!」
「重衡、これは暴挙ではないぞ。これは人の手による浄化なのじゃ!」
「我が平家のため、いや、この世の安寧のためにやらねばならんことなのじゃ!」

この時の清盛の目には目一杯開かれ、瞳孔が拡散し切ってるように見える中、明らかに狂気の炎がメラメラと灯っていました。清盛の目を合わせたら、その炎に自らも飲み込まそうな感覚を覚えた重衡は咄嗟に目を背けますが、

「ワシの目を背けるでない!ワシの目を見よ!重衡ァ!!」

と無理やり目を合わしてくる清盛。
重衡は目を背けながら

「で、では......園城寺だけではなく、興福寺も焼き討ちにしろと?」

と言うと、清盛は重衡の襟元の手を離しました。
重衡の体がドスンと床に落ち、清盛は重衡を見下ろしながら

「言うに及ばずじゃ.......」

とだけ言うと、広間から出て行ってしまいました。

重衡は手勢を率いて、知盛・清房・資盛連合軍と合流し「園城寺を攻撃せよ。焼き討ちにしても構わん」と清盛も命令を伝えました。最初から「焼き討ちにしろ」とはどうしても言えなかったのです。

結果として園城寺は全焼は免れましたが、半分近くを戦火で失いました。
全焼を望んでいた清盛は、その結果に非常に不満でした。
それがわかっているだけに、重衡は勝利を素直に喜べなかったのです。

戦勝祝いの夜更け、重衡は清盛の部屋を訪ねました。
清盛は書斎にて書状を認めておりました。
重衡は清盛の背中に語りかけます。

「父上、興福寺も焼き討ちにすることはお止めください。あれは藤原氏ゆかりの氏寺。あれを焼き討ちにすることは摂関家を敵にすることに等しゅうございます......何卒......何卒」

興福寺は、南都六宗の一つ・法相宗の寺院で、藤原氏の祖である藤原鎌足の妻・鏡王女が鎌足の病気平癒を祈願して建立された「山階寺」を起源とし、西暦710年(和銅三年)平城京遷都時に鎌足の子・不比等が現在の場所(奈良県奈良市登大路町)に移設したものです。摂関家となった藤原氏嫡流(北家)の保護を受け、この時点では大和一国をほぼ支配下に置くほどの勢力を築いていました。

重衡の決死の諫言に対し、清盛は振り返りもせず、筆も止めず、

「それが、なんじゃ」

の一言で終わりました。

「父上......」

重衡は悔しさのあまり上唇を噛みしめていました。
清盛は筆も止めずに言葉を続けました。

「法王様だろうが、摂関家だろうが、院と朝廷を抑えているのは我が平家ぞ。興福寺は、園城寺と結託して我が平家に対する謀反の勢力となった。世のため人のためにこれを浄化するのじゃ。何度言えばわかるのじゃ!!」

清盛は書き手を止めて、持っていた筆を握力でへし折りました。

「仰ることはわかりますが、それは暴論にござる!!」

重衡は地に頭をつけて勢いっぱいの声を張り上げて叫びました。

「重衡......?」

重衡のこの感情の発露には父である清盛が驚きました。重衡がこのように自分の感情を爆発させることなど、これまでなかったからです。
清盛はへし折った筆を硯に置き、後ろの重衡に向き直りました。重衡は頭を上げて清盛と顔を合わせました。

「確かに我が平家は法皇様も院も朝廷も抑えております。されど、今、東国や北陸、美濃の源氏が反平家に動いているこの現状で藤原氏の氏寺である興福寺を攻撃すれば、摂関家を敵に回します。いや、摂関家だけではありません。奥州平泉さえも敵に回すのですぞ。それが得策でしょうか?」

「平泉だと?」
清盛が思いもしなかった意見が重衡の口から出ました。

奥州平泉は、陸奥と出羽の両国を実質支配している奥州藤原氏の本拠です。
代々朝廷より出羽・陸奥両国の軍事指揮権者である「押領使」に任じられ、現在の当主(御館)である秀衡は、西暦1170年(嘉応二年)に従五位下・鎮守府将軍に任じられていました。
そして当時、平安京に並ぶ国内第二位の都市でもありました。

「平泉の軍勢は10万とも20万とも言われております。興福寺を攻撃することで、藤原氏に連なる平泉が反平家となり、それが東国の頼朝と同盟を結ばれたら、京より東は全て反平家になってしまいます。今は敵を増やすのではなく、減らすことこそ得策だと重衡は存じます」

重衡は両手を地に着け

「それゆえに重ねて申し上げます。興福寺の焼き討ちは我が平家にとって得策とは思えません。何卒ご再考を」

と伏して願いました。

それをじっと見ていた清盛は

「あいわかった......今すぐの興福寺攻めは取りやめよう」

と根負けした感じでこぼしました。

「父上......」

「されど、何もせず許すわけにはいかぬ。園城寺が落とされたことは興福寺にも届いていよう。興福寺は、次は自分たちの番だとわかっているはず。であれば、こちらはわずかな兵を送り、興福寺の出方を見る。それでどうじゃ。」

「賢明な御裁断かと存じます」

「では、そのようにとりはかろう」

西暦1180年(治承四年)12月20日、平清盛は、平家の中でも屈強の武将である妹尾兼康に兵500を与えて興福寺へ向かわせました。武力による威圧ではなく、あくまでも平和的解決を目的とするため、軽武装で向かうように清盛からの厳命でした。

しかし、これが予想もしなかった結果になってしまうのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:07| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする