2016年08月27日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(44)-平家、反撃の時来たる-

西暦1180年(治承四年)11月23日、平清盛は福原京への遷都を諦め、平安京に還都(都を戻すこと)することを決定しました。

還都の原因は、近江(滋賀県)で挙兵した近江源氏・山本義経・柏木義兼兄弟が、仏教武闘派勢力・園城寺&興福寺コンビと連携して京へ攻め入る動きを起こしており、ついに延暦寺までが彼らに味方することが明らかになり、調停や公家の面々から平安京への還都の声が上がり始めたためでした。

すぐにも平安京が攻められると思われていましたが、山本義経・柏木義兼兄弟らは、琵琶湖や北陸方面の物資輸送路の遮断などに兵力を割かれており、京に攻め入って戦う兵力がギリギリの状態でした。

気勢を上げる仏教武闘派の園城寺&興福寺コンビは一刻も早く京への進軍を望みましたが、山本兄弟は二の足を踏んで追いました。というのも、血統を同じとする甲斐源氏の武田信義から、援軍を送るまで京への攻撃は見合わせろという連絡が来ていたのです。

福原京は、宋(中国)との貿易港に改造した清盛自身が管理する港「大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)」に隣接する都であり、平氏の貿易事業を拡大し、さらなる権力を集中を目論んでいた清盛の夢の産物でした。

その夢を源氏と仏教武闘派勢力に邪魔されたため、清盛の怒りは頂点に達していました。

また、平安京への遷都を決めたその日には、平家に属する有力武将の一人、能勢高頼が福原京の自邸を焼いて近江に向けて逃走しています。

能勢高頼は、清和源氏の嫡流にして摂津源氏8代目・源行綱(多田行綱)の弟であり、兄とは別家を立てて摂津国能勢庄(大阪府能勢町)に勢力を張っている源氏の一族でした。

還都を決めたその日に親平家の源氏が寝返ったことは、清盛の怒りをさらに押し上げてしまいます。

同年11月26日、平安京に戻った清盛は、直ちに高倉上皇に働きかけて近江源氏・園城寺・興福寺らに追討の院宣を得ると、12月1日、まず手始めとして平家一門の平家継に対し、勝手に逃亡した能勢高頼への攻撃命令を下します。

家継は、命令通りに近江に軍勢を進め、能勢高頼を討ち取っただけでなく、柏木義兼の居城まで落城させ、近江源氏の勢力を勢多・野路一帯から東へ撤退させました。しかしこの時、美濃源氏からの援軍が到着し、戦況は膠着状態になります。

翌12月2日、清盛はさらに自分の息子(四男)である平知盛と、孫である平資盛(亡き嫡男・重盛の次男)に出陣を命じます。

同月5日、知盛は家継と合流し、近江国柏原(滋賀県米原市柏原)で近江・美濃源氏の連合軍と戦闘に入り、兵力で大きく上回る源氏軍を壊滅させました。義経は園城寺に逃げ、義兼は山本城(滋賀県長浜市湖北町)に撤退し、美濃源氏は美濃に撤退していきました。

またこのタイミングで家継の名前が記録から見えないので、京へ引き上げたと思われます。

知盛・資盛の連合軍は義経の軍勢が逃げ込んだ園城寺を取り囲みました。
義経はある夜、軍勢を率いて寺を抜け出し、京・六波羅の清盛屋敷の襲撃を実行しましたが、六波羅の屋敷を警備していた平清房(清盛八男)の兵に見つかったため失敗。そして清房の兵も連合軍に加わったため、敵の数が増えてしまいました。

12月10日、清盛五男の平重衡(たいらのしげひら)が清盛の命令を持参して、兵を率いて連合軍に加わりました。清盛の命令とは「園城寺を攻撃せよ。焼き討ちにしても構わん」というものでした。

12月11日、連合軍は四方から園城寺に攻撃を開始。
それを察知した義経は郎党を引き連れて寺を脱出し、馬渕城(滋賀県近江八幡市馬淵町)に逃げ込んで抵抗を続けました。

義経が当てにしていたのは、甲斐源氏からの援軍でした。しかし衆寡敵せず、この城も12月13日に落城。義経は、弟・柏木義兼が篭る山本城に合流するも、山本城も持ちこたえられず12月16日に落城しました。

義経・義兼兄弟はこの時、討ち死にしたと言われましたが、知盛たち連合軍は兄弟の死体を確認することができませんでした。実は、この兄弟はなおもまだ生き延びており、そして意外な形で再び現れるのです。

11月20日に始まった近江源氏の反乱は、わずか1ヶ月で鎮圧されました。
これが、以仁王の挙兵以降に勃発した、源氏による一連の反平家活動において初めて平家が源氏に勝利した戦いになります。

しかし、平家はここで安穏としてはおられませんでした。
東国では源頼朝、武田信義が勢力を築きつつある中、近江(滋賀)、美濃(岐阜)、尾張(愛知県西部)、三河(愛知県東部)を確実に平家の支配下として固めて、京の防波堤と成すのが、清盛義弟・平時忠の作戦だったからです。

一方で、清盛はこの騒動を利用して、仏教武闘派勢力を完全に平家の支配下に押さえ込む恐ろしい策略を考えていたのでした。

(続く)
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2016年08月23日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(43)-清盛、再びマジ切れする-

西暦1180年(治承四年)11月7日、福原京の平清盛は、富士川の合戦での敗戦を受けて、改めて高倉上皇源頼朝(河内源氏棟梁)武田信義(甲斐源氏棟梁)の追討の宣旨を賜ると、義理の弟(清盛正室・時子の弟)である平時忠と共に源氏への追討対策をねりました。

当時の日本国内には4つの大きな反平家の動きが起きていました。

1つ目は、源頼朝・武田信義による東国の反乱。
2つ目は、菊池隆直・阿蘇惟安・木原盛実ら肥後の武士による鎮西(九州)の反乱。
3つ目は、熊野別当職を巡った湛増、湛覚の兄弟争いに始まった湛増の反平家の行動。
4つ目は、仏教武闘派勢力・園城寺&興福寺コンビの行動

時忠は、上記4つのうち、熊野別当の件は話し合いで解決ができるレベルと判断し、鎮西の件も小規模な戦闘が断続的に起きているのみであり、今は対策を打つべきではないと考えていました。

園城寺&興福寺コンビは、延暦寺がそれに同調しない限り、表立った行動に出るほど度胸がないので放置で良いという考えであり、これは当時としては極めて冷静な分析であると考えます。


しかし、東国への扱いはそれとは全く違いました。
東国の源氏の反乱は、局地的な合戦が起きなかったとはいえ、平家本体軍が源氏に敗れた事実は非常に重く、これを機会に諸国の源氏が次々と反平家勢力として挙兵する可能性が否定できなかったからです。

また、頼朝が東国武士の力を結集して西上を開始した場合、駿河・遠江までが源氏の勢力圏であることを考慮すると、尾張(愛知県西部)あたりで予防線を張っておくべきでした。

そこで、時忠は、美濃国に勢力を張っている「美濃源氏」の存在に目をつけます。

美濃源氏は、清和源氏嫡流三代目・源頼光(彼の弟の頼信が河内源氏の祖/源頼朝や武田信義の先祖)の子で、四代目頼国六男・源国房が、父が国司(国主)を務めた美濃国(岐阜県)に土着し、勢力を張った武士団で、この当時の棟梁は美濃源氏四代目の源光長(検非違使、左衛門尉)でした。

時忠は、この美濃源氏を味方につけることを清盛に提案しました。源光長は、以仁王の挙兵の際、検非違使別当(長官)だった時忠に従って、以仁王を捕縛するのに協力していました。このため、時忠にとっては、光長は親平家の源氏という認識を持っていました。

しかし、源氏と聞いただけで虫唾が走る清盛が簡単に承諾するはずがありませんでした。時忠の提案は却下されてしまいます。

ところがです。。。

西暦1180年(治承四年)11月17日、美濃源氏・源光長が反平家の兵を挙げました。さらに3日後には、美濃源氏に呼応して、隣国の近江国(滋賀県)で近江源氏(河内源氏義光流/甲斐源氏と同系/近江源氏佐々木氏とは別系統)の山本義経と柏木義兼兄弟が挙兵。

義経・義兼兄弟は、京から伊勢国(三重県)に向かう平氏の家人・藤原景家(富士川の合戦で侍大将を務めた伊藤忠清の兄)と郎党たちの一行を襲撃し、そこで打ち取った武士の首を勢多の唐橋(滋賀県大津市瀬田)に晒しました。

勢いに乗じた義経・義兼兄弟は自前の水軍をもって琵琶湖に検問を張り、勢多川一帯を封鎖北陸方面から京に入る食糧の補給路を断つことに成功します。

琵琶湖を完全に抑えた兄弟は、さらに勢多から京方面へと進軍し、ついに園城寺に入ってしまいます。
そう、あの仏教武闘派連合・園城寺&興福寺と結びついてしまったのです。

ただでさえ燻っていた僧兵たちの士気はもうMAX状態。園城寺&興福寺は近江源氏という新たな武器を手に入れ、ついには比叡山延暦寺を脅しにかかります。

「いつまでフラフラした態度とってんだよ!オラァ!」
「俺たちのバックにゃ源氏の兵力もいるんだ。もう怖えぇもんなんかねぇんだ!」
「いい加減に腹括れや!」

こんな感じで脅されたかどうかはわかりませんが、結果として延暦寺も園城寺&興福寺&近江源氏に合力することになってしまいました。

これにブチ切れたのが福原京の清盛でした。

以仁王の挙兵時に、これまでの後白河法皇の経緯(この当時の法皇は院政を停止され、軟禁状態)から反平家の旗を立てて、以仁王側についた三大仏教寺院が、またしてもバミューダトライアングルを結成し、さらに近江源氏という新たな力まで加えて、怒涛のごとく京に攻め込もうという勢いに、

「またか......また、あいつらか!......あのクソ坊主......どこまで我らに逆らえば気がすむのか!」

と烈火のごとく怒りまくりました。

平安京が賊に脅かされているということは、瞬く間に福原京の人々にも伝わり、徐々に公卿や朝廷の面々の中から平安京への還都運動が起き始め、ついには高倉院や平家一門の中からも意見が噴出し始めた現状を、清盛は無視できなくなっていました。

源氏の反乱、坊主どもの反乱、公家たちの平安京への恋慕......こういった小さな小さな軋轢が徐々に清盛の身体を蝕み始めていました。

「もういい!わかった!そんなに京に帰りたいなら、都を京へ戻せ!!」

西暦1180年(治承四年)11月23日、ついに清盛は福原京を捨て、平安京に還都することを発令します。

但し、それは清盛が本気で仏教勢力を叩き潰す意思の表れでもあったのです。

(つづく)
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2016年08月16日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(42)-金砂城の戦い-

西暦1180年(治承四年)10月20日、駿河国富士川で起きた源頼朝・武田信義連合軍VS平維盛による「富士川の合戦」は、戦わずしての平家側撤退により源氏側の勝利となりました。

敗れた平維盛は、侍大将・伊藤忠清ら50騎足らずで帰還しようとしますが、祖父・平清盛は福原への帰参を許さず、近江あたりに留め置かれました。それは戦わずして撤退した維盛に対する怒りもありましたが、実はこの頃、東国以外でも反平家活動が勃発していたのです。

同年9月、肥後(熊本県)の武士・菊池隆直は、阿蘇惟安、木原盛実らと共に九州で反平家の活動を起こしております。同月には紀伊(和歌山)熊野那智大社の権別当・湛増とその弟・湛覚の間で兄弟喧嘩が起き、平家が介入した結果、権別当・湛増に反平家の疑念を生んでいました。

そしてさらに追い討ちをかけるように、清盛の目の上のタンコブと言っていい、仏教武闘派勢力・園城寺&興福寺コンビが、ここぞとばかりに反平家の活動を活発にし始めていました。


一方、富士川の戦い後、鎌倉に凱旋し、東国武士の主として初の論功行賞を行った源頼朝は、平家本体の追討軍を戦わずして追い払った機運に乗じて、駿河・遠江(静岡県)から平家軍を追い払っている甲斐源氏の武田信義と協力し、西上して京に昇って平家を討つ考えでした。

ところが、三浦義澄、上総広常、千葉常胤ら、頼朝を主と仰いだ有力東国武士の面々頼朝の考えに賛同しませんでした。彼らは頼朝が西上しているうちに、背後の佐竹氏(常陸国<茨城>の有力武将)から鎌倉を攻められる危険があると言い出したのです。

佐竹氏とは、頼朝の5代前の河内源氏棟梁・八幡太郎(源義家)の弟、新羅三郎(源義光)の嫡男・源義業を祖とする常陸源氏の棟梁で、常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)を本拠としている有力な東国武士です。

しかし佐竹氏は、西暦1160年(平治元年)の平治の乱(頼朝の父・義朝が討たれた戦い)以後、平氏に従っていた関係上、当時の佐竹氏当主・佐竹隆義は、頼朝への協力を拒否し、反頼朝の旗印を掲げておりました。

義澄はともかく、広常や常胤らの軍勢を率いて頼朝の西上に従軍すれば、上総、下総両国が手薄になり、両氏の両国が佐竹隆義に真っ先に狙われるのは必定です。また今の頼朝にとって広常、常胤の軍勢は貴重な戦力であり、そんな危険がある中、十分な兵力を西上に割けるわけがないことは、頼朝も理解せねばなりませんでした。

ですが、どちらかというと、頼朝の都合というよりは、広常や常胤の領国を守るために「源氏の棟梁」という旗印を利用して佐竹氏の勢力を抑え込もうという両氏の策謀とも考えられます。

西暦1180年(治承四年)10月27日、頼朝は広常、常胤ら東国武士を引き連れ、佐竹氏を討つために鎌倉を出発し、11月4日、頼朝軍は常陸国府に入って作戦会議を立てました。

この時、佐竹氏当主・佐竹隆義は在京しており、本拠地を留守にしておりました。
留守を守っていたのは隆義の嫡男の佐竹義政とその弟・佐竹秀義であり、それを知った上総広常は、佐竹兄弟に対して会見を申し入れています。兄の義政は広常の誘いに応じましたが、秀義は「やることもあるのでちょっと難しい」と言って金砂城(茨城県常陸太田市上宮河内町)に入りました。

義政は広常と対面しましたが、広常が「二人だけで内密な話がしたいのだが」と矢立橋の上に誘うと、広常はそこで義政を殺害。供をしていた者たち全員が捕縛されてしまいます。

兄が広常にだまし討ちにされたことを知った秀義は、金砂城内に戦闘体制を整えて、頼朝軍を迎え撃つ準備を整えました。金砂城は天然の要害を利用した山城で攻撃がしにくく、また守るのは容易な城でした。しかし義政の死は、佐竹家中において少なからず動揺を与えました。

翌5日、頼朝は金砂城に総攻撃をかけますが、矢は山頂付近の砦には届かず、城からの落石攻撃はまともに喰らうで、城の防備は鉄壁。頼朝軍の犠牲は増える一方でした。

また鎌倉から出張っている頼朝には物資の補給も難しいため、長期戦に至れば、当主の佐竹隆義をはじめ、佐竹の縁者たちが援軍としてやってこないとも限りません。なので、頼朝軍には短期決戦の選択肢しかありませんでした。

頼朝は、上総広常を本陣に呼び出し、広常の「佐竹縁者」としてのツテで、城内から内応者を作れないかと相談しました。

広常は思案の末、秀義の叔父で、当主・隆義の弟・佐竹義季に目をつけました。それは、義季が理屈先行型で頭が切れる人間である反面、非常に強欲な性格を持っていたからです。

広常はなんとか義季に渡りをつけて

・頼朝にこれ以上反抗することは、下手すると佐竹氏の族滅につながりかねないこと
・頼朝は平家本体の追討軍を追い返し、いずれ東国の主となるべき人物であること
・頼朝に協力することは、佐竹氏の棟梁の座が兄から自分に転がりこむ可能性があること


などなど、ありったけの人参をぶら下げて義季を説得し、味方につけることに成功します。

5日深夜。義季は金砂城内から頼朝軍を城内へ手引きし、6日早朝、彼の道案内によって金砂城は弱点を突かれてあえなく落城。身内の裏切りにあった秀義は北の花園城(北茨城市/花園神社)へ無念の退却を余儀なくされてしまったのです。

頼朝は金砂城落城後、捕縛した佐竹家臣を斬首の刑に処するように命じました。その中に「岩瀬与一(岩瀬太郎)」という武勇高き武士がいることに気づき、刑場に向かう一群の足を止め、自分の近くに召しました。

「そなたほどの武士ならば潔く戦で死ぬべきものを、捕まって斬首を待つのは口惜しいことよな」

と尋ねると、与一は

「いいえ。全然。これから源氏が滅びゆく世の中の見ずに済むので、せいせいします」

と何一つ動じることなく答えると

「わしが滅びると申すのか?」

と頼朝は与一を睨みつけるように言うと、与一はせせら笑って

「はい。佐殿(頼朝)は源氏の棟梁。我が主・佐竹も佐殿と遠祖を同じとする源氏の一族。諸国の源氏が力を合わせて、平家に立ち向かねばならないときに、同族である佐竹氏を滅ぼすとはいかなるお考えでございましょうか?。このようなことを続けていれば、いずれ物の道理もわからない佐殿の御器量を訝しげ、必ず御身内から反抗する者が出てくることでしょう」

ここまで言った与一は、威儀を正して頼朝に向き直り

「源氏一族に仕えた某、そんな世の中を見たいとは思いませぬ!」

と頼朝を射抜くような目で直視し、力強い声で言上しました。
これで頼朝に従っていた武士たちは

「黙れ!下郎」
「とんでもない奴だ。引っ立ててさっさと首を刎ねよ!」


と与一を責めましたが、与一は全く臆することなく、じっと頼朝の瞳を見つめていました。
やがて与一は刑場へと引っ張られていきますが、頼朝は

「土肥次郎(実平)」

と側近の土肥実平に声をかけ

「あの者の斬首を取りやめよ」

と言いました。

「いや、しかし......佐殿を罵った男ですぞ」

「確かに罵った。見事にな。だがあの者の言うことは道理じゃ。道理に反することはやがて己に跳ね返る。わしはそうなりとうはない」

この言葉通り、岩瀬与一(太郎)は斬首を減ぜられ、鎌倉に連行されました。そして鎌倉幕府成立後に新たに制度化された「御家人」の一人として加わることになり、鎌倉市岩瀬一帯を所領として与えられることになります。また、この合戦で佐竹氏を裏切った佐竹義季も御家人に列しましたが、頼朝は主家を裏切った彼を良しと思わず、遠ざけました。

また頼朝は、花園城に追った佐竹秀義をさらに追討することを止め、ここから鎌倉に帰投していますが、奪った秀義の所領は上総広常や千葉常胤に与えられました。

佐竹氏の勢力が削減され、関東も一定の安定を見るかに思われましたが、世の中は急速に反平家へと動いていました。

(つづく)
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