2016年06月26日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(38)-富士川の合戦-

河内源氏棟梁・源頼朝甲斐源氏棟梁・武田信義が連合軍化したことは、富士川西岸に陣を張って軍勢を展開している平家方にも知れるところとなっていました。

ちなみにこの頃の富士川は現在の富士川とは異なり、富士の麓から田子の浦あたりに流れ注いでいたと言われています。現在の富士川は江戸時代に河川工事で流れを変えた結果のようです。

平家軍は平維盛を総大将、侍大将(副官)に伊藤忠清が付けられ、西暦1180年(治承四年)9月29日に京都を出発し、近江から東海道を経て富士川(静岡県富士市)に達しました。その間、諸国の武家を集め、その軍勢は7万騎と言われていますが、誇張が含まれていると思われるので、そこそこ半分の4万騎ぐらいだろうと思っていいでしょう。

その上、平家の知行国(領地)は西国が多く、遠い駿河国(静岡県)までの兵糧の補給は簡単ではないため、平家軍は戦う前から士気が落ち始めていました。

駿河国は、元々、橘遠茂という平家方の目代(代官)によって支配されていましたが、10月14日(11月3日)に富士山の麓で武田信義と交戦となって敗れ、橘遠茂が信義の捕虜となってしまったために、今の駿河国は信義の支配下に置かれていました。

さらに相模の大庭景親、伊豆の伊東祐親ら東国の平家方の軍勢は待てど暮らせど、合流してこないことから、戦の情勢を危ぶんだ諸国の武士に動揺が走り、脱走が後をたたず、10月20日の時点では1万騎に満たない状況だったと推定されます。

20日、武田信義は富士川に到達し、西岸に軍勢を展開している平家軍に対峙するように東岸に軍勢を展開していました。一方の頼朝は後方の賀島(静岡県富士市の東方)に着陣し、24日の矢合わせ(開戦)に備えました。

その日の夜、信義は開戦に備え、敵陣の偵察を安田義定(信義義弟)に命じました。
義定は手勢を率いて低姿勢で川の中に入り、生い繁る水草を隠れ蓑にして、平家の陣を伺いました。
そこには、土地の遊女と共に酒宴に浸りきってる平家軍の状況を垣間見ることができました。
そこからは、いわゆる「戦の緊張感」と呼ばれるものを感じ取ることができなかったのです。

いくら偵察とはいえ、望遠鏡もない時代、そこまではっきりわかるものではありませんが、士気を鼓舞するための酒宴と、そうではない酒宴は遠目から見てもわかるもの。義定はこの時点で自軍の勝利を確信しました。

義定としてはできることならこのまま夜襲をかけたいところでしたが、信義から命じられたのはあくまでも偵察任務のため、一旦、兵を退かせます。その時、複数の兵が川底の泥濘に足を取られてしまい、そのままバッタリ水面に倒れてしまったのです。

バシャーン!という大きな水音が複数響きました。夜も更けていたため、その音は対岸の平家軍にも気取られてしまいました。

(しまった!)

義定は兵たちの移動を止め、一層身を低くしてしばし止まるように命じました。そのうち何人かの兵は倒れた兵を抱えようとしましたが、これが再び泥濘に足を取られ、激しい水音が2つまた響いてしまったのです。

1つならともかく2つ、3つと水音がすれば、対岸の平家軍でも怪しみ始めます。
それまで平家の陣で行われていた酒宴が一時的に止まり、

「なんじゃ、あの音は」
「まさか、敵襲ではないか?」

数人がざわつきはじめていましたが、やがて

「そうじゃ.......夜襲じゃ。先制攻撃は源氏の十八番じゃ。う、右兵衛佐が、頼朝がせめてきたのじゃ!者ども出合え!出合え!」

と一人の兵が騒ぎ始めると、また一人、また一人と「源氏の夜襲じゃ!」と騒ぎはじめた。それまでくつろいで酒を飲んでいた兵や将は立ち上がり、陣内は慌ただしく動き始めました。

その中には酩酊した勢いで「おのれ、流人の分際で!」と叫びつつ、槍を振り回しながら川に入っていく者もありました。しかし、その水音が近くで休んでいた水鳥を刺激してしまい、平家の陣の近くの水鳥が一斉に飛び上がってしまったのです。

数百はあろうという水鳥が一斉に飛びだったその凄まじい羽音と鳴き声は、酩酊した兵を正気に醒ますには格好の音でした

「た、大軍じゃあ!源氏の大軍がすぐそこまできておるぞ!」

水鳥の飛び立ちが己の立てた水音で刺激されたことに気づかず、逆に闇に隠れた軍勢が迫ったために飛び立ったのだと勘違いしたのです。
川に入った兵たちは慌てて及び腰で陣に戻ると、もつれた足で篝火を倒してしまい、その火が陣幕に燃え移っていきました。

「源氏の大軍が来た!夜襲じゃ!」

兵たちは川から陸に上がるとそう触れまわりました。それは人づてにあっという間に広まり、先ほどの「夜襲」の話が「源氏の大軍の夜襲」の話にすり替わったのです。

驚いたのは対岸の義定たちでした。
彼らが無事に陸にあがった頃、大勢の水鳥たちが一斉に飛び立ち、そして平家軍で大声でわめいている者たちがいることだけはわかりましたが、何を叫んでいるかは義定たちにもわかりませんでした。


事の次第は平家の侍大将・伊藤忠清にも届きましたが

「夜襲じゃと?誰か源氏の軍勢を見た者がおるのか?」

と従者に尋ね、従者が

「兵たちによれば、大きな水音と水鳥の大軍が一気に飛び立ち、後方から源氏の鎧武者が現れたとのことです」

と答えると、忠清は「信じられん」と呟き、従者に「その場所に案内せい」と命じて陣幕を出ました。

しかし、平家の陣の中はもう手がつけられない混乱と化していました。身支度をして逃げ出そうとするもの、遊女の手を引いてどこかに行こうとするもの、馬の争奪戦など、そこにはもはや秩序というものがありませんでした。

急ぎ、忠清が岸に駆けつけてみると、そこには源氏の軍勢はおろか鎧武者の姿もなく、あるのは、轟々と音を立てて燃え盛る平家の陣幕のみでした。

「なんということだ。。。」

冷静であれば水音にも水鳥の羽音にも狼狽することなく、適切に対処できたと思われます。ですが、酒宴の最中で酩酊している兵がいる中、兵たちの中にある不安が水音や水鳥と結びついて「まだ見ぬ敵」を作り出し、結果として「不安」が「恐怖」に格上げされて、この混乱に至っていました。

本来、陣内での振る舞いは避けるものですが、下がり続ける士気を鼓舞するために、忠清が特別に許したものでありました。この事態において、忠清ができることは「速かなる撤退」でした。

「退却じゃと?」

忠清の報告を聞いた維盛はさすがに目を剥きました。ここに陣を張ってから一戦もせずに退却するなど、総大将には堪え難い屈辱であり、維盛の怒りは当然でした。

「兵たちの勘違いが発端とはもうせ、もはや将兵は混乱しており、逃げ出す者も多く、兵も馬も物資も殆ど残されておりません。このままこの陣に止まっても、戦える兵力は1000か500。数万騎と言われる源氏の軍勢相手では到底抗えません。さりとて、ここで伊予殿(維盛)の命を奪われるわけにはいきません。それではこの忠清の武士の一分が通りません。それゆえ、何卒、ここはお退きくださりませ」

忠清はあらん限りの言葉を尽くして維盛に退却を説きました。忠清の言葉には理があり、それを覆す弁舌を維盛は持ち得ませんでした。

平維盛は一戦もしないまま、富士川を後にし、遠江国まで撤退することになりました。
信義、頼朝は一戦することなく、平家本体の追討軍を敗退させてしまったのでした。

これが世に言う「富士川の合戦」と呼ばれる戦いであり、源氏が平家本体の軍勢と戦った初勝利だったのです。

(つづく)
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2016年06月25日

真田丸解体新書(8)その後の北条氏

先週(6/17) 放送の「真田丸」で小田原征伐が終わり、北条氏の滅亡がナレーションで語られていました。

ですが、ここでいう「滅亡」とは「関東に覇権を築いた独立勢力(戦国大名)としての北条氏」を意味するのであって、「大名としての北条氏」はちゃんと存続しています。歴史の授業ではこのあたりを全然フォローしないので、ここでちゃんと説明したいと思います。

というわけで今回のテーマは
「北条氏は永遠に不滅です!」です。


1、なぜ小田原征伐が起きたのか
小田原征伐の発端は、おおむねドラマ内で描かれた通りですが、ここでおさらいします。

西暦1585年(天正十三年)に関白・豊臣秀吉が関東・欧州の大名に向けて「おーい、戦争は止めなさい!」と命じたのを「惣無事令(そうぶじれい)」といいます。

ところが、関東地方を支配する大大名・北条氏(正確には御北條氏ですが、便宜上北条氏)の武将で、猪俣邦憲という人が信濃国の大名・真田昌幸の領土および持ち城である「名胡桃(なくるみ)城」を攻め落としました。

この時、秀吉は「関白」の地位にあり、天皇の政務を代行する地位にありました。よって秀吉の命令違反は、天皇に対する命令違反であり、この時点で北条氏は「朝敵」となり、秀吉の手によって小田原征伐が開始されました。


2、小田原征伐の流れ
小田原征伐の流れは次の通りです。

【豊臣主力部隊】
西暦1590年(天正十八年)3月27日、秀吉が静岡県沼津に到着。
軍議の結果、山中城(静岡県三島市)韮山城(静岡県伊豆の国市)の攻撃を決定。
翌28日、織田信雄ら44,000兵が韮山城を攻撃開始。29日、豊臣秀次・徳川家康ら70000兵が山中城を攻撃。半日で落城。同日、徳川家康は鷹之巣城(神奈川県箱根町)も落としました。

韮山城は包囲戦になったため、最小兵力だけ残して小田原方面に進軍し、途中4月1日に井伊直政(徳川家康家臣)が足柄城(静岡県と神奈川県の境、足柄峠付近)落城させ、同3日、小田原城へ到達しています。

小田原に到着後、秀吉は小田原城の南西にある笠懸山(神奈川県小田原市)に築城を開始。のべ4万人の人夫が80日間の土木工事の末、総石垣の城を築きました。

【北方軍】
前田利家を大将とし、上杉景勝、真田昌幸、松平康国らで構成される35,000兵は、上野国松井田城(群馬県安中市)を攻め、4月22日に開城させると上野国の諸城を次々と開城させ、主力部隊から徳川勢の一部が割かれて北方軍と合流したあとは、武蔵・下総国(東京都および千葉県内)の北条方の城を片っ端から落城、開城させていきました。


3、揺れる北条氏
小田原城の包囲したあとの秀吉は、淀殿千利休などを呼び、物見遊山の状況で相手が日干しになるのを待っていました。

一方の小田原城内では、城を討って出るのか、降伏かの議論が終わらず、いたずらに時間ばかりが経過していました。

籠城を2ヶ月を超え6月になると、北条方の支城の人質の一部が城から脱走する事件などが起きはじめます。
それはやがて北条氏重臣・松田憲秀その子・笠原政晴「豊臣方内通発覚」という事態に発展します(政晴は北条氏直によって成敗、憲秀は監禁)。

6月12日には隠居である北条氏政の生母・瑞渓院(今川義元の妹)継室(奥様)である鳳翔院が死去(自害と思われる)しており、城内においてなんらかの混乱が生じていることがわかります。

6月14日、北条氏の北関東の拠点である鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)が落城。北条氏邦が出家しました。
さらにその1週間後の6月23日、八王子城(東京都八王子市)落城による多数の首が小田原城に届けられ、城内の士気は一気に低下しました。

とどめが6月26日、小田原城の南西・笠懸山に突如登場した「石垣山一夜城」でした。
工事中、周辺の林をそのまま残して作業を行い、完成後一夜のうちに一気に伐採したため、小田原城からは、一夜で城ができたように見えたのです。

もはや小田原城には秀吉と戦う気力は残っていませんでした。それでも重臣達の評定が決することはありませんでした。


4、和睦への道
6月24日、韮山城主だった北条氏規徳川家康の説得を受け入れて城を開城し、小田原城に戻ってきました。

氏規は北条一族の中において情勢を見通す目を持っており、秀吉の九州征伐完了時に、しきりに氏政に上洛を薦め、自らも何回も上洛して戦の回避にあたっていた北条一族の外交担当でした。

氏規は、徳川家康より娘婿である氏直宛に託された「和睦の道を探るように」とのメッセージを伝えると、

「今からでも遅くはない、徳川家康を窓口に和睦交渉をするのだ!」

と氏直を説得。自らの副官に太田氏房(氏直弟)を付けて、7月1日より極秘の和睦交渉が開始されました。

日に日に開城されていく支城の数々から情勢から、時間をかけても北条氏に利するものは何もありませんでした。あるのは一刻も早い和睦のみ。氏規と家康との間で和睦の条件が整い、家康が秀吉に具申すると、秀吉は羽柴雄利(秀吉家臣/織田信雄家臣)を降伏の使者として小田原城に遣わしました。

7月5日、氏直は羽柴雄利の陣を訪問し、当主である自分が切腹するから城兵の命は助けてほしいと降伏を申し出ます。雄利から秀吉にその意志が伝えられました。

ここに関東に覇を打ち立てた北条氏は、豊臣秀吉に降伏しました。


5、仕置
秀吉は氏直が出した条件(自身の切腹)を認めず、今回の戦争の首謀者を、隠居である北条氏政とその弟で八王子城主である北条氏照と断罪しました。さらに家中の意見を統一できず、いたずらに戦争を長引かせたとして、北条家宿老・松田憲秀大道寺政繁の2名が責任を問われ、計4名の切腹が行われました。

松田憲秀は秀吉との内通疑惑で城内に監禁されており、また大道寺政繁は居城である松井田城で秀吉に降伏後、秀吉方の武将として忍城、鉢形城、八王子城攻めに積極的に戦闘に参加しておりました。

それでも切腹を命じられた背景は、憲秀の内通は北条氏を優位に導くための内通であり、秀吉に取り立てることを目的としたわけではなかったこと、また逆に政繁は旧主の恩を忘れて積極的に戦闘に参加した不忠者として罰されたと考えるべきかと思います。
(要するに利用するだけ利用して用済みになったらポイと捨てちゃった。。。ということ)


6、その後の北条氏
7月11日、氏政、氏照の両名が切腹した後の翌12日、秀吉は氏直に高野山への追放処分を申し渡しました。

秀吉は北条氏の所領を没収し、戦国大名としての北条氏を滅ぼしましたが、北条氏当主である氏直については、その命を助け、北条氏の一族ならびに家臣たちの同道も許し、相応の扶持を与えています。これは敗戦側の当主としては異例ともいえる厚遇であり、氏直が家康の娘婿であったとしても、破格な扱いです。

また家康も娘婿の手向けとして、氏直の直臣に印判状を与え、印判状持参のものは徳川家にて召し抱える旨を氏直に伝えたと言われます。

本来であれば、このまま流人として終わる氏直でしたが、翌西暦1591年(天正十九年)2月、秀吉から家康に「北条氏直赦免」の文書が発行されており、わずか半年たらずで罪を許されることになりました。

高野山追放時の厚遇から考えると、秀吉が行った氏直の仕置は、最初から氏直を許すことを想定した処分ではないかと思えてなりません。

5月には秀吉から旧織田信雄邸(信雄は小田原征伐の論功行賞による領地替えを拒否した為、取り潰された)を与えられ、8月19日には大坂城で秀吉と対面し、下野国(栃木県)に4000石の領地を賜って、北条家再興を果たしています。

見事、御家再興を果たした氏直でしたが、新領地の治政体制を整えている最中、疱瘡にかかり、同年11月4日病死しました。享年30と言われます。


7、大名として復活(狭山藩の立藩)
氏直には嫡子がいなかったため、叔父・氏規の子である氏盛が養子となって家督を継ぎ、氏直の遺領である下野4000石を相続しました。

しかし、西暦1600年(慶長五年)2月8日に実父・氏規が56歳で亡くなると、家康より氏規の遺領・河内国丹南郡7000石を相続するように命じられ、河内・下野合わせて1万1000石となり、大名に復帰します。関ヶ原の戦いでも東軍に味方したため本領安堵となり、幕藩体制下で狭山藩を立藩しました。

以後、北条氏は若干の石高の変更はあれど、幕末に至るまで狭山藩主としてその名を後世に残しています。

小田原征伐によって「戦国大名としての北条氏」は滅び、氏直は高野山に追放されたのは事実であり、学校の歴史の授業もそこまでしか伝えませんが、氏直は小田原征伐の翌年には許され、その子孫は近世大名(狭山藩)として江戸時代を生き抜いたのです。

北条氏は永遠に不滅であります(笑)
posted by さんたま at 19:09| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月19日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(37)-八幡太郎の導き-

西暦1180年(治承四年)10月18日、甲斐源氏棟梁・武田信義率いる2万騎は黄瀬川(神奈川県御殿場市)にて、河内源氏棟梁・源頼朝と合流。河内・甲斐源氏の軍勢はおよそ10万騎に膨れ上がっていました。

この時、北条時政・義時父子そして加藤光員・景廉兄弟は、約1ヶ月半ぶりに頼朝と再会をしました。
頼朝のもとには、石橋山の合戦後、時政嫡男・宗時の討ち死にのみが伝わり、時政、義時の生死は不明だったため、両氏が生きていたことを大層喜んだと言われております。

そして、頼朝は自らの口から、時政に宗時の死を伝えました。
時政の嫡男である宗時は、石橋山の合戦の折り、領地である北条庄を守ることを父・時政に命じられ、一人別行動を取っていました。その途中、伊東荘の領主である伊東祐親らに襲われ、その命を散らしました。

文武両道に秀でた宗時は申し分のない嫡男でした。ゆえにその死は次男であり、宗時の弟である義時の運命を大きく変えることになりました。

義時は学問好きで博識ではあるが、武勇においては宗時に大きく劣っていました。しかし、時政にとっては、もはや背には代えられず、以後、義時は北条氏嫡男としての道を歩むことを背負わされます。

頼朝と信義は協議の結果、10月24日を矢合わせ(開戦)と定めました。
これ以後、北条時政・義時父子、加藤光員・景廉兄弟は頼朝軍に従うことになります。

同日、信義は黄瀬川から富士川(静岡県富士市)に向けて軍を進めていたところ、相模方面から同じく西に向けて同じように進軍していた千騎の軍勢と遭遇しました。

源氏の軍勢ならば、頼朝の統制下にあるため、1部隊単体で西に向かおうとするはずがありません。
信義は、これが相模国の平家軍の一部ではないかと察知し、急ぎ軍勢を追いかけて名乗りを上げてみると、なんと石橋山の合戦で頼朝軍を壊滅させた大庭景親の軍勢だったのです。

信義はすぐさま隊列を立て直し、一定の距離をおいて景親の軍勢を威嚇しました。
景親の軍勢は千騎、信義の軍勢は2万騎です。石橋山では景親は3000騎、頼朝が300騎で10倍差でしたが、今回の差は20倍に膨れ上がっていました。

(まともにぶつかっては勝ち目はない)

そう悟った景親は、軍を西に進めるのを諦め、東に後退させました。
信義の軍勢がさらに追い討ちをかけて東へ進軍します。景親は信義の攻撃を防ぎながら退却する戦を余儀なくされました。

信義は景親軍を追いながら、北条時政に助勢を頼む伝令を送ると、駿河と相模の境まで景親軍を追いました。
あとから伝令を受けた時政の軍勢が信義の軍勢と合流し、以後、時政の軍勢が景親の軍勢を相模国に封じ込めることになります。

信義は景親を相模国に追った後、当初の予定どおり富士川に向かって再び進軍しました。

また、翌日19日には、伊豆国の平家方武将・伊東祐親・祐清父子が、船で駿河国に渡ろうとするところを、源氏の軍勢に取り押さえられ、囚われの身になっています。

これにて、石橋山の戦いで頼朝を散々苦しめた大庭景親・伊東祐親の両名は源氏に抑え込まれたことになります。

この2つの事象が2日連続で起きたことに、源頼朝も武田信義も「八幡太郎(源義家)のお導き」を感じざる得ませんでした。

平家・源氏の両軍の空気は、ますます緊迫の度合いを高めていました。

(つづく)
posted by さんたま at 23:59| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする