2015年09月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(12)-頼政決起-

西暦1180年(治承四年)5月21日 平時忠園城寺(三井寺)を取り囲んですでに一週間、事態が全く打開されない状況においてイライラが募っていた平清盛は、ついにそれを爆発させました。

「時忠のアホはいったいいつまでも何をしとるんじゃいっ!!」

怒った清盛は、自分の弟たちである平頼盛、教盛、経盛、さらに息子である知盛、重衡、加えて亡き重盛の忘れ形見である維盛、資盛、清経らに招集をかけ、平家の主力軍勢を率いて園城寺を攻撃しろという命令を下します。
そして清盛は、その大軍の総大将を、源頼政に命じたのです。

驚いたのは源頼政です。

(もしや、入道殿はすべてを知っていて、ワシを総大将として差し向けるのでは?)

と、頼政が思うのも無理はありません。

(ワシの決起は今ではない。今立つのは早すぎるのじゃ......)

頼政は以仁王の挙兵が都外に知られれば、令旨を受けた各地の源氏や地方武士が、続々と都に入るこむだろうと予想してました。平家はこれらの武士との応戦やむなしの状況になり、その時こそ自分が平家に刃を向ける時だと考えていました。

しかし、清盛の出撃命令は、その頼政の書いたシナリオを簡単に書き換えてしまったのです。

(しかし、このまま入道殿の出撃命令を拒めば、せっかく隠密に事を運んできたことがすべてが水の泡......)


同日夜、京六波羅の清盛の屋敷に平家の主力部隊が続々と詰め掛けてきました。しかし、そこに総大将の頼政の姿はありませんでした。そんな時、兵の一人が知盛に報告してきました。

「北の方角にて火の手が上がっております!」

六波羅の北といえば、頼政の屋敷のある方角でした。

頼政の身に何かあったのではと考えた知盛と重衡は、自分の手勢を率いて、火の方角に向かって馬を駆けさせると、火の手は近衛河原(現在の荒神橋東付近)にあった頼政の屋敷そのものから上がっていました。
頼政は自分の屋敷に火をかけ、一族と手勢を率いて以仁王の篭る園城寺に向かったのです。

その頃、六波羅の宗盛のところには、源行家が撒いたとされる「以仁王の令旨」の写しが届けられていました。

そこで初めて平家方は気づくのです。この以仁王の令旨が、頼政の息子・源仲綱あてにだされたものであることを。

もちろん、当の仲綱本人は自分の名前が使われているなんて夢にも思っていません。しかし頼政が自分の屋敷に火をかけて手勢もろとも園城寺に移動したことが、まぎれもない謀反の証拠になってしまったのです。

「おのれ!源三位頼政!長年の恩顧を忘れ、我に刃向かうとは!!」

清盛に新たな怒りが追加されました。以仁王の挙兵だけでなく、平氏政権において源氏の長老であり、重職である大内守護(御所の警備)を長年務め、源氏極冠の正四位を超えて従三位に叙任してやった源三位こと源頼政がまさか平家に刃向かうとは。
清盛にとってもまったくの想定外でした。

一方、以仁王は頼政の参戦を心の底から喜び、翌22日、頼政を園城寺に迎え入れましたが、率いていた手勢がわずが50騎前後だったことから「これだけか......」と嘆息し、落胆を隠せませんでした。

落胆する以仁王に頼政は
「戦は馬の数、兵の数では決まりません。それゆえ、用兵の法がありまする」
と答え、勇気付けると共に

(ここからは根比べよ。ワシの粘りが勝つか、平家の力が勝るかのな)

と決意を新たにしました。

同月23日、以仁王、頼政とその郎等、園城寺大衆(僧兵)をも含めた軍議が開かれました。

頼政は騎馬や兵の数、物資の物量に関しては平家方が圧倒的優勢であることから、正攻法では道が開けないことを主張しました。そのため、平家の主力軍勢が園城寺に向かっているスキをつき、逆に手薄の京六波羅の屋敷へ夜討ちを仕掛けることを提案しました。

しかし園城寺の大衆は後白河院の支持派であり、頼政の支持派ではありません。成り行き上、以仁王をかくまいましたが、できれば平氏とは穏便に事を収めたいというのが本音だったため、平家との間に本格的戦闘が開始されることをひどく恐れていました。
よって、園城寺大衆は頼政の夜討ち案に反対を表明します。

一方で、平家は園城寺に直接攻撃をかけるのではなく、現在、三位一体で連携して以仁王を守っている延暦寺、興福寺の大衆の切り崩し工作を始めます。元々「後白河院への忠誠」という看板でまとまっていた三寺でしたが、中でも平家シンパの比較的多い延暦寺は筋の通った信念を保持できず、24日、とうとう自ら兵を引いて平家へ恭順してしまったのです。

京の延暦寺が平家へ恭順をしたということは、以仁王軍が京へ駒を進める足かがりを失ったことになります。

そして平家軍の工作により、園城寺内にもやがて平家シンパが増えてくると、頼政は以仁王の身の安全を考え、25日夜、一族と手勢を率いて、奈良興福寺へ移動しました。

しかし以仁王は疲労の度合いが強く、行軍はなかなか思うように進まなかったため、宇治の平等院(平等院鳳凰堂)に逃げ込みました。

もちろんそれを見逃す平家軍ではありません。
ついに以仁王・頼政連合軍と平家主力軍勢が宇治川を挟んで対峙することになったのです。

(つづく)
ラベル:源平 京都
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2015年09月06日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(11)-陰謀発覚-

西暦1180年(治承四年)4月、平清盛によって伊豆国蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市付近)に配流されていた前の右兵衛佐・源頼朝の屋敷を訪れた源行家は、その後も東国(関東)や北陸の各地に土着した源氏や有力武士のもとを訪ね歩き、以仁王の令旨を触れ回る広報活動に従事していました。

しかし、これらの行動は5月に入り、ついに平家の知るところになります。

しかも平家に密告したのは熊野別当家当主・湛増(たんぞう)という人物で、行家の姉である鳥居禅尼の娘を妻としていました。つまり行家にとっては姪の旦那にあたる身内になります。

湛増は、八条院ワ子に呼び出された後の行家の行動が気になっており、密かに配下に探らせて、彼が以仁王の令旨をもって諸国の源氏や東国武士に声がけをしている事実をつかみました。

そして、それを確かめるために自らの手勢を率いて、熊野周辺に潜伏している源氏勢に攻撃を仕掛けたところ、以仁王の令旨を掲げて反撃してことから、湛増自身も令旨の存在を確信し、その内容を急ぎ平家に報告しました。
これは湛増の熊野別当の地位が平家によって保証されているものであり、父の頃から受けた平家の恩顧に答えた形であったと考えられます。

同年5月15日、湛増より報告を受けた平清盛は、嫡男宗盛に命じて高倉上皇に働きかけ、以仁王に源姓を与えて臣籍降下(天皇一族ではなく家来の位に落とされること)を決定させると、さらに謀反の罪で土佐国(高知県)への流罪に処すことを決定します。

間髪入れず、宗盛は検非違使別当(現在の京都府警本部長)の地位にあった叔父の平時忠に命じて、以仁王を逮捕する命令を出しました。時忠は検非違使庁(現在の京都市上京区近衛付近)にて部下の検非違使を集めて騎馬300兵揃えると、以仁王の屋敷である三条高倉邸(現在の京都市中京区菱屋、東片付近)へ向かいました。

集められた検非違使の中には源兼綱という者がいました。兼綱の父・源頼行は保元の戦いの後のドサクサで死に、その後は頼行の弟である源頼政(源三位)の養子をなっていました。

「以仁王逮捕」の命令が検非違使庁に下され、自分にも出動命令が出た兼綱は、養父頼政が数ヶ月前以仁王に呼び出されたことを思い出し「これは大事だ」と思い、咄嗟に養父頼政の元に使いを走らせました。

知らせを受けた頼政は事の次第がよく分からず、戸惑いつつも、以仁王に園城寺(三井寺)に移るようにとの使いを出しました。園城寺は以前より後白河法皇のシンパであり、反平氏のスタンスを取っていました。であれば、法皇の第三皇子である以仁王を拒みはしないだろうというのが、頼政の読みでした。


(以仁王様、やりおりましたな)


頼政の心中は「してやったり!」という思いでした。
皇位継承の道を断たれ、人生に絶望しかかっていた以仁王に、武士は都だけではなく全国規模で存在すること、反平氏の武士は都外に存在することなどを教えたのは他でもない頼政でした。その頼政の思い通りに以仁王は動き、そして今、平家がそれを殲滅しようとしているのです。

(火の手は上がった。あとはこれをもって諸国の源氏が挙兵して押し寄せ、最後に平氏政権の中枢にいるワシが兵が兵を挙げれば、都の軍事バランスは崩れる。。。)

これが頼政が仕掛けた人生最大の大バクチでした。
平氏政権の中枢にて源氏として初めて公卿となり、従三位の極官に昇った自分が、摂津源氏の棟梁、そして源氏の長老として最後になさなければならないことは何かをずっと考えた結果、それが源氏一族への詫びと源氏再興の契機を作ることという結論に達したのです。

以仁王は謀反発覚に狼狽しつつも、頼政の助言通り、三条高倉の屋敷を抜け出し、園城寺へ無事移動しました。

翌16日、平時忠率いる検非違使軍も進軍先を園城寺に変え、寺を包囲し、以仁王を引き渡すように勧告しましたが、園城寺は断固拒否の姿勢を崩しませんでした。

以仁王は園城寺の僧兵に守られながら、興福寺と延暦寺にも同心する書状を送りました。これはかつて両寺院が、園城寺と共に鳥羽殿に幽閉されていた後白河法皇を誘拐する計画をたてており、自分は後白河法皇の第三皇子であり、法皇の意思を継ぐ者であると主張していたため、自分に同心するはずだという確信があったからでした。

一方で、検非違使軍を率いる司令長官である検非違使別当・平時忠は、京都市中の警察・司法を司る地位ではありますが、当時の寺社は一定の武力を保持する勢力でもあったため、騎馬300騎ではどうにもこうにも手が出せず、戦線は膠着状態が続きました。

1日経ち、3日経ち、いつまでたっても時忠からの報告は宗盛や清盛には来ませんでした。
そして4日経ったある日、清盛はついに怒りを爆発させます。

(つづく)
ラベル:鎌倉 源平 京都
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2015年09月05日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(10)-頼朝と行家-

西暦1180年(治承四年)、後白河法皇の第三皇子である以仁王は、八条院ワ子の命を受けた新宮十郎義盛(以下、源行家)と共謀して、自らを最勝親王と称した命令書(「令旨」)を作り、行家に持たせて諸国の源氏や有力武士に回らせました。

行家は、先の平治の戦いで敗れて討たれた源氏の棟梁、源義朝の遺児、前の右兵衛佐頼朝を探し出し、伊豆国の蛭ヶ小島を訪れて最勝親王(以仁王)の令旨を読み上げると、頼朝には、ボロボロと涙を落としはじめたのでした。

「佐殿、いかがなされた?」

最勝親王(以仁王)の令旨を読み上げて、再び封書に収めて、頼朝に差し出した行家は、ボロボロと涙を落としている頼朝にギョッとしました。頼朝は涙と嗚咽を堪えながらゆっくり喋り始めました。

「取り乱してしまいまして、申し訳ございませぬ。父義朝の死より早20年。畏れ多くも親王様の令旨を流人の某がお受けする時が来ようとは......身に余る光栄に存じまする。」

「そうよのう。播磨守(義朝)殿が亡くなられてから今日まで、そなたは厳重なる平氏の監視下におかれておった。だがそのような忍従の日々はもう終わりなのじゃよ。佐殿」

行家は頼朝の無念の思いに気遣いを見せながら、その手を取って言いました。

「いまこそ、我ら源氏の再興の時ぞ。親王様からのこの令旨、ありがたく頂戴せよ」

しかし、頼朝はいままで垂れていた頭を上げ
「しかしながら叔父上、某はこの令旨をお受けできませぬ」
と涙ながらに言いました。

「なんじゃと?」
それまで頼朝の手をとって満面の笑みを浮かべていた行家の顔が瞬時に真顔に変わりました。
頼朝は涙と嗚咽を、ひとしきり腹の中に収めこむと

「叔父上もご存知かと思われますが、某は相国入道様のお慈悲によってその命を助けられ、この地に流されました」

「存じておる。それゆえこうして伊豆まで参ったのじゃ」

「であれば、某にとって、相国入道様は命の恩人にござる。畏れ多くも親王様の令旨ではございますが、某にとって命の恩人を討つ計画に加担することはできませぬ」

この言葉に行家は唖然としましたが、すぐに

「待たれよ。そなたは父の仇を討ちとうはないのか?」

とたたみかけました。しかし頼朝は

「父の仇は、長田壱岐守にござる。相国入道ではございませぬ」

と即答し、再び行家を唖然とさせました。

頼朝の父、源義朝は、平治の戦で平清盛に敗北し、勢力を回復させるため東国に逃亡しました。その途中、尾張国(愛知県)で自分の郎党・鎌田政清の舅である長田忠致の館に一夜の宿を借りた際、裏切りにあってその地で殺害されました。
よって頼朝の言っていることは間違いではありません。頼朝の父義朝を殺害したのは、長田忠致(後に壱岐守に任官)です。

ですが、行家にとっては

(義朝殿が敗れたのは、清盛が策謀をもって後白河上皇と二条天皇を味方につけ、義朝殿に賊軍の汚名を着せられたからではないか。であれば清盛こそが父の仇と考えて当然のはず。それをこのような了見の狭いことを申すとは.......)

という考えでしたので、頼朝の言っていることは幼稚な屁理屈としか思えませんでした。

「佐殿。そなたは播磨守義朝殿の嫡男、我ら源氏の棟梁ぞ。その源氏の棟梁にありがたくも最勝親王様の令旨が下された。これに従わないということは朝敵ということ、それはお分かりか?」

行家の問いに頼朝は満面の笑みで
「お気遣いありがたく存じまする。されどその心配は無用でござる」
と答えました。

行家が不審に思うと、頼朝は
「某は官位を剥奪され、今もなお、朝敵にござる」
と言葉を続けました。

「あ.......」

これには行家も一本取られました。
頼朝はさらに言葉を続けます。

「仮に叔父上の申す通り、畏れ多くも最勝親王様の令旨をお受けして挙兵に及んだとしても、領地も兵も持たない某に、いったい何ほどの働きができましょうや?」

「そんなことはない。そなたが立てば、かつて播磨守殿とよしみのあった東国武士が次々と......」

「立つかどうかはわかりますまい」
行家の言葉を頼朝が遮りました。

「某は源氏の棟梁の嫡男でござる。己が置かれている立場、その宿命、重々承知してござる。であればこそ、人様がお膳立てされた戦の神輿になろうとは思いませぬ」

「人様とは親王様のことか?」

「滅相もない。親王様が平家討伐を命じられた前伊豆守源仲綱殿、そして叔父上、あなたでございます」
頼朝はまたニッコリのと微笑みました。

「佐殿、無礼であろう!」
行家は語気を荒げました。

「言葉が過ぎたるは何卒お許しを。さりながら今の某にできることと言えば、兵を集めることでも、東国武士に檄を飛ばすことでもござりませぬ。この令旨を見なかったことにし、そして叔父上を無事蛭ヶ小島よりお送りすることぐらいでございます」

「そなた、それでも亡き播磨守殿の嫡男か!」
行家は激昂して立ち上がって吐き捨てるように言うと

「これが、流人としてのこの地で生き抜いていくための某のやり方でござる。これは、たとえ叔父上であっても口出しされとうはございませぬ」
頼朝も立ち上がって言い返しました。
その目は凄まじい眼光を宿しており、怒りのオーラが全身がほとばしっておりました。

「藤九郎」
「はっ」
「すまぬが、叔父上を無事に蛭ヶ小島からお送りいたせ」
「承知いたしました」

頼朝は行家の目をずっと凝視したまま、目を移さずに盛長に行家の供を命じました。
「では、叔父上、道中お気をつけて」
頼朝はまたニッコリと笑顔に戻り、その場に座って手を床につけ、平伏しました。

「さても残念なことかな.......それがしの見込み違いでござったわ」
行家はそう言い捨てると、盛長の先導に従って、座を後にしました。

一人、座に残った頼朝は行家の姿が見えなくなると、身を起こし
「これでよいのであろう、三郎?」
と声を上げると、次の間がスッと開いて、一人の若武者が現れました。

「気付かれていたのですか」
「なんだ、三郎だと思ったが、小四郎だったのか」

小四郎と呼ばれた者は十五歳前後の端正な顔立ちの凛々しい若武者で、頼朝の妻、政子の弟・北条義時と言います。三郎というのは小四郎と政子の兄で、北条家の嫡男、北条宗時のことです。

先ほど、盛長が舅の北条時政に行家の来訪を伝え、その時政の命令で頼朝を次の間で見張っていたのでした。

「聞いてるうちは内心ヒヤヒヤものでしたが、うまく追い払われたようですね」
義時はそう言いながら、頼朝の側に来て座りました。
頼朝は苦笑しながらも

「当たり前だ。あんな令旨にホイホイ乗ってたまるか。だいたい儂には領地も兵もないのは本当だからな」
と言いながら、その場に横になりました。

「佐殿にその気があれば、我が北条が力になると、父も申していたでしょう」

「それはダメだ。さっきも言っただろう?他人に担がれる神輿としての戦いは好まん」

「それが、たとえミカドの命令であってもですか?」

「そうだ。儂はすでに朝敵だ。院の命令だろうとミカドの命令だろうと、恐れるものはなにもない。そう考えると朝敵というのも考え方によっては悪くないな」

「そういうものですか......」

義時がそう言いながら立ち上がって自邸に帰ろうとすると、

「ああ、小四郎」
頼朝が起き上がってと声をかけました。

「舅殿と三郎に伝えておけ。行家殿には構うなとな。追っ手を繰り出して命を取ろうとかするでないぞ」

「平家への謀反を企ててる張本人を見逃せとおっしゃるのですか?」

「そうだ。あの令旨がどこまで広がっていき、誰がどういう行動を起こすのか見物したいのでな」

「悪趣味な」

「そう言うな。場合によってはあの令旨で世の中が動くかもしれんぞ」

「ありえませんね。そんなこと」

「先のことなど、誰にも分からんよ。じゃあ頼んだぞ」

そう言って、また横にゴロンとなると、義時は呆気とられながら屋敷を出て行きました。
ただ、頼朝の目には体の奥底から滾る何かがフツフツと湧き上がってきて、その小さな火を灯し始めていたのです。

(つづく)
ラベル:鎌倉 伊東 北条 源平
posted by さんたま at 15:56| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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