2015年07月05日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(2)-清盛、天皇家を手中に収める-

3、清盛、天皇家を手中に収める
「鹿ヶ谷の陰謀」の翌年である西暦1178年(治承二年)11月12日、時の帝(ミカド)である高倉天皇に第一皇子が誕生しました。

高倉天皇は後白河法皇の子ですが、母は平清盛の義妹・建春門院滋子でした。滋子を寵愛していた法皇は、滋子存命中は清盛と共に協調路線を取り、高倉天皇の治世の安定化を支持しておりました。

しかし高倉天皇が成人すると「お父さんは隠居して♪」と、天皇が自分自身で政治を行う意思を見せ始めた為、なおも院政継続を願う法皇と意見が合わなくなっていました。

その最中にご寵愛の滋子が亡くなったため、法皇は高倉天皇のバックにいる外戚(天皇の親戚)である平家に警戒を示していましたが、その高倉天皇にも弱点がありました。それは「跡継ぎとなると皇子がいない」ということでした。

後白河法皇は、この弱点を以て、院政を行う「治天の君」として、いつでも高倉天皇を廃位に持ち込めると考えていたのです。

しかし、高倉天皇に皇子が誕生したことにより、後に高倉天皇がこの生まれて来た皇子に皇位を譲られると、高倉天皇が上皇として院政を敷くことになり、現在院政を行っている後白河法皇は有無を言わさず院政停止に追い込まれることが確実になりました。

そうなれば、天皇家の外戚としての平家の影響力が過大化することなるため、この皇子誕生の知らせは、後白河法皇にとっては我が孫の誕生ではあるが、悪しき報せに他成りませんでした。

一方で「やったぁ〜♪」と喜んではしゃぎまくっていたのは清盛です。

清盛は早速後白河法皇に対し「この皇子を皇太子とされよ」と法皇に強要し、法皇は、当時右大臣を務めていた九条兼実の賛同を以て、渋々これに「 OK」を出します。

次に清盛は後白河法皇に対し、まだ生後一ヶ月の乳飲み子にすぎない皇子に対し「親王宣旨を下せ」と強要。「言仁(ときひと)」と名付けられた皇子は同年12月15日、立太子の礼が執り行われ、高倉天皇の皇太子となりました。

この時の清盛の嬉しさは頂点に達したと思われます。
自分の甥っ子が天皇。そしてその子が皇太子。この事実は、この後も平家一族の血を引く天皇が続くということに他ならず、平家一門の繁栄は永遠となることが約束されたようなものだからです。

清盛の親バカならぬ、叔父バカっぷりは、これで終わりませんでした。傅役である東宮傅はもちろん、言仁親王の住まいである春宮坊などの役職は、すべて親平家の公卿、または平家一門の者によって固められ、言仁親王の周辺から後白河法皇の関係者は完全に締め出しをくらったのです。

これは、清盛なりの後白河法皇への先の「鹿ヶ谷の陰謀」の報復行為だったのかもしれません。

これに対し、先の「鹿ヶ谷の陰謀」によって、有力なる院の近臣を失った後白河法皇はほぼ無力であり、そして平家への警戒心を募らせていきました。

「いつか見ておれ......」

そう言いながら歯を食いしばっていたのです。

(つづく)
ラベル:鎌倉 源平 京都
posted by さんたま at 17:14| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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