2015年07月12日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(3)-後白河法皇の反撃-

西暦 1179年(治承三年)6月17日、先の関白・近衛(藤原)基実の未亡人で、夫の死後、近衛家の家長を務めていた平盛子(清盛の娘)が病で亡くなりました。

当時の藤原摂関家は、西暦1156年(保元元年)7月に起きた後白河天皇(当時)とその兄である崇徳上皇(当時)の戦い(保元の乱)により、その勢力を激減させていました。この時、平家の棟梁である平清盛は摂関家を自分の味方にすべく、西暦 1164年(長寛二年)4月、自分の娘でわずか九歳の盛子を、時の関白であり、摂関家の筆頭である近衛家当主・近衛基実(二十二歳)に輿入れさせました。

これは摂関家の武力を平家がバックアップするという証と共に、平家が摂関家を取り込む計画でした。

しかし、基実はその二年後の西暦1166年(永万二年)に死去。盛子はたった十一歳で未亡人となってしまいます。基実の跡取りである近衛基通はまだ元服もしていない七歳の子供で官位も持たず、とても摂関家の家督を継げる状態ではありませんでした。

一方で、清盛としてもここで摂関家の縁を断たれると、摂関家を取り込む自らの野望が水の泡になってしまいます。清盛はこの時、自らの野望を継続させるべく、摂関家の家人と連携し、基通が成人するまでの間、弟である松殿基房を中継ぎとし、遺領は未亡人である盛子が継ぐように調整したのです。

その盛子が亡くなって、またしても清盛は計画を変更せざるえなくなりました。清盛は亡き基実の息子である基通に摂関家の家督を継がせ、広大なる近衛家の領地の管理を引き続き平家が独占することで、権勢の保持を企んでいました。

しかし、この時点での基通の官位は「正三位 右近衛中将」(内裏東側の警備副隊長)。参議でもない基通が、「従一位 関白」で藤原氏の氏長者(一族筆頭)に君臨する松殿基房に対抗できるはずもなく、このままでは盛子の遺領はすべて基房のものになってしまうのは必定でした。

考えに考えた清盛は、亡き盛子が高倉天皇の准母(母親のようなもの)であったことに目を付け、後白河院の院庁別当(後白河院の最高執行責任者)である中山忠能あてに、

「盛子亡き後の近衛家の領地は、ぜーんぶは天皇の領地とするように、法皇様にお願いしてね♪」

と願い出ました。
近衛家の領地を天皇家の領地にすることで誰も手出しができぬようにし、基通が関白・藤氏長者になるまでの時間稼ぎ的な対応でした。

この時代、天皇家の所領の管理はすべて院庁が行っておりました。それは院が天皇家の後見役として存在意義を持ち、かつ院こそが天皇家の家長であったからです。よって、清盛が中山忠能宛にこのような願いをするのは当然の成り行きでした。

法皇は、かつて先の関白・近衛基実が亡くなった際、夫の遺領を盛子に継がせることを承認したことから、清盛からの申し出も別段問題はないかと思って「良きに計らえ」とするところ、中継ぎの関白となっていた松殿基房(近衛基実の弟、盛子の義弟)「藤原家の氏長者である自分こそが、近衛家の領地相続権を持っている」と法皇に訴えてきました。

「そない言うたかて……」

法皇は、盛子が高倉天皇の准母であったという清盛の言い分には道理が通っていると思いました。一方で基房は基通が成人するまでの中継ぎで今の関白の地位にあるので、基房の訴えを退けようと思いましたが、基房が藤氏長者(藤原摂関家のトップ)の地位にあるのもまた事実であり、正直、困惑してしまいました。

「待てよ......」

法皇はここで気づきました。天皇家の領地は法皇である自分(院庁)が差配できることを。ということは......

「ここで一矢、報いてみるか……清盛がどうでるか」

と法皇はほくそ笑みました。

法皇は、盛子の遺領(近衛家の領地)を清盛の言う通り天皇家のものに組み込むと、後白河院の近臣に命じて、これを後白河院の管理下に起きました。一旦天皇家の領地としたからには、これをどう差配するのかは、天皇家の家長としての院に権限があり、その結果、近衛家の領地の管理を後白河院が行うと宣言したのです。

これは「鹿ヶ谷の陰謀」「言仁親王立太子」などで清盛に煮湯を飲まされた法皇の意趣返しでした。

「これでどう出る、清盛?」

しかし、法皇の思惑は外れました。
この件に関して、清盛は特に何の行動も起こしませんでした。ただ、じっと静観を決め込んでいたわけではなりません。清盛も法皇の真意を、その肚を探っていたのです。

(つづく)
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2015年07月05日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(2)-清盛、天皇家を手中に収める-

3、清盛、天皇家を手中に収める
「鹿ヶ谷の陰謀」の翌年である西暦1178年(治承二年)11月12日、時の帝(ミカド)である高倉天皇に第一皇子が誕生しました。

高倉天皇は後白河法皇の子ですが、母は平清盛の義妹・建春門院滋子でした。滋子を寵愛していた法皇は、滋子存命中は清盛と共に協調路線を取り、高倉天皇の治世の安定化を支持しておりました。

しかし高倉天皇が成人すると「お父さんは隠居して♪」と、天皇が自分自身で政治を行う意思を見せ始めた為、なおも院政継続を願う法皇と意見が合わなくなっていました。

その最中にご寵愛の滋子が亡くなったため、法皇は高倉天皇のバックにいる外戚(天皇の親戚)である平家に警戒を示していましたが、その高倉天皇にも弱点がありました。それは「跡継ぎとなると皇子がいない」ということでした。

後白河法皇は、この弱点を以て、院政を行う「治天の君」として、いつでも高倉天皇を廃位に持ち込めると考えていたのです。

しかし、高倉天皇に皇子が誕生したことにより、後に高倉天皇がこの生まれて来た皇子に皇位を譲られると、高倉天皇が上皇として院政を敷くことになり、現在院政を行っている後白河法皇は有無を言わさず院政停止に追い込まれることが確実になりました。

そうなれば、天皇家の外戚としての平家の影響力が過大化することなるため、この皇子誕生の知らせは、後白河法皇にとっては我が孫の誕生ではあるが、悪しき報せに他成りませんでした。

一方で「やったぁ〜♪」と喜んではしゃぎまくっていたのは清盛です。

清盛は早速後白河法皇に対し「この皇子を皇太子とされよ」と法皇に強要し、法皇は、当時右大臣を務めていた九条兼実の賛同を以て、渋々これに「 OK」を出します。

次に清盛は後白河法皇に対し、まだ生後一ヶ月の乳飲み子にすぎない皇子に対し「親王宣旨を下せ」と強要。「言仁(ときひと)」と名付けられた皇子は同年12月15日、立太子の礼が執り行われ、高倉天皇の皇太子となりました。

この時の清盛の嬉しさは頂点に達したと思われます。
自分の甥っ子が天皇。そしてその子が皇太子。この事実は、この後も平家一族の血を引く天皇が続くということに他ならず、平家一門の繁栄は永遠となることが約束されたようなものだからです。

清盛の親バカならぬ、叔父バカっぷりは、これで終わりませんでした。傅役である東宮傅はもちろん、言仁親王の住まいである春宮坊などの役職は、すべて親平家の公卿、または平家一門の者によって固められ、言仁親王の周辺から後白河法皇の関係者は完全に締め出しをくらったのです。

これは、清盛なりの後白河法皇への先の「鹿ヶ谷の陰謀」の報復行為だったのかもしれません。

これに対し、先の「鹿ヶ谷の陰謀」によって、有力なる院の近臣を失った後白河法皇はほぼ無力であり、そして平家への警戒心を募らせていきました。

「いつか見ておれ......」

そう言いながら歯を食いしばっていたのです。

(つづく)
ラベル:京都 源平 鎌倉
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2015年07月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(1)-平清盛と後白河法皇-

「いい国作ろう鎌倉幕府」とは、歴史の授業の年号の覚え方で鎌倉幕府の成立年(西暦1192年)の語呂合わせです。皆さんも耳に覚えがあると思います。これは鎌倉幕府を作った源頼朝さんが征夷大将軍という位に任ぜられた年です。

しかし最近の教科書では、これより 1192年よりも7年程遡って、朝廷(天皇)から日本の各地に守護(県警本部長のようなもの)地頭(県知事のようなもの)を置いても良いよと言われた西暦1185年をもって、鎌倉幕府の成立とされているようで、語呂合わせも「いい箱(はこ)つくろう鎌倉幕府」となってるようです。

日本で最初の朝廷とは切り離された公式の独立武家政権と言われた鎌倉幕府ですが、その成立過程においては、まさに昼ドラも真っ青のドロドロのドラマの積み重ねが繰り広げられておりました。

今回はそれを語っていきたいと思います。

1、平家の台頭
西暦1159年(平治元年)12月9日、当時日本のトップである「治天の君」と言われていた後白河上皇の近臣と、上皇の子で「時の帝(ミカド)」である二条天皇の近臣の間で戦争が起きました。世に言う「平治の乱」です。

近臣同士の戦いの結果、なんと両方とも共倒れとなりまして、最終的な勝者となったのは、二条天皇をうまく抱き込んで「官軍」と化した武家・平家の棟梁・平清盛でした。

この乱において「賊軍」とされ、平家と並ぶ武家で、源氏の棟梁であった源義朝は、東国へ逃亡中に家臣に殺害され、長男義平は捕縛されて斬首。二男朝長も戦いの傷の悪化で死亡。三男頼朝だけが、清盛の継母・池禅尼の命乞いにより伊豆に流罪で生き残りました。

翌年、清盛は「正四位下 太宰大弐(太宰府の次官)」から「正四位上」と「従三位」を飛び越えて一気に「正三位 参議兼右兵衛督(次官兼内裏の警備長官)」に補任されました。武士として初めて参議に列したのは、この平清盛です。ここから清盛の官位はトントン拍子に上がり、7年後の西暦 1167年(仁安二年)には太政大臣(現在の総理大臣)にまで昇りました。

この頃までに、清盛の子弟や一族は、ほぼ朝廷の殿上人(エラい人)になっており、この後の平家の権勢は、最終的に天皇家すらも左右する力を持つに至ります。


2、鹿ヶ谷の陰謀
西暦1176年(安元二年)7月、後白河法皇のご寵愛の建春門院滋子(清盛の正室・時子の妹)が病死しました。滋子は平家と後白河院との間の仲立ちと調整役であったため、彼女の死後、清盛と後白河法皇の間にさざ波が生じます。

後白河法皇は自分の息子でありながら、父に従順ではない二条天皇の系統を嫌い、二条天皇の子である六条天皇をわずか五歳で廃位させました。代わりに滋子との間にできた憲仁親王を即位させて「高倉天皇」としたのです。

一方、清盛も滋子を後白河法皇に嫁がせた目的は、その皇子を天皇の位に付けることで「外戚」(天皇の親族)となることを目論み、それによる一層の平家の権力強化を狙っていました。

従って、この時まで後白河法皇と清盛は「高倉天皇の擁立と安定した政権運営」という共通の目的がありました。しかし成人した高倉天皇は「これから先は僕一人でやるから、お父さんは隠居して」とニッコリしながら言われ、後白河院の院政停止を望んでいました。高倉天皇の後ろには平家がいる以上、それは、後白河法皇にとって「政権を名実ともに外戚である平家に奪われる」というピンチに他成りませんでした。

後白河法皇とその息子である高倉天皇の間には微妙な空気が流れており、その調整にあたっていた母親である滋子の死は、後白河法皇と平家との関係が切れたという事実だけではなく、後白河法皇が平家の権力の押さえ込みを考え始めた時期でもありました。

翌西暦1177年(安元三年)6月、後白河法皇は、昔の自分の腹心で、先の平治の乱で死んだ信西の子・静賢法印が主を務める東山の鹿ヶ谷山荘に行幸しました。山荘には藤原成親、西光、俊寛ら院の近臣が集まっており、当時の朝廷を悩ませていた比叡山延暦寺の僧兵対策の打ち合せが行われました。しかし、これが平家を打倒するための打ち合せと見なされました。世に言う「鹿ヶ谷の陰謀」です。

この内容は、この場に呼び出されたと言われている多田行綱という北面の武士(院の警備隊長)から清盛に密告されました、それを知り烈火のごとく怒った清盛は、関わった者全員の官職をクビにして、斬首または島流しに処しました。ただ後白河法皇に対してはなんら問題にすることはありませんでした。

院の近臣が平家打倒を企てたと言われるこの事件ですが、清盛と後白河法皇の間に冷ややかな空気が漂っていたとはいえ、後白河院に平家を滅ぼす密議を凝らす必然性も緊急性もありません。よって最近では、これは平家のでっち上げではなかったという説があります。

いずれにしても後白河法皇は、この事件の影響で自分の側近である「院の近臣」の殆どを失いました。
これは後白河法皇の政治的影響力の著しい低下に他なりませんでした。

(つづく)
ラベル:京都 源平 鎌倉
posted by さんたま at 21:48| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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