2015年07月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(6)-以仁王と源三位頼政-

西暦1180年(治承四年)2月、高倉上皇安徳天皇を奉じて高倉院政を開始しました。

しかし、これまで院政を行ってきた後白河院を支持していた興福寺園城寺らの寺社勢力は「ふざけんじゃねぇぇぇっ!」と、あからさまに平家に対し反抗的な態度を取り、それは平家派の延暦寺にまで飛び火し、後白河法皇を奪回しようと、法皇が幽閉されている鳥羽殿に押し掛けようとまでしていました。

この騒動は平清盛の次男であり、宗家嫡男の地位にあった平宗盛によって沈静化させられますが、事態を重く見た高倉上皇と清盛は、今後も同じようなことが起きた場合の対策として、後白河法皇を鳥羽殿から八条坊門烏丸邸に移し、幽閉状態から軟禁状態に移行させました。

これにより、興福寺や園城寺、延暦寺などの寺社勢力の平家への反発を一時的に押さえ込むことに成功します。朝廷を手中におさめた平家ですが、公家以上にやっかいだったのが寺社のコントロールであることを思い知ったのです。

ところで、後白河法皇には皇位を継いだ高倉上皇以外に、第三皇子として以仁王(もちひとおう)という人がいました。

以仁王は高倉上皇のお兄さんにあたる人なので、当然皇位継承候補でしたが、母親が藤原家閑院流の出身で、平家の人間ではなかったため、平滋子(建春門院)に疎まれ、最終的に滋子の子である憲仁親王(高倉上皇)が皇位を継ぐことになったわけです。

以仁王は、平家一門と縁がないというだけで皇族内からも疎まれ、親王宣下をもされず、不遇の時代を過ごしておりました。今だったらグレて問題児になってそうです。しかし、そんなヤサグレ王を猶子として引き取り、面倒を見ていたのが、後白河法皇の異母妹である八条院ワ子(あきこ)でした。

八条院ワ子は、後白河法皇の異母妹です。
父である鳥羽法皇ならびに母である美福門院得子の両方の領地(全国に百数十箇所)を相続した結果、広大な天皇家の領地の一角を占め、個人としての財力と権力は天皇家内においても無視できぬほど強大でありました。

王は八条院ワ子の猶子となり、高倉天皇後の皇位継承を望んでいたものの、平家の策略により安徳天皇が立てられたため、皇位継承の望みが完全に絶たれてしまったのです。このことから以仁王の平家への恨みは並々成らぬものがありました。

また、院庁、天皇家、摂関家を支配し、朝廷を意のままに操る平家一門の中において、ひとりだけ心穏やかならない方がおられました。源頼政(みなもとのよりまさ)という人です。

その姓の通り、頼政は摂津源氏の出身で、大内守護(宮中警備)を役目として仰せつかっておりました。頼政はかつての保元の乱、平治の乱で勝者側である平清盛につき、源氏でありながら平氏政権の一角を担うポジションにいました。その恩恵として、源氏としては初めて従三位の位に昇ったのです。

朝廷の官位の「正四位」「従三位」の間には大きな隔たりがありました。それは従三位以上こそが上級貴族として扱われ、なおかつ正四位で参議の地位にあるもの又は従三位の地位にあるものを「公卿」と呼び、国家高官の証だったからです。

特に頼政の従三位昇進は源氏はじまって以来のことであり、敬意を込めて「源三位(げんさんみ)」と呼ばれたほどでした。

しかし、いかに恩があるといえども、所詮栄達は平家一門のもの。源氏である頼政は平家一門より格下に見られ、またなおかつ平家一門の風下に立たされ苦渋を舐めることもあり、それが清盛だけでなく、清盛の子弟までにも及び始めると頼政自身、色々と考えるようになってきました。

「ワシはこのままでいいのか...平治の戦より入道(清盛)殿に従い、源氏の長老として平家一門の中で国政に関わってきたが、それは皆、入道殿のためのこと。しかし、内府(宗盛)殿ら入道殿の子らには何の義理もない。にもかかわらず、我が源氏は今後もずっと入道殿の子孫の下に従わされるのだろうか......」

頼政は頼政なりに、自らの立場とその影響そして源氏一族の未来を考えるようになっていったのです。

そして、あれほど願っていた従三位に昇った翌年、突然出家し、家督を嫡男である源仲綱に譲りました。

頼政は、国務からも平家からも離れた位置に身を置き、自分の子孫や一族、そして平家の勢力下に押さえ込まれているこの国を憂うようになっていたのです。

(つづく)
ラベル:鎌倉 源平 京都
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2015年07月21日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(5)-清盛、朝廷を完全に支配する-

西暦1189年(治承三年)11月14日、京を武力で制圧した平清盛は、翌15日には自ら後白河院に乗り込み、時の関白で、松殿家当主である松殿基房とその三男である中納言師家クビにすると、今度は自分の娘完子の婿で、本来の近衛家当主である近衛基通を「正三位」から「従二位」を飛び越えて「正二位」に昇進させ、加えて関白と内大臣を兼職させた上、藤氏長者(藤原一族の棟梁)に任命するという前代未聞の爆弾人事を行いました。

これは、今で言えば、さしずめ、当選一回の衆議院議員がさしたる政務実績もなく、強制的に内閣総理大臣の指名と総務大臣と政権与党の総裁を兼ねさせられたようなものです。

しかも清盛は、この人事を天皇の命令書(詔書)を以て実行しています。つまり、武力制圧を背景に軍事独裁的に行ったのではなく、あくまでも「高倉天皇の意思」としてその人事を公式に清盛が代行していることになります。天皇の意思が明確になっている以上、天皇の後見的立場である後白河院は何も口出しができませんでした。

法皇がこれまで平家を牽制して来たのは、院の力を増長する平家に分からせるためと、自身の行動に対し、清盛がどうでるかを見届けるためでした。よって清盛が何か手を打ってくるとすれば、自分に対して策を巡らすであろうと読んでいました。

しかし、清盛が打った手は法皇に対する策ではなく、院の権力の源泉である天皇を手中にした上での院への全面攻撃で、それは法皇の完全な想定外だったのです。

法皇は「おのれ清盛......またしても......」と悔しがりましたが、このような事態に要領よく対処できる院の近臣も少なく、ましてや、院としての権力の源である天皇を味方に引き入れている平家に対し、法皇が抗うすべはありませんでした。

法皇は、鹿ヶ谷山荘の主である静賢(信西の子)を使者として清盛に対し「今後は一切政務に介入しないから、許せ」と和議を申し入れましたが、清盛の返答は

「法皇様のことなど知った事か!」

と怒りのボルテージは収まらないどころか、ますます激しくなり、さらに強行策を実行していきます。
おもなものを挙げると

・太政大臣:藤原師長以下三十九名を一斉にクビ。その上、師長は京を追放され尾張国(愛知県)に配流。
・諸国の国司(領主)を大幅に入れ替え。平家の領地は日本のほぼ半分に拡大。
・松殿基房は大宰権帥に左遷の上、筑前国(福岡県)に配流。
・後白河院近臣・源資賢は京から追放。


もはや、清盛のやりたい放題という感じですね。

これらの処置をすべて天皇の御名で行った清盛ですが、ただひとり、天皇の御名で御せぬ人がおりました。

他ならぬ「後白河法皇」です。

清盛にとっての法皇は、平家がここまで勢力を持つことができた恩人ではあれど、近年の近衛家の所領裁断や嫡男重盛の領地を勝手に奪ったことに対する憎しみはありました。なれど、「治天の君」を殺すことが、世の中の平家に対する恨みに繋がることになることを知らぬ清盛ではありませんでした。

逆に清盛は、この状況を己の野望のために利用することを思いつきます。

同年11月20日、清盛は後白河法皇を鳥羽殿(京都鳥羽離宮)に移し、次男宗盛(重盛亡き後の平家の嫡男)に命じて周辺を警固させ、幽閉状態に追い込みました。

外からの往来も特定の人間以外は全面的に禁止して、政務に関わる一切のことが何もできなくなり、後白河院は事実上、院政停止に追い込まれたのです。

このクーデターによって、法皇はまたしても院の近臣の多くを失いました。
法皇にとっては、二度目の自身の勢力を削ぎ落される憂き目にあったわけです。

翌年西暦1180年(治承四年)2月、高倉天皇は、数え年わずか三歳の言仁親王に天皇の位を譲りました。これが安徳天皇です。高倉天皇は上皇となり「高倉院政」が開始されました。......と言っても、実際は平家による傀儡政権に等しい者でした。

これにより、清盛は名実共に後白河院の影響を排除することに成功し、平家の勢力は、朝廷を構成する院、天皇家、摂関家のすべてを操るほどになり、平家の全盛期を迎えることになるのです。

一方で、このクーデターによって、平家は新たな敵を多く作りました。後白河院法皇や院の近臣と距離が近かった寺社勢力(興福寺や園城寺)は勿論。領主が強制的に代わり平家の領土となった諸国では、在地の武士たちの不満が生まれ始めていました。それらが点となり、線となり、面と成って反平家勢力を築くのはもう少し後の話になります。

(つづく)
ラベル:京都 鎌倉 源平
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2015年07月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(4)-清盛、怒りのクーデター-

西暦1179年(治承三年)、平盛子が亡くなった翌月7月29日、今度は平清盛の嫡男であり、正二位内大臣を務めていた平重盛が病気で亡くなりました。ここでも後白河法皇は、重盛の領地だった越前国(現在の福井県)を院の近臣に与え、重盛の領地を平家一門から奪いました。

それでも清盛は法皇に対して何も行動を起こしませんでした。

「むー......つまらんな。どうして何もしてこないのだ」

後白河法皇はだんだん焦れてきました。回りくどい策を巡らすのに飽きてきたのかもしれません。
法皇はダメ押しとばかり新たな人事発令を同年10月7日に行いました。それは関白・松殿基房の三男である松殿師家を「正四位下 左近衛中将」から「正四位上」を飛び越して「従三位」に昇進させ、その二日後の10月9日には権中納言に任官し、左近衛中将を兼職させたのです。

要するに、都の天皇をお守りする近衛府の副隊長のお仕事と、政治を行う朝議の場に参列できる身分を得たわけで、名実共に上級貴族(公卿)の仲間入りをされたという感じですかね。

松殿基房は、兄・近衛基実が亡くなった際、基実の息子である基通が、官位も持たない七歳児であったため、「中継ぎ」として近衛家の家督を継承し、摂関(摂政・関白)の地位を得ました。よって、本来、近衛家の摂関の地位は、基通が継ぐべきもので、これを強力にバックアップしていたのが平家です。

師家に比べ、近衛家の跡取りである基通が「正三位 右近衛中将」であるので、位階こそ基通の方が上ですが、参議を経ずに権中納言に任官するのは、当時の摂関家の嫡子の慣例であり、明らかに基通への当てつけとしか見えない人事でした。

そして法皇は、この人事で松殿家の藤氏長者継承をなし崩し的に既成事実化しようと企みました。それは清盛が摂関家(近衛家)を取り込んで平家の権力強化を図っていたことと無関係ではありませんでした。

清盛は、先の関白・近衛基実に娘・盛子を輿入れさせ、近衛家の跡取りである基通の正室にも娘・完子を輿入れさせていました。このまま基通に近衛家の家督を継承されると、天皇家と摂関家の双方を平家が支配することになります。

この当時の朝廷は、院庁、天皇家、摂関家、この3つの権力の絶妙なバランスの上に成り立っておりました。院庁は後白河法皇、天皇家は高倉天皇、摂関家は松殿基房で構成されています。ただ、この当時、高倉天皇と建春門院滋子(清盛の義妹)との間に生まれた皇太子・言仁親王は平家に固められており、天皇家は実質的に平家に支配されていました。その上、摂関家を本来の嫡子である近衛基通が継ぐと、基通も平家の縁者ですので、天皇家と摂関家を平家が支配することになり、院庁はその権力を制限される可能性がでてきたのです。

「これ以上、平家の自由にさせてたまるか......」

近衛家の所領没収、ならびに重盛の越前国没収、松殿家の家格昇進、これらは法皇が清盛に対する牽制として行ったものに他成りませんでした。

一方の清盛は法皇の動向をずっと静観してきました。これらの施策を行う法皇の真意がどこにあるのかずっとそれを見極めようとしておりました。そして、今回の松殿家の家格昇進で、清盛はその怒りを爆発させることになります。

「おのれ!法皇様と言えどもこれ以上の勝手は見過ごせん!」

同年11月14日、清盛は福原(兵庫県神戸市兵庫区)から数千騎という大軍を率いて京に上洛しました。またたく間に都は平家の軍勢で溢れ帰り、六衛門府を含めて都の要所という要所はすべて平家の武力によって制圧されてしまいました。清盛による軍事クーデターが行われたのです。

世に言う「治承三年の政変」の始まりでした。

(つづく)
ラベル:京都 源平 鎌倉
posted by さんたま at 00:18| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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