2015年05月12日

島津に『待った』をかけた男「大友宗麟」(21)-揺れる大友、動く島津-

1.陣中見舞いの差し入れ
西暦1578年(天正六年)十月二十日、大友勢は三度に渡り、島津方の三股院高城(宮崎県児湯郡木城町)を攻めましたが、城守り固く、三度の攻撃共に大敗を喫しました。その後、数日は、局地的な小競り合いがあったものの戦にはならず、同月二十三日、大友勢が高城の取り囲みを強化したことで、高城は兵糧攻めの様相を呈してきました。

この時、大友勢の志賀勘六という侍が、陣中見舞いと称して、酒樽と菓子を高城内に差し入れたという記録が残っています。これに対し、城内の島津方は翌日、島津家家臣・上野半介を遣わして、高城川で取れたスズキと酒樽を返礼として刺し遣わし、大友の陣と島津の陣ん間で酒盛りが行われたようです。

戦国時代において敵味方というのは大将同士の話で、その下知によって働かされる将兵に至っては、別に敵が憎くって戦っているわけではなく、主命だから戦っているわけで、戦場の命のやり取り以外では、こういう光景が普通にあったのかもしれません。今の世の中ではなんとも理解しにくいところではありますが。


2.造反
大友の兵と島津の兵が酒を組み合わして盛り上がっているところに、大友方の陣から弓矢や槍などを構えた少人数の軍勢が出てきたため、兵たちは我に返って座が一気に緊迫しました。実は島津方も自軍の兵を守る為、この座の遠巻きに弓兵を配備しており、大友方の軍勢を認めると、即座にその姿を現して弓に矢をつがえました。

ところが、大友方から出てきた軍勢は、島津の弓兵の一団を認めると、歩みを止めて、
「我が主、義を以って、薩摩衆に申しあげたいことがあり!ただいまより矢文をもって申し上げなん!」
と声高に叫ぶと、手紙を巻きつけた矢を撃ちました。島津の弓兵はこれを拾って高城に持ち帰り、島津家久に見せました。

手紙は、筑後国の国人領主で鷹取城(福岡県八女市星野村)城主・星野長門守高良山(福岡県久留米市)高良大社の執行・良観という名が署名されており、手紙は次のような内容でした

「此度、我が御屋形様(大友義統)のお下知に従い従軍しております。されど昨今の御屋形様の治世は、古来の家臣を蔑さげずみ、民草を虐待するような暴政にて、某は大いに不満これあり。されど某一人の力では反抗することもできません。よって、我らが軍勢200兵余り、時が来れば必ず島津方に忠節を尽くしますことをお伝え申し上げます。またその際は笛を吹いて合図いたしますので、どうぞよしなに」

つまるところ、大友を見限って島津に付くという内応(裏切り)の打診だったのです。
国人領主がこのような行動を取るということは、大友勢における軍律の徹底および国人統制が非常に甘いものであると同時に、総大将である田原親賢もその程度の器しかないということを、言下に島津に伝えてしまうことになってしまいました。

これを読んだ高城の島津家久(佐土原城主)は「吉兆なり」と喜び、城内の将兵たちに「大友、恐るるに足らず、我らの奮戦次第で、大友家中より大いなる味方現れん。よって、御屋形様(義久)の兵が到着するまで死に物狂いでこの城を守るのじゃ」と檄を飛ばしました。


3.星野長門守の行動の背景
星野長門守の行動は、明らかに大友勢が一枚岩ではない証明となりました。では、何故そのような行動を星野長門守は取ったのか。単なる大友氏に対する不満とだけでは片付けられない何かがあるとしか考えられません。

その理由として、この戦いの大元が考えられます。この戦いは、そもそも日向国主であった伊東義祐の旧領を回復するという大義名分のもとに、日向国に出兵したことで起きた戦いです。これは宗麟にとってみれば、助けを乞うてきた親戚(義祐の嫡男だった故・伊東義益の妻・阿喜多御前は宗麟の姪にあたります)のために一肌脱ごうという理屈は成り立ち、大友氏譜代の家臣にとっても名誉なことではありますが、その結果、動員される他国の国人領主からすれば、迷惑な話以外何物でもありません。

件の星野長門守は、筑後国鷹取城城主で、大友氏の外様国人領主です。遠い日向国の戦いなど自分には無益のものと考えても仕方なく、「大友氏の命令だから......」という理由だけで参陣していては、士気も上がるわけがありません。ましてや、今回の出兵の真意が宗麟の「キリスト教王国樹立」というアホみたいな妄想にあるということを知れば、キリシタンでもない星野長門守にとっては、北日向の神社仏閣の破壊は心穏やかなわけがないでしょう。

ましてや、宗麟のキリスト教へ帰依度合いは年々酷くなり、それに対して諫言するする家臣たちは遠ざけられ、大友氏家中においても問題となりつつありました。星野長門守がそれらを「古来の家臣を蔑み」と表現するのも当たらずも遠からずという状況だったのです。

4.ついに島津本隊が動く。
同じ頃、西暦1578年(天正六年)十月二十四日、薩摩・大隅・日向守護職島津家当主・島津義久が三万余の軍勢を率いて、鹿児島を出立しました。途中霧島大社に詣でて戦勝を祈願し、同月二十七日に紙屋城(宮崎県小林市野尻町)に入城。翌月十一月二日に紙屋城を発して翌三日には佐土原城に入ります。その間に島津の与力が次々と合流し、最終的に義久の本隊は四万を超える大軍団になっていたのです。

高城の合戦はその前哨戦を終え、徐々に本戦に向けて少しずつ動いていました。
posted by さんたま at 18:35| Comment(0) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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