2018年10月29日

人吉相良氏の軌跡(5)ー室町時代(2)ー

1、新生相良氏・相良長続の誕生
西暦1448年(文安五年)2月、上相良氏・多良木頼観、頼仙兄弟が、当時12歳の相良宗家十代目当主・相良堯頼に対して反乱を起こし、堯頼は人吉城を追い出されました。

これに対し球磨郡山田城主(熊本県球磨郡山江村山田字城山)で相良氏庶流である永留長重は、逆に多良木兄弟を攻めて人吉城から追放し、行方不明になった堯頼を捜索します。

長重は薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口山野)に隠れていた堯頼を発見し、人吉城への帰還に求めましたが、堯頼はこれを良しとしませんでした。

堯頼「今更帰ったところでメンツも何もない。俺は隠居するから長重が当主になれ」
長重「隠居するにしても逃げたままではみっともないから、一度戻ってきてから隠居してください」

こんなその交渉のやり取りをしていた間の同年3月23日に堯頼が病死したため、相良宗家は跡取りを失ってしまいました。

そこで同年5月13日、相良家家臣たちの請願により、永留長重が相良宗家十一代目当主となり、名を「相良長続」と改めます。

新生相良氏の誕生です。


2、上相良氏の滅亡と球磨郡統一
永留氏は、相良氏二代目当主・相良頼親の子・頼明から始まる相良家庶流です。

二代目当主・頼親は父・長頼から家督を継いだ翌年、弟の頼俊に相良氏三代目当主を譲り、以後は頼俊の血統が相良宗家となりました。
隠居した頼親は山田城に入り、その子である頼明は「永留氏」を名乗ったのです。

永留氏は宗家当主の兄筋の血統ですので、宗家を継承する資格は十分有りました。しかし、先代当主・堯頼が幼少だったため相良宗家の基盤は不安定化していました。このため、長続の家督継承に異を唱える連中がボコボコ出てくることになります。

同年8月、先代当主・堯頼を追放した上相良氏・多良木頼観、頼仙兄弟がまたしても挙兵。
長続はこれに対抗して自ら軍勢を率いて出陣し、見事、多良木兄弟を討ち取り、兄弟の首をあげました。

上相良氏は、相良氏初代当主・相良長頼の次男・多良木頼氏を祖とし、南北朝時代は南朝に味方し、北朝方の相良宗家に対してずっと敵対行動をとってきた、いわば相良宗家の宿敵とも言える存在です。

長続は、旧相良宗家の歴代当主が成し遂げられなかった、その長年の宿敵・上相良氏を滅ぼすという大きな功績をあげたのです。

これにより、上相良氏の領地である

多良木(球磨郡多良木町)
久米(球磨郡久米村)
湯前(球磨郡湯前)
湯山(球磨郡水上村湯山)
江代(熊本県球磨郡水上村江代)


これら一帯が相良宗家の支配地として組み入れられ、相良氏は初めて肥後国球磨郡統一を果たしました。


3、支配領域の拡大
また、西暦1458年(長禄二年)、薩摩、大隅、日向の三国で大乱(おそらく、当主・島津忠国と弟・島津好久との間の兄弟喧嘩に端を発した大規模な国人一揆)が発生し、島津忠国から援軍の依頼を受け、長続も出陣して鎮圧に協力したことで、忠国から薩摩国牛屎院と牛山城(鹿児島県伊佐市大口里字上ノ馬場/別名:大口城)を与えられています。

球磨郡を統一し、薩摩国牛屎院という球磨郡外の領地も得た長続は、徐々に対外勢力との関係を考えるようになります。

その相手を肥後国最大の守護大名である菊池為邦に求めました。

菊池氏は南北朝時代は九州最大の南朝勢力で、南北朝統一後も反足利幕府的な態度を取り続けていましたが、菊池氏第18代当主・菊池兼朝が、嫡男である第19代当主・菊池持朝に追放された後は、幕府寄りの態度に改めていました。

菊池為邦はその菊池持朝の嫡男で菊池氏第20代当主です。

西暦1460年(寛正元年)10月、長続は嫡男・頼元を連れ、菊池氏の本拠である菊池城(熊本県菊池市隈府)を訪問します。
為邦は長続親子の来訪を大変喜び、長続には葦北郡水俣(水俣市)の領地を、頼元には自分の偏諱である「為」を与えました。

以後、頼元は為邦の「為」と、父・長続の「続」を取り、諱を「為続」と改めました。

為邦の長続に対するこの厚遇は、当時の菊池氏の背景が大きく影響していると考えられます。

菊池氏は為邦の父・持朝の時、菊池氏は筑後・肥後の二カ国の守護職を拝命していました。しかし、為邦の代になり、筑後守護職は豊後大友氏に奪われてしまった為、菊池氏は肥後一国で確たる勢力を築く必要に迫られていました。

その為には球磨郡ならびに肥後国、薩摩国の境にある牛屎院を支配する相良氏の勢力を無視できなくなっていたと考えています。


4、名和氏の御家騒動
この頃、相良領(球磨郡ならびに葦北郡水俣)と境を接する八代郡一帯に勢力を張っていた名和氏に御家騒動が起きていました。

西暦1452年(宝徳四年)5月21日、名和氏17代当主・名和教長が暗殺。
西暦1459年(長禄三年)12月13日、名和氏18代当主・名和義興が暗殺。


という具合に当主が次々と暗殺され、名和氏の支配構造は不安定になる一方でした。

そして、暗殺された名和氏18代当主・名和義興の弟・幸松丸は身の安全を考え、肥後国八代郡から逃亡、家老の内河喜定と共に人吉に向かい、長続に保護を求めました。

長続はこの助力要請に応え、兵を率いて幸松丸を名和氏の居城である古麓城(熊本県八代市古麓町)に帰還させると、名和氏の家臣団の統制を行い、西暦1465年(寛正六年)幸松丸を元服させて「名和顕忠」とし、名和氏の家督を継がせることに成功します。

この時、顕忠は長続嫡男・為続の娘を娶って相良氏と姻戚関係を結んでいます。
その上、長続への恩義の証として八代郡高田郷(現在の八代市の球磨川南部あたり)が長続に譲られました。

この時、長続の領土は肥後国球磨郡全域に加え、同国葦北郡水俣郷、同国八代郡高田郷、薩摩国牛屎院になっており、肥後国の南半分に相良氏としての最大版図を築いていました。

また前述の名和氏の御家騒動を収めたことは、名和氏と縁戚になるだけでなく、名和氏に対して強い影響力を保持することになりました。

加えて、肥後国外の薩摩島津氏ともパイプを持っている長続の存在は、肥後国北部に勢力を張っている同国守護職・菊池為邦にとって、目の上のたんこぶになりつつありました。

それが余計な猜疑心を生んでしまい、ついに為邦は自らが長続に安堵した水俣に対して攻撃を開始します。

一方の長続は急激な領土拡張と共に所有する城も増え、それに対して城兵も割かれており、為邦の攻撃に有効に対応することが難しくなっていました。

そこで、島津忠国から与えられた牛屎院の領地を島津氏に返還し、牛山城主・犬童長直以下の城兵を高田郷の平山城(熊本県八代市平山新町)に移動させて、為邦の攻撃に備えざる得ませんでした。


5、長続の最期
この頃、足利幕府のお膝元である京都では、三管領の畠山氏や斯波氏の御家騒動、文正の政変によって生じた守護大名の諍い、細川勝元と山名宗全の勢力争いに、足利幕府8代将軍継嗣問題が導火線に火をつけてしまい、いわゆる「応仁の乱」が勃発し始めていました。

時の足利幕府管領・細川勝元は長続に「軍勢率いて上洛しろ」という命令を出していますが、肥後国内では名和氏の御家騒動が収束したものの、菊池氏との諍いは未だ決着がついておらず、領地を空けて上洛するのは、あまりにも危険が大きすぎました。

そこで、長続は相良氏の家督を嫡男・為続に譲り、領土の仕置を任せて、自身は軍勢を率いて京都に向かいました。
ところが、程なく病気になり、帰国したものの快方に向かわず、西暦1468年(応仁二年)2月15日、人吉城で病死となります。


新生相良氏の初代当主(歴代十一代目)として初めて球磨郡を統一し、八代、水俣、牛屎院など球磨郡外にも領土を広げ、最大版図を築いた当主の死でした。

(つづく)
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2018年10月27日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(101)-一条忠頼の死-

西暦1183年6月16日夜、侍所別当(長官)である和田義盛によって、主だった御家人が鎌倉大倉御所の西(侍所)に集められました。

集められたのは、

和田義盛(侍所別当)
工藤祐経(頼朝側近筆頭/伊豆国伊東荘領主/伊東氏の祖)
小山田有重(秩父一族/武蔵国小山田荘領主/小山田氏の祖)
稲毛重成(有重嫡男/武蔵国稲毛荘領主)
榛名重朝(有重次男/相模国榛谷御厨領主)
天野遠景(伊豆国田方郡天野の住人)
結城朝光(下野国小山政光四男/常陸国結城郡領主/結城氏の祖)

そして一条忠頼(甲斐源氏・武田信義嫡男)。
侍所の上座には頼朝が座しておりました。

「一条次郎殿、前へ」

義盛がそう声をあげると、忠頼は「はっ」と声を上げて一礼して立ち上がり、頼朝の御前に進んで着座、そこでまた一礼しました。

「次郎殿、そなたが鎌倉に戻られてからロクに話もできず、今日まで至ったのは申し訳ない。そなたは木曽義仲を討ちし功績を上げた者、きちんとその功績を皆に披露せねばならぬと思うておった。今日の日を嬉しく思う」

頼朝が忠頼を労うと忠頼は

「ありがたき幸せに存じまする。私は父・信義の名代として鎌倉殿に従い、鎌倉殿の為に働いておりまする。我が功績は鎌倉殿の功績。それ以上でも以下でもございませぬ」

と言葉を返しました。

「さすがは甲斐源氏棟梁・武田殿のご嫡男よ。あっぱれなお言葉じゃ。他の御家人も次郎殿を見本とせねばならん」

義盛もその堂々とした物言いに感じ入り、他も深く頷いてところ

「小四郎殿、無礼であろう」

と忠頼が窘めるような声を出したので、一同が一瞬静まりました。
忠頼は頼朝に向いていた顔を義盛に向けると

「そなたは侍所別当であり、鎌倉殿に仕える御家人を統括する責任者じゃ。それは否定せぬ。しかし私は違う。そなたの申す通り、私は甲斐源氏棟梁・武田信義の子。鎌倉殿と遠祖を同じくする源氏の一門ぞ。一門は一門としての働き方を申したまで。御家人の皆々がこの忠頼を見本にされてはたまらぬわ」

と言葉を続けると、義盛も

「......はっ、これはとんだご無礼を申しました。何卒お許しを」

と渋々詫びました。
頼朝は場の空気が白けてしまったのを取り繕うかのように

「次郎殿、今日はそなたの戦功を祝う宴じゃ、そう無粋なことを言うではない。」

「申し訳ござりませぬ。しかしながら、鎌倉殿の一門と御家人を同列に扱う小四郎殿の物言いが少々勘に触りました故」

この発言に頼朝は「はっはっは」と乾いた笑い声をあげて忠頼を宥めた。

「次郎殿、そなたは先ほど、父の名代として我に仕えていると申したな」

「はい」

「自分の手柄は我の手柄と申したな」

「申しました」

「その気持ち、心構えは御家人たちも同じじゃ。確かに我が源氏一門は御家人にとっていわゆる主筋になるが、我は殊更血族を重んじるつもりはない。我に従い、我の命で動くもの皆、御家人じゃ」

「さりとて、我は鎌倉殿と一門である甲斐源氏の名に誇りを持っておりまする。一門でもない御家人にそれを軽く扱われるのは納得しがたいものがありまする」

頼朝は忠頼の心が痛いほどよくわかっていました。

自分が流人として伊豆蛭ヶ小島に流され、山木館襲撃で挙兵するまで生きてこられたのは「河内源氏の嫡流」というプライドがあったからです。それがなければ遥か以前に自害していたかもしれません。

そして今、自分の前に「甲斐源氏の嫡男」という血統を誇りに生きている者がいました。

しかし、今の頼朝は鎌倉に己を頂点とした武士の政府を作ることを目的にしていました。

よって、忠頼の心は分かるものの、それを認めてしまっては、己の存在を否定することに繋がりかねませんでした。

座は鎮まり返り、誰も言葉を発しないまま、しばしの時が過ぎました。
頼朝は意を決して、忠頼にこう問いかけました

「では、次郎殿や武田殿、安田殿など甲斐源氏の皆々に対し、我が御家人に加われと命じたら如何される」

「その際は一度甲斐に戻らせて頂き、棟梁である父の判断に委ねまする」

「......さようか」

頼朝の目には悲しい光が宿っていました。
そして、横にいた義盛に目を泳がせ、軽く頷くと義盛も目は伏せました。

「いささか話し過ぎたようじゃな。少々喉が乾いた。これ、誰か、酒を持て」

頼朝がそう言うと、末席にいた工藤祐経が一礼して奥に引き込みました。

「私も少々言葉が過ぎました。鎌倉殿に対しご無礼申し上げました」

忠頼が一礼すると

「いやいや、忌憚ない意見が聞けた。礼を言うのはこちらの方じゃ」

と忠頼を労いました。

奥へ引っ込んだ工藤祐経は酒の入ったお銚子を抱えて、脇より侍所に入り、ゆっくり頼朝に歩みを進めてきました。
その姿を見た義盛は

(おいおい.....)

と思いました。
祐経の顔色は血の気が引いており、しかも手や足が微妙に震えていたのです。

この時、義盛の手筈では、忠頼を打ち取るのは祐経の役割になっていました。

祐経は武勇名高い忠頼を相手に首尾よく討ち取ることができるかどうか不安のあまり、それが顔、手、足に表れてしまったのです。

(あれではまずい.....)

そう思った義盛は、この場の最長老である小山田有重に目線を送りました。
確かに一条忠頼の討手は工藤祐経に命じておりました。

しかし、この暗殺に失敗は許されないため、義盛は万が一のために「第二の備え」をしていたのです。

有重は義盛の視線を受け、すぐに義盛の言いたいこと悟ると、帯にさしていた扇子を広げ、祐経と共に末席に控えていた天野遠景に合図を送りました。そして

「一掾i祐経)殿、待たれよ」

と声をかけて祐経の歩みを止めました。
突然、声をかけられ「ビクッ」とした祐経でしたが

「このような場でその方のような若輩者が鎌倉殿に酒を注ぐなど100年早い。こういう役目はこの年寄りに譲るものじゃ。ほれ、その膳を渡せ」

と言われたので

「ええ.....?」

とさらに困惑した表情を浮かべました。

「いいから、よこすのじゃ」

と膳を奪い取ると

「三郎(稲毛重成)、四郎(榛名重朝)そなたたちはこれを持って一条殿に酒を」

と自分の子供達を呼び、お銚子を渡しました。
二人は父から突然声をかけられ、戸惑いながらもお銚子を受け取って、一条殿に向かい、いざお銚子で酒を注ごうとすると

「こらこら、お前ら、宴の礼儀も知らんのか。」

とまたも父から止められました。

「古来より宴の際は、袴の括り紐はひざ下で留める『上括り』にするのじゃ。一条殿に無礼ではないか」

「は......はぁ」

父親に突然呼びつけられ、手伝わされ、その上、礼儀知らずとか言われて踏んだり蹴ったりの二人でしたが、父の言われるままにお銚子を置いて、袴の括り紐を結び直そうとしました。

「一条殿。礼儀を知らん、田舎者で誠に申し訳ない」

と有重が忠頼に詫びると、有重はもう1つのお銚子を持って、頼朝の元に進みました。

忠頼は重成と重朝は袴の紐を結び直しているのを、苦笑しながらずっと見ていました。
その間、彼の左横に天野遠景が動いているのも気づかずに。

「御免」

忠頼の左の耳元に遠景の放った一言が、彼の生前で聞いた最期の言葉になりました。

次の瞬間、彼の脇に太刀がズブリの差し込まれました。
痛みで忠頼が気づいた時、遠景の太刀はすでに心の臓に達していました。

「鎌倉.....殿.....」

忠頼はそう声を出すのが精一杯でした。

遠景に差し込まれた太刀はそのまま前に斬り出されたため、忠頼の肺は完全に切断され、以後、口をパクパクさせて声ひとつ出せなくなったからです。忠頼の体の前には大量の鮮血が吹き出ていました。

頼朝は何も言わず、無言で立ち上がり、従者が後ろの襖を開けると、そのまま襖の向こう側に消えて行きました。
次の瞬間、忠頼の体は前のめりに倒れ伏し、そして二度と動くことはありませんでした。

この時、侍所の庭先には、忠頼の家臣らが控えておりましたが、忠頼の体が伏して動かなくなったのを見るに、主人の元に駆け寄ろうと広間に上がりましたが、小山田有重に「無礼者!ここは侍所!御家人の資格なき者が上がって良い場所ではない!控えろ!」と一喝され、稲毛重成、榛名重朝、天野遠景の両名によって殺害されました。

こうして甲斐源氏棟梁・武田信義の嫡男・一条忠頼の命は絶たれたのです。

頼朝は、鎌倉政権は自身の一族を主筋として別格にすることで、その統治の主体を担おうとしていました。

かつては河内源氏(源頼朝)、信濃源氏(木曽義仲)、甲斐源氏(武田信義)と割拠していた源氏の勢力は、義仲の死で信濃源氏が衰退したため、頼朝を脅かす源氏勢力は「甲斐源氏」しかありませんでした。

一条忠頼の殺害は、その甲斐源氏を一御家人に落としめ、自らの鎌倉政権の下に組み込むための序章であったのです。

(つづく)
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2018年09月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(100)-和田義盛の謀略-

西暦1184年(元暦元年)4月21日、信濃源氏・源義仲の遺児・清水冠者源義高は、御所を脱走し、鎌倉殿・源頼朝の命により、同月26日御家人・堀親家が郎党、藤内光澄に討たれました。

このことは直ちに御家人に知らされました。
その結果、信濃国、甲斐国(現在の長野県、山梨県)に潜んでいた信濃源氏の残党がにわかに頼朝に謀反を起こす動きが出ています。

これに対処するため、同年5月1日、頼朝は足利義兼小笠原長清に甲斐国に出陣を命じ、小山政光、宇都宮朝綱、比企能員、河越重頼、豊島清重、足立遠元、吾妻助亮、小林重弘らを信濃国に向かわました。

同時に、相模(神奈川)、伊豆(静岡)、駿河(静岡)、安房(千葉)、上総(千葉)らの御家人に、叛乱の兆しを抑えさせるように侍所別当・和田義盛に命じています。


ここで名前が出てきた人間の多くは、この後の日本の歴史に大きく関わっています。


足利義兼は、河内源氏の棟梁・源義家(八幡太郎)の孫・源義康を祖とし、下野国足利荘(栃木県足利市)を本領とする源氏の一族です。
義兼は初代義康の子で足利氏2代目の棟梁であり、彼の7代後の子孫が足利幕府を開く足利尊氏になります。

小笠原長清は、源義家の弟・源義光(新羅三郎)の四男・加賀美遠光の次男で、甲斐国巨摩郡小笠原郷(現・山梨県北杜市明野町小笠原)を本領とする源氏の一族です。後に信濃守護に任ぜられたことにより、小笠原一族は戦国時代まで信濃国に深く関わることになります。

小山政光は、鎮守府将軍・藤原秀郷の子孫である太田行政の子で、下野国小山荘に土着して小山氏を名乗った小山氏の初代です。
下野国最大の武士団を持っており、妻が頼朝の乳母(寒河尼)であったことが縁で、頼朝に味方しました。
彼の嫡男・小山朝政は、源平争乱で戦功をあげて鎌倉幕府成立後は幕府宿老として重きをなします。

比企能員は、源頼朝の乳母である比企尼の甥で、この当時は頼朝の嫡男・頼家の乳母父となっていました。
後に娘を頼家の側室として差し出し、鎌倉幕府において有力御家人となりますが、その権勢を恐れた北条時政に滅ぼされます。

河越重頼は、秩父氏の一族で武蔵国最大の武士団を保持していた御家人です。
後に頼朝と義経の兄弟喧嘩の犠牲者の一人になってしまいます。

豊島清重も秩父氏の一族で、先祖は源義家、源義朝に仕えていた源氏累代の武将です。
石橋山の合戦で秩父一族はほぼ平氏方についたものの、父・清元と清重はこれに加わらず、逆に同合戦で敗れた頼朝が安房で再起を図った際に、秩父一族としては初めて頼朝に味方しました。

清重は奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の後に、奥州総奉行の職を頼朝より任じられ、後の戦国時代の葛西氏の祖となっています。

1つの史実に人が介在し、その人に紐付いて新しい歴史が紡がれる。
だからこそ歴史はドラマだと言えるのですが。


また、この頃、頼朝の長年の宿敵の一人である、源義広(志田三郎先生)がついにその命を散らしています。


同年5月4日、伊勢国羽取山(服部山)に潜伏していた源義広は、伊勢平氏の動向を調査していた波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊、大内惟義の家人らに見つかり、そのまま合戦となりました。合戦は丸一日かかり、ついに義広は捕縛されてその場で首を討たれました。

義広は源為義(頼朝の祖父)の三男で、頼朝にとっては叔父に当たります。

頼朝挙兵後、頼朝の勢力に合流することなく、逆に頼朝相手に叛乱を起こすこと数知れず、ついには義仲に味方し、義仲と頼朝の対立の原因にもなりました。

義弘は、源範頼・義経連合軍と義仲の京都での合戦にも義仲に従軍しており、そのまま敗れて行方知れずとなっていましたが、伊勢国に潜伏していたようです。

5月21日、頼朝は後白河法皇の近臣である高階泰経に書状を送っています。
その内容は、平家一門に連なって一斉解官となった平頼盛(清盛異母弟)を元の官位に戻すこと。

そして、源氏一族の者の中から、源範頼(頼朝異母弟/蒲冠者)、源広綱(源頼政の末子)、平賀義信(平治の乱後、頼朝と共に東国へ逃れた源氏の一人/大内惟義の父)の3名を国司(地方支配の責任者)に任官させて欲しいという内容でした。

この内容は受け入れられ、頼盛は6月5日付けで権大納言に還任されてますし、源範頼は「従五位下 三河守」、源広綱は「従五位下 駿河守」、平賀義信は「従五位下 武蔵守」に補任されています。

鎌倉の御家人が、頼朝の意向によって国司に補任されたのはこれが初めてのことでした。

6月1日、頼朝は頼盛を御所に招いて、宴を開いています。
おそらく上記のの権大納言還任の内示があり、京都に戻ることが確定したための別れの宴だと思われます。

この宴に参加したのは

一条能保(頼朝の義弟/妻・坊門姫は頼朝の妹/右馬頭)

平 時家(従四位下 右近衛権少将 / 故・上総広常の婿)


小山朝政(下野国小山荘の領主/妻は源頼朝の乳母である寒河尼)

三浦義澄(相模国三浦荘の領主)

結城朝光(小山朝政の弟/下総結城氏の祖)

下河辺行平(小山氏庶流)

畠山重忠(秩父一族/武蔵国男衾郡畠山郷の領主)

橘 公長(元平家の家人/右馬允)

足立遠元(武蔵国足立郡の領主)

八田知家(下野国茂木郡の領主)

後藤基清(一条能保の家人)


以上11名。

「吾妻鏡」によれば、これら「京都に馴染みのある者」という趣向で集められたようです。

この宴で頼朝は餞別として金で作られた剣一太刀、砂金一袋、鞍馬十疋を頼盛に与えています。
これは旧恩に報いるだけでなく、権大納言に戻る頼盛に朝廷工作を依頼していたのではないかと思えてなりません。

源義仲の遺児を討ち、平家一門に連なる頼盛を自陣に引き込んだ頼朝は、これより少しずつ源氏の一元化を考えていきます。

義仲存命中は、源頼朝、武田信義、源義仲という3人の棟梁がそれぞれ勢力を張っていました。


頼朝は相模を本拠としながら、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県)、そして朝廷より東海道全般の行政執行権を委嘱されていました。

信義は甲斐(山梨県)を本拠としながら、頼朝より駿河(静岡県東部)守護を任され、一族の安田義定が遠江(静岡県西部)を治め、3国に影響力を持っていました。

義仲は信濃(長野県)を本拠としながら、北陸道と越後(新潟県)を実効支配していました。

しかし、義仲はすでに滅び、源氏は頼朝と信義の2つの勢力のみとなりました。
三者の均等バランスは崩れ、頼朝は河内源氏の嫡流を誇り、信義は頼朝に助力するも一定の距離を保っていました。

そんな中、一の谷の合戦を終えて帰還し東国武将の中に一条忠頼という武将がいました。

一条忠頼は、甲斐源氏棟梁・武田信義の嫡男であり、甲斐国山梨郡一条郷(現:山梨県甲府市)を本領として一条氏を名乗っていました。

そして、忠頼は源範頼・源義経と共に京都に上って宇治川の合戦に参戦し、続く、粟津の戦いで源義仲、今井兼平を討ちとる功績をあげていました。鎌倉に帰着した忠頼はそのことを誇りとして、事あるごとに他の御家人に語って聞かせていました。

そしてその話は、侍所別当(長官)である和田義盛の耳にも入っていました。
義盛は

「武士が自分の手柄を誇らしげに語ることは別に悪いことではない」

と聞き流していましたが、時が経つに連れ、妙な噂が鎌倉に広がり始めました。

それは

「一条殿は、父の武田信義と相計らい、甲斐源氏の一族引き連れてこの鎌倉を狙っている」

というものでした。

忠頼個人の武勇の話であれば捨て置きますが、事が鎌倉の話になってくると、義盛も聞き流すことはできなくなり、ついに頼朝に言上せざるえなくなりました。

大倉御所主殿を訪れた義盛でしたが、そこには頼朝と中原親能、そしてその弟・中原広元の三人が頼朝を中心に議論を行っていました。

それを見た義盛は出直そうと思って退出しようとすると

「小太郎、なんぞ用か?」

と頼朝は呼び止めました。

「御談合の様子でしたので、また機会を改めまする」

と義盛は言葉を置いて、退出しようとしましたが

「良い。入れ」

と促されてしまったので、「はっ」と答えて主殿に入りました。
親能と広元は「では、我々は」と言って義盛と入れ違いに退出し、頼朝も頷きました。

「何の御談合でしたか」

着座するなり義盛は頼朝に尋ねると

「うむ。親能殿より新たな役所の提案があってな」

「役所?」

「院より東海道の行政執行を任されることになり、土地、田畑等の管理も行わねばならぬ。それにはこれまでの荘園管理の文書等を管理し、必要に応じて閲覧できる機関がいる。また平家の勢力減退により土地の所有権争いが増加しておる、それに対応する機関がいるという話であった」

「なるほど。言われてみれば道理。さすがは朝廷の文官、我ら武士が気づかないところに手が届きますな」

「して、小太郎。わしに用とは何か」

頼朝がそれまでの話を打ち切って義盛に来訪の目的を尋ねると

「鎌倉殿にお尋ね申し上げまする。一条次郎殿のこと、何かお聞き及びでしょうか」

と義盛は直球で質問をぶつけました。

「一条次郎のこと? ああ、義仲殿を討った話のことか」

と頼朝が笑みを浮かべながら答えると

「そのことではござりませぬ」

と義盛が笑み一つ浮かべずピシャリとたしなめるので、頼朝も笑みを消し

「申せ」

と小太郎に先を促しました。

「義仲殿を打たれた一条次郎殿の人気、御家人の中には非常に高く、その人望日々増えておりまする。しかるにここ最近、一条次郎殿、父・武田太郎信義殿と相語らい、この鎌倉を奪取するお考えありとの風聞、聞こえましてござりまする」

「はははは!」

頼朝は再び笑みを浮かべ、義盛の報告を遮りました。

「一条次郎がこの鎌倉を簒奪?小太郎、そなた正気で申しているのか?」

「もちろん、噂にて本気とは思えませぬ」

義盛は真顔で答えました。

「しかし、嘘ではないとは言いきれませぬ」

頼朝の顔から再び笑みが消えました。

「去る3月の頃、甲斐源氏の板垣三郎殿から土肥次郎の指揮下では働けぬという訴えがございました。鎌倉殿はこれを却下されましたが、土肥次郎は鎌倉殿が自身の名代として送り出した鎌倉殿の忠臣にござりまする。それをないがしろにすることは、鎌倉殿をないがしろにすることでござる。我らと鎌倉殿は同格という考え方、あれこそが甲斐源氏の皆さまの心底にある態度ではござりますまいか。」

「......」

頼朝は黙って義盛の申し状を聞いておりました。

「御家人はすべからく鎌倉殿を君主と仰ぎ、侍所によって統率されなくてはなりませぬ。富士川(の戦い)の頃ならいざ知らず、今の鎌倉殿は正四位下の位階を持ち、東海道の行政執行権を院よりお任せ頂いておりまする。無位無官の武田殿とは違いまする」

義盛がそこまで申し上げた時、

「来るべきものが来てしまったのかもしれぬ.....」

と頼朝が口を開きました。

「武田殿は甲斐を本領とし、駿河守護。一族の安田義定殿は遠江守護。同じ源氏とはいえ我が鎌倉とは別系統の勢力じゃ。したがって、その三国のことはわしは預かり知らぬつもりじゃった。じゃが、わしの指揮下にいる以上は、甲斐源氏であれなんであれ、鎌倉の御家人として従ってもらわねばならぬ」

「御意」

「それゆえに、鎌倉の秩序乱さんとする者は例え源氏の一族でも容赦はならぬ。そういうことだな。小太郎」

「仰せの通り」

義盛が我が意を得たりと深々と一礼すると

「では小太郎。一条次郎を侍所に呼び出せ。ただし、表向きの理由は義仲追討の任果たせしことによる褒美とせよ」

「はっ」

頼朝は義盛の側に近づき、耳元で囁きました

「その上で、綿密なる計画を練るのじゃ。このこと、絶対に失敗は許されぬ。」

「承知仕りました」

義盛は諸々承知して一礼し、主殿を退出しました。

頼朝は一人主殿に残り、思いを馳せていました。

「これで武田殿がどう出るか......」

(つづく)
posted by さんたま at 17:10| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする