2019年05月06日

女性天皇と女系天皇について

新しい天皇陛下の即位に伴い、再び「女性天皇」「女系天皇」の議論が起こっています。

ツイッターなどのSNSを見ると、この2つをごっちゃに考えている人が多く、論点が「男尊女卑」「女性蔑視」などに帰結している投稿がものすごく多いですが、この2つは明確に違います。


「女性天皇」とは文字通り、女性の天皇(女帝)です。
歴史上に10代8人の存在が認められていて、その誰もが即位中は「独身」でした。

歴史上最初の女性天皇は、第33代天皇である推古天皇(額田部皇女)です。

当時の有力豪族である蘇我氏の出身で、敏達天皇の皇后でした。
大臣である蘇我馬子聖徳太子など共に政治を行なったことで有名な方です。

この方が即位されたのは、先代32代天皇である崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺され、後継天皇となる皇族が不足していたためです。

蘇我馬子から即位を要請された額田部皇女は、自分の産んだ竹田皇子の即位を希望しましたが、竹田皇子が第2皇子だったため、第1皇子である押坂彦人大兄皇子の擁立を覆すことができず、将来的には竹田皇子の即位を考慮の上、中継ぎとして推古天皇が即位することになったようです。


以後の女性天皇の即位の背景を見ていきます。


・第35代皇極天皇/第37代斉明天皇
この二代の天皇は同一人物で、推古天皇の後を受けた第34代舒明天皇の皇后です。
後継天皇が候補皇子の対立で決定しなかったため、中立的立場である皇后から天皇として即位され、皇極天皇となられました。
「大化の改新(クーデター)」時に弟である軽皇子(孝徳天皇)に譲位されています。

しかし、その孝徳天皇が亡くなると、天皇と仲が悪かった皇太子・中大兄皇子は母親である皇極天皇に再び即位を願い(重祚)、斉明天皇となりました。


・第41代持統天皇
天武天皇の皇后です。
天武天皇の死後、皇后の子・草壁皇子が皇太子となっていましたが、3年後草壁皇子が亡くなってしまいます。
草壁皇子の子の軽皇子は7歳だったため、皇太子に立てられず、その間の天皇として即位しました。
7年半後、軽皇子に譲位し、文武天皇となった後、天皇後見のため、日本史初の「太上天皇(上皇)」となっています。


・第43代元明天皇
草壁皇子の妃で文武天皇の母です。
文武天皇が25歳で崩御し、その遺児である首皇子が7歳であったため、即位しました。
6年後、首皇子は立太子して皇太子となりましたが、元来病弱であり、心もとなかったことから、立太子の翌年、元明天皇は娘の氷高内親王に譲位します。これが元正天皇です。


・第44代元正天皇
元明天皇の皇女であり、文武天皇の姉にあたります。
元明天皇の譲位により36歳で即位しました。
歴代の女帝の中で初の「未婚女性」の即位です。

前述の通り文武天皇の姉であり、文武天皇が14歳で即位するものの元来病弱で、実際在位10年で亡くなっていることから、文武の後を受けて即位する可能性もあったため、未婚だったのではないかと言われています。
9年後、首皇子に皇位を譲り(聖武天皇)、以後、太上天皇(上皇)として天皇を補佐しました。

元明天皇から元正天皇への譲位は、歴代天皇唯一の「母から娘への皇位継承」です。
ただし、父は即位こそしていませんが、天武天皇の皇子であった草壁皇子であるため、男系の血筋をひく女性皇族間の皇位継承となっています。


・第46代孝謙天皇/第48代称徳天皇
この二代の天皇も同一人物(重祚)です。
聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇女にして、史上唯一の女性皇太子でした。

元正上皇崩御の翌年、聖武天皇は出家のため、皇位を阿倍内親王に譲位されました。これが孝謙天皇です。
しかし、これまでの女帝と違い、後を継ぐべき皇太子が存在しないため、その政権基盤は弱く、光明皇太后の後見を受けることになります。

聖武上皇は崩御の際、道祖王(天武天皇の孫)を皇太子にする遺言を残しましたが、道祖王は素行不良で人望がなかったため、孝謙天皇は群臣会議を開いて道祖王の廃太子を決定藤原仲麻呂の推挙により大炊王(同じ天武天皇の孫)が皇太子に立てられました。

9年の在位の後、大炊王に譲位(第47代淳仁天皇)し、孝謙上皇となりますが、上皇が弓削道鏡を寵愛し始めると、藤原仲麻呂および淳仁天皇との間に亀裂が生じ始めます。その亀裂は埋まらず、最終的に仲麻呂が謀反を起こして破れ淳仁天皇は廃位されて淡路島に流されると、上皇は天皇に復位しました。これが称徳天皇です。

なお、称徳天皇は生涯独身で後継を決めずに崩御したため、後継天皇を巡って群臣たちの対立がおきます。
最終的には天智天皇の第七皇子・施基皇子の子・白壁王が皇太子に立てられ、光仁天皇として即位することになります。


・第109代明正天皇
後水尾天皇と徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の娘・和子との間に生まれた皇女です。
明正天皇の即位は、御水尾天皇が江戸幕府に対して行なった「嫌がらせ」に匹敵する行為でした。

御水尾天皇は、幕府の意向で自分の寵姫や皇子たちと引き離された上で和子入内を受け入れさせられただけでなく、紫衣事件で自らが与えた紫衣勅許を無効にされたことに嫌気がさし、幕府に通告をせず女一宮(興子内親王)に譲位されました。これが明正天皇です。

明正天皇譲位の際に、天皇は「女一宮に皇位を預ける」とし、「この後皇子が生まれた場合は其の者にに譲位せよ」との意向を出しています。

これを御水尾天皇の退位を「嫌がらせ」と表現したのは、この後御水尾天皇は上皇となり、のちの霊元天皇に到るまで四代に渡り、院政を施いたからです。

明正天皇は約14年間在位し、異母弟に当たる紹仁親王に譲位(第110代後光明天皇)して、上皇/法皇となられました。


・第117代後桜町天皇
第115代桜町天皇の第二皇女にして、第116代桃園天皇の姉に当たります。

本来であれば桃園天皇の皇子である英仁親王が即位すべきところですが、当年5歳と言う年齢であり、また治天の君である上皇も存在しないことから、とても天皇の任に耐える状態ではありませんでした。

また、桃園天皇の時代に、尊王思想を天皇に植え付けようとした天皇の側近を摂関家が幕府に訴えて一掃させた事件(宝暦事件)がおきており、天皇家と摂関家の間にしこりが残っていたことから、成年天皇を中継ぎとして是正を図ると非常手段が取られ、花園天皇の異母姉である緋宮智子内親王が即位し、後桜町天皇となられました。

在位9年の後、英仁親王に譲位されています(第118代後花園天皇)


これら8人の女性天皇に共通することは

・正当な皇位継承者が幼いため、中継ぎとして即位しているケースが多い。
・在位中は皆独身。
・在位はだいたい9年ないし10年前後。

と言うところでしょうか。

すなわち、安定的な皇位継承のために「中継ぎ」として登板された方がほとんどであり、配偶者を持たず、在位が10年以上に及ぶことはほとんどないのが「女性天皇の実態」になります。


これに対し「女系天皇」とはなんなのか。になるわけですが。
「女系天皇」とは「母親のみが皇統(天皇の血統)に属する天皇を指す呼称」になります。

すなわち、天皇陛下の皇女である敬宮愛子内親王殿下皇嗣殿下である秋篠宮眞子内親王殿下、秋篠宮佳子内親王殿下の皆さまが、一般国民の男子と結婚して男子のお子様を儲けた場合、それは「女系男子」であります。

女系天皇を認めると言うことは、「各内親王殿下のお子様が天皇であることを認める」ことになります。

これは、これまで男系男子の伝統を守ってその血脈を継いできた世界唯一の天皇家と言う存在の根本から覆すことに他なりません。

また女系天皇になった場合、世間にどう言う影響があるかを考慮すると、なってみないとわからないところはありますが、天皇の配偶者の一族にそれなりの影響が出ることは必至かと思われます。

もちろん「そうならないように法律で縛ればいい」と言う意見が出るのも承知しております。しかし法律というのは明文化されている以上、その文面の重箱の隅をつつくように弾力的な運用をされるのが普通です。仮に法で縛ったとしても「法の抜け穴」が必ず存在することを考えれば、リスクは非常に大きいと考えられます。

このことに関する議論は日本のためには必要とは存じますが、これを「女性蔑視」や「男女差別」のような一般国民と同じような次元で論じていること自体、些か軽薄なのではないかと思っております。

どこぞの通信社は「世間は女性天皇を容認」などもっともらしく発表して記事にしていますが、どういう質問内容でどういう答えがあったのかなどを公表もせず、数字だけを一人歩きさせるやり方は印象操作に他ならないのではないかと思っています。

この問題はもっと慎重に時間を重ねて考える必要があるのではないかと思う次第です。
posted by さんたま at 18:38| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平成の政治史を振り返る(第3回:自民党・公明党の共同路線の確立)

平成を振り返る日本の政治史第3回です。

9、単独から連立に再び舵を切った小渕内閣
1998年7月12日に投開票された第18回参議院議員通常選挙(7月12日投開票)で自民党が大敗したことで、橋本龍太郎首相が引責辞任をした結果、自民党総裁選挙が行われることになりました。

当時の自民党最大派閥の竹下派は派閥会長が小渕恵三(すなわち小渕派)になっており、辞任した橋本も小渕派の出身であったため、後継には同じ小渕派で派閥会長でもあった小渕が次期総裁に順当なところでありました。

しかし、この決定に同じ小渕派の梶山静六(前官房長官)が反発。派閥を離脱して総裁選に立候補。
梶山は竹下派を離脱した無派閥であり、支持基盤を持たなかったことから、河野洋平率いる大勇会(河野グループ)、三塚派の亀井静香らを中心としたグループ、旧渡辺派(元は中曽根派)の議員など、派閥を超えて広く支持を求めました。

一方で三塚派内で亀井の梶山支持を不満とし、当時小渕内閣の厚生大臣だった小泉純一郎が立候補したため、総裁選は三つ巴の戦いに拡大していきます。

7月24日投開票が行われ、予想通り小渕が225票を獲得し、自民党総裁に選出されました。
ただし、無派閥である梶山は104票を獲得して2位につけたことは驚きを以って受け止められました。

三塚派から立候補した小泉は3位に沈みました。
これ、すなわち、小泉は自分の出身派閥である三塚派すら、支持が固められなかったことになります。

同年7月30日、小渕派国会で首班指名を受け、第84代内閣総理大臣に就任。
ただし、当時の参院は与野党がねじれて野党が優勢だったため、参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、衆議院の優越規定により辛くも小渕が再指名される流れになっています。

西暦1998年(平成10年)7月30日 小渕内閣成立。
平成10年目にして「平成おじさん」が内閣総理大臣になったわけです。

内閣官房長官に同じ小渕派の野中広務(副長官は鈴木宗男)を据えて中を固めると共に、大蔵大臣に首相経験者である宮澤喜一を。外務大臣には橋本内閣で外務政務次官として、西暦1996年12月に起きた「ペルー日本大使公邸人質事件」の解決で手腕を発揮した高村正彦を。そして農林水産大臣には、農林水産政務次官の経験もある中川昭一を。そして郵政政務次官として経験のある野田聖子を郵政大臣に起用しています。

野田は「当時閣僚史上最年少(37歳)」の閣僚でした。

小渕内閣は上記のような経験・実務中心の人材を配置する一方、経済企画庁長官には官僚出身で作家として活動していた堺屋太一を民間から起用しました。また、元東大総長で物理学者にして国会議員当選1回にすぎない有馬朗人を文部大臣に起用しています。

令和の今、この内閣布陣を見ると全体的に「当時としては最強の布陣」のように私には映りました。

またこの時、外務政務次官に町村信孝(のちの衆議院議長)大蔵政務次官に谷垣禎一(のちの自民党総裁)が就任しています。

小渕内閣の最初の仕事は、橋本内閣時代から引き継がれていた「金融安定」でした。

橋本内閣では同年3月、金融機能安定化措置法に基づく金融危機管理審査委員会の決定で大手銀行や一部地銀に対して総額1兆8千億円の公的資金が投入されていました。奇しくも宮澤が言っていた「公的資金を使って不良債権を処理しないととんでもないことになる」というのが現実として起きていたのです。

ところが6月に入り、月刊「現代」日本長期信用銀行(長銀)の経営危機をスクープ報道したことがキッカケで長銀の株価は急落していました。

日本長期信用銀行とは、長期資金の財源を金融債の発行によって賄い、これにより長期資金を供給できる特権を持った銀行で、銀行法の適用を受けない長期信用銀行法によって設立されたいわゆる特殊銀行の1つです。長銀と日本興業銀行(興銀)日本債券信用銀行(日債銀)がこれにあたり、3行まとめて「長信銀」と呼ばれていました。

6月22日、マスメディアは長銀と住友信託銀行(住信)との合併を発表。しかし金融市場はこの発表後に、合併先である住信の格下げを行い、住信の株価も急落したことから、住信内部で合併を躊躇するようになります。

小渕内閣成立後、政府主導で長銀と住信との合併を実現させよう調整しながら、金融安定のための法案作成も急ピッチで進めていました。

政府は金融再生法案をまとめて国会に提出しましたが、衆議院では民主党・自由党らの野党はこれに反対。そんな最中、長銀と住信の合併が破談となり、状況は「待った無し」に陥ります。

なおかつ参議院では野党勢力が上であるため、成立のためには野党・民主党の意向を丸呑みせざるえず、金融再生法が10月12日、続く早期健全化法が10月16日に可決成立。同月22日施行。

これを受けて長銀は10月23日、東京地裁に破産を申請。即日認定され、金融再生法における特別公的管理適用となり、国有化されました。

これを受けて長信銀も再編が進み、同年12月長銀よりも規模が小さかった日債銀も国有化され、興銀は、第一勧業銀行、富士銀行と共にみずほフィナンシャルグループを設立し、みずほ銀行となります。

なお、長銀は現在、「新生銀行」として、日債銀は「あおぞら銀行」としてそれぞれその命脈を保っています。


この金融安定問題で、自民党は現状の参議院のねじれ状態では、単独政権安定が難しいことを痛感し、この頃から一部の野党との連携を進めるようになります。

まず同年11月、小渕は自由党代表の小沢一郎連立政権の基本合意を行いました。
そして11月7日、「新党平和」「黎明クラブ」などの旧公明党グループが結集し新たに「公明党」を再結成しています。
これが現在の公明党です。

少々わかりにくいのですが、公明党は1994年に新進党に合流したため、この時「政党」としては無くなっていました。

もともと政権交代を目的に結集した新進党でしたが、創価学会員の組織票を恐れた自民党竹下派の切り崩し工作により、旧公明グループは新進党から離れていき、最終的には新進党分裂に行き着きます。分裂した新進党は一部が鳩山由紀夫率いる民主党へ流れ、小沢一郎率いる自由党が生まれたものの、旧公明党勢力は衆議院で「新党平和」、参議院で「黎明クラブ」を結成していたのです。

自民党は自由党との連立だけでは安定多数を維持することが難しいため、この新「公明党」に接近し、同月協議を開始。公明党が政策としてあげている地域振興券を補正予算に組み込むことを約束し、政権協力の合意に取り付けます。

西暦1999年1月、小渕第1次改造内閣が成立。
この時、自由党から野田毅が自治大臣(兼国家公安委員長)として入閣しています。
この時点では公明党は閣外協力でした。

これ以後の小渕内閣は、のちの日本に大きな影響を残した以下の重要法案を次々と成立させていますが、これには自由党ならびに公明党の協力なしにはできなかったと思われます。


・重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(1999年5月18日)

・国旗及び国歌に関する法律(1999年8月13日)

・犯罪捜査のための通信傍受に関する法律(1999年8月18日)


また、小渕はこの時、ミレニアムである2000年を記念して、今ではプレミアム紙幣とも言われている「二千円札」の発行を決定しています。


同年9月21日、自民党総裁選実施。

この時、小渕は無投票再選を見込んでいましたが、自民党内の「YKK」である加藤紘一(加藤派)と山崎拓(山崎派)が総裁選に出馬し、またしても三つ巴の戦いになりました。

結果は小渕が350票を獲得し、自民党総裁に再選。加藤と山崎は落選覚悟の立候補で、将来の総裁選を見込んでの出馬でしたが、これを小渕は終生恨み、組閣の時は両派閥が推薦する人材をことごとく拒否したと言われます。

同年10月5日 小渕第2次改造内閣成立。
自民、自由、公明(自自公)の連立内閣の誕生でした。

内閣の顔ぶれとしては大蔵大臣の宮澤喜一と経済企画庁長官の堺屋太一は留任とし、外部大臣に村山内閣で実績のあった河野洋平(元総裁/河野グループ)を起用しています。

また、内閣官房長官に青木幹雄(党参院幹事長)。文部大臣に中曽根弘文(中曽根康弘の息子)。運輸大臣に二階俊博(現:自民党幹事長)らが初入閣しています。なお二階は当時自由党からの入閣です。

連立のパートナーである公明党からは、続 訓弘が総務庁長官として入閣していました。

また政務次官としては

外務政務次官:山本一太
通商産業政務次官:茂木敏光
建設政務次官:岸田文雄
経済企画政務次官:小池百合子


らの名前が見られます。

自民党は与党の安定政権のため、自由党、そして公明党を政権に取り込みましたが、この頃になると連立与党内で自由党の扱いが不安定になり始めていました。数の上では自民と公明だけで衆議院、参議院共に過半数を維持できるため、自由党の意向を政権に反映させる必要性が低かったというのもあります。

こういう時期を見るのに聡いのが小沢一郎でした。

西暦2000年(平成十二年)2月、小沢は自由党の存在意義を政権内に表すため、衆院の比例代表区定数を20削減する定数削減法を自民党に要求し、これを実現させると、自民党に選挙協力を求めますが、小渕はこれを巧みにかわします。

業を煮やした小沢は自民・自由両党の合併による新しい保守新党の設立を小渕に要求するものの、「小沢と一緒の政党ではやっていけない」という自民党議員の反発が生じ、小沢も「復党が認められなくれば連立解消」という主張を譲らず、4月1日の党首会談で決裂してしまいます。

同日午後、小渕は記者会見(定例会見?)時に記者から自由党の連立離脱に関する質問された時、10秒前後固まってしまい、その後、我に帰ったような表情でようやく言葉を発することができるという奇妙な現象が見られました。そして当日夜(正確には翌日4月2日の午前1時頃)、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院してしまいます。病名は脳梗塞でした。

小渕の入院後、この記者会見時の奇妙な間は一過性脳虚血発作という脳梗塞の前兆であると言われました。

小渕は心臓に持病を持っているにも関わらず、首相となり、その激務が脳梗塞を引き起こしたと考えられています。

もともと根が真面目であることから、執務終了後も大量の書類、書籍、新聞の切り抜きに目を通し、溜まっているテレビ録画を見、休日返上で様々な場所に出向き、また外遊もこなしていました。それに加え、様々な政策について有識者に意見を聞くために電話をかけまくっていたため(ブッチホン)、正直、気の休まることはなかったと思われます。


官房長官である青木が小渕の入院を知ったのは、小渕が入院した1時間後の2日午前2時頃と言われています。午前6時頃、小渕の主治医が青木を訪れており、この時に話を聞いた青木は小渕の「執務不能」を判断したと思われます。

ここから先は事実をベースに推測を交えて綴りますが、青木は小渕の「執務不能」の現実に官房長官としてどう対処するかと突きつけられつつも、そのための時間はほとんどありませんでした。取り急ぎ青木は自民党幹部の以下の4人をホテルニューオータニに緊急招集しました。

森 喜朗(自民党幹事長/森派会長)
野中広務(自民党幹事長代理/小渕派)
亀井静香(自民党政調会長/江藤・亀井派)
村上正邦(自民党参院議員会長/江藤・亀井派)


この時、党三役の一人である総務会長・池田行彦(加藤派)の出席がなかったのは、体調不良によるものでした。
すなわちこの時点で小渕内閣を支える主流派閥のトップがほぼ揃っていたのです。

ここで青木は小渕の病状が脳梗塞であり、首相としての執務は不可能であることを他4人に話し、善後策を協議しました。
おそらく、ここで「青木が総理大臣臨時代理を引き受ける」というシナリオができたと思われます。

2日午後7時、青木が順天堂大学医学部附属順天堂医院の小渕を訪れました。
ここで、青木は小渕より「あとを頼む」と臨時代理任命されたと言われます。

2日午後11時、青木が記者会見で小渕の入院を正式に公表し、その後3日午前0時、上記五人組により今後の事態の協議が行われました。

内閣総理大臣臨時代理はあくまでも「臨時代理」であり、正式なものではありません。小渕の回復が難しい現状において、青木が取るべき策は内閣総理大臣臨時代理としての地位を以って、内閣を総辞職し、新しい内閣を組閣することでした。

よってこの時の「今後の事態の協議」は必然的に「後継総裁・総理を誰にするか」でした。

江藤・亀井派の村上と亀井は森を後継に推挙しました。この時は、もうそういうシナリオができていたのか、野中は公明党に「森でいく」という了解を取り付けていたようです。結果、森が後継総裁となることで合意され、今後のスケジュールもこの時固まったと見られます。

3日午前11時、青木が記者会見し、小渕の病名を「脳梗塞」と公表し、小渕の意思で内閣総理大臣臨時代理に就任したと発表します。
この発表は「脳梗塞状態の小渕に代理指名が可能かどうか」の疑惑が起き、野党は一斉に批判しました。

しかし、政権与党としては自由党の連立離脱の流れに動いている渦中において、小渕の入院を理由に総裁選を行い、政治的空白を作ることは政治家としては許されないことであり、この時集まった4人(青木を含めて五人組)は、この時、世論に何を批判されても甘んじて受けるつもりだったと思われます。

4月4日、小渕内閣総辞職。

小渕の在任期間は通算616日(1年9ヶ月あまり)でしたが、長信銀の処理に伴う金融の安定、前述の通りのちの日本に大きな影響を与えた重要法案の可決二千円札の発行。そして令和の現在まで続く自民と公明の共同戦線の確立など、今から見れば、ここがのちの日本の分水嶺だったのかと思える内閣でした。

そして自民党内の話で言えば、派閥会長である小渕を失った小渕派は、前首相だった橋本を派閥会長に据えて急場を凌ぎますが、旧竹下派分裂の影響で次期総裁候補の人材不足に陥っており、これ以後、自民党の主流は福田赳夫の流れを組む森派に移っていくのです。


10.自らの健康を犠牲にして政治を行なった森内閣
西暦2000年(平成十二年)4月5日、前日の小渕内閣総辞職により、衆参両院本会議で森首相が内閣総理大臣に就任し、同日、第1次森内閣が正式に発足しました。ただし、内閣官房長官を含めて全て前内閣からの再任者で組閣されました。

連立離脱した小沢一郎の自由党内部では、政権与党の残留を希望した野田毅、海部俊樹らによって新たに「保守党」が結成され、与党への協力を維持したため、この連立政権は「自民・公明・保守(自公保)」となりました。

5月14日、入院中の小渕が死去。この翌日、森は神道政治連盟国会議員懇談会に出席し、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言し、この内容がマスコミによって大々的に広められてしまいます。

森の発言は文字通り神道系の政治連盟の会合で発したものであり、国会はおろか一般の人々を向けに発したわけではないにも関わらず、メディアはこれを「問題発言」「首相の資質を疑う」など完全に揚げ足取りの論調を展開しました。

6月2日、野党は衆議院に内閣不信任決議案を提出。これを受けて森内閣は同日、衆議院解散を決定します。

同年6月25日、第42回衆議院議員総選挙が投開票され、与党である自民党は38議席を失い、公明は11議席を失い、保守党も11議席を失うなど、与党が合計65議席を失うという大敗を喫してしまいます。

一方、野党は民主党が32議席、自由党も4議席、社民党も4議席、その他も含め合計46議席増やし、与野党の攻防としては野党の圧勝に終わったものの、過半数は依然として政権与党にありました。

同年7月4日、第2次森内閣成立。
第1次森内閣が小渕内閣の引き継ぎであったため、森としての本格的な組閣はこれになります。

内閣官房長官を青木から森派の中川秀直に代えたものの、主要ポストである外務大臣(河野洋平)、大蔵大臣(宮澤喜一)は留任させ、なおかつ保守党党首である扇千景を建設大臣・国土庁長官に据えました。また環境庁長官には民間より川口順子が就任しています。

この時、内閣官房副長官に安倍晋三が、内閣総理大臣補佐官に中曽根弘文が就任しており、政務次官級では農林水産政務次官に石破茂が、自治政務次官に中谷元が、北海道開発政務次官に橋本聖子などの名前が見られました。

7月8日、第26回主要国首脳会議(サミット)に先立ち、福岡で蔵相会合開催。12日・13日には宮崎のシーガイアで外相会合開催。そして21日から23日までは沖縄で第26回主要国首脳会議が開催。森は議長を務めました。

しかし、同年10月、官房長官の中川秀直が数々のスキャンダルで辞任に追い込まれ、後任の官房長官に福田康夫が就任しました。福田は当時初入閣でありながら、失言の多い森をよくサポートし、その有能な執務能力を党内に見せつけることになりました。

ところが野党の攻勢は止まらず、11月21日、森内閣不信任決議案が再び提出されます。

不信任決議案は自民党の圧倒的多数で否決されると思われていましたが、この時、自民党内の加藤紘一と山崎拓がこの不信任案に賛同の意向をしていました。衆議院480議席のうち、与党は272議席。ここで加藤派45議席と山崎派19名の合計64議席が野党側に回れば、不信任決議案は可決される流れでした。

加藤と山崎が不信任決議案に賛同の考えを示したのは、小渕の入院に伴う森の総裁総理起用は密室政治の疑惑があったこと、その結果が国民の不満となり第42回衆議院議員総選挙で与党大敗に繋がったこと、森総理の失言がメディアに取り上げられ、この総理総裁では自民党が持たないと考えたことなどがあったと思われます。現に、この当時の森内閣の内閣支持率は低迷していました。

一方で、内閣不信任決議案が可決した場合、自民党橋本派の野中広務は「衆議院解散」を森に迫るつもりでいました。

野中はそれを見込んで選挙の際に効力を発揮する「自民党公認」の権力を最大限に利用し、不信任決議案に賛成した議員に公認は出さないどころか、対立候補すら擁立するとまで触れ、人によっては内容証明郵便まで発送する念の入れようで、とことんまで加藤・山崎両派所属の国会議員に揺さぶりをかけていました。

党公認を得られないと言うことは、解散されたら無所属で立候補することになります。
加藤・山崎両派は自民党を改革するつもりはあっても、自民党を離党する考えはなく、これは全くの盲点でした。
ましてや小選挙区比例代表並立制では政党の支援なしに当選するのは非常に難しいと言わざる得ませんでした。

野中の工作は加藤派・山崎派の議員の間に動揺を走らせ、特に加藤紘一は派閥の長として自派閥の議員の議員生命・政治生命を失うようなことを強制することはできませんでした。結果、加藤・山崎の両名は本会議を欠席し、その他の議員も多数が本会議を欠席する選択を行い、内閣不信任決議案は否決されました。

これが俗に言う「加藤の乱」でした。
これで宏池会(加藤派)は、加藤紘一を主とする「加藤派」、と当時の自民党総務会長である池田行彦や堀内光雄らが反加藤グループを立ち上げ(堀内派)、分裂することになり、加藤派は少数派閥に転落してしまいました。


2001年2月10日、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルと衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事故」が発生。森は第1報が入ったときゴルフ場にいたものの動かず、その後1時間半の間プレーを続け、危機管理上問題であるとして国会で攻撃されました。

この事件時、マスメディアは報道の際に「その時の映像とは全く無関係のゴルフの映像」を多用し、森のイメージを著しく貶めるような意図的としか思えないような放送をした結果、内閣支持率は8%に下落しています。

ただし、令和の今においては、この事件を「総理の危機管理不足」と評するのは少々お門違いと言えます。
まず、海難事故全般の主担当は海上保安庁(所管は国土交通省)であり、追突された船は県立高校の所有船であることから、文部科学省も関わってきます。なおかつ、アメリカ海軍が関わっていることから外務省も無関係ではありません。

国土交通省、文部科学省、外務省と言う3つの省庁が絡む事象の場合は、省庁間の調整を含め、内閣官房預かりとするのが正しいフローであり、官房長官が責任を以って処理に当たるのが筋道のようです。

この「えひめ丸事件」は翌月の3月5日に3回目の森内閣不信任決議案の提出につながり、決議案は否決されたものの4月26日、内閣総辞職に至っています。

森内閣は小渕の入院により、降って湧いたような設立経緯から「密室政治」「密室で決められた総理」と言われました。

森本人に方言癖があり、数々の失言をマスコミに取り上げられ、よってたかって叩かれまくりましたが、前述のように自由党の連立離脱という政局に繋がるようなタイミングで政治の空白を作ることなく、火中の栗を拾い、暫定的とは言え政治を安定にもって行ったこと評価されて然るべきではないかと思います。

のちに森は、首相就任時の所信表明演説後に前立腺がんが見つかったと話しています。

しかし、当時は政治の安定することが主命であったため、発表も手術もできず、放射線治療で抑えながら首相の執務をこなしていたと話しています。それゆえ、1年で辞めると決めていたようです。

ある意味、自分の命を危険に晒しながら、政治を行なっていた訳で、そう言う人間がこの世にどれだけいたかを少しは考えてみたほうが良いのではないかと思いました。

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2019年05月02日

平成の政治史を振り返る(第2回:非自民連立政権から自民党単独政権への復活)

昨日、新しい天皇陛下が即位され、令和の時代に入りました。
新しい令和の時代に、新しい風と多くの幸があらんことをお祈りいたします。

さて、平成時代の日本の政治史第2回です。

今回は自民党の下野後の非自民連立政権とその崩壊、そして復活した自民党単独政権までの流れを追っていきます。


5、政治改革を実現させた細川内閣
1993年(平成五年)7月18日に行われた第40回衆議院議員総選挙は、大量離党者を出した与党・自由民主党(自民党)が改選前の議席をほぼ確保した223議席(1議席増)を獲得したもの単独過半数割れとなり、野党第一党の日本社会党(社会党)も66議席を失う70議席という大敗に終わりました。

代わって、新党である新生党が55議席、日本新党が35議席、新党さきがけが13議席を獲得し、既存野党である社会党、民社党、社会民主連合(社民連)と合わせて243議席を獲得し、与党・自民党が結党以来初の野党に落ちることになりました。

宮澤内閣は総辞職となり、同年8月9日、野党8党派による細川連立政権が誕生。細川内閣の成立となります。
公選知事経験者の首相就任は史上初です。

内閣の顔ぶれとして特筆すべきなのは

内閣官房長官:武村正義(新党さきがけ)
内閣官房副長官:鳩山由紀夫(新党さきがけ)

運輸政務次官:二階俊博(新生党)
総務政務次官:小池百合子(日本新党)
防衛政務次官 山口那津男(公明党)


というところでしょうか。

細川内閣の最大の公約は「自民党政権が成し遂げられなかった政治改革の実現」の一点に絞られていました。
首相は年内に政治改革の実現を掲げ、できなければ政治責任を取ると明言しています。

連立政権側は

・公職選挙法の一部を改正する法律
(小選挙区制比例代表並立制の導入)

・衆議院議員選挙区画定審議会設置法
(衆議院小選挙区選出議員の選挙区の改定などの調査を行う機関の設置)

・政治資金規正法の一部を改正する法律
(連座制の強化等)

・政党助成法
(政治献金の規制。政党交付金の創設)

をまとめて「政治改革4法案」として提示しましたが、選挙制度改革において、連立政権側が小選挙区比例代表並立制(現在の選挙制度)を主張したのに対し、野党・自民党は「小選挙区制の導入は民意を正確に反映しない」と主張し、これに社会党議員も同調したため、審議は難航しました。

同年11月18日に衆議院で連立与党案が可決されましたが、当初の公約どおり年内には成立させられず、結局、翌1994年(平成六年)1月21日、参議院にて否決され、両院協議会に持ち込まれました。

このまま衆議院での再議決を行うのはリスクが伴うことから、衆参両院議長の斡旋で1月29日、細川首相と河野洋平自民党総裁のトップ会談が行われ、両者の合意案を取りまとめることに成功。衆参両院を通過し、3月4日に成立を見ました。

1991年の海部内閣の時代から足掛け3年に渡り、非自民の連立政権によって政治改革が成立するのは皮肉な話です。

この時成立した「小選挙区比例代表並立制」と「政党交付金」は、現在まで継続されています。

政治改革関連4法案を通過・成立させた実績は、公約通りに行かなかったものの、世間は「自民党ができなかったことをやり遂げた」として好意的に受け止め、内閣支持率は高い水準を維持していました。

この支持率を背景に細川は2月3日、消費税を福祉目的税に改めて税率を3%から7%に引き上げる「国民福祉税構想」を発表します。

実は前年9月の日米間の経済問題を協議する日米包括協議において、クリントン大統領から「内需拡大とそのための所得税減税」が要求されており、細川はこれを「翌年実施する」と回答し、次回首脳会談の翌年2月11日までに日米包括協議の合意を図ることまで約束していました。このため、日本側は減らす所得税分を別の方法で埋める財源確保の必要に迫られていたのです。

しかも細川内閣は「赤字国債を発行しない」を政権公約にしていたため、新生党の代表幹事小沢一郎は大蔵事務次官の斎藤次郎と共に消費税増税で補填しようと計画しました。

2月2日の政府・与党首脳会議でこの計画を披露した細川は、「消費税増税は絶対反対」という社会党が反発。官房長官である武村も反対を示します。にも関わらず、細川は翌3日の深夜に突然「国民福祉税構想」を発表したのです。

これには官房長官はもとより内閣閣僚までも寝耳に水の話で、翌4日は撤回されてしまいます。
もちろん2月11日に予定されていた日米首脳会談で約束を果たせなくなり、細川はついに赤字国債の発行に踏み切らざる得ませんでした。

この国民福祉税構想は小沢一郎と斎藤次郎の間で考えられていたもので、内閣官房長官である武村は一切知りませんでした。
小沢は、連立政権による内閣発足後、内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を招集し、その政権の実権を掌握しようと動いており、あくまでも官邸主導の政治を行う武村とは主義主張が噛み合って合いませんでした。

「国民福祉税構想」はそんな小沢と武村の間の対立を一気に悪化させ、そしてそれは内閣の崩壊に繋がっていきます。

小沢は細川に対し、自分を取るか武村を取るかの選択を迫り、細川は武村排除を目的とした内閣改造を計画します。ところがそこに降って湧いたような話が持ち上がります。「細川自身が佐川急便から金を借り、未返済のままとしている」という疑惑です。

細川は「佐川から借りた金は熊本の自宅の門・塀の修理のための借入金で既に返済」と釈明しましたが、返済の証拠として提出された領収書は発行者名も押印もなかったため、証拠とみなすことは出来ず、野党自民党は予算審議を拒否、国会は空転してしまいます。

これら諸々の問題が積み上がり、進退窮まった細川は西暦1994年(平成六年)4月8日、突如辞意を表明。25日、内閣総辞職となりました。

細川内閣の在任期間は263日間で1年にも満たない期間でしたが、自民党が3年かかっても成し得なかった政治改革四法案を半年ほどで成立させ、政治改革を実現させたのは後世の歴史に残る実績と言えるでしょう。とはいえ、これが唯一の実績ですが。


6、不幸が重なった羽田内閣
細川の突然の辞意に対し、小沢一郎は後継首相を自民党の渡辺美智雄(ミッチー/渡辺派会長)に求めました。小沢は渡辺に「自派の議員を引き連れて新生党に入党すれば首相に推戴する」という話をしたようです。これには最大野党である自民党の勢力減少の狙いもあったではないでしょうか。

結果としては渡辺に同調する議員が少なかったのと、自民党の河野洋平総裁に離党を慰留され、この話は立ち消えになりました。

一方、連立政権側の代表者は新生党党首の羽田牧を首相にすることで合意が取れていました。これを小沢も了承し、西暦1994年(平成六年)4月25日、与党7党1会派(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合)と、自民党を離党した議員により結成された3党(自由党、改革の会、新党みらい)が、羽田を国会で首班指名しました。

1994年(平成六年)4月28日、羽田内閣成立。

ここまではよかったのですが、羽田内閣成立後、当時、民社党委員長の大内啓伍が余計なことをやってしまいます。
それは、大内が連立与党側の新生党、日本新党、民社党、自由党、改革の会の5会派に働きかけ、統一の院内会派「改新」を立ち上げたからです。

連立与党内の最大勢力は社会党の70議席で、2位の新生党の55議席には25議席の差がありました。
しかし、5会派が統一会派を組むと総勢130近い勢力となり、社会党の勢力を超え、名実ともに連立与党の最大会派となったのです。
これは明らかに与党内の社会党の勢力を低下を狙いとしたものに他なりませんでした。

しかも5会派はこれを社会党になんの相談もなく行ったため、当時の社会党委員長だった村山富市(のちの総理大臣)が大激怒し、連立政権から離脱を表明。武村正義率いる新党さきがけもこれに続いたため、羽田内閣は少数与党勢力に陥ってしまいました。

政治の実情は細川内閣が予算成立前に辞任したため、平成六年度は4月1日に50日間で11兆0514億円の暫定予算を可決、これが失効する5月20日には期限を会期末の6月29日まで40日間延長して10兆8930億円を追加の暫定補正予算を可決という綱渡りで急場をしのいでいました。

ゆえに羽田内閣のミッションは「年度予算の成立」が急務となっていました。

すったもんだがあった挙句、平成六年度予算案が参議院で可決され成立したのは6月23日です。

そして予算成立を待っていたかのように、自民党が羽田内閣不信任案を提出しました。

自民党は、羽田内閣の与党が少数であり、これが民意を反映したものではないこと、民意を反映したものでない勢力が政権運営をしていることが民主主義の原理原則に背くことなどを理由に挙げていました。

本来であれば、連立与党の勢力は野党自民党の単独勢力を上回っていたはずですが、統一会派「改新」の結成の影響で社会党と新党さきがけの議席を失い、野党勢力は300近くに及んでいたはずです。すなわち内閣不信任案は25日正午に開かれる衆議院本会議で可決されることがほぼ決定的になっていました。

これに対し、羽田は解散も考えたようですが、この時点での解散総選挙は新しい選挙区区割り法が成立していなかったため、このまま解散しても従来の中選挙区制での総選挙となり連立側に勝算が薄いと判断。25日の本会議開会の直前に衆議院議長に対して内閣総辞職を通知しました。

羽田内閣の在任期間は64日で戦後2番目の短命内閣でした。


7、46年ぶりの社会党政権の誕生・村山内閣
西暦1994年(平成六年)6月29日、内閣総理大臣指名選挙が行われ、野党である自民党と社会党、新党さきがけは当時社会党委員長である村山富市を首班指名。連立与党側は小沢一郎の要請により海部俊樹が自民党を離党して首班に指名されました。

実は自民党は社会党が連立政権から離脱した時点で、自民党前幹事長だった梶山静六以下の特命部隊が結成され、社会党との連立を模索し、政策研究を進めていました。その結果、自民・社会にさきがけを加えた「自社さ連立政権構想」となり、既存連立与党に対抗する準備を着々を進めていたと思われます。

また、小沢は海部俊樹を擁立したことで、自民党から連立与党側への造反が多数出ると予想していました。

しかし、結果は思ったほどの造反は起きず、投票結果は村山富市が261票海部俊樹が214票、47票の票差で村山が内閣総理大臣に選出されました。
この内閣総理大臣指名選挙は自民党が2年ぶりに政権与党に返り咲いた瞬間であり、46年ぶりの社会党委員長を首班とする内閣でした。

1994年(平成6年)6月30日、村山内閣成立。

外務大臣に河野洋平(自民党総裁)、大蔵大臣に武村正義(新党さきがけ代表)と連立を組む政党の代表を据え、通産大臣にベテランの橋本龍太郎を置いたあとは

文部大臣:与謝野 馨
運輸大臣:亀井静香
自治大臣:野中広務、
経企庁長官:高村正彦
科技庁長官:田中真紀子


など、自民党の若手部隊を初入閣させるなど、従来の自民党とは一新されたイメージを打ち出しました。

また村山自身も同年7月の第130回国会の所信表明演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、従来の日本社会党の政策を転換しています。

村山内閣在任中は「阪神・淡路大震災」「地下鉄サリン事件」「全日空857便ハイジャック事件」など、日本の歴史に確実に残る大事件が起き、その対応に苦慮することも多かったようです。

また「日本が太平洋戦争前、同戦中に行ったとされるアジア諸国への『侵略』や『植民地支配』について公式に謝罪する」という、いわゆる「村山談話」を発表したことは、日本の外交史に大きな影響を残したと言っても過言ではないでしょう。


西暦1995年(平成七年)7月23日、村山内閣の最初の国民審判となる第17回参議院議員通常選挙は、与党3党としては過半数超えを維持したものの、日本社会党単独では大きく議席を減らしました。

村山はこのことで辞意を漏らしたと言われますが、与党側が慰留し、内閣改造を行うことで続投となったそうです。
これは、村山の後継に当時の自民党総裁である河野洋平(副総理兼外務大臣)が意欲を見せていましたが、自民党最大派閥である小渕派の支持を得られず、止む無く続投になったと言われています。

そのせいか、この年10月に行われた自民党総裁選では小渕派は橋本龍太郎を擁立。河野は推薦人を確保できず辞退に追い込まれています。

ところが、1996年(平成八年)1月5日、突然の首相退陣を表明します。
辞意の理由は現在まで明確になっておりませんが、予算審議に入る前の辞任にマスコミ、世論は一斉に村山を批判しました。

同年1月11日、村山内閣は総辞職しました。


8、自民党を復活に導いた橋本内閣
村山が辞任したものの連立与党の「自民・社会・さきがけ」の枠組みは崩れることなく、後継総理には自民党の橋本龍太郎が選ばれました。

西暦1996年(平成八年)1月11日、橋本内閣成立。
厚生大臣に菅直人、沖縄開発政務次官に森田健作が起用されています。

橋本内閣が解決すべき最初の課題は「住専問題」でした。

当時、バブル景気崩壊によって地価が下落し、住宅金融専門会社(住専)は多額の不良債権を抱えていました。これらの住専には農林系金融機関を中心とした金融機関が貸し込んでおり、これらが貸し倒れ、処理が遅れると約6兆円以上の損失が発生し、日本中の金融システムの連鎖破綻が懸念されていました。

橋本は金融システムの連鎖破綻を防ぐため、6,850億円の公的資金を投入する政策をまとめ、「特定住宅金融専門会社の債権債務の処理の促進等に関する特別措置法」(住専法)を成立させて住宅金融債権管理機構を設立し、その処理を合法化させました。

また外交面ではアメリカに対し、普天間飛行場の返還を要求。4月に全面返還で日米政府が合意しています。
普天間の代替基地についても名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋を付けています。
これが令和の現在まで尾を引いている普天間基地移設問題の始まりです。


同年9月27日、臨時国会冒頭に衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の第41回衆議院議員総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席を獲得。橋本内閣の信任投票としての成果は十分でした。しかし連立を組んでいた日本社会党は議席を半減させ15議席に。さきがけは7議席を減らして2議席と言う散々な結果でした。

この選挙結果を受けて同年11月7日、第二次橋本内閣が組閣され、3年ぶりに自民党単独内閣を実現しています(社会党、新党さきがけは閣外協力へ)。

西暦1997年(平成九年)4月1日、村山内閣時代に成立していた消費税法改正が施行され、既存消費税3%に地方消費税2%が上乗せされて5%となりました。

またこの年の通常国会では、沖縄のアメリカ軍軍用地を日本政府が用立てる駐留軍用地特措法において、当時の沖縄県知事である大田昌秀が土地強制使用の代理署名を拒否したことで、1996年に米軍が個人の土地を不法占拠している「駐留軍用地特措問題」が勃発しました。

この問題の解決のため、橋本は「政府が土地を永久にかり受けられるようにする」改正案を国会に提出。同年4月、新進党(新生党改め)党首の小沢一郎と党首会談を行って特措法の合意を取り付け、新党さきがけを離党した鳩山由紀夫が結成した民主党の協力も取り付け、見事成立させました。

順調に政権運営を行なっていた橋本内閣でしたが、少しずつ陰りが見え始めます。

同年9月、自民党総裁に再選された橋本は内閣改造を行い、第二次橋本改造内閣を成立させました。

この時、橋本はロッキード事件で有罪が確定していた「全日空ルート」の中心人物・佐藤孝行を総務庁長官に起用しました。
しかし、これは橋本の本意ではなく、自民党旧渡辺派(派閥会長である渡辺美智雄は1995年9月15日に病没)の元老・中曽根康弘の強い推薦を受けての起用でした。

前述の通り、橋本内閣は自民党政権でありながら、若手人材を閣僚に起用したことで「自民党一新」を強くイメージづけ、住専問題、普天間返還要求、駐留軍用地特措法改正など数々の政治課題を解決してきました。

しかし、ここで「古き自民党の亡霊」とも言うべきロッキード事件の有罪確定者を閣僚に起用したことは、(橋本の本意ではないとはいえ)国民にする裏切りに他ならず、完全に「悪手」でした。たちまちマスコミ・世論は橋本を批判。佐藤は在任日数11日で辞任に追い込まれ、内閣支持率は一気に20%ダウンし、30%台に急落します。

とはいえ、橋本の首相としての力量には些かの陰りはなく、同年11月に、ロシアのクラスノヤルスク市内で行われた日露首脳会談では、2000年までに領土問題を解決することに合意し、同月には「財政構造改革の推進に関する特別措置法」(財政構造改革法)を成立させて、2003年まで毎年度赤字国債の削減を明文化し、財政再建にも尽力します。

しかし時代の波は橋本の予想をはるかに超えるスピードで進んでいました。

同年11月3日、準大手証券会社である三洋証券が会社更生法の適用を申請しました。戦後初の証券会社の倒産でした。

この時、三洋証券は10月31日(金曜日)に借り入れた無担保コール翌日物の返済期限である11月4日(火曜日)を待たずして、その前日である11月3日(祝日)に会社更生法の適用を申請したため、無担保コール・劣後ローン市場の大混乱を引き起こしました。

各金融機関のクレジットラインは急速に縮小したため、コール市場で綱渡り的資金調達を行なっていた北海道拓殖銀行は耐えきれず、同月15日経営破綻。これは史上初の都銀の破綻でした。

さらに11月24日、かねてより週刊誌で疑惑が取り沙汰されていた四大大手証券会社の一角である山一證券が自主廃業を発表

たった1ヶ月の間に大手証券会社、準大手証券会社、都市銀行の3社が吹き飛ぶと言う前代未聞のこの事象は政権に強いショックを与え、と自民党内や米国から「財政再建の前に景気対策に注力すべき」と言う意見が飛び交うようになり、翌12月、2兆円の特別減税を発表しています。

しかし、日本経済の閉塞感は変わらず、翌1998年(平成十年)4月、橋本は4兆円減税と財政構造改革法の改正(赤字国債発行の毎年度削減を一時停止を可能とする「弾力条項」の追加)を表明し、財政再建路線を転換してしまいます。

方針転換後の橋本の動きは素早く、同年5月には社民党(社会党改め)と新党さきがけとの連立政権を完全に解消しています。これは離党議員の復党や無所属議員の取り込みで衆議院の勢力が自民党単独で過半数を超えたことが要因でした。

あた、日本経済に潜む金融不安に対する政府体制の強化として、同年6月、大蔵省から大蔵省銀行局や証券局の所掌事務のうち、民間金融機関等の検査・監督を分離させ、内閣総理大臣直轄の「金融監督庁」(現:金融庁)を設置しました。

ところが、世論はこれについても冷ややかに受け止め、なおかつ閣僚級の発言不一致などが連なり、同年7月12日に行われた「第18回参議院議員通常選挙」で、与党自民党は改選前の69議席を44議席に減らし、惨敗。この責任をとり、橋本内閣は総辞職となりました。

橋本内閣は3年ぶりの自民党政権として復活を果たし、数々の政治課題を解決に導きました。
しかし、バブル崩壊後に押し寄せた景気後退の波が大きく、財政再建から景気対策に方針転換したものの、景気低迷・失業率の増加につながってしまい、参議院議員通常選挙で支持されなかったのが敗因でした。


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