2018年04月19日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(90)-博打-

西暦1184年(寿永三年)2月6日、鎌倉軍別働隊(総大将・源義経)は、福原(兵庫県神戸市中央区)の北側の夢野一帯に展開している平家軍の抑えとして、甲斐源氏の安田義定に七千騎を与えて、これを牽制させ、自らは八千騎を率いて翌7日の矢合わせ(開戦)に間に合わせるべく、急ぎ塩屋口(兵庫県神戸市垂水区塩屋町)を目指して進軍を進めていました。

途中、軍勢が通るには難儀な崖にいくつか出くわしては道を変え、道を変え、試行錯誤で進むものの、矢合わせでの遅刻はなんとしても避けがたく、義経は気持ちにイライラが募っていました。

崖に出くわす際に、兵たちの何人かが崖から落ちそうになり「こんなところで死にたくはない」などと騒ぎ立てたりしたので、義経が

「何事か?」

と訝しんだので

「兵たちが道を踏み外して崖に落ちそうになったようです」

と一人の武士が答えました。
この武士は武蔵国平山郷の住人で平山季重といい、鎌倉の頼朝の直属の武士で、この度の出陣に際に義経につけられた者です。季重は頼朝の挙兵時から付き従っている古参の者で、今回は同郷の熊谷直実(武蔵国熊谷郷の住人)と付き従っておりました。

「戦はまだ始まってはおらぬ。このようなところで兵の損耗はしたくないものだ。」

義経が独り言のようにぼやくと

「かと言って、道先案内人もおりませぬ」

傍から土居実平が「ぼやくでない」と言わんばかりにピシャッと嗜めました。
そこで季重が

「それでは、私が先導いたしましょう」

と馬を先に駆けさせようとすると

「待たれよ。そなたは東国武士。西国のこの辺りの地理に明るいとも思えぬが」

と実平が制止しました。

「これは土居殿のお言葉とも思えぬ。京の公家どもは花を知り、我ら剛の者は敵の背後を知る。これぞ東国武士の心意気ぞ」

と季重が堂々と反論するのが義経にはおかしく映ったのか。

「あははは!」

と笑ってしまいました。

「そうか。東国武士は敵の背後を知りつくしているゆえに、土地の不案内はさしたることではないと申されるか」

「お耳汚しはご容赦くだされ」

季重は馬上で頭を下げ、苦笑しました。
義経は馬に乗ったまま、崖の方に近づき

「この崖の先は一の谷であろうか」

と言うと

「されど、この崖では軍勢動かせませぬ」

実平は義経を諭すように言うと、先を促そうとしましたが、義経はしばし崖下を見定めたまま動きませんでした。

「九郎殿」

実平がまた促そうとしますが

「土居殿、すまぬが我が軍勢を率いて先に塩屋口に先に向かってはくれぬだろうか?」


と思いをもしないことを義経が言ったために、実平は一瞬動きが止まりました。
しかし、「ん!んー!」咳払いをして威儀をただすと

「すみませぬ。仰っている意味がわかりませぬ。ここに九郎殿を置いて、私だけ先に行けと?」

「いや。私の郎党もここに残す。いや、そうだな.......あと.一千騎ほど残してもらえると助かるが。」

「いったい、何をお考えで?」

「安田殿に七千騎を預け、夢野の平家軍を牽制させたことで後顧の憂いはなくなった。そして、この崖の下は一の谷にもっとも近い。この崖を下り、奇襲を行うならここしかないと思われぬか?」

「はぁ?この崖を降りるですと?」

さすがの実平も大声で義経を窘めようとしました。

「成功する可能性は少ない。いや、むしろ失敗する可能性の方が高いかもしれない。だが成功すれば、我が軍は東西だけでなく北方からも一の谷を攻撃できる。これは戦略的にはかなり大きい」

「すみません.......頭が痛くなってきました.......どう考えても正気とは思えませんし、兵の損耗につながることを認めるわけには行きません」

「土居殿!」

義経は馬を下りました。実平も合わせて呆れながら馬を下ります。
義経は実平にヅカヅカと歩み寄り

「だからこそ、土居殿には七千騎を率いて、塩屋口を目指して欲しいのじゃ。明朝7日の矢合わせは、本隊の総大将である蒲殿(範頼)との共同作業。それを違えるのは軍律違反になってしまう」

「しかし......」

実平は義経から目線をそらして、頭を左右に降りました

「我らが奇襲には一千騎あれば十分よ」

実平は義経の顔をマジマジと見ると

「では、どうあっても?」

と義経の覚悟を見定めようと、義経の目をマジマジと見つめました。
義経は何も答えず、ただ大きく1回頷きました。

実平は目を瞑って一呼吸おくと

「平三(梶原景時)殿がこれを知れば、烈火のごとくお怒りになりましょうな.......」

と独り言のように呟きました。
この時、梶原景時は頼朝より本隊の戦目付(監察)を命じられていたのです。

「私は別働隊大将の名代として塩屋口に向かい、明朝本隊と呼応して攻撃を開始します」

それだけ言うと実平は自分の馬に戻って、鞍に跨りました。

「九郎殿、御武運を」

それだけ言って、平山季重や熊谷直実たちら諸将の元に帰って行きました。
義経は深く頭を下げてそれに応えると、

「武蔵坊!武蔵坊はどこじゃ!」

と声をあらげて、自分の郎党である武蔵坊弁慶を召しました。
しばらくすると、僧兵姿の大男が乗った馬が義経の前に現れ、馬から飛び降りると

「武蔵坊。御前に」

とひれ伏しました。

「その方、この辺りの民家を尋ね、あたりの地理に詳しい者を探して参れ」

と義経が命ずると

「殿、なんのためにでございまするか」

と弁慶が尋ねたので

「この崖を下りて、敵の本陣を奇襲するための作戦を練るためじゃ」

と義経が答えると、義経は弁慶に近づいて肩に手をかけ

「良いか、この成否はそなたにかかっておる。心してかかれ。事は急ぐ。すぐにかかるのじゃ!」

と声をかけると

「ははーっ」

と弁慶はさらに深く頭を下げ、馬に駆けて戻り、森の中に消えて行きました。
そして土居実平は義経より預かった別働隊七千騎を率いて、塩屋口に向かったのです。

一の谷の開戦まであと半日に迫っていました。

(つづく)
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2018年03月20日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(89)-休戦の申し入れ-

西暦1184年(寿永三年)2月4日に京都を出発した鎌倉軍(源範頼、源義経)は、平家の拠点・福原に向けて進軍を開始しました。翌5日には、摂津国と山城国の境にある三草山(大阪府豊能郡能勢町長谷)で、丹波路を進軍中の義経軍と平家小松家軍(平資盛、有盛、師盛、忠房)が合戦となり、義経軍が小松軍を討ち払っております。

範頼との軍議で矢合わせ(開戦)は2月7日と確定していたため、義経軍はそれまでに塩屋口(兵庫県神戸市須磨区)に着陣しなくてはなりません。したがってさらに進軍を続けますが、ここでまた物見により新たな知らせが飛び込んできました。

摂津国夢野(兵庫県神戸市兵庫区夢野町)あたりに約1万騎の平家の大軍が展開していたのです。義経軍はまたも進軍を妨げられ、善後策を協議することになりました。

「1万以上の大軍となれば、平家方でも相当の武名高い武将が大将と見るべきでしょう」

土肥実平は長年の戦いの勘で義経に助言しましたが、安田義定

「待たれよ。相手が1万となると、三草山とはわけが違う。こっちもそれ相応に兵力の損耗も計算せなばならない。しかしこれ以上時を奪われると、7日の矢合わせに間に合わなくなる。そうなると、九郎殿の面目が立たなくなってしまう」

「しかし、このまま捨て置いて我らが進軍すれば、敵に後ろを取られる可能性があります」

「ううむ。前門の虎、後門の狼というわけか......」

実平の反論に義定は言葉を継ぐことができませんでした。
しかし、義経は

「夢野口の軍勢もこちらにはまだ気づいていまい。だから不必要にこちらから攻撃する必要はないと思うがいかが?。ただ、土肥殿が仰る通り、後ろから攻撃されるのは困りまするな。」

「総大将は九郎殿じゃ。御裁断を」

義経はしばし考え込むと

「兵を二手にわけ、七千騎を安田殿にお預けいたす故、ここに駐屯してもらえないだろうか。我らは残りの七千騎を率いて塩屋口を目指して進軍する」

と義定に下知し、それを受けた義定は一礼して

「はっ。承知仕りました。必ずや夢野口の敵を叩いて見せましょうぞ」

と頭を下げ、命令を承服しました。
しかし、義経は

「いや、7日の矢合わせまでは決して動いてはなりませぬ。夢野口には物見を出して平家軍の動きを注視し、我らが後ろから矢を射かけられぬことのないよう、守っていただきたい」

と念を押すと、義定はニヤリと笑って

「心得ました」

ともう一度、頭を下げました。

こうして、鎌倉軍別働隊の義経軍は2つに別れ、安田義定(甲斐源氏/遠江守)が七千騎を率いてここの守りを固め、義経軍本隊の七千騎の後詰となりました。義経軍の後ろの備えを任された義定は、俄然、気合が入っていました。


同じ頃、摂津国福原に平知盛(清盛四男)平重衡(清盛五男)の姿がありました。二人は兄であり、平家一門の棟梁である平宗盛の呼び出しを受け、防備を固めている一の谷から鎧武者の姿で福原に駆けつけていました。

知盛は

(この忙しい時にいったい何事だろうか.....)

と訝しんでおりましたが、兄であり、また平家一門の棟梁である宗盛の要請とあっては断ることも無視することもできず、渋々福原にやってきたようでした。

二人は宗盛の従者によって広間に通されました。そして程なく宗盛が姿を表すと、二人は平伏してこれを迎えました。宗盛は二人の姿が大鎧をまとっていたことに一瞬戸惑いましたが、

「知盛、重衡よく参った。突然呼び出してすまぬ」

と言いながら上座に着座しました。
知盛、重衡の両名は頭をあげながら

「兄上におかれましては、ご機嫌麗しく」

「おう。麗しいとも」

と満面の笑みで返してきたので、知盛は嫌な予感しかしませんでした。

「お主らを呼んだのは他でもない。今朝、御上から書状が届いた」

「法皇様から?」

真っ先に声をあげたのは知盛でした。

「そうじゃ」

「して、その内容は」

と重衡が問いかけると

「まぁ、ありていに言えば、休戦の申し出じゃ」

「はぁあ?」

これには知盛、重衡が同じように声をあげました。
知盛、重衡は源氏がいつ攻めてきてもよいように、一の谷の備えを厳重かつ完全にするために日夜努力してきました。にもかかわらず、ここにきて休戦という言葉が出ては、二人から呆れる声が出るのは当然というものです。

驚き呆れる二人を横目に宗盛は言葉を続けます。

「まぁ、聞け。御上が仰るには、我らが三種の神器を返さぬため、筋目を主張する源氏を抑えることができず、追討の院宣を出さざる得なかった。しかし、平氏と源氏の違いはあれど、共にに院と朝廷の臣下には変わりはない。臣下同士が戦えば、どちらかが負ける。それ故、御上は御心を痛めておられるのじゃ」

「それで?」

知盛は「はぁ〜」とため息をつきながら、先を促しました。

「御上は源氏に停戦を呼びかけたため、平家も神妙にするようにと、戦いを止め、双方和睦の道を探り、より良き世を作るために院および朝廷に力を貸せと......」

「白々しいことを.....」

宗盛の言葉を知盛が遮りました。これにはさすがの宗盛も怒り出し

「控えよ知盛!御上に対し白々しいとは無礼ではないか!」

「無礼で結構!」

知盛は宗盛を恫喝しながら立ち上がり、宗盛を見下すと

「兄上はお忘れか?我らが義仲によって都を追われる際、我らは法皇様をお守りしようと御所に向かったが、法皇様は比叡山に逃亡しておられた。さらに義仲と行家に平家追討の院宣をもたせて我らを攻撃した。幸い、水島、室山いずれの戦いも我らが勝利することができたが、その後ろで糸を操っていたは全部法皇様ぞ!」

「う......」

知盛が言ったことは全て事実でした。
平家が都落ちせざるえなかったのは、比叡山延暦寺の裏切りであり、その延暦寺に逃亡したのも法皇でした。
そのため、宗盛は知盛に対し、反論することができませんでした。

「そのような利害でフラフラするような方の書状をありがたがる兄上も兄上!大概なされませ!」

とさらに一歩ドン!と踏み込んで毒づいた知盛でしたが

「知盛の兄上、お待ちくだされ」

珍しく重衡が激昂する知盛の抑えに入りました。

「宗盛の兄上、その御上の書状はどこからもたらされたものなのですか?」

重衡の問いに宗盛は

「従三位・藤原修理殿からじゃ」

と答えると

「まさしく院近臣からの書状。となると知盛の兄上、これは本物の御上の書状と考えねばなりませぬ」

「だからなんだと言うのだ!」

知盛の怒りの矛先は重衡に向きを変えました。

「ですから!これに背けば、我らは名実ともに朝敵でござる!」

重衡は知盛の怒りを抑え込むかのように声を荒らげました。
「朝敵」という言葉にさすがの知盛も目を見開いて唾を飲み込みました。

平家はこれまで源氏が受けた院宣によって追討を受けてきました。その院宣が確たるものかどうかはわかりませぬ。しかし、今回は、院近臣によって届けられた御上の意思であり、これは、平家や源氏に対し、休戦を願う院や朝廷に弓引く覚悟があるのかどうか、それを問われているのだと重衡は受け取ったのです。

「知盛」

宗盛が知盛を宥めるように声をかけます。
知盛も宗盛の言いたいことがわからぬ無粋者ではないゆえ

「埒もないことを......我らの敵は源氏にござる。院や朝廷に弓を引いて朝敵になるなど毛頭ございませぬ」

と言って、その場に座りました。
宗盛はホッとため息をついたところを

「宗盛の兄上はいかがお考えで?」

と重衡が重ねて問いました。

「いかがも何も、御上の思し召しには従う所存じゃ」

「されど、同じ書状が源氏の下に届いているかどうかはわかりませぬ。源氏がその意思を受けるかどうかはわかりませぬ」

「その時は源氏が朝敵になるだけじゃ」

「そして我らはこの福原の海の藻屑となるかもしれませぬな」

知盛が先ほどの激昂とはうって変わって、落ち着いた調子で呟きました。

「では、そなたはどうしろと言いたいのだ」

今度は宗盛が知盛に食ってかかると

「兄上の意思は一門の棟梁の意思。法皇様の思し召しに従いたいと仰るなら従いましょう。しかし、万が一を考え、一の谷の臨戦態勢は解きませぬ」

知盛はそう言うと手を床に着け、深々と頭を下げ

「何卒、ご承知おきくださいます様、伏してお願い申し上げます」

「.......やむえまい。戦に関してはそなたが責任者じゃ」

言い返したい気持ちは山ほどあれど、知盛の気持ちが変わらないことを知っていた宗盛は、知盛に一歩譲歩する形となりました。

「ゆえに、兄上に申し上げる。帝、女院はいつでも御座船に移せられる様に、用意を怠りなき様」

「心得た」

「では、我らはこれにて」

というと、知盛と重衡は再び平伏して、宗盛の陣所を後にしました。
後白河法皇の休戦の打診が、この戦のあり方を大きく変えようとしておりました。
一の谷の戦いは容赦なく近づいていたのです。

(つづく)
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2018年03月05日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(88)-孟子の教え-

鎌倉軍の源範頼・義経軍が摂津一の谷に向かい、義経軍が三草山での戦いで平資盛ら平家の先発隊を打ち破った頃、京都の後白河院でも少々動きが出てきておりました。

西暦1184年(寿永三年)2月5日、修理大夫・藤原親信は院庁から参内要請を受け、急ぎ院に上がりました。

藤原親信は、藤原北家道隆流の出身で、兄の藤原信隆と同様に後白河法皇の近臣として活動しておりました。西暦1117年(治承元年)に従三位に昇ったものの、平清盛の「治承三年のクーデター」において解官され、翌年、朝政復帰後も再び院近臣となっており、後白河法皇の腹心の一人と言える存在です。

親信は、この時点では正三位 修理大夫 兼 参議となっていました。

院に参内した親信は法皇の御前まで進み、悩ましい法皇の表情に嫌な予感を感じたものの、平静を装って、広間に入ると着座しました。

「お召しにより、参上仕りました」

と深々と頭を下げました。

「修理(親信)。ご苦労。表をあげよ」

と法皇がそれに答え、親信が頭をあげると

「そなたを呼んだは他でもない。頼朝の鎌倉軍が摂津福原に篭っておる平家を追討に向かったことは知っておろうな」

「存じております」

「義仲に京都を追われた平家が、この短期間に摂津国まで勢力を盛り返してきたことは想定外じゃが、此度のこの戦いは、我にとっても、また朝廷にとっても、是が非でも源氏に勝ってもらわねばならぬ。」

「御意」

「もし源氏が負け、平家が再び京都に入って以前のような政治を行えば、我の院政は三度目の停止に追い込まれることは必定。院庁近臣であるそなたらはまた解官の憂き目に会おうぞ」

「恐ろしいことでございます。されど、今の源氏には勢いというものがございます。お上の大御心を痛める必要はございますまい」

「勢いならば義仲にもあった。されどかの者は平家が都落ちした後、その勢力を完全に滅することができなかった。此度の蒲冠者、源九郎は義仲を討った忠臣なれど、平家の本隊と戦うのはこれが初めてであろう。ゆえに余は心配でならぬのじゃ」

「ご懸念はごもっともかと」

「そこでじゃ。戦いは武士にしかできぬことなれど、戦い以外のことで我らが何か源氏の支援を行う手段はないものかと思うての。そなたを召したのじゃ」

親信は「恐れ多いことでござりまする」と再び平伏し

「されど、此度の蒲冠者、源九郎殿の出陣は、御上より平家追討の院宣を賜ってのこと。院宣はすなわち御上のご威光。これに優るものがほかにございましょうか?院宣を持つ者こそ官軍。武士どもはその官軍に身を投じてこそ、自身の栄達が望めるもの」

「さりとて、平家に心寄せる西国の武士にどこまで通じるものか.....」

法皇はすっと立ち上がり、外の景色に思いを馳せているようでした。
その姿を見た親信は

「孟子曰く、『天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず』と申します。天の時は時流を示します。これは今は源氏にありますが、戦いの場所は西国の摂津福原。鎌倉軍の兵は東国武士ですので不案内。よって地の利は平家にあると言えましょう。先ほどの孟子の教えの前段の『天の時は地の利に如かず』とは、勢いがあっても地の利がある方には叶わないということでござりまする」

と述べると、法皇は親信に振り返り

「すると、この戦いは平家に分があると申すか」

と詰問するような目で問いただすと、親信は「そうとも言えませぬ」とやんわりと否定し

「後段の『地の利は人の和に如かず』は、その地の利を覆すのが『人の和』であるという教えにござります。人の和とは文字通り人と人の和合・団結力でござりまする。ですが、一族としての団結力は身内争いのある源氏よりも平家が上でござりましょう」

「ふむ」

法皇は親信に先を促させるように首を突き出すと、元の着座に戻っていきます。
親信は言葉を続けます。

「よって、この戦いを源氏の勝利に導くには、平家一門の人の和を崩すことこそ肝要かと存じまする」

「修理、お主ならなんとする。」

「はい。私ならば、御上の御名を以って、源氏と平家の和睦を取りもちまする。」

この言葉に驚いたのは法皇です。なぜなら、法皇は自分の名前で範頼・義経に平家追討の院宣を出しているからです。自分で命令を下しておきながら自分でそれを和睦するなど、愚かすぎて策と呼べるものではないと法皇は思いました。

「御上の院宣は源氏に迫られて出したもの。御上の御心は三種の神器の返還ただ1つにおありのはず。であれば、先年頓挫した神器返還交渉を再開させることこそ御上のご本心」

「まぁ、間違いではない」
親信の意見を法皇は渋々認めました。

「その交渉再開のため、源氏に一旦矛を収めてくれと命じておるという内容の書状を平家に送るべきかと」

親信の発言の真意を得た法皇は目を丸くして、二の句が告げませんでした。

要するに親信は、法皇が平家と三種の神器返還交渉を再開させる考えになったため、源氏に停戦を命じたと平家に書状を送ることで、平家をペテンにかけ、彼らの臨戦態勢を弛ませようという考えだったのです。さすがの法皇もこれには驚きを隠せませんでした。

「修理.....お主は怖い男よのう......」

「地の利は人の和にしかず。すなわち、物事の最終的な帰結は人の和を崩すこと.....」

親信はそう言うと、深く平伏し

「御上、ご裁断を」

と言上つかまつりました。
法皇はしばし無言で考えましたが

「あいわかった。直ちに宗盛に書状をしたためる」

と言う座より立ち上がり、

「修理。ご苦労であった」

とだけ言って、広間を出て行きました。
法皇の退出とともに親信は頭を上げましたが、そこには決して笑顔はありませんでした。

翌2月6日早朝、藤原親信は、法皇の書状を持って平家本陣のある摂津福原に向かいました。
後白河法皇、一か八かの捨て身の賭けでした。

(つづく)
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