2019年03月12日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(108)-屋島の戦い・扇の的-

西暦1185年(元暦二年)2月19日未明。平家追討軍別働隊・源義経隊130騎余は、讃岐国屋島の平家本拠を急襲しました。

驚いた平家は御座船に移って逃走を図りますが、源氏がわずか100騎程度であることを知った平家一門の棟梁・平宗盛は、平教経(能登守)を遣わして、源氏の軍勢と戦うことを命じます。

教経は宗盛の期待に応え、見事、義経の郎党・佐藤三郎兵衛(継信)を矢で射抜きました。
また、平家が屋島に築いた里内裏に火をかけてこれを焼失させ、平家の士気を大きく下げました。

佐藤継信は源氏の本陣に抱え込まれたものの、手当のしようがなく、そのまま絶命してしまいます。

継信が絶命していた頃、四国各地の源氏に味方する武士たちが義経の上陸を知り、我も我もと合力し始め、屋島に集まった源氏の勢力はすでに300騎を超えるものになっていました。

しかし、義経は継信を失ったことでやや気鬱になり、継信が絶命したあとは、再び出陣することができなくなっていました。
奥州を出立して以降、ずっと付き従っていた郎党の初の欠落に、戦う気力を欠きかけていました。

戦う気力を失いつつあったのは平家側も同じでした。
頼みの綱であった平教経は下男・菊王丸を失ったショックで戦意を喪失し、苦労した屋島の里内裏は焼失。宗盛は彦島砦にいる知盛に合わす顔がありませんでした。

「平家の命運、ここに尽きたか.....」

二位尼(平時子)が御座船の中でそう呟くと

「いえ。我らが平家の主力部隊は彦島にいる知盛の部隊です。ここにいるのは主力のおよそ六分の一。また河野征伐に出かけた田口の軍勢も間もなく駆けつけてくるでしょう。まだ終わりませぬ」

宗盛はそう言いますが、女房たちの顔には生気がありませんでした。

「宗盛。お前の言い分や理屈はよくわかる。じゃが、もはや私には神仏のご加護が平家にあるとは思えぬ」

「何を仰せられます!我らは主上を、ミカドを擁し奉っておるのですぞ?この世の主は我が平家の手中。これに過ぎたる武器がございましょうか」

「では、平家に神仏の加護があることを、我らに示してたもれ」

「は?」

「まだ我らに神仏の加護があることを信じさせてくれるものを見せてくれ」

「それは......」

宗盛は言葉に詰まりました。

「すまぬ。無理な相談じゃな......」

二位尼はポツリ独り言のよう言いましたが

「いや......我らにご加護があるかどうかはわかりませぬが、試すことはできまする」

宗盛は自信たっぷりに二位尼に断言しました。


やがて日が暮れ始め、これ以上の戦いは難しくなると、義経は郎党たちを通じて「陣に戻れ」と帰陣を命じました。

ところが、帰陣の命令を出しているにもかかわらず、郎党や御家人が戻ってくる気配はありませんでした。
それどころか、海岸あたりが騒がしくなり、さすがの義経も何が起きているのか気になり始めました。

(何をしてるのだろう......)

義経は陣の外に出て、海岸に出向きました。
すると、平家の女官らしい者が乗った一層の小舟が海に浮かんでいました。
女官は船に1つの扇を掲げ、陸地の源氏に手招きしていたのです。

「あ、御大将」

最初に義経に気づいたのは弁慶でした。

「あれは、なんだ?」

「さあ.....?」

弁慶も首をかしげて見当もつかないという仕草で応えます。


「言うならば、平家から源氏への挑戦というところでしょうか」

弁慶の隣にいた後藤実基が答えました。

「挑戦?」

「さよう。あの扇を射抜いてみよ?と言う問いかけではないかと」

「なんのために、そのようなことを」

「それはわかり申さぬ。しかし、これは平家からの挑戦とも受け取れまする。受けざれば源氏の名折れは必定と存じまする」

実基の進言に、腕組みをする義経でしたが

しかし、あれを射抜けるものが我が手勢におるのか?」

と実基に尋ねると

「たしか......下野国那須郡の住人・那須十郎が弓の名手と聞いておりまするが」

「では三郎(実基)殿、其の者を我が陣に連れてまいられよ」


実基は那須十郎を軍勢の中から探し出し、義経の前に連れてきました。

十郎は二十代後半の凛々しく精悍な出立の若武者でしたが、右の腕に大きな刀傷を負っており、郎党の介添が必要なほどでした。

「その腕はいかがした?」

義経は十郎の姿を見るなり、その腕の傷を気遣いました。

「今日の戦いで不覚を取りまして.....」

「三郎殿、この腕では弓はとれまい。誰か他の者はおらぬか?」

「恐れながら、言上仕ります」

十郎が控えながら申し上げると

「なんじゃ?」

「ここに控えておりまする与一は我が弟にて、我とは比べものにならぬ弓の腕前を持っておりまする」

「何?そなたは十郎の弟か?」

てっきり郎党かと思っていた義経は介添え役の者をまじまじと見ました。
与一と呼ばれた介添えの者は顔を見られまいと頭を低くしました。

「これ、御大将にご挨拶せぬか」

十郎が与一と言う者を叱りつけると。

「お初にお目にかかります。那須十郎が弟、与一宗高と申しまする」

「そちはいくつじゃ?」

「二十になったばかりでございまする」

「十郎に劣らぬ弓の腕前というのは誠か?」

「滅相もない。兄の腕前に遠く及びませぬ」

与一は一度も頭を上げることなく、義経の問いに答えました。
義経は十郎にむきなおり

「十郎に尋ねる。与一の腕前はいかほどじゃ」

「私と飛ぶ鳥を射落とす競争で、三羽のうち、二羽は必ず仕留めまする」

「おお......」

実基をはじめ、義経の郎等から感嘆の声が上がりました。
義経は大いに感心し

「そなた、兄の名代として、あの小舟の扇を見事射抜いてみよ」

と平家の小舟を指差しました。

さすがの与一も頭をあげ、義経の指の先にある小舟と扇を見ると

「恐れながら申し上げまする。私の腕前では射抜けるかもしれませぬが、確実ではございませぬ。ここは源平の名誉の場、確実に射抜ける者にお命じあるべきかと存じまする」

「馬鹿者!御大将のご命令であるぞ。控えよ!」

十郎が与一を叱責すると

「十郎の申す通りじゃ。我はこの軍の大将である。我の命令に従わぬ者は、鎌倉殿の命に従わぬことと同じことぞ。それでも拒むか?」

義経の言葉には荒々しさはありませんでしたが、有無を言わさない、拒否を許さない怒気を与一は感じました。

「ご命令とあれば、是非もなく」

与一は観念して、義経の命令に従いました。


一方、平家の御座船では、宗盛が二位尼にあの小舟を見ながら語りかけていました。

「よろしいですかな。母上。あの小舟の竿に乗っている扇、今、源氏に向かって、これを射落してみよと煽っておりまする」

「なんのためにじゃ」

「母上が申したのではありませぬか。平家に神仏の加護があるかどうかを見せてくれと」

宗盛の言い分に二位尼は首を傾げました。

「もはや日没は近く、あたりはどんどん暗くなります。我らの挑戦を源氏が躊躇すればするほど、状況は不利になるばかり。しかしながら、こちらの挑戦を受けなければ源氏は武士の物笑いでございましょう」

二位尼は宗盛の説明でようやく理解ができたようでした。

「仮に源氏が我らの挑戦を受けたとして、この暗さであんな小さい扇の的を弓矢で射落としたならば、それこそ神のご加護がなければ成し得ないものと私は思います」

「確かに」

「しかし我が平家に神仏の加護があれば、扇の的はそのままのはずです。」

「なるほど......」

二位尼は完全に飲み込めたものの、事の顛末がどのようになるのか、不安で仕方がありませんでした。



与一は十郎を連れて陣所に戻ると、自分の弓を従えて馬を引き、義経の陣所前で一礼すると、愛馬に跨って岸で弓を構えようとしました。

岸から平家の小舟までおよそ90メートル前後。与一は確実に射抜くため、距離を縮めることを考え、馬を海に乗り入れました。


西暦1185年2月(元暦二年)2月18日の午後6時頃、北風がやや激しく、平家の小舟は上下に揺れ、それに伴って扇も揺れていました。

(こんな条件の中で、あんな小さい扇を射ぬけとか、御大将も無茶を言いなさる.....)

与一の心境はさざ波のように荒れてました。

的の大きさ、距離などを考慮しても、与一の腕前ならば射抜けないものではありません。

しかし、的は小舟の竿の上、波に揺られて上下に動きます。鳥ならその飛行の先を読んで矢を放てますが波はなかなか読めません。おまけに日没が近く、周辺が暗くなるのも時間の問題でした。

(もたもたしてるわけにはいかぬ)

そう思った与一は、目を閉じ

「南無八幡大菩薩。並びに我が下野国の守護神・日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神よ。願わくば、我にあの扇の真ん中を射させ給え。もしこれを射損じるものならば、弓を切り折り、自害して相果てまする。もう一度、我を国へ帰したいとお思いならば、この矢を決して外させることのないように......」

と祈念して目を開けると、一瞬だけ北風が止み、無風状態になりました。
その瞬間を逃さない与一ではありませんでした。

すかさず鏑矢を矢に番えて、ひきしぼったかと思えば、溜めもなく速射。
放たれた鏑矢は岸まで聞こえる大音を放ちながら、扇めがけて直進し、見事扇の根元を貫きました。

貫かれた扇は上下に回転しながら竿の上空を舞い、しばらくして、そのまま海に落ちました。

「おおおおお!」

これを見た平家の武士たちは船端を叩いて感嘆し、岸の源氏側は鎧や武具を叩いて、与一の腕を褒め称えました。
そして平家方では、扇が掲げてあった竿の小舟に乗り移った一人の老兵が、竿の近くで舞い始めました。

与一は役目を果たしたと一息つくと、馬を岸に返そうとしました。
しかし、自分に近付いてくる馬があることを確認すると、その場に止まりました。馬に乗っているのは義経の郎党・伊勢義盛でした。

「ご命令じゃ。あの老兵も討ち取れ」

義盛が与一にそう言いました。
与一は気乗りしない様子でしたが、命令では是非もなし。
背から一本の矢をつがいで、老兵の首を狙って見事射落としました。

「何をするか!!!」

これに怒った平家の武士達数人が船を岸につけ、源氏の陣を攻撃しようとしたため、源氏側も五騎ほどを繰り出して再び小競り合いが生じました。そのうち、我も我もと上陸して、およそ二百人前後の合戦へと発展しますが、完全に日没となったため、双方、陣に戻りました。

御座船から「扇の的」の一部の始終を見ていた宗盛は

「まさか、あの的を射落すとは......」

と驚きしかありませんでした。しかし二位尼は

「これにてスッキリしました。」

と言って、宗盛に笑みを浮かべると

「我が平家の頼みとするのは我が力のみ」

とだけ言って、安徳帝の元に戻って行かれました。

二位尼は、平家に神仏の加護があれば、どんな苦境でもそれを頼りに生きていけると考えていました。

しかし、扇の的によって、神仏の加護は源氏に付いていることがわかると、もはや神仏の加護をあてにするのではなく、我らのみの力で事態を切り開くしかないと改めて悟ったのでした。

ただし、二位尼は全ての希望を捨てた訳ではありません。
平家が再び神仏の加護を受けることもあるかもしれない。それには我が力を以ってどこまでやれるのかを神仏に見せるしかないと考えていたのです。


その日の夜、義経軍はほぼ全員が死んだように眠りました。
義経軍は阿波勝浦に上陸し、平家方の桜庭良遠の居城・本庄城を攻めた後、徹夜で行軍し、屋島の合戦に突入したため、ほぼ休む暇がなかったのです。

一方で、平家の御座船では平教経を大将として、手勢五百騎で夜討をかけようと計画していましたが、平盛嗣海老盛方が先陣争いをしてまとまらず、結局夜討は中止となりました。

この時、夜討をかけていれば、義経軍は総崩れになったことは間違いなかったでしょう。

(つづく)
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2019年02月17日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(107)-屋島の戦い・本戦-

西暦1185年(元暦二年)2月17日未明。平家追討軍別働隊・源義経隊50騎100兵余は、摂津国渡辺津(大阪府大阪市天満橋付近)から船を出し、18日、阿波国椿浦(徳島県阿南市椿町?)に到着。現地の武士・近藤親家を味方に引き込み、阿波国勝浦郡託羅郷(徳島市本庄町)にある平家方の有力武将・桜庭良遠の居城・本庄城を落城させました。

ここで、義経は、有益な情報をゲットします。

それは、讃岐国(香川県)を支配下においている田口成良(平家方/桜庭良遠の兄)が3,000騎を率いて、源氏に味方している伊予国(愛媛県)の河野通信(源氏方)討伐に出陣しており、屋島の平家軍は1,000騎余しかいないこと。

また残り1,000騎も屋島近郊の港などの警備に割かれていて、本陣は手薄という情報でした。

これを聞いた義経は、直ちに全軍を率いて徹夜の大行軍を開始します。

義経が行軍を急いだのは、平家の兵力が分散しているうちに屋島を攻略することと、自分たちが小勢だということを平家に知られたくないという思いと2つの理由があったと思われます。

屋島(香川県高松市屋島)は、今でこそ相引川を挟んで「陸続き」になっていますが、これは江戸時代に盛んになった塩田事業等の埋め立てによるもので、昔は完全な島だったそうです。

屋島と四国の間に流れている「相引川」は昔の海の名残と言われています。


2月19日未明。屋島の対岸に到着した義経は手勢を隠し、郎党を使って、物見(偵察)を行わせました。
義経はこちらが130騎兵の少数部隊だと悟られたくなかったのです。

物見の結果、目算で敵は500-600騎程度の兵力であること、また、近藤親家の情報によれば、干潮時を狙えば、馬で屋島まで渡れることもわかったため、義経は

「頃はよし。総攻めの用意」

と言い

「まずは屋島周辺の民家に火をかけて、焼き払え!」

と下知しました。
これも、義経軍が小勢ではなく、大軍勢であることを平家に見せつける策謀でした。

義経軍により、現在の高松市の海岸沿いの民家に次々と火がかけられ、空にはおびただしい量の黒煙が上がりました。
これは義経の目論見どおり、平家方は慌てふためくことになります。

「源氏の敵襲じゃあああ!!」

屋島の平家軍は突然の源氏の襲撃に大騒ぎとなります。
平家の主だった武将たちは、屋島を包囲されては叶わない(ぶっちゃけ戦えない)ため、船に乗って屋島から脱出します。

一方、屋島から100メートル程度離れたところで、源氏の軍勢80騎ほどが喚声をあげながら、御座船に向かって駆け出してきました。

義経は船に向かい、

「我こそは五位左衛門少尉、源九郎義経!後白河院の命により参上仕った!」

と大きな声で名乗りをあげると

「伊豆国の住人、田代冠者信綱!」
「武蔵国の住人、金子十郎家忠!」
「同じく、与一親範!」
「伊勢三郎義盛!」
「後藤兵衛実基!」
「佐藤三郎兵衛継信!」
「同じ四郎兵衛忠信!」
「武蔵坊弁慶!」


と義経を取り巻く武者全員が名乗りをあげました。

これを見た平家の御座船の武士たちは

「奴らを射落とせ!」

と矢合戦の命令を伝えると、御座船内の武士が次々と出てきて、義経らに向けて矢を繰り出してきました。

平家の武士たちは揺れる船の中から矢を放っており、狙った通りに満足に当たるものでもありません。一方で義経主従はその矢をかわしながら、逆に矢を放ち返していきました。

しばらくすると、屋島の内裏(平家の屋敷)から火の手が上がるのが見えました。
義経主従の一人、後藤実基が単身上陸し、建物に火をかけたのです。

「ああ......内裏が、我らが苦心してこしらえた内裏が焼けていく.....」

平家一門の棟梁である宗盛は火をかけられ、焼け落ちていく内裏を見ながら、胸を掻きむしらんばかりに苦しみました。

「一体、源氏の兵力はいかほどぞ?」

宗盛が近くの武士に尋ねると

「100はおらぬかと思われます」

と答え、宗盛は

「たったの100......この屋島には500騎を超える兵力があったのだぞ。それが民家を焼き討ちにした敵襲と聞いて慌てて船に乗って内裏を離れ、焼かせてしまっては、主上になんと申し上げれば良いのか......これは我らの浅はかさぞ。」

宗盛の苦し紛れの嗚咽は、周りの人間の悲しみにも通ずるものがありました。

「能登を呼べ.....」

宗盛は嗚咽をこらえて、側衆にそう言うと、御座船の外で源氏の兵と戦っている平教経を呼びました
教経は呼ばれているのを聞くと、急ぎ御座船の中に入り

「内府殿。お呼びでございまするか」

「そなた、これより陸へ上がり、源氏の兵を相手に一戦してくれまいか。このまま何もせず内裏が焼け落ちるのは我慢がならん」

「承知いたしました。できましたら越中次郎(平盛嗣)もお借りしたく」

「好きにせよ」

教経は宗盛の前に畏ると、平盛嗣を連れて小船に乗り、屋島の内裏正門の波打ち際に上陸しました。

それを見た義経軍も屋島の内裏正門近くまで寄せてきました。弓矢の射程距離を伺っているようです。

一方、教経も強弓に矢をつがえて、義経に狙いを定めますが、義経主従とその兵が入れ替わり立ち替り、義経の前に立ちふさがって、狙いがつけられませんでした。

「ええい!そこの郎党ども!邪魔じゃ。どかんか!」

と大声をあげますが、義経主従は一切聞く耳を持ちません。

「どかんならどかんで良いわ。まとめて冥土に送ってくれる!」

教経は強弓から次々と矢を放ち、義経の兵を10人ほど射殺すと、教経の目の前に義経を遮るものがなくなりました。

「ようやく視界が開けたわ......死ね!九郎判官!」

と新たに強弓に矢をつがえて放ったところ、義経の前に被さるように黒い1つの騎馬が走り去って行きました。
騎馬上の武士の左の肩から右脇にかけて矢が貫いており、おびただしい鮮血を吹き上げていました。

騎馬上の武士は、佐藤継信でした。

継信は矢を受けながらも馬を走らせていましたが、やがて力尽きたのか、腕をだらりと下げ、騎馬からふらりと落馬しました。

それを見た教経の下男・菊王丸は倒れた継信に駆け寄り、その首を取ろうとしますが

「下郎!兄に触れるな!」

と佐藤忠信が駆け寄り、弓に矢をつがえて放ち、今度はそれが菊王丸の胴丸に命中しました。
受けた矢の勢いで、尻餅をつく菊王丸。

それを見た教経は急ぎ菊王丸に駆け寄って、菊王丸を右に抱え、自らが乗ってきた小舟に投げこみました。
菊王丸の首を取られないようにするための咄嗟の判断でした。

「次郎(盛嗣)、菊王丸の手当を頼む」

教経はそう言いながら、依然として義経主従の方に向いて弓と矢をつがえ、義経の隙を伺っています。

しかし

「能登殿。手遅れです」

という盛嗣の声が聞こえると

「なんだと?」

「すでに事切れています」

菊王丸は胴丸に矢を受け、すでに重傷でした。
その重傷の状態で、教経の片腕に担ぎ上げられ、小舟に投げ込まれては、受け身を取ることもできず、衝撃で首の骨を折り、そのまま死んでしまったのです。

菊王丸は、もともと、教経の兄・平通盛の召使でしたが、通盛が一の谷の合戦で戦死した後は、教経に仕えていました。
教経とはわずか1年足らずの付き合いでした。

「なんと不憫な子か.....」

教経は菊王丸の亡骸を横目に哀れむと、弓につがえていた矢を外し、小舟に乗り込んで御座船に帰って行きました。
菊王丸の死は、教経に戦いを続ける気力が萎えさせてしまったのです。

しかし、このおかげで、義経主従は落馬した継信の体を担ぎ上げ、自陣に連れ帰る時間が稼げました。

陣幕の中で板木の乗せられた継信の顔面は真っ青となっており、目は虚ろな状態でした。
義経は継信の手を取り

「三郎兵衛、しっかりしろ。気分はどうか」

と声をかけるのが精一杯でした。

「もはや......これまでと存じます....」

主人の問いかけに継信は必死で答えました。

「何か思い残すことはないか」

義経は継信の命がもう尽きかけているのを察知すると、せめて遺言だけでも聞きとろうと必死でした。

「何を思い残すことがありましょうか。ただ、殿がこの世で栄えある姿をみることなく死ぬことが悔しゅうございます。それ以外のことは武士の家に生まれた者の定め。覚悟の上でございます」

「三郎兵衛......」

「お嘆きなさいますな。この三郎兵衛、後世まで『源平の戦の中、屋島の磯にて主君を身代わりに討たれた』と語り継がれることでしょう。これぞ無上の喜び、良い冥土の土産になりまする......」

継信は言葉を続けようとするが、掠れて声が出なくなっていました。

「誰かある!」

義経は人を呼び

「この辺りの寺から僧を召し出し、ここに連れてまいれ!」

と命じると、程なく、一人の僧侶が連れてこられました。
義経は僧に会い、深々と頭を下げると

「わが手の者が今まさに息絶えんとしておる。すまぬがこれより経文を書き、唱え、かの者の弔いをお願いしたい」

と言って

「そのお礼にこの馬を貴殿に差し上げる」

と「大夫黒」と呼ばれた義経の名馬を僧に献上されました。
これまで義経の主だった戦いにずっと加わってきた名馬を惜しげも無く献じる姿に、義経の将兵は皆、感じ入ったと言われます。

佐藤三郎兵衛継信。享年28と伝わっております。

(つづく)
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2019年01月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(106)-屋島の戦い・前哨戦-

西暦1185年(元暦二年)1月10日、源義経は郎党・手勢を率いて京都を出発し、摂津国渡邊津(大阪府大阪市天満橋付近)に駐屯。摂津国、紀伊国、伊予国の水軍衆の調略を進め、2月15日現在、四国へ向かうタイミングを図っていました。

それは、去る2月1日、源範頼率いる平家追討軍の本軍が九州豊後国(大分)に上陸し、平家方の太宰大弐・原田種直を打ち破って、筑前、豊前、豊後を源氏の勢力下とすることに成功したことと無関係ではなかったでしょう。

義経軍が急ぎ四国へ向かう主たる目的は、四国屋島に駐屯する平家の本陣を牽制し、範頼軍の九州渡海を成功させることでした。
それがすでに叶った今、義経の目的は、平家の勢力が九州に向けられている隙をついて、平家の本拠・屋島を急襲する作戦に変わっていきました。

そんな中、京都より大蔵卿・高階泰経が摂津渡邊津にやってきました。
範頼軍が九州上陸を果たしたことが院庁に届き、後白河法皇の知るところとなったため、義経に京都帰還の命令が出されたためです。

「一度出された院宣を反故にされると仰せられるのか」

と泰経に凄む義経でしたが、泰経は

「そうではない。御上(法皇)としては、三河殿(範頼)の九州上陸が成った今、判官殿(義経)がわざわざ出向くこともあるまいと仰せである。そなたは京都守護が職務。平家攻めは名代を立てたらいかがじゃ?」

と薦めたため、義経は

「お言葉ながら、私はこの出陣に自分の命を賭けております。御上のため、また主上(天皇)のため、一刻も早く三種の神器を取り戻し、朝廷をを安らかしめることは我が兄・鎌倉殿の悲願でもあります。それをここにきてまた京都に戻れとは承服できませぬ!」

と憤り、泰経を丁重に京都に戻してしまいました。

(こうなっては、もう時がない、一刻も早く四国へ渡らねば)

この時の義経の水軍調略状況は、摂津の渡邊党と伊予の河野水軍の味方には成功しつつも、紀伊の熊野水軍との調略がまだ整っておりませんでした。しかし、これ以上ここに止まれば、再びまた法皇の使いがやってくることは明らかでした。

そんな中、範頼軍に参陣していた梶原景時(侍所所司)が義経軍に合流してきました。
早速、景時が義経に目通りすると

「三河殿のご命令により、判官殿の戦目付として遣わされました」

と挨拶すると

「お役目大義に存ずる」

と義経はその労をねぎらいました。

「して、状況はどのように」

景時は早速義経に出撃準備状況を尋ねました。

「目下、水軍の調略と渡海準備を進めておりますが、紀伊水軍の約定が取り付けておりませぬ。しかし、摂津渡邊党の協力もあり、明日には四国へ渡海しようと考えております」

「それは祝着」

「阿波では伊予の河野道信殿にご助力頂けることになっております」

河野道信は、伊予国河野郷(愛媛県北条市あたり)の国衙(朝廷の役所)の役人でしたが、頼朝の挙兵に呼応して平維盛の代官を追放して伊予国を手中に収め、反平家勢力の筆頭勢力となっていました。

その後、平家都落ちによる平家の反撃を受けて、父・通清が死亡。勢力も瓦解するものの豊後、伊予両国て局地的な戦いを続け、この頃には伊予国喜多郡(大洲市)に水軍を主とした勢力を築いていました。

「これでは指南役のやることがありませんな」

景時は笑いながらそう言うと

「戦目付の本領は戦が始まってからでござろう。それまではゆるりとお休みなされませ」

と義経も笑って、景時をもてなしました。


ところが翌16日になると、強風の荒天となり、船を出すには難しい天候になってしまいました。
その上、軍議では、義経は強行渡海しようとしますが、景時がそれを制止するという対立構図になってしまいます。

「強風の荒天だからこそ、敵の意表をつくことができるのです。今、渡海することこそ好機!」

「何をお考えか!こんな荒波に船を出したところで、何艘が無事に対岸までたどり着けるかもわかりませぬ!」

「何艘でも構わぬ!無事にたどり着いた船だけで戦えば良い。後は河野殿が助けてくれる」

「総大将の身に何かあったら、軍勢は統率を欠きます。統率を欠いた軍は敵の的になるだけでござる!」

「私の身に何かあったなら、平三殿(景時)が指揮を執れば良いではないか!」

「これはまたご無体な.......」

このような調子で議論は全く進みませんでした。

景時の説得を諦めた義経は、景時を無視して船を出そうとしましたが、今度は船を操る船乗りからも猛反対を受けます。
考えに考えた末、義経は武蔵坊弁慶、伊勢義盛、佐藤継信・忠信兄弟を自分の陣に呼び寄せました。

「よいか。今から我らのみで海を渡る」

こう切り出した義経は

「弁慶と三郎(義盛)、お前たちは食い物と酒を船の中に入れ、船頭たち4−5人集めてその苦労を労え」
「継信と忠信は、その隙に馬と兵を船に乗せろ」

と郎党に命令すると、それぞれ任務につくため、陣から退出しました。

16日夜、弁慶、義盛、継信、忠信の4人は義経の命令通りに実行し、五艘の船に食料と兵と馬を乗り込ませることに成功します。

弁慶と三郎に酒と食物でもてなされている船乗りたちは、船の中で何が起きてるのかさっぱりわかりませんでしたが、準備が一通り済んだところで義経が登場すると、全員平伏してこれを迎えました。

「その方ども、役目大義。これより船を出してもらいたい」

義経がそう言うと、船乗りの一人が

「御大将に申し上げまする。昼間にも申し上げましたが、この風の強さでは船を出すことはできませぬ」

と申し上げました。すると義経は

「風向きは追い風じゃ、できぬはずがあるまい」

と反論しますが

「確かに順風じゃが、この強さでは満足に操れませぬ。船が遭難します。」

と船乗りが申しました。義経はその船乗りの前まで歩み、膝をつくと

「良いか。山野で死ぬも、波に飲まれて死ぬも、これ全て前世の報いじゃ。今吹いている風が向かい風なら、世の常に逆ろうているだろうが、今吹いいているのは追い風じゃ。であれば難破遭難の危険は低い。仮にそれで死んだとしてもそれは前世の報いと思えば諦めもつくまい」

と諭すように言いましたが

「そんな殺生な......」

と船乗りが震えながら言上すると

「それとも......ここで我らの手によって殺されたいのか?」

と殺気の籠った低い声でささやかれると、船乗りの声が一気に

「ヒェッッッ!!!!」と感高い声に変わって、足をするようにして早足で後ずさりすると、他の船乗りたちも驚いて、義経に目を向けました。

義経は付いていた膝をあげ、立ち上がると

「伊勢三郎、佐藤継信」

と名を呼び、両人が「ハッ」と声をあげて、膝をつくと

「是非もなし、こやつらを射殺せ」

と命じました。

「何卒、何卒、お助けを。御慈悲を.....」

五人の船乗りは再び平伏して許しを乞いましたが、義経は目も合わせませんでした。

義盛と継信は一瞬、固張り、互いに横目で見合わせましたが、「ハッ」と畏ると、船乗りたちに向き直ると、持っていた弓に矢をつがえました。

「その方たちに申す。頼むから船を出してくれ。そうでなければ、お主たちをここで殺さねばならぬ」

継信は腹の底から懇願するような声で言いました。

「今ここで我らに射抜かれて死ぬのと、船を出して万が一助かる可能性にかけるのと、どっちが良いか、考えてみよ......」

義盛もそう言うと

「あいや、しばらく!しばらく!」

と先ほどの船乗りが両手をあげて、義盛と継信を制止しました。
それを見た両人は矢を弓から外しました。

「わかり申した。船は出しまする」

「おいおい」

別の船乗りが異議をあげると

「ここで弓矢で殺されるのも、船が難破して溺れ死ぬのも同じだ。だったら、あの方の仰るように、少しでも可能性のあるものに賭けた方がマシだろうよ」

先ほどの船乗りの言葉に他の船乗りも従わざる得ませんでした。


明けて2月17日丑の刻(午前1時頃)、渡辺津から5艘の船がゆっくりと出港しました。
義経は各自の船の先頭と末尾に篝火を焚かせて、他の船への目印にするように申しつたえ、一路、四国へ向けて移動したのです。

戦目付・梶原景時がこれを知ったのは、17日の明け方のことでした。
ここから義経と景時のすれ違いが生じていくことになります。

「吾妻鏡」によると義経たち一向は、17日卯の刻(午前6時頃)に阿波国椿浦(徳島県阿南市椿町?)に到着したとあります。
これを額面取り受け取れば、わずか5時間程度で到着したことになりますが、果たして真偽のほどは定かならず。

椿浦にはすでに赤い旗(平家旗)がはためいていたため、義経は陸に船を横付けすることはしませんでした。
馬の足がつく深さまで岸に近づき、そこから馬を下ろして北に向けて駆けさせ、無事陸地に上陸することができたのです。
その数50騎100兵。

椿浦を守っていた平家駐屯軍100騎が義経たちに追いついた頃には、義経軍はすでに反撃の体制を整えて勢ぞろいしていました。

義経軍の中から1人の騎馬武者が平家駐屯軍に向けて駆けてくるのを見た駐屯軍の大将は

「攻撃してはならぬ」

と配下の騎兵にそう伝えると、道を開けるような手振りをし、自ら馬を騎馬武者に近づけました。

騎馬武者は駐屯軍大将と一定の距離を取ると、

「それがし、源判官義経が郎党・伊勢三郎(義盛)と申す」

と名乗ったので、駐屯軍大将も

「それがしは阿波国板野郡の住人・近藤親家と申す」

と名乗り返しました。
義盛は、続けて

「我が御大将が、近藤殿にお聞きしたいことあり、我らにご同道あるべし」

と言うと、親家は「はっはっは」と笑いをあげて

「我は平家の武士でござる。源氏の御曹司が望んだからとて、はいそうですか、とノコノコ参上する義理はござらん」

と答えると

「ならば、致し方なし」

と三郎が太刀を抜くと、

「おうよ」

と親家も太刀を抜き、互いに太刀を重ね合わせました。
一合、二合、三合、義盛の攻撃は親家に防がれ、親家の攻撃は義盛に防がれるという感じで、ともに隙がなく、互角の戦いが続きました。

しかし、親家の太刀筋が少しずつ鈍り始め、義盛の斬撃に対して防ぐことが厳しくなり、ついに親家は義盛に太刀を飛ばされてしまいます。

親家が太刀を拾おうとした時、義盛の太刀が親家の首筋に近づけられていました。

「御同道いただけますかな」

義盛の物言いに観念した親家は、太刀を拾おうとした手を引き、義盛にしたがって義経の元に同道しました。


義盛に連れられた親家に対し、

「よう参ったの。九郎義経じゃ」

と義経はいきなり名乗りました。
親家は着座して、平伏すると

「阿波国板野郡の住人・近藤親家と申します」

と名乗りました。

「その方に聞きたいことがある」

「はっ。それがしにお答えられることであれば」

「ここはなんという場所じゃ」

「阿波国の勝浦と申しまする」

「ほう。これは縁起がいい。四国の平家を退治しに来た義経が上陸したところが勝浦とは」

と言って、義経は笑いました。

「近藤殿。我らはこれから屋島を目指す。しかし、目の前の敵と戦っている最中に後ろから平家の矢を受けたくはない。この辺りで平家に通じている有力な武士は誰であろうか?」

「さすれば......田口成良の弟・桜庭良遠がそれになるかと」

「ほう。その者は何者じゃ」

「田口成良は、讃岐国(香川県)の有力な平家武士にござる。その弟である桜庭良遠は阿波国勝浦郷、すなわちこの地に勢力を張る存在にござりまする」

「ふむ.....そうか。じゃが1つ腑に落ちぬことがある。そこ許も平家武士であろう。なぜ同胞を売るような真似をする?」

義経の問いに親家はニヤリと笑うと

「お答え申し上げる。それがしの家と田口家とは因縁朝からぬ間柄がござる。我が近藤家は藤原師光、すなわち後白河院にお仕えした西光殿の一族で、院の力でこの阿波国の役人を務めております。田口家は亡き相国入道(平清盛)の信任厚く、平家の都落ち後、讃岐を平定してその経済力を維持させ申した。そして今では弟・桜庭良遠を通じて、この阿波国までその力を広げておりまする。

西光の一族であるがゆえに、平家に対して憎むことこれあり、されどこの土地でうまくやっていくには、桜庭と同調せねばなりませぬ」


西光とは、西暦1156年(保元元年)の保元の乱の後、院の実権を握った信西(藤原通憲)の乳母の子で、もともとは阿波国の在庁官人(役人)でした。
西暦1160年(平治元年)の平治の乱で信西の死後、院の実権を握り、後白河法皇の信任厚かったものの、藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀(鹿ケ谷の陰謀)に加わったため、五条西朱雀で斬首となった人物です。


「なるほど......では、そなたはもともと院にゆかりのある者か」

「ご賢察」
と言いながら親家は頭を下げました。

「あいわかった。近藤殿、我らは後白河院の院宣を以って、平家の本拠・屋島を攻める。そなたにはその道案内を務めて頂きたい。院にゆかりのあるそなたであれば、この議、異論ござらぬな?」

「院のご命令とあらば致し方なし、どうぞ御存分に」

「うむ。後のことは三郎(義盛)に任せる」

「ははっ」

こうして近藤親家が率いていた平家駐屯軍100騎は義経によって選別され、30騎が義経軍に編入されました。


親家の道案内により、義経は阿波国勝浦郡託羅郷(徳島市本庄町)にある桜庭良遠の居城・本庄城を急襲し、良遠本人は逃したものの、これを落城せしめました。

この城攻めはあくまでも後顧の憂いをなくすためのものでしたが、ここで義経は有益な情報を手に入れることになります。

それは、讃岐国を支配下においている田口成良(桜庭良遠の兄)が3,000騎を率いて、源氏に味方している伊予の河野通信討伐に出陣しており、屋島の平家軍は1,000騎余しかいないこと。またその1,000騎も屋島近郊の港などの警備に割かれていて、本陣は手薄になっているということでした。

(これは天の配剤か!!)

義経がそう思ったのも間違いではないでしょう。
この後、義経は、一気に屋島に向けて強行進軍を開始したのでした。

次回、屋島の合戦・本戦。
posted by さんたま at 18:37| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする