2019年01月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(106)-屋島の戦い・前哨戦-

西暦1185年(元暦二年)1月10日、源義経は郎党・手勢を率いて京都を出発し、摂津国渡邊津(大阪府大阪市天満橋付近)に駐屯。摂津国、紀伊国、伊予国の水軍衆の調略を進め、2月15日現在、四国へ向かうタイミングを図っていました。

それは、去る2月1日、源範頼率いる平家追討軍の本軍が九州豊後国(大分)に上陸し、平家方の太宰大弐・原田種直を打ち破って、筑前、豊前、豊後を源氏の勢力下とすることに成功したことと無関係ではなかったでしょう。

義経軍が急ぎ四国へ向かう主たる目的は、四国屋島に駐屯する平家の本陣を牽制し、範頼軍の九州渡海を成功させることでした。
それがすでに叶った今、義経の目的は、平家の勢力が九州に向けられている隙をついて、平家の本拠・屋島を急襲する作戦に変わっていきました。

そんな中、京都より大蔵卿・高階泰経が摂津渡邊津にやってきました。
範頼軍が九州上陸を果たしたことが院庁に届き、後白河法皇の知るところとなったため、義経に京都帰還の命令が出されたためです。

「一度出された院宣を反故にされると仰せられるのか」

と泰経に凄む義経でしたが、泰経は

「そうではない。御上(法皇)としては、三河殿(範頼)の九州上陸が成った今、判官殿(義経)がわざわざ出向くこともあるまいと仰せである。そなたは京都守護が職務。平家攻めは名代を立てたらいかがじゃ?」

と薦めたため、義経は

「お言葉ながら、私はこの出陣に自分の命を賭けております。御上のため、また主上(天皇)のため、一刻も早く三種の神器を取り戻し、朝廷をを安らかしめることは我が兄・鎌倉殿の悲願でもあります。それをここにきてまた京都に戻れとは承服できませぬ!」

と憤り、泰経を丁重に京都に戻してしまいました。

(こうなっては、もう時がない、一刻も早く四国へ渡らねば)

この時の義経の水軍調略状況は、摂津の渡邊党と伊予の河野水軍の味方には成功しつつも、紀伊の熊野水軍との調略がまだ整っておりませんでした。しかし、これ以上ここに止まれば、再びまた法皇の使いがやってくることは明らかでした。

そんな中、範頼軍に参陣していた梶原景時(侍所所司)が義経軍に合流してきました。
早速、景時が義経に目通りすると

「三河殿のご命令により、判官殿の戦目付として遣わされました」

と挨拶すると

「お役目大義に存ずる」

と義経はその労をねぎらいました。

「して、状況はどのように」

景時は早速義経に出撃準備状況を尋ねました。

「目下、水軍の調略と渡海準備を進めておりますが、紀伊水軍の約定が取り付けておりませぬ。しかし、摂津渡邊党の協力もあり、明日には四国へ渡海しようと考えております」

「それは祝着」

「阿波では伊予の河野道信殿にご助力頂けることになっております」

河野道信は、伊予国河野郷(愛媛県北条市あたり)の国衙(朝廷の役所)の役人でしたが、頼朝の挙兵に呼応して平維盛の代官を追放して伊予国を手中に収め、反平家勢力の筆頭勢力となっていました。

その後、平家都落ちによる平家の反撃を受けて、父・通清が死亡。勢力も瓦解するものの豊後、伊予両国て局地的な戦いを続け、この頃には伊予国喜多郡(大洲市)に水軍を主とした勢力を築いていました。

「これでは指南役のやることがありませんな」

景時は笑いながらそう言うと

「戦目付の本領は戦が始まってからでござろう。それまではゆるりとお休みなされませ」

と義経も笑って、景時をもてなしました。


ところが翌16日になると、強風の荒天となり、船を出すには難しい天候になってしまいました。
その上、軍議では、義経は強行渡海しようとしますが、景時がそれを制止するという対立構図になってしまいます。

「強風の荒天だからこそ、敵の意表をつくことができるのです。今、渡海することこそ好機!」

「何をお考えか!こんな荒波に船を出したところで、何艘が無事に対岸までたどり着けるかもわかりませぬ!」

「何艘でも構わぬ!無事にたどり着いた船だけで戦えば良い。後は河野殿が助けてくれる」

「総大将の身に何かあったら、軍勢は統率を欠きます。統率を欠いた軍は敵の的になるだけでござる!」

「私の身に何かあったなら、平三殿(景時)が指揮を執れば良いではないか!」

「これはまたご無体な.......」

このような調子で議論は全く進みませんでした。

景時の説得を諦めた義経は、景時を無視して船を出そうとしましたが、今度は船を操る船乗りからも猛反対を受けます。
考えに考えた末、義経は武蔵坊弁慶、伊勢義盛、佐藤継信・忠信兄弟を自分の陣に呼び寄せました。

「よいか。今から我らのみで海を渡る」

こう切り出した義経は

「弁慶と三郎(義盛)、お前たちは食い物と酒を船の中に入れ、船頭たち4−5人集めてその苦労を労え」
「継信と忠信は、その隙に馬と兵を船に乗せろ」

と郎党に命令すると、それぞれ任務につくため、陣から退出しました。

16日夜、弁慶、義盛、継信、忠信の4人は義経の命令通りに実行し、五艘の船に食料と兵と馬を乗り込ませることに成功します。

弁慶と三郎に酒と食物でもてなされている船乗りたちは、船の中で何が起きてるのかさっぱりわかりませんでしたが、準備が一通り済んだところで義経が登場すると、全員平伏してこれを迎えました。

「その方ども、役目大義。これより船を出してもらいたい」

義経がそう言うと、船乗りの一人が

「御大将に申し上げまする。昼間にも申し上げましたが、この風の強さでは船を出すことはできませぬ」

と申し上げました。すると義経は

「風向きは追い風じゃ、できぬはずがあるまい」

と反論しますが

「確かに順風じゃが、この強さでは満足に操れませぬ。船が遭難します。」

と船乗りが申しました。義経はその船乗りの前まで歩み、膝をつくと

「良いか。山野で死ぬも、波に飲まれて死ぬも、これ全て前世の報いじゃ。今吹いている風が向かい風なら、世の常に逆ろうているだろうが、今吹いいているのは追い風じゃ。であれば難破遭難の危険は低い。仮にそれで死んだとしてもそれは前世の報いと思えば諦めもつくまい」

と諭すように言いましたが

「そんな殺生な......」

と船乗りが震えながら言上すると

「それとも......ここで我らの手によって殺されたいのか?」

と殺気の籠った低い声でささやかれると、船乗りの声が一気に

「ヒェッッッ!!!!」と感高い声に変わって、足をするようにして早足で後ずさりすると、他の船乗りたちも驚いて、義経に目を向けました。

義経は付いていた膝をあげ、立ち上がると

「伊勢三郎、佐藤継信」

と名を呼び、両人が「ハッ」と声をあげて、膝をつくと

「是非もなし、こやつらを射殺せ」

と命じました。

「何卒、何卒、お助けを。御慈悲を.....」

五人の船乗りは再び平伏して許しを乞いましたが、義経は目も合わせませんでした。

義盛と継信は一瞬、固張り、互いに横目で見合わせましたが、「ハッ」と畏ると、船乗りたちに向き直ると、持っていた弓に矢をつがえました。

「その方たちに申す。頼むから船を出してくれ。そうでなければ、お主たちをここで殺さねばならぬ」

継信は腹の底から懇願するような声で言いました。

「今ここで我らに射抜かれて死ぬのと、船を出して万が一助かる可能性にかけるのと、どっちが良いか、考えてみよ......」

義盛もそう言うと

「あいや、しばらく!しばらく!」

と先ほどの船乗りが両手をあげて、義盛と継信を制止しました。
それを見た両人は矢を弓から外しました。

「わかり申した。船は出しまする」

「おいおい」

別の船乗りが異議をあげると

「ここで弓矢で殺されるのも、船が難破して溺れ死ぬのも同じだ。だったら、あの方の仰るように、少しでも可能性のあるものに賭けた方がマシだろうよ」

先ほどの船乗りの言葉に他の船乗りも従わざる得ませんでした。


明けて2月17日丑の刻(午前1時頃)、渡辺津から5艘の船がゆっくりと出港しました。
義経は各自の船の先頭と末尾に篝火を焚かせて、他の船への目印にするように申しつたえ、一路、四国へ向けて移動したのです。

戦目付・梶原景時がこれを知ったのは、17日の明け方のことでした。
ここから義経と景時のすれ違いが生じていくことになります。

「吾妻鏡」によると義経たち一向は、17日卯の刻(午前6時頃)に阿波国椿浦(徳島県阿南市椿町?)に到着したとあります。
これを額面取り受け取れば、わずか5時間程度で到着したことになりますが、果たして真偽のほどは定かならず。

椿浦にはすでに赤い旗(平家旗)がはためいていたため、義経は陸に船を横付けすることはしませんでした。
馬の足がつく深さまで岸に近づき、そこから馬を下ろして北に向けて駆けさせ、無事陸地に上陸することができたのです。
その数50騎100兵。

椿浦を守っていた平家駐屯軍100騎が義経たちに追いついた頃には、義経軍はすでに反撃の体制を整えて勢ぞろいしていました。

義経軍の中から1人の騎馬武者が平家駐屯軍に向けて駆けてくるのを見た駐屯軍の大将は

「攻撃してはならぬ」

と配下の騎兵にそう伝えると、道を開けるような手振りをし、自ら馬を騎馬武者に近づけました。

騎馬武者は駐屯軍大将と一定の距離を取ると、

「それがし、源判官義経が郎党・伊勢三郎(義盛)と申す」

と名乗ったので、駐屯軍大将も

「それがしは阿波国板野郡の住人・近藤親家と申す」

と名乗り返しました。
義盛は、続けて

「我が御大将が、近藤殿にお聞きしたいことあり、我らにご同道あるべし」

と言うと、親家は「はっはっは」と笑いをあげて

「我は平家の武士でござる。源氏の御曹司が望んだからとて、はいそうですか、とノコノコ参上する義理はござらん」

と答えると

「ならば、致し方なし」

と三郎が太刀を抜くと、

「おうよ」

と親家も太刀を抜き、互いに太刀を重ね合わせました。
一合、二合、三合、義盛の攻撃は親家に防がれ、親家の攻撃は義盛に防がれるという感じで、ともに隙がなく、互角の戦いが続きました。

しかし、親家の太刀筋が少しずつ鈍り始め、義盛の斬撃に対して防ぐことが厳しくなり、ついに親家は義盛に太刀を飛ばされてしまいます。

親家が太刀を拾おうとした時、義盛の太刀が親家の首筋に近づけられていました。

「御同道いただけますかな」

義盛の物言いに観念した親家は、太刀を拾おうとした手を引き、義盛にしたがって義経の元に同道しました。


義盛に連れられた親家に対し、

「よう参ったの。九郎義経じゃ」

と義経はいきなり名乗りました。
親家は着座して、平伏すると

「阿波国板野郡の住人・近藤親家と申します」

と名乗りました。

「その方に聞きたいことがある」

「はっ。それがしにお答えられることであれば」

「ここはなんという場所じゃ」

「阿波国の勝浦と申しまする」

「ほう。これは縁起がいい。四国の平家を退治しに来た義経が上陸したところが勝浦とは」

と言って、義経は笑いました。

「近藤殿。我らはこれから屋島を目指す。しかし、目の前の敵と戦っている最中に後ろから平家の矢を受けたくはない。この辺りで平家に通じている有力な武士は誰であろうか?」

「さすれば......田口成良の弟・桜庭良遠がそれになるかと」

「ほう。その者は何者じゃ」

「田口成良は、讃岐国(香川県)の有力な平家武士にござる。その弟である桜庭良遠は阿波国勝浦郷、すなわちこの地に勢力を張る存在にござりまする」

「ふむ.....そうか。じゃが1つ腑に落ちぬことがある。そこ許も平家武士であろう。なぜ同胞を売るような真似をする?」

義経の問いに親家はニヤリと笑うと

「お答え申し上げる。それがしの家と田口家とは因縁朝からぬ間柄がござる。我が近藤家は藤原師光、すなわち後白河院にお仕えした西光殿の一族で、院の力でこの阿波国の役人を務めております。田口家は亡き相国入道(平清盛)の信任厚く、平家の都落ち後、讃岐を平定してその経済力を維持させ申した。そして今では弟・桜庭良遠を通じて、この阿波国までその力を広げておりまする。

西光の一族であるがゆえに、平家に対して憎むことこれあり、されどこの土地でうまくやっていくには、桜庭と同調せねばなりませぬ」


西光とは、西暦1156年(保元元年)の保元の乱の後、院の実権を握った信西(藤原通憲)の乳母の子で、もともとは阿波国の在庁官人(役人)でした。
西暦1160年(平治元年)の平治の乱で信西の死後、院の実権を握り、後白河法皇の信任厚かったものの、藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀(鹿ケ谷の陰謀)に加わったため、五条西朱雀で斬首となった人物です。


「なるほど......では、そなたはもともと院にゆかりのある者か」

「ご賢察」
と言いながら親家は頭を下げました。

「あいわかった。近藤殿、我らは後白河院の院宣を以って、平家の本拠・屋島を攻める。そなたにはその道案内を務めて頂きたい。院にゆかりのあるそなたであれば、この議、異論ござらぬな?」

「院のご命令とあらば致し方なし、どうぞ御存分に」

「うむ。後のことは三郎(義盛)に任せる」

「ははっ」

こうして近藤親家が率いていた平家駐屯軍100騎は義経によって選別され、30騎が義経軍に編入されました。


親家の道案内により、義経は阿波国勝浦郡託羅郷(徳島市本庄町)にある桜庭良遠の居城・本庄城を急襲し、良遠本人は逃したものの、これを落城せしめました。

この城攻めはあくまでも後顧の憂いをなくすためのものでしたが、ここで義経は有益な情報を手に入れることになります。

それは、讃岐国を支配下においている田口成良(桜庭良遠の兄)が3,000騎を率いて、源氏に味方している伊予の河野通信討伐に出陣しており、屋島の平家軍は1,000騎余しかいないこと。またその1,000騎も屋島近郊の港などの警備に割かれていて、本陣は手薄になっているということでした。

(これは天の配剤か!!)

義経がそう思ったのも間違いではないでしょう。
この後、義経は、一気に屋島に向けて強行進軍を開始したのでした。

次回、屋島の合戦・本戦。
posted by さんたま at 18:37| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月30日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(105)-源氏、西国に橋頭堡を築く-

源範頼率いる平家追討軍は、西暦1184年(元暦元年)12月7日、備前国藤戸(岡山県倉敷市藤戸)で平家の先発隊を破って勝利をおさめ、周防国(山口県西部)に入国しました。

依然として瀬戸内海の制海権は平家にあり、水軍はもとより船の手配、食糧補給もままならない範頼軍は、京都や鎌倉に追加の補給を願い出ていました。そんな中、義兄・頼朝からの返書が、年が明けた西暦1185年(元暦二年)1月6日付で範頼の元に送られました。

そこには

「とにかく西国の武士と揉め事を起こすことなく、平家を追討することだけ考えよ」

というアドバイスにもなんにもならない内容が書かれていたものの「2月10日前後には船を手配して西国に送る」という内容も書かれており、追討軍に多少の明るさが戻ったことは間違いでしょう。

また、頼朝は範頼が九州の源氏勢力を統合し、平家に対抗する力となることを期待しつつ、同時に京都の治安維持に当たっている義経を四国へ派遣することも書状に書かれてありました。

時同じくして、同年1月8日、義経は後白河法皇に西国への出陣許可を求めていました。
これが頼朝の指図によるものかどうかはわかりません。

吉田経房(正三位権中納言)が記した「吉記」によると、法皇は義経の出陣願いに対し

「それは判官自身が出陣するのか?それともお主の郎党が出陣するのか?」

と尋ねられ、義経自身の出陣については即答で許可することができませんでした。それは先の平家残党による伊勢・近江反乱の首謀者である残りの一人・伊藤忠清が未だに京都に潜伏しており、捕縛されていなかったからです。

法皇としては、ここで義経に京都を離れられては安心できぬという心境でしょう。

しかし、義経は

「これより2、3ヶ月経過し、兄・範頼軍の食糧が尽き、京都に引き上げてきたならば、今、源氏に味方する在地豪族の連中は再び平家に味方することになります。それこそ一大事ではありませぬか?」

と院に迫っています。

ここで経房は

「御上(法皇様)、判官(義経)殿の申し状も一理あります。ここで判官殿ご自身が出陣せず、その郎党を遣わしたところで、追討の意味がありませぬ。ならば、今春のうちに判官殿に後出陣いただき、源氏・平氏の戦いに終止符を打っていただくのがもっとも良策であると考えまする」

と義経の出陣に賛意を示しています。
法皇は、この経房の意見に法皇はこれ以上の反論は無駄だと悟り、翌々日の1月10日、義経に西国への出陣を許可しました。


1月12日、九州への行軍を続けていた範頼の平家追討軍は、ついに九州との境である赤間関(山口県下関市)に到着しました。

追討軍はここで九州へ渡ろうとしますが、西国は平家の勢力下であり、ここには平家最強の武将・平知盛(清盛四男・平家最強の武将)彦島(山口県下関市の南端にある島)に砦を築いて、軍勢を駐屯させていました。

水軍も船も持たない追討軍は海を渡る方法もなく、かといって戦いを仕掛けてくる彦島の平家軍を駆除することもできず、進むことも退くこともできなくなっていました。有効な打開策もなく、兵士の食糧も尽き、完全に八方塞がりとなり、追討軍の士気はどんどん落ちていったのです。

彦島の平知盛は、惟を狙っていたので、範頼は完全に知盛の術中にはまったと言えましょう。

追討軍は8月に鎌倉を経ってすでに5ヶ月の長旅に飽き始めていました。
範頼に従っていた御家人の中にはこっそり鎌倉に帰ろうとする者もいましたが、その中には和田義盛(侍所別当)の姿もありました。

本来、御家人を監督する立場の侍所の長官である義盛ですら鎌倉に戻りたいと言い出す程の厭戦状況は、よっぽどであったと思われます。

そんな追討軍ではありましたが、周防国の豪族・宇佐那木上七遠隆が食糧の援助を申し出たり、豊後国(大分県)の豪族・緒方惟栄(豊後国大野郡緒方荘領主)とその弟である臼杵惟隆が、豊後の武士をまとめ上げ、82の軍船を率いて平家追討軍の援軍に加わるなど、少しずつ風向きが変わってきました。


1月26日、範頼率いる平家追討軍は、周防国の抑えに三浦義澄(相模国三浦郷の住人)を残し、周防国を出発。

「吾妻鏡」の記録によれば、翌2月1日、平家追討軍のうち、北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清実らが豊後国に上陸し、筑前国葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町あたりの湾港)にて、大宰権少弐(太宰府の副長官)を務める原田種直とその子・賀摩種益を攻撃しました。

原田種直と賀摩種益父子の弓矢の腕は凄まじく、これに下河辺行平、渋谷重国の両名が弓矢で応戦し、双方弓矢合戦となりましたが、行平が種直の弟・美気敦種を討ち取り、重国が種直を射抜き、初戦の勝利を飾りました。

これにより、筑前(福岡県北部)、豊前(大分県北部)、豊後(大分県南部)の三国は源氏の勢力下に置かれました。

これまで優位に戦いを進めていた彦島の平知盛は、正面の周防国に三浦義澄、背後の豊後国に平家追討軍総大将・源範頼に挟まれることになってしまい、源氏を釘付けにするための知盛の作戦が、逆に知盛を彦島に釘付けにする結果に変わってしまったのです。

これが、のちに屋島の戦いでの平家の敗因の1つとなってしまいます。

また同じ頃(2月)、後白河法皇より平家追討の命令を受けた義経は、摂津国、紀伊国、伊予国の水軍衆の調略に成功し、摂津国渡邊津(大阪府大阪市天満橋付近)に兵を集め、四国へ渡るタイミングを見計らっていました。


次回、いよいよ屋島の戦いです。。

(つづく)
posted by さんたま at 17:05| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月09日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(104)-藤戸の戦い-

西暦1184年(元暦元年)12月某日、源範頼ら平家追討軍は備前国藤戸(岡山県倉敷市藤戸)まで進軍しましたが、屋島から出撃した平家迎撃軍に行く手を阻まれていました。

平家は児島(岡山県倉敷市児島)に砦を築いてそこにこもり、そこから軍船で岸辺まで進出して、海上から牽制攻撃を行っていました。しかし、源氏に船はなく、平家を迎え撃つことができません。

平家の牽制攻撃に怒りに震えた佐々木盛綱(佐々木秀義の三男)は、同月6日の夜、近所の漁村の漁師を買収し、馬で島に渡る方策はないか相談したところ、一人の漁師が「浅瀬を知っている」というので、その者を案内に立てて、盛綱は一人、その浅瀬に向かっていました。

半刻ほど行くと、

「ここだ」

と漁師が海を向いて指差しました。

「普通の海と変わらんぞ」

盛綱は不審がって言いました。

「じゃあ、俺についてきな」

と漁師が服を抜いて、海の中に入りました。
漁師は足から、膝、腰、胸、肩まで入ったところで、盛綱を手招きしたので、来ていた狩衣を抜いで盛綱も入りました。
海の水は肩まで浸かりましたが、しっかりと底に足が着いています。

「これは.....」

盛綱が驚くと、漁師はさらに奥に歩いて進んでいきます。
盛綱もそれに続き、ずっと底に足が着いているのを確認しました。

「この辺りはこの深さがずっと続いていて、あの島(早島?向山?)までは馬で渡れる。だが、これ以上進むと平家に見つかって、討ち死にされてしまう恐れがあるから、一旦引き上げた方がいい」

「うむ」

二人は海から岸へ向かって歩き始めました。

漁師は岸辺にあった漁師小屋に行き、火を起こして蒔をくべ、すぐに暖がとれる支度をテキパキとこなしました。
一方で盛綱は火にあたりながら、漁師小屋にあった布で体を拭くと、狩衣を身にまといました。

盛綱は岸から上がったあと、ずっと無言でいました。
それはあることを考えていたからでした。

「おぬし、漁師仲間を口説いて源氏に味方するように説き伏せられないか」

盛綱はそう言うと、漁師は「はぁ?」という怪訝な顔で答えました。

「俺たちはこの土地の漁師だ。西国は平家の領地だけれども、俺たちには源氏も平家も関係ねぇ。ただここで漁をして生活したいだけだ」

「そうか......そうだよな」

盛綱は思った通りの答えが出てきたことに苦笑しながら、その顔は悲壮に満ちていました。

「その方らは土地の漁師。源氏にも平家にもつかぬ。ということは、お主はこの情報を平家にも教える可能性がある」

「あんた......」

「すまぬが、この情報を敵に知られるわけにはいかんのだ.....」

「ひぇっ.....!!」

盛綱が放った殺気は、漁師に背を向けさせるのに十分でした。
しかし盛綱の方が動きは早かった。

盛綱は大きく一歩踏み込み、即座に刀を抜いてそのまま漁師の背を下から上に斬り上げました。
鮮血がシパッと跳ね、漁師の体が一瞬ぐらっと崩れると、今度は右から左に刀を走らせ漁師の首をスパッと刎ねたのです。

「......悪く思うな」

盛綱はそう言うと、その場を立ち去って刀の血を海の水で洗った後、自分の陣所に帰って行きました。


翌12月7日、平家は再び児島より軍船を出し、船より矢を放って源氏への牽制攻撃を行おうとしていました。

それを見た佐々木盛綱は自分の郎党七騎を率いて

「進めぇい!!」

と進軍の合図を送り、一目散に海に駆け込みました。
他の武士たちは、「おい、やめろ」「自滅する気か!」と声をかけましたが、盛綱は進軍を止めませんでした。
その姿は当然、総大将である範頼にも見え

「誰か佐々木殿を止めよ!!」

と命じられたので、土肥実平が承って馬を駆って盛綱に追いつきました。

「佐々木殿!待たれよ!!大将軍(範頼)の命令もなしに突き進むとは乱心されたか!留まられよ!」

実平の言葉を聞いていた盛綱は「はっはっは」と笑いし、

「我に続かれれば、理由(わけ)がわかり申す」

とだけ言って、そのまま海中への進軍を止めませんでした。

実平にとって大将軍である範頼の命令は絶対でしたので「止められませんでした」とは言えません。
やむえず、実平も盛綱に続いて馬を進めました。

海水は馬の足をすべて呑み込み、場合によっては深みに入って鞍まで浸かったこともありましたが、馬ごと沈むということはなく、むしろ島に近くにつれ、今度はどんどん浅くなっていきました。

「こ、これは.....」

実平の狼狽を見て盛綱はニヤリと笑うと、

「土肥次郎殿!御助勢感謝!」

とだけ言い放ち、さらに馬に鞭を入れて目の前の島に向けて進軍を進めました。

これを見ていた対岸の範頼は

「佐々木の三郎め......いつの間にあんな浅瀬を知り得たのじゃ」

と独り言のように言うと

「全軍!佐々木殿の後に続け!」

と総攻撃の下知を下されました。


驚いたのは平家です。
絶対不可侵領域であるはずの海に馬で渡れる浅瀬があろうとは、想像もしていませんでした。

浅瀬近くの軍船は急ぎ櫓を漕いで、戦線から離れようとし、船上では前にもまして弓矢をつがえましたが、ことごとく源氏の軍勢の船の侵入を許し、次々に討たれていきました。

源氏はついに児島の平家砦に上陸を果たしましたが、時すでに遅く、平家軍お主力はすでに島を捨て、屋島に撤退していました。
海は浅瀬で渡れても、瀬戸内海を馬で超えることは難しく、源氏は平家に追い討ちをかけることができなかったのです。

こうして、のちに「藤戸の戦い」と呼ばれた合戦は源氏の辛勝となりました。

一方で、大勝利のきっかけを作った佐々木盛綱には、「総大将・源範頼の命令違反」という罪が残されました。

しかし、同月26日付で頼朝から下記の感状が出されました。

「昔から今に至るまで、馬で川を渡る武士は数多いが、馬で海を渡るインド、中国はいざ知らず、我が国では極めて珍しいことである。盛綱の働きあっぱれである」

よって盛綱の命令違反の罪は帳消しとなり、逆に盛綱は恩賞として備前国児島の地を所領として充てがわれたのです。


源範頼率いる平家追討軍は、藤戸の戦いを経て、本来の目的である九州へ向けて軍勢を進めました。
しかし、鎌倉を経ってすでに4ヶ月がたち、範頼の元には諸所いろんな問題が積み上がってきていました。

1、兵糧の問題
2、水軍確保の問題


1については、瀬戸内海の制海権を平家に握られている以上、海路ならびに西国陸路における補給が満足に行き届いていませんでした。
2については、藤戸の戦いで追い討ちができなかったのと、来るべき屋島討伐のために、どうしても軍船が必要で、その確保がなかなか進みませんでした。

この頃、範頼はこれらの窮状を鎌倉に報告する文書を送っているようですが、それに対する頼朝の返事が「吾妻鏡」に残っています。
それは下記のような内容でした。


「風聞で物資が欠乏していると聞いたので、その手当が完了したという手紙を送ろうとしたら、お前の11月14日の手紙が、正月6日に到着した。

よってその返事をここに書く。

手紙の内容は承知した。

九州の御家人連中も平家の衰運はなんとなく感じているはずだから、それでも従わないのはお前に問題があるのだと思う。お前はこの頼朝の名代なのだから、もっと堂々と行動しろ。何事も落ち着いて対処し、現地の人達に憎まれるようなことをしてはならない。

追加で馬を送れとの件だが、戦に軍馬が必要なのは理解している。だが、平家も京都奪還を目指してそれなりに情報収集をしていることを考えると、戦場の大将に馬を送って、万が一平家に横取りでもされては本末転倒なので、鎌倉から送るのは難しい。

又、内藤盛家が周防国遠石庄(山口県周南市)を横領した事は驚いた。
しかし、地元の人達を怒らせるようなことをしてはならない。

今、屋島におわす安徳天皇や二位の尼(清盛未亡人・時子)や女房たち等を疎略なきようにお迎えを送ることを考えているが、それを公表すれば、二位殿などは、安徳天皇をお連れなされて、自決しかねないだろう。

御上への配慮は今に始まったことではないが、かつて木曾義仲は山の宮と鳥羽四宮を討ち奉ったので自滅した。
平家は、三條高倉宮(以仁王)を討ち奉ったので、今まさに自滅の道を歩んでいる。

そういうことなので、急がず良く考えて、敵を討ち洩らさないようにじっくりと計略を立てて、命令を出しなさい。

内府(清盛三男:平宗盛)は、臆病者なので、自害はしないだろう。生け捕りにして京都へ連行せよ。その事が世間の隅々まで伝われば良いことだ。

しかし、安徳天皇の身の上が心配だ。よってどんな手を使ってもいいから、うまくやりなさい。
他の武士たちにも、このことを良く言い含めるよ。団結を強めるため、懇切丁寧に説明せよ。

よいか。よくよく考え、九州の者共に憎まれないように振る舞うのだ。
関東武者の勢いだけで、九州の者共に頭ごなしに屋島の攻撃を急がせたりするな。

もう平家が弱体化したとはいえども、敵を侮るようなことは、絶対にあってはいけない。良く考えて、敵を討ち漏らすことの無いように、よくよく検討をして決定せよ。

なお、安徳天皇ことは、特に念を入れて、何事も無いように計らえ。

二月十日頃には、ある程度船を上洛させられると思う。

話は違うが、佐々木三郎盛綱が、九州へ下って行きたいと言うたので、遣わしたら備前の児島を攻め落としたらしいな。

何れにしても、慎重に考え、うまく軍隊を使うように心得よ。

侍たちにあ細かい指図をすると大将としての要を問われるぞ。

それと、お前、食料などが足りなくなって、京都などにあちこちに催促をしているらしいが、そんなものを要求しても意味ないと思うぞ。

鎌倉でも、時に変わったことはない。千葉介(千葉常胤)は、戦上手だからうまく使え。


九州の者共が降伏してくるようなことがあれば、丁重にもてなして、疎略なきようにしろ。

豊後(大分県)の船を調達できれば、たやすいことなので、もし船があれば自分たちで攻めて行くように地元の者共に伝えよ。(さっきも書いたが)関東からの船は二月十日ごろに出発できるように準備中だ。

今一度言う、九州の事は慎重に疎略なき指図を心がけよ。

しかし、東国の侍たちが帰りたがっているとは意外だったが、四ヶ月も鎌倉を離れれば、それもやむなしかな。

いろんな人がいろんなことを言うが、いちいち人の云うことなんか聞くことはない。本当に良いと思う方法を行うことが大事なのだ。

人の云うことなんか気にするな。所詮、大将と侍は背負ってる物が違う。

小山一族(長沼宗政と結城朝光)のことはくれぐれも宜しく。

私は思うが、これ以降に合戦に参加する者共は、今現在誰の領地や知行地だとかは気にするな。そんな事を考えていて、その者共が合戦の邪魔者になるのが面倒だ。

今は地元の人達をなだめすかしてでも旨くこの場だけでも気遣って、九州の武士たちに四國を攻めさせるのだ。

追伸:命令書を一枚送付したので、九州の地元の武士たちに披露しなさい。

そうそう、甲斐の武士たちの中の、いさわ殿(石和五郎/武田信光)、かがみ殿(秋山光朝/秋山氏の祖)は特に大事にせよ。かがみ殿は、次郎(小笠原長清/小笠原氏の祖)の兄だが、平家についたり、木曾義仲についたりした者なので、所領などを与える必要はない。弟の次郎殿だけを大事にせよ」



この前の範頼の書状の内容がどういうものかこの内容から類推するしかないのですが、まぁ、いわゆる「愚痴」を書き送ったものと思われます。それにしても頼朝の弟に対する気遣いが随所に現れている返書だと思います。

そして、この時、つけていた命令書が以下の通りです。


「九州地方の武士たちへ

可及的に速やかに鎌倉殿(頼朝)の御家人となって本領を安堵され、三河守(範頼)の命令に従って、力を合わせて、朝敵となった平家を滅ぼせ。

右(上記)のとおり、九州の武士たちに命令して、朝廷の敵を退治するように、後白河法皇の命令書が出されています。これによって鎌倉殿の代官として二人が京都へ上り、三河守(範頼)は九州へ行き、源九郎義經(義経)は四国へ派遣され流ことになった。

これにより、四国にある平家の部下、また九州へ着いた(逃れた?)としても、皆それぞれに後白河法皇の命令で動く三河守(範頼)の命令に従って、力を合わせ、朝敵退治するように命じる。

九州の朝廷へ着いた兵隊たちは、これに速やかに従い手柄を立てよ。

以上を命令する。

元暦元年正月  前右兵衛佐源朝臣(頼朝)」



この頼朝の命令書には「義経を四国に遣わす予定」とあります。
この時の義経は、後白河法皇の命令により「従五位下 左近衛少尉 検非違使」の官職を賜っており、京都の治安維持を命じられていたため、頼朝は追討軍の大将から外していました。

しかし、ここで義経の名前が出たことから、頼朝の朝廷工作がなんらかの成果をあげ、結果、義経に出陣ができる様子が整ったと考えられます。

屋島の戦いまであと少しです。

(つづく)
posted by さんたま at 19:15| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする