2018年09月09日

人吉相良氏の軌跡(4)ー室町時代(1)ー

1、八代目相良頼茂(実長)、九代目、相良前続の治世
西暦1394年(明徳五年)1月19日、相良氏七代目・相良前頼日向国野々美谷城(宮崎県都城市野々美谷字府下)にて、島津元久・北郷義久の連合軍の攻撃を受け、前頼の兄弟共々討ち死にしました。

よって、前頼の嫡男・相良頼茂が相良氏八代目の家督を相続しました。


また、この頃、中央政界でも動きがあり、西暦1370年(建徳元年/応安三年)から20年以上に渡り、九州探題として足利幕府の権力基盤を築いた今川了俊が、西暦1395年(応永二年)1月、将軍の命令で上洛したところ探題職を解任され、新しい九州探題として渋川満頼が翌年派遣されています。


南北朝合一がなったとはいえ、頼茂は父・前頼の影響を受け、心情的に南朝方の味方をしていました。
これを知った足利幕府は、頼茂に「従五位下兵庫允」の官位に叙任させて懐柔を図り、頼茂も「実長」と改名しています。

以後の実長の軍事活動は北朝方としての活動が確認でき、日向国真幸院(宮崎県えびの市)からすでに没落していた畠山直顕の残存勢力を追い出す一方、幕府の命令で島津家の御家騒動に介入し、島津伊久(薩摩守護/総州家)を支援。島津元久(大隈守護/奥州家)を薩摩から追い出す功績を立てています。
(島津家の御家騒動は西暦1404年(応永十一年)に伊久、元久が和睦して決着)

西暦1417年(応永二十四年)、相良氏七代目・相良実長死去。
嫡男、相良前続(さきつぐ)が相良氏九代目の家督を相続しました。


八代目実長、九代目前続の時代は、人吉は戦乱に巻き込まれることも少なく、両氏は寺社仏閣の復興に注力しています。
実長は井口八幡神社(熊本県人吉市井ノ口町949)を整備し、前続は永国寺(熊本県人吉市土手町5/通称:幽霊寺)を建立しています。


2、上相良氏の謀反
西暦1443年(嘉吉三年)、相良氏八代目・相良前続は急死し、嫡男の相良堯頼(たかより)が相良氏十代目の家督を相続します。

しかし、堯頼はまだ11歳の子供でした。

幼子が相良氏の当主になると、その家督の不安定さから、比較的平穏だった人吉の地が、にわかにざわついてきました。


堯頼が家督を継いで5年後の西暦1448年(文安五年)、肥後球磨郡多良木城主(上相良氏)・多良木頼観、その弟・多良木頼仙は、外越(現在の人吉市上戸越、下戸越)地頭の桑原隠岐守ら国人衆を扇動し、人吉の寺院の僧徒、山伏、雑兵含め総勢1200人の軍勢を率いて、相良宗家に謀反を起こし、人吉城に攻め寄せてきたのです。

多良木氏は相良氏初代・相良長頼の子・頼氏を発祥とし、多良木氏三代目・多良木経頼の時代に宗家に反抗して、当時の相良氏当主・四代目長氏、五代目定頼を散々苦しめた家です。

多良木兄弟が不穏な動きをしていること人吉城でも察知していました。
しかし、国人衆や僧侶等の合力は想定外で、人吉城の防備は間に合わず、不意の攻撃に当時16歳の堯頼は狼狽し、僅かな近習を連れて誰にも言わずに密かに人吉城を脱出してしまいます。

城内では「長年の宿敵である上相良にこの城を渡すものか」と数名の勇士が踏み止まって奮戦しましたが、衆寡敵せず、全員討ち取られてしまいます。

しかし、多良木兄弟の謀反を知った肥後球磨郡山田城主(熊本県球磨郡山江村)・永留長重は、急ぎ集められるだけの兵を集めて山田城から出陣し、人吉城を奪って油断していた多良木兄弟を攻撃して、兄弟を人吉城から追い出しました。

人吉城を多良木兄弟の手から奪い返した長重は、相良氏家臣と共に行方知れずとなった堯頼の捜索を命じます。
ようやく、堯頼が薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口山野)にいることを突き止めると、長重は使者を遣わし


「多良木兄弟は我々が人吉城から追い出しました。もう殿様に害を成すものはおりませぬ。安心して城に御戻りくだされ」


と復帰を願いました。しかし堯頼は


「不意をつかれたとは申せ、城も領地も領民も手放してこの地に隠れた私に人吉城を預かる資格はない」

と人吉城への帰還を拒否します。その上

「此度の軍功第一は申すまでもなく永留長重。その栄誉を讃え、ここに相良氏家督を長重に譲る」

と言いだしました。


永留氏は、相良氏2代目・相良頼親の嫡男、相良頼明を祖としている相良氏庶流です。

初代・長頼が亡くなったあと、頼親が2代目家督を継ぎましたが、56歳という高齢の為、すぐに弟の頼俊に家督を譲り、以後はその血統が相良宗家となっていました。

頼親は隠居後、照角山(球磨村神瀬)に隠棲し、嫡男・頼明は山田に領地を賜って永留氏を名乗ったのです。

よって血統的には宗家の兄の血筋になるので、相良氏の家督を相続する資格は十分ありました。


使者は急ぎ人吉城に立ち戻り永留長重に言上すると、

「一体何をおっしゃっているのだ? 仮にそれがしに家督を譲るとしても、相良宗家の主が賊の襲撃をけて居城から追放されたままの状態では、相良宗家一門の不名誉に変わりはなく、近隣諸国に対して恥であるから、速やかに御戻りいただくように申せ!」

と再度使者を遣わしました。

この往来が何回も続きましたが合意することはなく、西暦1448年(文安五年)3月23日、堯頼は薩摩国牛屎院で事故死してしまいます。

事、ここに至っては当主の帰還は未来永劫望めない事態となりました。
かと言って、鎌倉時代より続く相良氏の名跡を絶やすわけにいきません。

よって、亡き堯頼の意向であり、人吉城を奪還して宗家を守らんとした長重の功績は何物にも変えがたく、同年5月13日、ここに永留長重が相良宗家を注ぐことになりました

ここに、相良氏三代目・相良頼俊を初めとする相良氏宗家の血統は絶え、新たに、相良氏二代目・相良頼親の血統から始まる新生相良宗家が生まれました。

相良宗家を継いだ永留長重は名を「相良長続」と改め、相良氏十一代当主が誕生したのです。

(つづく)
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2018年09月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(98)-重衡、鎌倉へ-

後白河法皇平重衡を通じて、平家一門に「三種の神器を返せば重衡の身も屋島に送る」という悪魔の交換条件を突きつけたのが、西暦1184年(寿永三年)2月14日で、平家一門棟梁・平宗盛が返書を送ったのが同月28日です。

その間の京都での動きを簡単にご説明します。

右大臣・九条兼実の日記「玉葉」によると、2月16日、後白河法皇は鎌倉の源頼朝の元に中原親能を遣わしています。

中原親能は源義経と共に鎌倉より京都にやってきた源頼朝の代官で、武家と公家との間の調整役でした。
法皇が親能を遣わしたのは

「4月までに上洛せよ。もしそれがない場合、我(法皇)が東国に臨幸する」

という意思を伝えるためでした。

九条兼実はこれを「ほとんど物狂い=狂気の沙汰」と呆れています。
法皇が東国に行かれるなど前代未聞であり、兼実の認識は間違っていません。
が、法皇としては頼朝とうまくやっていく良い方法が、これしかなかったのだと思われます。

一方で、鎌倉の源頼朝は2月18日、京都に使いを出しており、播磨、美作、備前、備中、備後(現在の広島県東部、岡山県全域、兵庫県西部)の五カ国梶原景時、土肥実平の両名を以って守護に任命しています。


月変わりて、翌3月1日付で、源頼朝は鎮西九国(九州?)の武家に平家追討を命じています。
その内容は、よくもまぁここまで自分を正当化できるものだという呆れる下記のような内容でした。


(ここから)
鎮西九国の武士共は鎌倉殿の御家人として平家の賊徒を追討しなさい。
これは法皇様の院宣を受け、そなたたちに命令している。

平家が謀反を起こし、昨年追討使として、東海道から遠江守義定(安田義定/甲斐源氏)、北陸道から左馬頭義仲(源義仲)を鎌倉殿の代官として上洛させた。ところが、義仲は平家と通じたため、追討の院宣を鎌倉殿が賜り、やむなく誅伐した。

平家は四国近辺に拠点を置き、通行中の船舶を襲撃し、人民のものを収奪する行為を繰り返している。
これ、人々の苦しみ耐えがたいものがある。

今に至っては陸上、海上問わず、官兵(天皇の軍)を以って、これを追討する他にはない。
鎮西九国の武士はこれを皆、承知し、平家を追討せよ。
追って勲功は沙汰する。

(ここまで)


安田義定は甲斐源氏であり、頼朝と祖を同じくする河内源氏の一族ではありますが、頼朝の家臣ではなく、あくまでも同盟勢力です。
そして義仲に至っては頼朝の従兄弟ではありますが、全く別個の勢力です。
それを「鎌倉殿の名代として上洛させた」とかどの口が言うのかと。
嘘八億もいいところです。

また、この頃、諸国の神社、仏閣が武士たちに横領、乱暴される事件が多発しており、何度か院庁から頼朝あてに諸国の武士の乱暴狼藉を取り締まるように宣旨が出されています。


3月2日、頼朝の命令で、土肥実平が山陽道に出立するため、実平の管理下にあった平重衡の身柄が、源義経に引き渡されました。

そして8日後の3月10日、平重衡は頼朝の命令によって、鎌倉に送られることになり、京都を出発しています。

この時の警護担当は梶原景時が務めました。

また、この頃、伊賀、伊勢両国(現在の三重県)において、伊勢平氏の一派の動きに怪しいものがある(平家一門の人間が潜伏してる?)報告を受けた頼朝は、その対策として、3月20日に大内惟義(清和源氏義光流・平賀氏/武蔵守)を伊賀国守護に任じ、大井実春(武蔵国荏原郡大井郷の住人)を伊勢に派遣しています。

鎌倉に送られた平重衡は、3月下旬に鎌倉に到着。
同月28日、重衡は立烏帽子に藍色の直垂をつけ、威風堂々とした姿で頼朝に引見しました。
重衡のそばには警護役であった梶原景時の姿もありました。

頼朝に対し、重衡は

「前の三位中将、平重衡にござる」

と平伏し、頼朝も

「前の右兵衛佐、源頼朝にござる」

とそれに答えて頭を下げると

「此度、このような形で中将殿と相対することになったことは私の本意ではない。しかし、御上(法皇)の怒りを慰めるため、また亡き父・播磨守義朝の仇を討つために心ならずも挙兵し、御上の心を安んじ奉るために平氏を退治せねばならなかったことは致し方のないことだったと存ずる。その結果、こうして中将殿と対面できたことは、私にとっては喜ばしいこと。いずれは内府殿(宗盛)とも対面する日が来るであろう」

と続けました。重衡は平伏したまま、顔をあげませんでした。
頼朝は重衡の言葉を待ちましたが、重衡の言葉は出なかったため

「ただ、1つだけ中将殿にお伺いしたいことがござる」

とさらに言葉を続けました。

「先年、中将殿は奈良の寺々を焼き討ちになされた。これは相国入道(清盛)のご命令か?それとも中将殿のご判断か?」

重衡は今一度深く頭を下げると、顔を上げました。

「お答え申し上げよう。奈良の寺々が炎上したのは我が父の命令でも、我の判断でもない。衆徒の悪行を鎮圧するために行った火計が予想以上に周りが早く、南都の寺々を灰塵に帰させてしまった。これは我の不得の致すところにござる。」

そう答えた重衡はさらに言葉を続け

「古来より、源氏と平氏は共に朝廷を守護し奉る者でした。ところがいつの間にか、源氏の運気が衰退し、平家のみが朝廷を守護することになり、数々の朝敵を討ち、主上(天皇)の外戚として昇殿する者(いわゆる公卿)60余名。その繁栄は20余年に及びまする。今、平家の命運尽き、我が身はこうして捕えられて鎌倉に送られてござる」

と申し上げました。
しばらく沈黙の間が漂い、頼朝が

「何事も世の移り変わりかと存ずる」

と発すると

「それがしは平治の戦いで父・義朝、兄・義平とはぐれ、平頼盛殿の家人・平宗清殿に捕らえられた。ありがたいことに池禅尼様の御慈悲を以って、死を免じられ伊豆に流された。伊東、北条、工藤などの諸氏に周囲を見張られ、一生ここで籠の鳥となって死ぬるのだと覚悟した。しかし、以仁王様、源三位殿が打ち上げた狼煙が、衰運しかなかった我ら源氏に一筋の光明を与えてくれた。」

「その光明を、たった1つの光明を通じて、それがしも、武田殿(甲斐源氏)も木曽殿(木曽源氏)も立ち上がったのじゃ。挙兵は人と物さえあれば誰でもできる。だが、戦って勝てるかどうかは時の運。かつて平治の戦いで源氏を衰退させた運気が、今回は我が源氏に味方したのじゃ。これ、すなわち世の中の道理ではなかろうか」

重衡は黙って頼朝の言葉を聞いていましたが

「鎌倉殿のおっしゃることが道理であるならば、『朝敵を討った者は七代後まで朝廷の恩を失わない』という我が国古来の道理はどこに行ったのでしょうな。我が平家は父・清盛入道の頃から、朝廷のために身を滅ぼしかけたこと数知れず。父亡き後、都を追われ、西国を彷徨うことの覚悟はあったが、まさか自身が捕らわれて鎌倉に送られるとは思いもせず。これも前世の報いであろうか」

と申し上げると

「武士たるもの、敵の手に捕らえられるのは恥とは思わぬ。すぐにこの首をはねていただきたくお願い申し上げまする」

と毅然とした態度で言上したので、景時は

(さすが平家の大将.....)

と感嘆しました。
頼朝も満足そうに頷くと

「平三」

「はっ」

頼朝は重衡の後ろに控えている景時に声をかけると

「侍所に狩野介が控えておる。呼んで参れ」

と命じました。

景時が一礼して主殿を後にするのを待ち、頼朝は再び重衡にむきなおり

「中将殿のあっぱれなお覚悟。右兵衛佐、感服つかまつりました。されど、平家だからと言ってそれがしの敵というわけではありませぬ。それがしの敵はこの世の秩序、すなわち御上と主上に仇なす者にございまする。また、中将殿の場合、少々事態が異なりまする」

「どういうことでござるか?」

「鎌倉の一存だけでは中将殿を裁くことはできませぬ。おそらく南都の衆の意向を以って、御上より宣旨があるものかと」

頼朝が言いたいのは、焼き討ちにされた南都の衆徒たちが引き渡せと申してくることが予想されるため、自分の意思で首を刎ねることはできないということでした。それは重衡にもよく理解できることでした。


主殿の廊下より足音が聞こえ、梶原景時と共にもう一人の武士が主殿に入りました。
このもう一人の武士は、工藤宗茂といい、伊豆国狩野荘の領主を務め、狩野介を通称としていました。
宗茂の父は工藤茂光といい、石橋山の合戦で討ち死にしております。

「狩野介、お呼びにより参上いたしました。」

宗茂は主殿の外の廊下で膝を付いて、かしこまりました。

「役目大儀。中へ入れ」

頼朝は主殿の中に狩野介を入れ

「狩野介、中将殿の身をその方に預ける」

と命じました。狩野介は

「ははっ」

とこれを受諾しました。加えて頼朝は

「良いか。中将殿は解官されたとはいえ、三位の位階にある方じゃ。決して粗相のないように、丁重におもてなし致せ」

と重ねて命ずると

「承知仕りました」

と平伏しました。

重衡は

「鎌倉殿のご高配、忝なく存じまする」

と頼朝に礼を述べると

「追って、沙汰あるまで、この狩野介に何なりと申しつけられませ」

と頼朝が答えました。
重衡は笑みを浮かべながら

「では」

と一礼し、狩野介と共に主殿を後にしました。

主殿に残ったのは頼朝と景時の二人だけとなり、頼朝は

「平三、中将殿の警護役、大儀であったな」

と景時をねぎらいました。
景時も頭を下げて、それに答えました。

「しかし、平家の公達。なかなかの器量でしたな。」

「まったくな.......平家一門、ましてや清盛入道の息子でありながら、源氏を敵視することも罵ることもせず、事の是非をきちんとわきまえることができる。そういう人間がこの鎌倉にはおらん。」

「はい」

「殺すには惜しい男よ」

そう言って、頼朝は主殿奥(頼朝の住居)に帰って行きました。

平重衡はこの後、壇ノ浦で平家一門が滅びた後、西暦1184年(元暦二年)6月22日、東大寺に引き渡され、翌日斬首。

その首は重衡自身が焼き討ちした般若寺の門前に晒されたのでした。
享年29。

(つづく)
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2018年09月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(97)-取引-

西暦1184年(寿永四年)2月7日、摂津国一の谷(摂津国福原)にて、鎌倉軍(総大将・源範頼)平家軍(総大将・平宗盛)との間で起きた「一の谷の合戦」は、鎌倉軍の大勝利となり、平家軍は有力武将の多くを失いました。

敗走した平家は海路を取ったため、船を持たない鎌倉軍は平家を追撃することはできず、この戦いの本当の目的である「三種の神器の奪還」は成し遂げられませんでした。平家は瀬戸内海を彷徨い、屋島(香川県高松市)に落ち着きました。

2月9日、鎌倉軍別働隊大将・源義経は、本隊に先駆けて京都に帰還しました。その際、一の谷の合戦で捕縛した平重衡(正三位/左近衛権中将)を連行していたと言われます。

一方で、この戦いの勝利に困ったのが後白河法皇です。

まず、都落ちした平家が勢力を盛り返し、摂津国福原(兵庫県神戸市中央区あたり)まで迫ってきており、京都が脅かされていた現状を鎌倉軍が打破した影響は大きく、京都の安全は保たれました。

しかし、戦いの本当の目的である「三種の神器の奪還」はできておらず、未だ後鳥羽天皇の即位の正当性は不安定なままでした。
後鳥羽天皇の即位は、後白河法皇の院宣によって保たれており、三種の神器の奪還ができていない状況は、法皇の権威の低下に繋がっていたのです。

(なんとかして一刻も早く三種の神器を奪還せねば.....)

そういう法皇の焦りが、ある考えにつながりました。

(そうだ。義経が捕縛した重衡を立てて平家と交渉してみよう)

2月14日、院庁は重衡を八条堀川の御堂に移すように土肥実平に命じ、実平にその御堂の警護を命じました。
そしてその後、法皇の命を受けた藤原定長(蔵人・右衛門権佐/院伝奏)が御堂の重衡を訪ねました。

「これは蔵人殿。お懐かしい限りじゃ」

定長の顔を見るや重衡はまるで昔の旧友を見るように笑みを浮かべました。

「重衡殿もお変わりものう」

定長はそう述べると

「世辞はいらぬ。わしはこのように囚われの身。変わり果てた末じゃ」

重衡は笑って返しました。
それを黙って受け流した定長は

「今日は、御上(法皇)の使者として参りました」

と述べると、重衡は威儀をただして

「承る」

一礼しました。

「御上はあなた様を屋島にお送りするお考えでございまする」

「なんと」

「されど、それには条件がござりまする」

重衡は軽く頷き、定長に先を促せました。

「屋島にいる平家一門に、三種の神器を都に返還するように申しつたえて頂きたい」

重衡は目を丸くして、次に「あっはっは」と大声で笑いました。

「御上のご意向であらっしゃいますぞ」

定長が重衡の振る舞いを嗜めると

「これはご無礼」

と重衡も一礼して非礼を詫びました。

「されど、これを笑わずにおられましょうや。この重衡の身と引き換えに神器をお返しあれとは......。この重衡の身はもちろん、平家の郎党千人、いや万人の命がかかっていたとしても、兄(宗盛)は神器を渡しますまい。」

「重衡殿は都には新しい主上(後鳥羽天皇)がおわすことはご存知でいらっしゃいますか?」

「存じておりまする。しかし神器は我ら平家の手にござる。神器がこの手にある以上、この世の主上は我が主上(安徳天皇)にござりまする。都の主上は偽の主上にすぎませぬ」

「されど、あなた様方平家は院庁より追討を受ける身、すなわち朝敵にござりまする。朝敵が擁する主上になんの正当性がございましょうや」

「では神器なき即位した主上になんの正当性があるのでしょうか」

定長、重衡、双方ともに申す意見は互いに正しい。それゆえに妥協点が見出せない状況でした。
二人の間はしばしの沈黙が保たれ、御堂の外の鳥の鳴き声だけがかすかに響き渡っていました。

「とは申せ......」

その沈黙を破ったのは重衡の方でした。

「我が個人の思惑ならびに推測を以って、御上の意向を拒否することもまた非礼の極みで畏れ多いこと。結果は見えておりますが、我が家人に申し付け、御上の院宣、屋島にお送りしてみましょう」

「ありがたい.....」

重衡の提案に定長は深々と頭を下げました。

「ただし重ねて申し上げますが、結果は期待しないで頂きたい」

「承知つかまつった。院宣をお送り頂けるだけでも助かる」

「ご使者、ご苦労でござった」

重衡はそう言って、定長に深々と頭を下げました。

こうして、後白河法皇の神器返還の院宣は、重衡の家人・平三左衛門に託され、重衡の手紙とともに屋島に送られました。
その院宣の内容は下記のようなものでした。


(ここから)
安徳天皇が御所を出られ、諸国を彷徨われるとともに、三種の神器も京都から離れて数年が経過した。
これ、朝廷の嘆きであり、朝廷の安定を基礎とする我が国の終わりの始まりである。

現在、都に囚われし平重衡卿は東大寺を消失させた反逆の臣である。
これについては鎌倉の源頼朝が望む死罪を以って処するところである。

籠の鳥が雲を恋する思いははるか千里の南海に漂い、帰る雁が友を失う心は、いずれそなたらのいる屋島に届くだろう。

そのようなことをしたくはないゆえ、三種の神器を返還するならば、重衡卿を寛大に赦免するつもりである。
(ここまで)


この院宣は、寿永三年2月14日付けで発行されており、発行者は大膳大夫大江業忠となっており、宛先は平大納言(平時忠)になっていました。そしてこれが屋島に届いたのは2月28日。
またこの院宣には別して二位の尼御前(清盛正室/宗盛、知盛、重衡の母)への手紙が入っておりました。
そこには

「今一度、重衡にご覧になろうとお思いならば、三種の神器のことを大臣殿(宗盛)によくよく申し上げてくださいませ。でなければこの世でお目に書かれるとは思えません」

と書かれていました。
ただ、これは重衡が本当に書いたものか、正直わかりません。


この院宣を受理した時忠は、直ちに棟梁・宗盛に言上し、平家一門内での会議が開かれました。
その席上で二位の尼御前(清盛正室/宗盛、知盛、重衡の母)は宗盛に対し

「重衡がどんな思いでこれを届けてきたのか、心の内を察して余りあるもの。どうか、私に免じて、三種の神器を都にお返ししてもらいたい」

と懇願しました。
しかし、宗盛は

「私も弟の命をなんとか助けたいとは思いますが、ここで神器を返せば世間は平家を物笑いの種にいたしましょう。また今我らとともにおわします主上(安徳亭)の正当性は神器によって保たれております。ためらいもなく神器を返すことはできません。母上が子の命を案じられるのはわかりますが、重衡の命一つと平家一門の命運を秤にはかけられますまい」

と異議を唱えました。
これを受けた怒りの形相を浮かべ二位の尼御前は

「そなたが神器を返さないならば、重衡の命はあるまい。であれば、母の自分も同じ道に行くまでじゃ。もうこんな思いはごめんじゃ。さっさと私を殺してたもれ」

と大声で喚かれました。

「知盛はいかに思う」

「畏れながら、三種の神器を都にお返し申し上げたとしても重衡をお返しくださる可能性はほとんどないものと推察いたしまする。ゆえに、遠慮なく、我ら平家一門の決意を御返書に記されるべきかと存じまする」

「やはりそうするしかないか」

そう言うと、宗盛は院宣に対する返書を以下のように書き記されました。


(ここから)

今月14日の院宣、我ら一門、28日に拝受いたしました。
その内容と条件について考えましたところ、我らは先の一の谷の戦いで平通盛以下、当家の数人が鎌倉軍の手によって殺されてしまっております。それを踏まえるに重衡一人の寛大な処置のご処分を喜ぶことはできませぬ。

我が主上(安徳天皇)は故高倉院の皇位を継承して四年もの間、鎌倉の源頼朝、北陸の源義仲が都を脅かし、また朝廷内の外戚近臣の不満もあり、しばらく九州に行幸なさいました。
行幸先から都にお帰りになられないこの状況において、三種の神器をどうして陛下の御身から離せるでしょうか。

古来より、臣下は君主を以って心とし、君主は臣下を以って体とします。
君主の安寧が臣下の安寧であり、臣下が安寧であると国家も安寧であります。

君主が上の立場で不満を持つと、臣下は下の立場で楽しむことはできません。
心の中に悲し味みがあると、体の外に喜びは溢れません。

我が平家の先祖・平貞盛(伊勢平氏の祖)が平将門を追討して以来、関東8カ国を平定し、度々朝廷の逆臣を討伐し、現在に至るまで、平家は朝廷の聖運をお守りしてきました。我が父・平清盛は保元平治の合戦の際、勅命を重んじ、ひたすら君主のために働きました。

鎌倉の源頼朝は、平治の戦いの際、左馬頭義朝(頼朝の父)の謀反によって死刑にされるところ、我が父の並外れた慈悲によって朝廷に寛大な処分を申されました。ところが今は昔の大恩を忘れ、流人の身で実力行使の乱を起こしており、愚挙の数々はあまたあります。いずれ神の天罰により滅亡の未来が待っていることでしょう。

太陽と月は1つの物のために、明るさを提供せず、名君は一人のためにその法を曲げません。
1つの悪によって他方の善を捨てず、小さな欠点によって累代の功績を包み隠してはなりません。

御上が当家に累代の奉公、亡き父による忠節をお忘れでなければ、御上は四国への御幸をなさるべきでしょう。
その時に臣らは院宣を頂戴し、再び都に帰り、これまでの敗北の恥をすすぐことでしょう。

もしそうでなければ、我らは、鬼界、高麗(朝鮮)、天竺(インド)、震旦(中国)に渡るでしょう。
神武天皇以来、81代の御世にて、我が国の神代の霊宝は異国の宝となってしまうのでしょうか。

これらの趣旨を、しかるべき方法で密かに奏上されんことを願います。

寿永三年2月28日、従一位平朝臣宗盛が請文

(ここまで)


上記を簡単に要約すれば、

・重衡一人の命が安堵されたところで喜ぶことはできない。
・平家のこれまでの累代の奉公や忠節を思えば、法皇が四国にこられるべき
・そうでなければ、我らは神器を持って外国に行く


という内容です。

すでに日宋貿易で巨万の富を築いた平家だからこそ「外国に行く」という選択肢は、ハッタリではなく、現実味を帯びていると考えてよいかと思います。

また宗盛の返書は単なる重衡と神器の交換条件に止まらず、伊勢平氏累代の朝廷への忠節と、源氏の反乱勢力に対する批判を織り交ぜ、朝廷のために尽くしてきたのは源氏と平家どっちなのかを畏れ多くも法皇に説いている内容になっています。

要するに法皇の心が鎌倉の源氏に傾いていることを言下に非難しているわけです。
ぶっちゃけなかなかの名文ではないかと思っております。

(つづく)
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